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嵐の思い出


プロローグ

「青ちゃん、飯でも食っていかない?」
「ああ、いいですよ。どうせ、今日は家に帰っても誰もいないんで、帰りに何か食べるつもりでしたから」
 藤井幹弘は青山真治を誘ってトリオのすぐそばにある桜宛という中華料理店へ行った。暑い夏も終わりに近かったが、まだ残暑は厳しい。それでも日が暮れれば以前より涼しく感じられた。トリオにおいて重鎮であるこの二人は実に気の合う同士だ。年齢的には青山の方が上だが、入社の順序で言えば藤井の方が先輩になる。だが、そんな違いを互いに微塵も感じておらず、気さくに付き合っている。
 空いている座敷に座り込み、藤井は酢豚定食を、青山はチャーハン定食を頼んで取り止めのない話をしていた。高い位置にあるテレビは六時のニュースの時間になり、ローカルな話題に移っていた。料理が運ばれ、二人は話を中断し箸を動かした。藤井は何気なくテレビを見て、地元放送局の特集コーナーを見入った。
———伊勢湾台風における被害は死者・行方不明者五千名余り、三十五ヵ所ほどの河川が決壊し、全半壊合わせ十四万棟ものの家屋に及びました。
 テレビの画面は白黒の傷が入った古いフィルムになった。家の一階までが水に使った町並みが 映し出され、泳ぐように人が歩いたり、ボートに乗る映像が続いた。
———その大災害の中で生き残ったある少女がいます。今日はその盲目の少女にスポットを当てます。  画面には三十代後半ぐらいの女性が映し出され名前がスーパーされた。黒いサングラスを被り、杖をついている。盲目の婦人は軒が連なっているような住宅地を歩いていた。
———あれから三十年、あの災害のことは今でも覚えていますか?
 婦人のインタビューが始まった。
———はい、あの日のことは決して忘れません。例え、目が見えなくてもあの日の恐ろしさは忘れることが出来ません。私は母と二人で、細々と暮らしていました。目が不自由なうえ病弱な私を母は大切にしてくれました。私はそれで幸せでした。ただ、あの日だけは恐ろしかった。目には何も映りませんが、私の耳には雨と風の音が轟いていました。そして、家が浸水し初め、いつ部屋にまで流れ込んで来るのかとビクビクしながら震えていました。そのうえ、私は雨に当たったため風邪をこじらし、高熱にうなされてました。母は嵐と戦いながらも私を看病してくれ、あの一夜を過ごしたのです。ただ、あの日、若い青年二人が私たちを助けてくれました。どこの誰かは今もって分かりません。けど、あの方たちには感謝の念で溢れんばかりの思いです。恐ろしい一夜でしたが、私には勇気を奮い起こさせる一夜でもありました。
———台風が去った後はどうでしたか?
———そうですね。そのあとの方がもっと大変だったもしれませんね。水はなかなか引きませんし、食事などの生活が大変でした。一週間後の地震も怖かったですし、一ヵ月ぐらいは元の生活に戻れませんでしたね。
 台風の映像が挟まれながら婦人のインタビューは続いた。
———母は私が成人した年に亡くなりました。それからはずっと結婚するまで一人で生きてきました。でも、挫けたことは一度もありません。母が私を強く育ててくれましたし、あの嵐の日の勇気が私の糧となって今まで頑張ってこれたのです。
 婦人のサングラスから涙が溢れた。母の面影を思い出したのだろうか。
———今度、網膜移植手術が決まったそうですが、どんなお気持ちですか?
 レポーターが違う質問をした。
———ええ、不安と期待で一杯です。でも、母の墓を参るのが心待ちですし、家族の特に娘の顔を見るのが待ち遠しいです。それに一度、靴塚も訪ねてみたいと思います。あの日に犠牲になった方々を心から弔いたいと思います。そして、できたらあの日のお兄さんも探したいと思います・・・・・・。
 藤井がテレビを見つめていると青山が声を掛けてきた。「藤井さん、どうしたの?酢豚冷めちゃうよ」
「ああ・・・・・・」藤井は止まった箸を動かした。
 藤井は何かテレビに引かれるものがあった。何か懐かしいような思いがした。

 藤井と青山は桜宛を出て名古屋駅へ向かった。国際センタービルの狭い階段から地下へ降り、連絡路を通って地下街へ進んだ。地下道が駅の構内へつながるところは道が鋭角に曲がっているためその先がよく分からない。藤井は地下道の壁際を青山と雑談しながら歩いていたため、前方から来る人に気がつかなかった。あっと思った時、藤井はその女の人にぶつかり、女性はよろめいた。倒れる直前に藤井が抱き抱えたので、杖だけが落ち、その音が木霊して地下道に響いた。
「すいません、大丈夫ですか?」藤井は即座に尋ねた。
「ええ、大丈夫です。御免なさい」婦人は落ちついた声で答えた。
「こちらこそ、申し訳ありません。ついよそ見をしていて」藤井はすぐにその女性が目の不自由な人と分かった。藤井の手が婦人の手に触れた。その時、婦人は一瞬だがハッとしたような表情になった。婦人が藤井の手を離すと、青山が落ちた杖を拾い、婦人の手に手渡した。
「どうぞ、これ」
「すみません。お手数掛けて」
「いえ、本当に大丈夫ですか?」藤井は心配げにもう一度尋ねた。
「はい、有り難うございました」婦人は杖を受け取ると低く頭を垂れ、地下道を進んだ。
「藤井さん、前見てないから・・・、おや、今の人、さっき桜宛で見てたテレビの人じゃないかな。良く似ていたけど」
「そうだな・・・・・・」だが、藤井は何か不思議な物を見たような顔をしていた。
「どうしたの、藤井さん!」
「いやね、あの女性が首からぶら下げていたお守りがさ、俺のと良く似ていたから変だと思ってさ」そう言うと藤井は懐の財布の中から、三センチ四方ほどの小さな赤いお守りを取り出して眺めた。
「お守り?そんなのどこでもあるんじゃないの?」
「ああ、そうかもな」だが、藤井は何か釈然としないものを感じていた。

1  タイムスリップ論

 いつものようにトリオのメンバーは昼食を取りにゑびす亭へ行った。座敷の奥の丸テーブルに陣取り、適当に注文をした。三歩歩くと注文を忘れてしまうおばさんはもうおらず、新しいおばさんがきちんと注文を受け回った。あれこれ話をしているうちにいつしか話題は映画の話になった。
「ねえねえ、私、『バック・トゥー・ザ・フューチャー 2』見たんだけど、全然分からなかったわ。皆理解できた?」山田悦子が妙な質問をしてきた。
「やっぱ、山田さんには無理かもな。あんな複雑な話」伊藤賢司が馬鹿にするような笑顔で言った。
「そういう、伊藤君はちゃんと理解できたの?」桑原美香がすかさず質問を投げ返した。
「も、もちろんですよ。主人公が未来や過去へ行ったり来たりして、歴史が目茶苦茶になる展開でしょ」伊藤は一瞬たじろぎながら答えた。
「しかし、よくあんな複雑な話を考えつくよな。それにパートⅢも、もう作っているんだろ」青山が感心したように言葉を発した。
「でも、タイムスリップってよく分からない部分があるな。現実にタイムマシンが有るわけじゃないから、なんだけど、歴史ってころころ変わるのかな」藤井も青山に追随した。
「そういうことは、ツッチー博士にでも聞けば、多分よく知っているはずよ」松浦美砂が土田道幸に話を振った。
 豚カツをつかもうとした土田は箸を休め顔を上げた。「タイムスリップですか?・・・結構複雑かもしれませんよ。でも、簡単に言うと二種類のタイムトラベルがあるんですよ」こうして土田の蘊蓄が始まった。こう言うことにかけては右に出るものはいない博学な男である。
「タイムスリップには運命決定型と運命変動型があるんです。運命決定型のいい例が『ドラえもん』です。『ドラえもん』はある意味でタイムスリップという概念を最も印象付けた作品かもしれません。これがあったから日本の人はタイムスリップを理解できたかもしれないんです。それでですね、『ドラえもん』の話におけるタイムスリップは”時間の流れは予め決まっていて、決して変えることができない”という考え方なんです。例えばですね、のび太が何かトラブルに巻き込まれ、その原因を探りにトラブルが発生した直前にタイムスリップします。現場を見ようと未来から来たのび太が待っていると、目前でトラブルが発生するんですが、その原因は結局未来から来たのび太のせいだったという結末で終わるんです。この場合、トラブルに巻き込まれたのび太の時間の上では、すでに未来から原因を探りに来たのび太が来ている前提になっているんです。トラブルに巻き込まれたからこそ過去へ行ったのですが、巻き込まれた時点で、過去へ行くなどとは考えていないのにすでに未来からのび太は来ていたんです。つまり、トラブルに巻き込まれた時点ののび太の意思に関係なく、未来からのび太が来ると、時の流れでは決まっていたんです。分かりますか?」
 少々込み入った話だが、だいたいの人は納得したような顔つきだった。悦子以外は。
「それが、運命決定型の話です。つまり、歴史は決して変わらない。運命は最初から決まっていた。ということになるんです。例えば、『ターミネーター』もその一つです。未来から、サラを守るためカイルが来てターミネーターからサラを救うのですが、結局サラは命が助かり、カイルの子を宿して、未来の指導者を育成していきます。タイムトラベルの話としては傑作で、辻褄もばっちりあっています。ただ、パートⅡはサラたちがマシンを破壊してしまい、未来が変わるような結末になっていますが、これはパートⅢが出来なければ結論付けられません。あと『戦国自衛隊』もそうですね。結局歴史を変えることは出来なかった結末ですし、『ファイナル・カウント・ダウン』なんかも歴史は変わらず、未来に帰る話ですし、『タイム・アフター・タイム』も切り裂きジャックを絡めた面白い話です。まあ、歴史上の話を題材にすれば、そうなるのは当たり前でしょう」
「じゃ、その変動型というのはどうなの?」桑原が先を聞きたくて促した。
「運命変動型は決定型とは正反対の考えかたで、運命は時間の流れに介入することで変えられるというものです。その代表例が『バック・トゥー・ザ・フューチャー シリーズ』なんです。あのシリーズは主人公のマーティが時間旅行したために彼の周りの環境が変わってしまうという落ちです。一作目だとマーティの現実の世界が彼が過去に行ったことによって好転してしまいました。二作めになるとマーティが未来に行ったため、戻った現在がおかしくなってしまい、再び過去へという目まぐるしい展開になっています。たぶん、山田さんなんかには理解できないでしょう。作品の中でも解説していますが、マーティが時間の流れに介入したことで、一つであるはずの時の流れが、彼が今までの流れに変化をもたらした瞬間から別の歴史の流れが始まるのです。全く異なる二つの時間の流れが出来上がり、マーティやドクなどの当事者がこの二つの世界を行ったり来たりすることになります。このパラレルワールドが幾つも存在し、いろんな世界が存在することになります。それぞれの世界でそれぞれの人がそれぞれ異なった歴史を作っていくんです」
「でも、確か主人公たちだけは一人よね。その土田君が言うパラレルな世界に複数存在しないはずね」松浦が尋ねた。
「そうです。そのへんは話の御都合という感じですけど、当事者なんでしょうがないんでしょう。だから、同一の時間の中に同じ人間が存在しうると次元が破壊しかねないという説明になっているんです。ここがドラえもんと大きく違うのですよ。ドラえもんの世界では同じ時間の中にのび太たちが存在する話がよくあります。時には五人のドラえもんが同時に出てくる話もあります。運命変動型の特徴はそこにあるんです。時間に介入したことにより歴史は変えられるが、同じ時間には存在できない。話はちょっとずれますが、ドラえもんがのび太のところに来たきっかけは、のび太の子孫であるせわし君が、先祖であるのび太の借金に苦しみ、のび太の未来を変えるために連れてきたと言っています。その過程で本来ジャイ子と結婚するはずだったのび太が、しずかと結婚する運命に変わってしまいます。でも、せわし君は結果的には自分は生まれてくると説明していますが、それは遺伝学的に考えてもおかしいですし、せわしの時点から見れば過去を変える、つまりどう見ても運命変動型になっちゃいます。これはドラえもんの世界観と絶対に矛盾します。だから、僕はドラえもんの最終回、いつあるのか分かりませんが、もともとのび太はしずかと結婚する運命だったけど、せわしがのび太の奮起を促すためにわざとジャイ子と結婚する運命だったと偽ったのだと思います。まあ、こういうふうにタイムトラベルは実際には存在しないのでいろんな事が解釈できるのです。でも、もしかしたら未来世界では実現していて、今までの歴史や現在にも未来人が存在し、歴史に介入しているかもしれませんね」
 土田の話は「オタク」と呼ばれるだけあってさすがに詳しい。青山と藤井は呆れ半分、適当に聞き流していたが、これが後々少なからず役に立つとはこの時露ほども思っていなかった。
  

2  地下鉄の地震

「いやぁ、まいったな、俺の負けだな」藤井が悔しそうにだが、笑顔で言った。
「すいませんね、でも賭は賭ですから」青山もこぼれそうな笑みで答えた。
「何のことです?賭でもしてたんですか?」マスターの山崎が二人に尋ねた。
 二人は「WOMAN」という栄ウォーク街にあるスナックにいた。「サンライズ」と同じようにトリオの面々がよくいく馴染みの店で、マスターの山崎は元々「サンライズ」のマスター伊藤の下で働いていて、その後独立したのだ。今では「若ちゃん」と呼ばれる学生のアシスタントとこの店を切り盛りしていた。店内はカウンターと奥に小さなテーブルがある狭い店だが、雰囲気はなかなかいい。カラオケも一様あるのだが、どちらかと言えばゆっくり落ちついて飲む店だ。 青山は仕事が終わって、同じように帰ろうとした藤井を誘ってここに来た。普段ならもう少し仲間を誘うのだが、今日は折り入った話があるので藤井だけ誘ったのだ。店内はウィークディのせいか他に客は折らず、静かに音楽がながれているだけだった。
「実はね、どっちが先に結婚するか勝負していたんですよ」藤井が山崎に答えた。
「ほう、そうだったんですか。大胆な賭ですね。で、藤井さんが負けたんですか」
「そういうわけですよ。互いに彼女がいるのは知っていたんですけど、結婚となるとね。いろいろ準備もいるし、ふんぎりが付かないですからね」
「そうですか。それはおめでとうございます。式はいつごろ?」
「来年の二月ぐらいと思っているんですけどね」青山が照れくさそうに答えた。
「じゃ、これから大変ですね。で、お相手の方ってどなたです?会社の方ですか?」
「ええ、まあ・・・」
 言い及んでいる青山の代わりに藤井が言った。「山崎さんも知っているでしょ。渡辺さん」
「はい、はい、髪の長いスラッとした方ですね。お似合いですね」山崎は磨いたグラスを置きながら言った。「それで、賭の代償は何ですか?」
「それはね、負けた方が、結婚披露パーティを催すっていうことになっていたんですよ」藤井が首を振りながら言った。
「パーティですか。それは豪勢ですね」
「ん、ひとまず、十万は出すことになっちゃてね・・・・・・。まいったよ。・・・ああ、山崎さん、それでさ、ここでパーティを開かさせてもらえないかな。呼ぶのはトリオのメンバーだけだから、問題はないと思うけど」
「ええ、構いませんよ。一日っていうわけにはいきませんが、二時間ぐらいは貸切りにしてパーッとやってもいいですよ。それじゃ、私からもお祝いにビール一樽進呈しましょう」
「いいんですか、そんなにしてもらって」青山が恐縮そうに答えた。
「ええ、構いませんよ。お世話になっているおふた方ですからね。藤井さんの時もぜひ」
「悪いっすね。じゃ、今日一本入れよかな。フォアロゼ入れてよ」
「はいはい、毎度」二人はあらたに注がれた酒を掲げ、乾杯した。

 二人は「WOMAN」を出て、ネオン眩しい町に繰り出した。明日もまだ仕事があるので、程々に飲み、いい気分で歩いていた。栄から地下鉄に乗ることにし、名古屋駅に向かった。藤井は名鉄で帰宅するが、青山もすでにバスが無いので名鉄で最寄りの駅まで行きタクシーで帰るつもりだった。栄から東山線に乗った。旧型の黄色い列車に乗り込んだが、二人の乗った車両には彼ら以外に二三人しか乗っていなかった。その乗客も伏見で降りてしまい、誰もいなくなってしまった。そんな時間でもないのに珍しく人がいない状態だった。二人は話もせず、目をつぶって寝入った。
 名古屋の地下鉄は昭和三十二年十一月十五日、日本で三番目の地下鉄として名古屋栄間、二.四キロが開通した。つまり今走っている所は名古屋の地下鉄の中でも最も古い地下道だった。それゆえ、騒音の大きさも一入で、特に黄色の旧型車両はその騒音の実感を倍増させる。新型とは違い大型の扇風機があるだけで冷房装置は無い。そのため暑いときは窓が開けられているので、轟音が車内に響くのだ。鶴舞線や桜通線と比べればかなり差がある。
 伏見を出ると地下鉄はゴーッという音の中に吸い込まれていく。レールの繋ぎ目の音がリズミカルに鳴り、車両の横揺れが続いた。しばらく進むと、堀川の下を通るせいか轟音の響きかたが大きくなる。それを過ぎ去ると再び元の響きの戻り、名古屋に着く直前で九十度のカーブを曲がるため減速するはずだった。だが、その時、今までの軽い横揺れ以上の揺れが車両に伝わった。地下鉄は急停車するため金属音を響かせてブレーキを掛けた。
「青ちゃん、どうしたんだろう?めちゃ揺れたな」
「地震かもしれませんね。あの揺れは」
「地下鉄で地震じゃ堪らないな」
 列車は止まった。だが、揺れはまだ続き、釣り革が揃い踏みして揺れている。一瞬、電灯が瞬いたような気がした。二人が瞬きしたようなほんの一瞬で、二人ともあれっと思った間もなく車内は明るさを取り戻した。列車はまた動きだした。車掌のアナウンスでもあるのかと二人は思ったが、何も放送はなかった。まるで何事もなかったかのように列車は走りだし、名古屋の手前で減速してカーブを曲がる車輪の軋む音が聞こえた。
「何だ、何にも説明なしかよ」青山がぼやいた。
「誰も客が乗っていないと思っているんじゃないか」藤井もふざけるんじゃねえという表情で言った。
 青山は何か変な気がした。車内の様子がどこか変なんだ。車両の感じが違う。どことなく綺麗な感じがした。それに壁に張ってあるポスターがさっきまでと違う気がした。多少酔っていたのでハッキリとは断言できないが、やはり違う。そして、「オリエンタル中村」というデパートの広告が目に入った。
———確か、オリエンタル中村はつぶれて、今は三越のはずだが・・・。そういえば釣り革にテレビ局の広告が付いていたはずなのに、今は一つもそれがない。
  青山は不承不承の面持ちで車内を見回った。列車は名古屋駅の構内に入り込んだ。藤井がシートから立ち上がり青山の肩を叩いて出口に向かった。列車の扉が開き二人はホームに降りたが、周りの光景に凄い違和感を感じた。古いのに新しい・・・。二人は同じことを思った。今目の前にある地下鉄のホームは古いのだ。青山たちがいつも見ていたホームとは違って、随分前に改築工事された以前のホームなのだ。二人とも二十歳前でおぼろげな記憶しかなかったが、確かに以前に覚えていたホームの姿なのだ。けど、古めかしさはない。ホームの壁や床はきれいなのだ。壁の汚れは薄く、水色のタイルがまだつやつやしている。ガムが固まった黒い痕などまれであった。ホームにある柱は黄色ぽい大理石であった。確か駅の柱は白いカバーがしてあったはずだったのに。
「藤井さん、どうなってんだろう。駅間違えたのかな?」
「そ、そんなはずはないよ。ほら『なごや』って壁にも書いてあるじゃない」
 確かに藤井の言うとおり壁の案内には「なごや」と表示してある。だが、なごやの隣駅、「ふしみ」は表示されているが、反対側には何も表示されていなかった。本来「ほんじん」と表示されているはずなのに。
「でも、本陣がないよ。空白になっている」
「ほ、ほんとだ。おかしいな。ひとまず、出てみよう」
 二人はホームを歩き出口に向かった。名鉄へ連絡する出口を登ったが、確かここにはエスカレーターがあったはずなのにそれもなかった。二人は出口に出て、また唖然としてしまった。改札口が全然違うのだ。名古屋の地下鉄は全駅で自動改札になっているのに、いま目の前の改札には人が立っていた。暇そうに改札員が切符にパンチを入れる鋏を鳴らしている。
「ふ、藤井さん。どうなってんだ?」
「俺に言われても分からんよ」
 青山はポケットの切符を見た。そこには「栄 180」と印刷されていて、裏は茶色の磁気乗車券だった。切符の端に小さな穴が空いているだけだ。
「藤井さん、これで通れるかな」心配げに青山はきいた。
「やばいんじゃない。こりゃ一気に抜けるしかないな」と藤井は不敵な笑いをした。
 二人は何気ない様子で改札を抜けようと、切符を改札員に手渡した。改札員はすぐに切符の異常に気づき、「ちょっとお客さん」と二人を呼び止めようとした。二人はその言葉を聞いた瞬間後ろを振り返りもせず一目散に走りだして、適当に目に入った出口の階段を登った。だが、その出口を出た瞬間二人はまた信じられない光景に茫然としてしまった。
 まず、昼間なのに驚いた。栄から地下鉄に乗ったのは夜、午後十一時は過ぎていたはずなのに、なぜか今は目の前が明るかった。出口付近の歩道には行き交う人々が大勢いた。そして、そのこと以上に驚いたのは周りの風景だ。毎日見ていた駅前の風景とは全然違っていた。それは二人が見たことのないまったく異質の世界だった。
 目の前の道路の真ん中をすでに廃止されているはずの路面電車が走っていた。子供のころ乗ったことがあるなというわずかな記憶しかなく、あとは科学館などの展示用のものしか見たことない緑色の車両が走っている。その外側を車が走っているのだが、どの車も見たことがないものばかりだ。見たことがないというのは正しくない。自動車の図鑑などで見た記憶がある、大昔の車なのだ。妙に小さく丸っこい車ばかりだ。それと平行して走っているバスにも驚いた。いわゆるボンネットバスと呼ばれる前部がとびだしたバスだ。
 二人とも二の句がつげなかった。何がどうなっているのか理解の範囲を超えている。目の前には名鉄百貨店のビルがあるが、壁の色が知っているのと違い、しかも女神の像があったところに何も無い。隣の名古屋駅は記憶のままだが、それも見掛け上全然違っていた。駅の前には地下鉄工事のためどこかに移転された銅像があり、その周りには色とりどりの花々が咲いている。そして、その真ん中を路面電車が通り抜けている。視線を少し、右にずらした。そこには大名古屋ビルヂングがそびえ立っているはずなのに、今は三階建ての東海銀行があるだけだった。二人の後方にはビルがある。それは記憶にある毎日ビルと豊田ビルだ。だが、確かに古めかしさを感じない。映画館の看板が目の前にあったが、そこには「人間の条件」という聞いたこともない映画や、その隣には「ギターを持った渡り鳥」という古い映画の上映看板が掲げられていた。
 藤井はあることを思いつき、毎日ビルに近づいた。青山もそのあとを追った。
藤井はガラスケースに収まった新聞を覗いた。
「藤井さん、どうしたの?」
「青ちゃん、これ見てみな」そう言って藤井は新聞の日付欄を指差した。
 そして、そこには「昭和三十四年九月二十六日」と印刷されていた。
    

3  古の町並み

「昭和三十四年!ふ、藤井さんこりゃどういうことなんです。俺たちは平成三年にいたんじゃないの」青山は滅多にみせない戸惑いの表情を表した。
「俺にもさっぱり分からんよ。何かの冗談か、どっきりカメラなのか?」藤井は癖である前髪を手でさする動作をひっきりなしにしていた。
「これって、もしかしたらタイムスリップってやつなのか」藤井は手を止め言った。
「タイムスリップ?そんな、まさか。俺たちいつタイムマシンに乗ったんです。ただ、地下鉄の乗っただけですよ」
「それだよ。俺たちは地下鉄に乗った。そして、地震があったろ、あれが何らかの影響を及ぼしたんじゃないか」
「しかし、地震だけじゃ、説明が付きませんよ」
「いや、もともとタイムスリップは空想上の話でしかなく、実現していない。だから、実際にはどのように起こるかなんか誰も知らないんだ。ただ、それが自然の力において俺たちの身の上に降りかかってきた、そう解釈するしかないよ」
「それじゃ、俺たちの現状がタイムスリップだとして、これからどうするんです?元の時代に戻ることができるんですか?」
「そんなことは、俺にも分からないよ。どうしてここに来たのかが分からない以上どうすれば戻れるかなんて・・・」
「どうしましょうか?」
「どうしようかね」二人は真剣に悩んだ。仕事でもこんなに悩んだことはないのに、今までの人生において最大の危機を向かえた二人はこの窮地をどう乗り越えるか考え抜いたが、結局回答は見つからない。
「青ちゃん、考えたってしょうがないんじゃないか。自然の力が俺たちをここに連れてきたのなら、その自然の力に任せるしかない。もし、戻れるなら、それはその時さ」
「そうですね」青山も落胆の表情でうなずいた。「じたばたしても仕方ないかもしれません。もし、戻れないならこのままこの時代から生きていかなければいけないんですね」
「俺も青ちゃんも産まれていない過去から俺たちは生きていくのか・・・?」
「俺がこのまま生きて、平成の時代になったら六十歳近くになっているのか、藤井さんでさえ五十五を越してますね」
「そんな姿で皆の前に現れた驚くだろうな、昨日まで二十六だった俺が突然五十五を過ぎた中年で現れたりしたら。面影あるのに、皺は増え、髪は白くなり、顔に染みが出来ている俺が現れたりしたら」藤井はそんな未来を想像しているのか、苦笑しながら言った。
「俺なんかも、そんな姿で家族や・・・、現れたりしたら・・・」青山は少し寂しげな表情をした。
「彼女のことか?婚約直前にいなくなって、いきなり老けた姿で現れたりしたらきっと腰を抜かすな」
「ははは・・・」青山も苦笑した。
「うだうだ言っててもしょうがない。上手く生きていけば案外いいことがあるかもしれない。俺たちはこれから起きることを知っている。それを利用すれば大儲けできるかも?」
「そうか、そうですね。今年の天皇賞も結果が分かっているんでボロ儲けできるかもしれませんね。ジャンボ宝くじの番号も覚えておけば良かったな」
「まあ、何とかなるさ」このへんが藤井、青山が持つ楽観的性格のいいところだ。いつまでもくよくよしていても埒が明かない。起こってしまったことは考えず、先の事を見ることにした。
「で、取り合えずこれからどうしよう。このまま、ここにいても仕方がない。何とか寝床でも探さなくちゃな。そして、新しい仕事でも見つけて生活の基盤を作らなくちゃならないな」
「藤井さん、その前にいいですかね、ちょっと見ておきたいものがあるんで」
「見ておきたいもの?」
「いやね、若いころの両親でも見ておこうかと思って。二人とも昔の写真がないんですよ、確か水害で家が浸水し、何もかもなくなったとか言ってましたからね」
「なるほどね、俺の両親はこの時代東京にいたはずだから、ちょっと無理だな。青ちゃんの御両親はどこにいたの?」
「南区の方ですよ。確か道徳とかいう変な地名のとこだったですよ。電車で行けると思ったんですけど」
「そうだな、まあ時間はいくらでもあるから、ちょっくら行ってみるかね」
「ありがと、藤井さん」
 こんな些細な思いつき自体が運命の流れだとは気づいていない二人だった。そして、上空の雲行きが怪しくなっているのも気にしていなかった。今日が何の日なのかも・・・。

 二人は道路を渡って名鉄百貨店の地下に入った。青山の両親が住む「道徳」へは名鉄で行くことができたのだ。名鉄の新名古屋駅は作りとしては今も昔も変わらない。地下に降りると百貨店の食品売り場の入口があり、その反対側に改札口と切符売り場がある。ただし、切符売り場は自動販売機ではなく、すべて係員による手渡しの切符売り場になっていた。切符買う段階になって二人はふと気づいた。この時代に通用できるお金がない。昭和三十四年に存在したお金は一円、五円、十円、五十円、百円だが、五十円と百円は現在の硬貨とは全く違う。しかも、五十銭や一銭の硬貨が通用する時代だ。五百円玉などもちろん存在せず、お札の時代だ。千円、五千円、一万円冊も平成のものとは違う。懐かしい聖徳太子や伊藤博文が印刷されている時代なので、夏目漱石など偽札扱いされて出せるはずもない。
 目的の駅までは三十円だったので、二人は必死で財布のなかから昭和三十四年以前の十円玉や五円玉を探した。どうしても、十円分足りなかったので、昭和四十三年製造だが、黒く古びた十円を何気なく混ぜ混み、何とか切符を二枚買った。
 ばれないうちにと二人はそそくさと改札を抜け、豊橋方面のホームに降り立った。そこで二人はまたびっくりした。新名古屋駅は地下駅になっているのだが、線路が三線あるのだ。二人が普段知っている新名古屋駅は二つの線路と三つのホームしかないはずだが、目の前の駅は本来大きな降車用の中央ホームがあるところの真ん中にもう一本線路があった。昔の新名古屋駅はこうだったのかと二人は驚愕の連続だった。
 太田川行きの普通列車が到着するというアナウンスが流れた。この列車に乗れば目的の「道徳」へ行くことが出きる。到着した列車はツートンカラーの車両で、上部がクリーム色、下部がアズキ色という赤を見慣れた二人には異彩を放っていた。車両も今では八百津あたりのローカル路線でしかお目にかかれないような古いタイプの列車で(とは言ってもこの時点ではまだ新しい)車内には冷房などなく巨大な扇風機が屋根に付いている車両だ。シートも横長の堅い椅子で床は木張りで黒々している。ちょうど向かい側のホームには新型の冷房車両が到着していた。その列車も平成の時代においては最古参の冷房車両になっているものだ。
 電車は発車し新名古屋の地下から地上に出た。電車の音も今となっては古臭く感じられるガタガタ音だ。新型車両のような澄んだ音ではない。電車が揺れるたびに釣り革がかちかち鳴る。何かとてつもない田舎のローカル線を走っているような錯覚におちる。平行して走るJR、いや国鉄も見たことのない茶色の客車を引くディーゼルが走っている。周りの景色も全然違う。高層のビルなどはなく、栄にあるテレビ塔がよく見える。笹島の貨物車両庫もちゃんと線路が引かれていて、多くの車両が止まっている。ナゴヤ球場もあったが、やはり今とは全然違う。名前からして中日球場なのだ。尾頭橋を過ぎると金山に近づいた。当然、金山総合駅は存在せず、東海道線は素通り、中央線だけ駅があり、名鉄はちょっと先まで行って金山橋という平成には無くなってしまった駅に着いた。
 車内の人々も藤井たちの目には異人に近い感覚がある。むろん、スーツを着ているサラリーマンのような人もいるのだが、皆帽子を被っていてどうも古めかしい。女性など着物を着た人も多く、ファッショナブルな服装など皆無だ。学生も乗っていたが、髪を染めたり、長髪のチャラチャラしたようなガキはいない。ただ、誰も彼も生き生きとしているような活発な漂いがある。藤井たちのような現代人にある疲れ切った表情などどこにもない。時は高度経済成長期の真っ直中だ、戦後の復旧に精を出し、遮二無二頑張ってきた世代たちだ。通り過ぎる駅近くの町並みも何か活気に溢れた様相が随所に見える。バブル経済に藤井たちが見た狂乱の活気とはまた違う。戦争という災禍に見回れ、どん底まで落ちた日本人の大和魂というか、日本人らしさがあちらこちらに見える。平成の日本人とはまるで違う。確かに、身なりや生活の便利さは平成人間のほうが優越であるが、昭和の特に三十年代の人たちは誰もが庶民的で贅沢や便利さを気にしていないようだ。
 青山は冗談なのか、鞄からウォークマンを取り出し、ヘッドホンを耳に付けてカセットを再生させた。周りの人間は見たこともない機械とその動作に好奇な目を集中させた。
「青ちゃん、やめろよ。皆がじろじろ見ているじゃないか?」藤井は小声で青山に囁いた。
「えっ、何か面白いじゃないですか。ローテクの時代にこんなハイテクを持っているなんて。そうだ、俺たちでウォークマンの発明者になりませんか?後でSONYに行きましょうよ」
「はっはっはっ、そりゃいいかもね」

4  運命の出会い

 金山橋を出ると、東海道線と並行して列車は進む。寺院のような幼稚園の建物もこの時には存在していた。現代では大きな公園と高層住宅になっているところに、日本車輌の工場があり、神宮付近も記憶にない風景ばかりだ。神宮前の駅もステーションビルが無く、古い駅舎があるのみだ。列車は本線から外れ、常滑線に入った。伝馬町あたりは高架だが、その先は平成のように高架化はされておらず、地上を電車は走った。途中上空を工事中の高架が通っていった。どうやら東海道新幹線の工事らしい。その側にある国道も道幅が狭い。
 やっとのこと目的の「道徳」駅に着いた。名古屋市内だというのにローカル臭い感じの駅である。二人ともたばこを吸いたいと懐を探したが、運悪く切れていた。丁度目の前にタバコ屋があり、買おうと思ったが目的のたばこがない。ハイライトやピースはあるものの、それのマイルドやライトなど存在するはずもなかった。逆わかばなど平成では売っているのかも分からないたばこがある。藤井はオーソドックスなハイライトを頼み、四十円と言われちょっと驚いた。店のおばさんは目が悪そうな眼鏡を掛けていたので、十円玉の年号も無視して四枚手渡した。
「ばれないすか?」
「大丈夫だろ。贋金じゃないんだし、何年後かすれば本物になるんだから」と言って一本青山に差し出した。ハイライトなど久し振りだ。妙にニコチンが重い気がするが、気分は落ちついた。 空はますます暗くなり、今にも泣きだしそうだ。しかも風がさっきより強くなってきた気がする。
「天気悪くなりそうですね。さっさと宿見つけたほうがいいかもしれませんね
「うん、そうだな、まあ、何とかなるだろう」
 その時、二人の前を小さい女の子がひょろひょろ歩いて来た。その子はふらついた足で道路を横切ろうとしている。そして、その向こうからスピードを出した車が突っ走ってきた。だが、女の子は車が来るのにも気がつかない様子でそのまま道路に出ようとしていた。藤井は咄嗟に危ないと思いたばこを投げ捨て、走りだした。車の方も女の子に気づき、急ブレーキを掛けたが、間に合いそうもなかった。キッーという音とともに女の子の足が止まった。車の先端が女の子に接しようという瞬間、女の子は宙を回転した。危機一髪、藤井は女の子を抱き上げ車の進む方向に動かしながら衝突するのをくい止めた。
 車の運転手が血相を変え降りてくるのと同時に、少女の母親らしき中年の女性が飛びだしてきて、少女のところに駆け寄った。
「大丈夫ですか、たく、急に飛びだしたりして、びっくりしましたよ」年若い運転手は女性に向かって怒鳴るように言った。
「申し訳ありません。ちょっと目を離した隙に。この子目が不自由なもんで・・・すいません」 目が見えないと言われ運転手の男も怒る意気込みが萎えたようで、「怪我がなかったからよかったものの、もっと気をつけなさいよ、この人がいなかったら大惨事になっていたんだから」と藤井を指差しながら、車に戻り走り去った。
 女性は車に対して何度もお辞儀をしたあと、藤井たちの方に向き直った。藤井たちはもう行こうかと歩き始めていたのだが、女性は藤井のところまで小走りに近づき言った。
「本当にありがとうございました。何とお礼を申し上げたら・・・」
「いえ、いいんですよ。怪我がなくてなによりでしたから」藤井は照れくさそうに言った。
 少女は何が起こったのかも分からないようで、無邪気に母親の足にしがみついていた。藤井はその時、少女の目が見えないのを察知した。両目の瞳は確かに開いているのに、視点が定まっていない虚ろな動きに気づいた。
「目が御不自由なのですか?」青山が少女を見ながら尋ねた。
「ええ、そうです。ですから、買い物の時などは気を配っていたんですけど、ちょっと油断していたら、こんなことに・・・。本当に、どうも・・・」
「いえ、たいしたことじゃないですから。気を付けなよ。お嬢ちゃん」藤井は女の子の頭を撫でて言った。女の子は、はにかむように恥ずかしがり母親の後ろに寄った。
「では、これで・・・」と藤井は挨拶しその場を去った。
 母親は藤井たちにも何度もお辞儀をして感謝の意を表していた。
「藤井さん、カッコイイ。動きも機敏だし、凄いですね」
「当たり前だよ。俺はカッコイイんだから」二人は笑って先を進んだ。

「確か、このへんのはずだったんだけどな?」青山はきょろきょろしながら、自分の両親の家を探した。昭和三十年代の家はどれも同じような瓦張りの木造住宅で、近代的な豪華な家というものはない。いかにも庶民的な家が所狭しと並んでいる。道もアスファルト舗装されているのは大通りぐらいなもので、ちょっと小道に入れば石が転がる砂利道ばかりだ。高架橋になっていない線路沿いは黒くなった木の柵で囲まれているだけで、さっき乗ったようなガタゴトの列車が通過していく。 「青ちゃん、ここだよ。青山って書いてある」藤井は青山の表札を見つけて呼んだ。
「ここか、わずかな記憶しかないけど、俺が子供のころ見た家とはちょっと違うな」青山は家の周りを眺めて言った。門が前のある結構立派な家だ。戦後建てたようで、まだ造りはしっかりしている。
「で、どうするんだい。ここまで来たけど、親に会ってみるかい?」
「そうですね、会うったって、どう言えばいいんです。まさか、未来の子供が来たとは言えないでしょ」
「まあ、そりゃそうだが。何か適当にセールスマンの振りでもして、入ってみれば。ちょうど、スーツと鞄も持っていることだし」
「ええ、ちょっと顔だけでも見て帰りますか」そう言って青山は入口の門を開け、玄関の扉を叩いた。
「すいません、ご面ください」
 だが、中からの返事は無かった。試しにと引き戸を動かしてみたが、鍵が掛かっているようだった。
「なんだ、留守か。折角ここまできたのに。子供が訪ねてきたのになんていう親だ」と青山はわけの分からないことをつぶやいた。
「どうする、そろそろ寝るところも探さないと。天気も悪くなってきたし」そう藤井は言った。 空は今にも雨が降りそうだ。それ以上に風がますます強くなり、ゴミや枯れ葉が舞っていた。「しょうがないですね、藤井さん行きましょうか」と青山は藤井を促した。
 二人が歩き始めると、とうとう雨が降りだした。青山は鞄から傘を取り出したが、風が強いためまともにさすのもままならなかった。
「やばいな、大雨になるかも」藤井は舌打ちをして、ひとまず軒が広い家の下に逃げ込んだ。「まあ、通り雨かもしれないから、ちょっと、治まるまで待とう」と提案した。 
 二人は風と、地面からのはね返りの水ですでにびしょ濡れの状態だった。その時、霞む雨の中から大きな影と小さな影が二人の前を通り過ぎようとした。大きな影はふと立ち止まり、傘を傾けて顔をのぞかせた。
「あなたがたは、さきほどの・・・」それはさっき藤井が事故から救った親子だった。
「ああ、さっきの方ですか?」藤井が答えた。女の子は声を聞いて藤井のことがわかったのか、ニコリと笑った。
「どうされましたか?こんな雨の中、突っ立ってなんかおられて」
「いえ、ちょっと、訪ねたい家があったんですけど、そこがお留守で。そうこうしているうちにこんなひどい雨になって、小雨になるまで待とうかと・・・」
「そうだったんですか。でしたら、私の家にいらっしゃいませんか?すぐ、そこですので雨が止むまで。先程のお礼もあらためていたしたいですし」
「ええ、そうですね・・・」藤井は青山の顔を見て、そうしようかと頷いた。
「それじゃ、お言葉に甘えて」
「そうですか。なら、こちらへ」
 二人は婦人の後に付いていった。婦人は目と鼻の先のアパートに入り込んだ。炊事場やトイレなど共有の木造アパートで、建物の中央が入口になっている。そこがすでに玄関になっており、靴を置いておく下駄箱があった。
「二階ですので、ここで靴を脱いで、上まで持っていってください」二人は言われるままにし、靴を脱いだ。二人は女の子と手をつなぐ婦人のあとに付いていき、ゆっくり階段を上った。二階も一階と同じように中央の廊下の両側に六部屋がある。奥の方は電灯が付いていないのでよく見えない。婦人はは手前右側の入口に立ち、財布から鍵を出して、止め金の錠を外した。
「どうぞ、汚いところですけど」婦人は手を差し延べ二人を中に入れた。四畳と六畳の二間だ。台所もトイレもなく、入口を入るとすぐに畳の間になっている。部屋は綺麗に片づけられ、大きなタンスが一つと食器棚が一つ、ちょっと寂し感じがしたが、まだこの時代どこの家庭にもテレビがある状況ではなかったのだ。
 婦人は押入れから手拭いを取り出し、二人に手渡した。「これを、どうぞ。それからズボンも脱いだ方がいいですね、乾かしますから」スーツの背広を脱いだ二人はいくらなんでも女性の前でズボンを脱ぐのは恥ずかしかった。それを察知した婦人は「あら、すいません。替えのズボンを持ってきますから」と、再び押入れを探し、二本の古着のようなズボンを持ってきた。
「主人のですけれで、合いますかしら」と笑顔で婦人は言った。
 藤井にはちょうどよかったが、青山には少々小さかった。婦人は隣の部屋にいき、女の子を着替えさした。その間に二人ともズボンを替え、濡れたものを家の中に張ってあったロープに吊るした。
「どうも、すいません。お手数かけて」青山があらためて礼を言った。
「いえ、こちらこそ、さきほどは娘を助けていただいて、お礼のいいようがありません」婦人は娘を連れ、こっちの部屋に現れた。
「いえ、いいんですよ」藤井は照れくさそうに言った。
「目が不自由なのに、すぐにはしゃぎまくって、いつもは気をつけているんですけど」
「まあ、本当に怪我がなくて何よりでした」
「あら、申し遅れました、私、岩井初江と申します。この子はしのぶです」
「僕は青山、こっちは藤井です」
「藤井です。どうもよろしく。しのぶちゃんって言うのかい、よろしくね」藤井はしのぶの頭を撫でると、彼女はまたまたニコリと笑った。
「あら、青山さんといいますと。もしかして、筋向かいの青山さんをお訪ねだったのですか?」「ええ・・・、まあ、そうです。遠い親戚なもんで、ちょっとこの時代に来たついでにと」青山は適当なことを言った。
「時代?」
「いえ、いえ、ここにきた次第と、いうことです」と慌てて藤井がフォローした。
「藤井さんはお友達で?」
「ええ、彼の同僚で一緒に来たもので。それにしても、雨、止みませんね」閉まった窓には風に煽られた雨が打ちつけられている。依然、風雨の勢いは衰えていない。 「当分、雨は止まないかもしれませんよ。なにしろ、台風ですからね」
「台風?」青山はその言葉をきいて、顔色を変えた。
「青ちゃん、どうした」藤井はそれに気づき、訪ねた。
 青山は岩井に聞こえないよう小声で話した「藤井さん、何で両親がいなかったのか思い出しましたよ。この年の今週は確か旅行にいっていたはずなんです」
「ほう、よく覚えていたね」
「いや、それがね、家を空けていた時、台風にやられたと言っていたのを思い出したんです」
「台風?それが今来ている台風なのかい?」
「そうです。いいですか、今日は昭和三十四年九月二十六日ですよね」
「ああ」
「それが何の日か覚えていますか?」
「いや・・・、えっ・・・、あっ・・・、もしかして」
「そうです。今日は『伊勢湾台風』の日なんですよ」

5  災禍

 昭和三十四年九月二十六日、それは日本の自然災害史においては関東大震災と同じように特別な意味を持つ日であった。特に台風災害においては決して忘れることのできない日である。二十二日、マリアナ群島で発生した熱帯性低気圧は発達しながら日本に向かっていった。台風十五号となった台風は急速に発達したため、その熱を衰えさせず、しかも、早い速度で太平洋を北西に進んだ。二十六日、台風十五号は潮岬に上陸しそのまま北西に向かった。中心気圧−−九百二十九.五ヘストパスカル(当時はミリバール)、瞬間最大風速五十五キロ/時を記録した。以前多大な被害をもたらした室戸台風につぐ巨大台風であった。台風は紀伊半島を横断し名古屋方面に突き進んだ。午後九時から十時、台風は中京地方に接近、このことが悲劇を大きくした。それは海の満潮時と重なったことだ。四十ミリから七十ミリの降雨のため、名古屋港の最高潮位は五.八一に達し、各地の河川が氾濫、港湾護岸も決壊した。その結果名古屋市のほぼ半分、南西部のほとんどが水に浸かる結果となってしまった。大きな被害をもたらした原因の一つに被害地が低い土地だったことが挙げられる。名古屋南西部の大部分は元々海であったところを埋め立てたゼロメートル地帯であった。江戸時代「宮の渡し」があった場所が現在の熱田神宮なのだ。そこから先はずっと海であった。決壊した川から流れ出た水は一気に町の中に流れ込み、民家はみるみる浸水していった。床下浸水はおろか、一階部分がすべて水に埋もれる床上浸水が各地で起き、最大二メートル五十センチの浸水被害をもたらした。だが、運の悪いことはまだあった。浸水した地域には多くの貯木場が存在した。そこから流れ出た流木が家屋を破壊し、人々の命をも奪い去っていったのだ。
 数々の不運のもと、死者−−四千七百六十四人、行方不明者−−二百十三人、全壊家屋−−三万五千百二十五棟、半壊家屋−−十万五千三百四十四棟、港湾護岸決壊−−十九箇所、河川堤防決壊−−三十七箇所、百三十万平方キロが浸水、五十三万人の被災者を出す未曾有の大災害となった。名古屋を中心に知多半島から、三河、蒲郡にまで被害が及びその被害額も当時としては天文学的な数字となっていた。もちろん、現代のような発達した文化、防災設備と概念がない時代だ、現代において同じような台風が来てもこれほどの被害は出ないだろうが、この災害は様々な教訓を残してくれた。
 昭和三十四年は当時の皇太子御成婚が四月に執り行われ、お祝いムードで盛り上がっていた年であったが、この災禍は日本全国を震撼させた。水に浸かった町並み、道である場所を小舟が通る風景、何もかも無くしてしまった被災者、そして、無数の遺体。戦後のどん底から復興し、高度経済成長を向かえ、当時岩戸景気だった日本にとってはまさに地獄絵図であった。洗濯機、冷蔵庫と共に三種の神器と呼ばれたテレビの普及は著しく、前述の皇太子御成婚も重なって前年の倍以上の数が家庭に入っていった。被災の映像は全国民の目に映り、援助の輪も広がってはいった。しかし、復興もなかなかうまくはいかない。十月になってもゼロメートル地帯からは水が引かず、物資の補給や人材の援助は困難であった。全てを水にさらわれてしまった人々は苦労を強いられた。
 名古屋でも最大の被害地は南区であった。堀川、山崎川、天白川に挟まれ、多くの貯木場があった南区はそのほとんどが水の中に没し、多大な死傷者を出していた。その中でも特にひどい地域が、道徳駅周辺であった。
 そこに、青山と藤井は時間の壁を超えて存在していた。

「伊勢湾台風だって、そりゃ一大事だぜ、しかもここは確か南区だよな、最大の被災地じゃなかったっけ」藤井は普段の落ち着きを完全に無くしていた。
「そうです。俺の両親はこの台風の時遠くに出掛けていました。ですから、命だけは無事でしたが、家は崩壊し家具や必需品はすべて流されてしまったそうです。その後、何ヵ月にも渡って苦労を重ね、一年ものあとやっと元の生活に戻ったとか言ってましたよ。そうか、だからあの家子供のころの記憶とは違っていたんだ。くっそ、なんて運が悪いんだ、こんな時にここに来るなんて。藤井さん、すいません。俺の気まぐれでとんでもないことになっちゃって。新聞の日付を見た時に気づいていれ・・・」青山はうなだれた。
「まあ、仕方がないよ、いまさらそんな事を言っても。とにかく、これからどうするかその事を考えよう。俺たちは伊勢湾台風のことを知っている。だからこそ、その被害を何とか最小限にしなければいけないのじゃないかな」
「どうします?ここにいるのは危険じゃないですか?夜が来ればこの辺りは全て浸水するはずですよ、避難した方が・・・」
「いや、今となってはもう遅いよ。これだけ雨が激しいんじゃ、外に出るのはかえって危険だ。それに逃げるたって、名古屋の北側に行かなければならないだろ、どこに行くのかということも問題だし、たぶん既に交通機関は全て止まっているころだ。下手な行動は裏目に出るかもしれない。それに・・・」藤井は目の前の親子に視線を移した。「・・・この人たちを放っておいて、自分たちだけ逃げることはできないよ。しかも、彼女は目が不自由でまだ幼い。この雨の中一緒に避難するのは難しいよ」 「しかし、ここにいるのも危険では?」
「んー、それは難しいところかもしれない。だが、このアパートは建ってからまだ間もない感じだし、広い通りからは離れている。一階はまず駄目だろうが二階なら何とかなるかもしれない。台風が通り過ぎてから避難した方がいいと俺は思う。もちろん、俺たちの知識をいかし、被害が出ないようにしなければいけないけど」
「分かったよ。俺も藤井さんに従う。ここは何とか俺たちで切り抜けよう」
「何を仰っているんです?伊勢湾台風とかいうのが聞こえましたけど、この台風は十五号のはずで、そんな名前まだ付いていないと思いましたけど」岩井は不思議そうな顔をして尋ねた。
「いえね、台風ですから備えを万全にしておかないといけないんじゃないかと思いましてね」藤井は何とか誤魔化そうとした。
「はあ、そうですね。ラジオでも付けましょうか。まだ、テレビなんていう豪勢なものはないんで」岩井はテーブルの上にあるラジオのスイッチを入れた。最初の局は音楽を流していた。どっかで聞いたことのある音楽だなと記憶を呼び覚ますと、ニール・セダカの「恋の片道切符」だというのを思い出した。平成ではオールディーズだが、当時は流行の洋楽だった。岩井がチューニングしていくと雑音が入る中、ラジオは台風のことを放送していた。
———大型で強い勢力の台風十五号は現在、室戸岬の南二百キロの海上を時速五十キロの速さで北西に向かっております。この進路で行きますと午後六時頃には紀伊半島に上陸する模様で東海地方を直撃する恐れがあります。すでに、四国、近畿南部は暴風雨圏内に入り、高松では瞬間最大風速三十メートルを記録しております。今後台風の進路に当たる地域は厳重な警戒が必要とされます・・・・・・。
 ラジオは淡々と台風の情況を報告している。岩井は心配そうにその話に耳を傾けているが、すでに結果を知っている二人にとっては、これから起こる悲劇が目の前に見えるようだった。
「奥さん、この台風は並の台風ではないですから、ラジオが言っているように警戒したほうがいいですよ。窓の補強なんか大丈夫ですか?それに浸水するかもしれませんので、避難の準備なんかしておいた方が・・・」藤井が岩井に提言した。
「そうですわね。どうも、普通の台風じゃないみたいですから。それにつけても藤井さんたちはお詳しいみたいですし、心構えもできていて頼もしいですわ」
「はっはっはっ・・・・・・」藤井は照れた。誰でもこれから起きることを知っていればそれぐらいの気持ちになるはずだ。
 窓はいまさら板を釘で打ちつけることなど出来なかったが、運よく、雨戸がありそれを閉めることにした。部屋は暗くなったので、電灯を付けることにした。まだ、電気は来ているようだ。しかし、これもいつまで持つか?藤井は蝋燭の用意をするよう、すぐに提案した。
「あの、お二人共、おなかすいていらっしゃいますか?こんな情況ですから早めに夕食にした方がいいと思いますんで」
「ええ、そうですね。あっ、でも夕食まで御馳走になるのは御迷惑では?」青山は口ではそういっているものの、腹のほうは正直に空腹を訴えていた。それに、今食べておかなければ当分飯にはありつけないと分かっているので、遠慮がちに頂くことにした。それは藤井も全く同じであった。
「いえ、構いませんよ。いつもこの子と二人だけの食事ですから、大勢の方がいいですわ。二人分も四人分もあまり変わりませんし」
「えっ、お二人と言いますと、御主人は?」青山が興味をもってきいた。
「はい、主人は五年ほど前に病気で亡くなっています。その後はこの子と二人で細々と暮らしているんです」
「そうだったんですか」青山は今はいているズボンがその亡くなった夫の物と分かり、感慨深かった。
「それじゃ、食事の用意をしましょう。炊事場が使えるうちに。僕たちも手伝いますから」と藤井が言いだし、早速準備にかかった。
 二人は薪でかまどでも炊くのかと懸念していたが、ガスがあるので調理に困ることはない。ただ、電気炊飯器などという便利なものはなくお鍋で御飯を炊かなければいけない。まあ、アウトドアに長けている青山なのでそのへんは問題なかった。御飯は多めに作ることにした。非常用におにぎりを作っておくつもりだったのだ。非常食になるものはないかと岩井に尋ねた。まだ、カップヌードルなどない時代だし、レトルトや便利な非常食は期待できなかった。ひとまず、魚の缶詰はあった。それに、なんとチキンラーメンがあったのには二人とも驚いた。日本最初のインスタント食品がすでにこの時あったのだ。パッケージは今とほとんど変わりない。多分、味も同じなのだろう。二人には何とも言えない思いがわき上がった。
 味噌汁を作り、あとはおかずに野菜の煮物を作った。二人には少々物足りないメニューだが、今は贅沢なことを言ってはいられない。手分けして一階で作り、二階に運んだ。現代では滅多に見かけないちゃぶ台に茶碗などを置き、四人で囲んで食事を始めた。しのぶは目が不自由なのにもかかわらず、健常者と同じように食事をしている。おかずの位置も最初だけ、母親に教えられただけで、あとはまるで目が見えるかのように箸で上手に摘んでいた。炊飯器に慣れている二人には御飯の味は少々合わなかったが、味噌汁と煮物の味は完璧であった。調理器具で誤魔化さない本物の手料理で、まさに岩井の腕はおふくろの味であった。
 風雨は激しさを増した。ラジオでは台風が潮岬に上陸したことを告げ、東海地方の警戒をさらに厳しくするよう訴えていた。しのぶは目が不自由なだけあって音には敏感だった。風が吹きすさび、雨が唸りをあげ、物が飛んでいく音に彼女は怯えていた。多分、今までに経験した事がない音の響きなのだろう。音だけで全てを判断してきた少女の耳にはこの情況は想像できないはずだ。藤井たちでさえその恐ろしさは一入だった。むろん、台風というものを経験はしているが、あの伊勢湾台風が迫っているという事実はこれからの未来を知っているだけあって恐怖という普段は全く持ち合わせていない感情を抱いていた。数時間後には何千人という人たちが死ぬ。ここに来るまでに見た人たち、電車の中で見た学生やサラリーマンがその命を落とすかもしれない。九月の防災の日や伊勢湾台風の何年目とかいう映像で見たことのある風景が目前に迫っている。もしかしたら、目の前の親子も危険にさらされるかもしれない。それ以上に自分たちが犠牲者の仲間入りをする可能性だってあるかも、という事実は二人にとって重い未来像だった。未来を知っていることがこんなにも辛いのかと二人はあらためて思った。もし、タイムマシンがあったら未来の自分を見てみたいと不可能が故に安直に考えていたが、現実にタイムスリップをした今、その考えが愚かだったことを実感していた。人は未来など見るものではない。どんな将来が来るのか、人間は努力しながら築いていくものなのだ。見えない明日があるからこそ、明日への希望があるからこそ、その時々を生きていけるのだ。
 その時、藤井は思い出した。先日土田が言っていたことを。
———タイムスリップには運命決定型と変動型がある。
 タイムスリップが実現できていない世界においてタイムスリップがどちらなのか、それは答えの出せない疑問だった。だが、こうして自分たちがそれを体験していると実感した時、その結論が出る気がした。
———我々がここに来たのが運命決定型なら、結果は出ているのでどうすることもできない。しかし、運命変動型ならどうなのだろう。この親子はもしかしたらこの台風で命を落とすかもしれない。それを我々が現れたことで変えることができるのかもしれない。何千という犠牲者を助けることは不可能だ。だが、一人でもいい。助けられる人がいるのなら、犠牲者の数が一人でも減るのなら、自分はその手助けをしなければいけないのかもしれない。いや、待てよ、誰かを助けたため自分が犠牲となり、トータルでは犠牲者の数が変わらない可能性だってある。もし、このタイムスリップが運命決定型なら、公式に発表された伊勢湾台風の犠牲者数の中には予め自分が入っていたのかもしれない。自分が見た犠牲者の映像の中にすでに自分が含まれていたのかも。 藤井は少し身震いした。時間の流れがどっちなのか考えれば考えるほど、複雑な思いになっていく。だが、目の前のこの親子を犠牲者の中に入れる気持ちは持てなかった。たとえ自分が犠牲になろうとも・・・・・・。
 食事も終わり、青山の提案通り残った御飯でおにぎりを作った。岩井はさすがに手慣れた手付きで御飯を握り、海苔を巻いていった。しのぶも見えないながらも器用に小さなおにぎりを作っていた。
 だが、後片付けをした後、しのぶの様子が変なのに岩井は気づき、二人もそう思った。顔がほてり始め、触ってみるとかなり熱がある様子だった。
「どうも、雨に当たったのがよくなかったみたいですわ」娘のために布団を引きながら心配そうに言った。「元々体の弱い子ですから、ちょっとの風邪でも人よりひどくなるんで」
 岩井はたんすの小さい引き出しをあさったが、神妙な顔をして言った。「困ったわ。いつものお薬が切れているみたいで」
「他に風邪薬はないんですか?」青山は女の子をのぞきながら尋ねた。
「ええ、この子かかりつけのお医者さんの薬じゃないと駄目なんです。仕方ありません、今からそのお医者さんまで行って、薬をもらってきます」
「奥さん、それは危ないですよ。この天候じゃ出歩くのも危険だ」藤井は血相を変えて言った。
「でも、この子をこのままにしておくのは・・・。大丈夫です、お医者さんは近くですから、すぐに行って帰ってきますよ。その間すみませんけどこの子見ていてくれますか?」
「ええ、見ているのは構いませんけど、何なら僕が行きましょうか?」青山が言った。
「いえ、大丈夫です。それに、私が行かないとお医者さんの方も状態が分からないと思いますので」
「そうですか、分かりました。でも、この台風は只者じゃありませんから、できるだけ急いでください。いつ、浸水するかも分かりませんから」
「浸水って?大丈夫じゃないんですか、最近河川の工事もしてましたし・・・」
「ええ、そうですけど・・・」それ以上青山には言えなかった。この地帯がどうなるのかそれを説明することは出来なかった。まだ、見た感じ浸水の恐れはない。急いで戻れば大丈夫だろうと青山も甘い考えを起こしていた。青山は台風による浸水を知ってはいたが、いつ起こったのかという細かい経過など知るはずもなかったからだ。
 岩井は降りしきる雨の中をレインコートと傘に包まれ駆けだして行った。そのころ、山崎川の堤防が今にも崩れそうだという現実を誰も知ってはいなかった。二人でさえも・・・。

6  浸水

「藤井さん、心配だな、やぱり岩井さんを行かせたのは?」青山は腕組みをし部屋をうろうろしていた。
「んー、そうだな」藤井もうなずいたが、しのぶの病状が気になっている様子だった。しのぶは布団に寝かされているが、見るからに顔が赤く呼吸も荒かった。藤井は彼女の髪を撫でながら見守っていた。
 その時、廊下をどたどた走る音が聞こえた。何事かと青山が覗いてみると、風呂敷を持った人が二三人駆けずり回っていた。
「どうしたんですか?」青山は走っている男に尋ねてみた。
「いや、どえりゃこったで、水が一階に来たんですわ。早いとこ荷物をあげんとみな水浸しになってもうわ」と男は言いながら下に降りていった。どうやら一階の住人が荷物を二階の空き部屋に運んでいるようだ。
 青山は一階の様子を見るため階段を降りた。水が既に玄関まで上がり、一階の廊下に流れだそうとしている。青山は慌てて部屋に戻った。
「藤井さん、もう床下浸水まで達したよ。思ったより水の勢いが早いらしい」
「そうか、だとすると岩井さんがまずいな」
「そうですね。俺ちょっと見てきますよ。心配ですから」
「でも、危ないよ」
「大丈夫です、じゃ、しのぶちゃんのことよろしく」
「OK、気を付けてな」
 青山は靴を持って再び一階に降り、ちょうど通りかかったさっきの男に尋ねた。「あっ、ちょっとすいません、岩井さんが娘さんの病気のために行く医者はどこですか?」
「ああ、小島医院ですね。ここを出て右に行き、通りに出たら左へ行って、三つ目の交差点を右に行けばすぐですよ」
「そうですか。どうもすいません」青山は靴を履きながら言った。
「ちょっと、あんたこんな雨ん中出ていきゃーすかね。危にゃーですよ」
「ええ、でも岩井さんが戻らないんで迎えに・・・」
「まあ、気いつけて。いつ水が来るか分からんでね」と男は言って再び両手で荷物を運びだし始めた。 
 青山は滂沱の雨の中に駆けだした。靴を履いて出た瞬間すぐに水の中に埋まってしまった。まだ、膝した半分の水位だが、風に煽られ水は波のようにうねり、ズボンはすぐにびしょ濡れになった。傘はこの風ではかえって危険だと考え初めから持ってこなかった。打ちつける雨と横なぶりの風、足をすくう浸水が青山の進路を阻む。シャワーのような雨は視界を遮り、まるで海にでもいるかのように数メートル先も見ることが出来なかった。青山は男に教えられたまま、進み、最初の交差点を左へ曲がった。車がそばを通ったがタイヤから噴水のように水をかき上げ、青山に高波を浴びせた。吹きすさぶ風は小さな看板などフリスビーのように軽々と舞い上がらせ、青山も悪い視界の中、必死に飛んでくるものを避けた。看板だけでなく、折れた木の枝や瓦まで降ってくる。よけるだけでも命懸けであった。
 山崎川は千種区の猫が洞池から流れ始め、昭和区、瑞穂区、南区を通って名古屋港に流れ込んでいく。平成の現在では本山までの河川は地中化され、道路の下を通っている。瑞穂区に入って石川橋から瑞穂グランド付近までは桜の名所として現在までも市民に親しまれているところだ。上流はか細い川だが、新端橋を過ぎた辺りから川幅は広がり、各地の下水なども合流して水の量も一気に増える。忠治橋と呼ばれる、現在ちょうど新幹線が通る位置の付近で堤防は崩れた。河川の工事は随時進められてはいたが、まだまだ不完全な地域も多く、この後も各地で川が決壊した。道徳橋の近くでも決壊は始まった。近くには加福貯木場があり、すでに貯木は川に流れだしていた。

 藤井の耳には雨も風の音も入らなかった。だた、ひたすらうなされている少女を見入っていた。しのぶの額を触ると熱があるのがすぐに分かり、藤井は手拭いを濡らして少女の頭にのせてあげた。
「お母さん、お母さん・・・」としのぶはか細い声を発した。藤井は布団の中で少女の手を握り、「大丈夫、もうすぐ来るよ」と耳元で囁いてあげた。
 突風に飛ばされた何かが窓の雨戸にぶち当たり、大きな轟音を響かせた。それと共に室内の電灯がパアッと消えた。一瞬のうちに闇が押し寄せ、音だけの世界になった。しのぶはハッと飛び上がり、「怖いよ、怖いよ」と泣き叫んだ。
 藤井は少女を抱き抱え「大丈夫だよ。心配ないから」と落ちつかせる言葉を何度もかけてやった。今、藤井は彼女と同じ状態になった。視界はゼロになり頼れるのは耳と自然にみについている感覚のみ。少女がいつも体験していることを疑似しているような思いに藤井は捕らわれた。そして、彼女が抱いている恐怖を藤井も理解できた。何も見えない世界。そして聞こえるのは恐ろしい自然界の音、それがもたらす恐慌が、少女と一体になった認識で藤井の中に入り込んだ。

 青山が渾々と水が流れる道をひたすら進んでいくと反対側を歩く人の姿が水槽のような水越しに見えた。声を掛けても聞こえそうにないので、青山は道路を大股で横切った。すでに水は膝の上まで達し、歩くのも体のバランスを取らなければままならなかった。やっとのこと岩井の前に辿り着き声をかけた。
「岩井さん大丈夫でしたか?」
「あ、青山さん、どうしたんですか?」
「いえ、帰りが遅いし、水が上がってきたので心配になって。それにしのぶちゃんの状態も悪くなる一方ですから」
「そうですか、それは御心配をおかけして・・・」
「とにかく、早く行きましょう。ここにいるのは危ないですよ」
「はい」
「・・・っ、やばいな」
 青山は岩井をカバーする形で前を急いだ。水は更に上昇し腰近くまで至っていた。その時、後方から今までとは異なる低い音が響いてきた。青山が振り返るとそこには水の壁が迫りつつあった。あっと言う間もなく水は二人を呑み込み、青山は水の圧力を感じた。それと同時に目の前にいた岩井の存在を見失った。

 目の見えない彼女にとって、耳だけが頼りだった。だが、今その耳には今まで聞いたこともないすさまじい音が鳴り響いている。目が見えるのなら何が起こっているのか理解できるかもしれない。だが、耳でほとんどを判断する彼女にとり、この暴風雨が何なのか分かるはずもない。雨や風は知っているだろう。それは自然の営みの一つとして、天候や季節を知るものであったはずだ。だが、今の情況はそんな感傷にひたるものではなかった。不自然な音と建物が揺れる振動が体に伝わり、発熱も伴って彼女は不安にわなないている。人は未体験なことに対し興奮するか畏怖するかのどちらかになる。
 しのぶは恐れた。闇しか見えない脳裏には、想像できない恐怖という念が取り巻いていた。彼女はこの時、幼いながらも「死」というものを感じ取ったかもしれない。彼女にとっての「死」とは何も聞こえなくなること。それは普段からも抱いていた怖さでもあった。彼女は人が死ぬというのは聞くことができなくなることと理解していた。父親が死んだ時は、よく分からなかったが、今ではきっと父は何も聞こえなくなった状態になったんだと考えていた。そして今それが自分にも振りかかろうとしていた。もし、この轟音が聞こえなくなれば自分も父と同じようになるのだろうと考えた。だが、彼女はすでにこの耳慣れない音に耐えきれなくなっていた。どうせなら、音の無い世界に行ってもいいと「死」に対する恐怖とは裏腹な思いを抱き始めていた。そんな絶望感を救ったのは藤井の存在だった。

 青山は塀に体をぶつけ一瞬目がくらんだ感じになった。だが、すぐに気を取り戻し、岩井を探した。数メートル手前を流れる岩井を見つけた。彼女は気を失ったのか水にうつ伏せのままだった。青山は水をかくように歩き、彼女に近づいた。水の流れが急激になり思うように進まなかったが、なんとか彼女に追いつき捕らえることができた。青山は彼女を抱き抱え生死を確かめた。どうやら、単に気を失っただけで別状はなかった。青山が彼女の頬を叩くと、もうろうと表情で首を振った。良かったと一安心した瞬間、またしても水の威力を青山は感じ取った。今度は岩井を抱えている重みで前につんのめり、水中に没した。だが、今度は岩井を離すことはしなかった。数秒水の中でもがき濁りきった水を飲み込むと、すぐに立ち上がって水を吐いた。なんとも言えない味が舌に残ったが、むせる間もなく今度は激痛を感じた。体をひねりながら背後を見ると大きな丸太が流れていった。貯木場の流木だ。青山はもたもたしていられないと察し、背中の痛みに堪えながら岩井を抱き抱え進んだ。泳ぐように道路を横切り、やっとアパートへ向かう路地に着いた。振り返ると何本もの流木が恐ろしい勢いで流れていく。激甚な水の流れに従っているのでこっちまでは流れてこないだろうが、まさに危機一髪だった。青山は大きく息を吐き、進んだ。

 藤井は用意しておいた蝋燭に火を灯した。ほのかな赤い光が部屋を包み、藤井はひとまずホッとした。だが、しのぶには何の意味もないことだった。彼女の恐怖は蝋燭の炎では癒すことができない。
 藤井は震える少女を腕に抱え、「大丈夫だよ、僕がいるから、何も怖がることはないよ・・・」と何度も声をかけた。
 しのぶは怯えながら、「お兄ちゃん、お兄ちゃん・・・」と体を小さくして藤井に縋った。
 藤井は彼女を落ちつかせるために自分がいつも持ち歩いているお守りを財布から取り出した。 「これは僕が大事にしているお守りだ。いつも、これが僕を悪いことから守ってくれたんだ。これを握ってごらん。そうすれば、何も怖くないから。きっと君の願いが叶ってすぐにお母さんが来るから」
しのぶは素直にそれを受け取り小さな手で握りしめた。その拳の上に藤井は自分の手を重ねてあげた。少女の手は藤井の手の中にすっぽり隠れてしまうほど小さな手だった。小刻みに震える彼女の振動が藤井の手にも伝わってくる。少女の目は開いていた。盲目者特有の視点の定まらない瞳が止まった。彼女は一点を見抜くかのようにじっと藤井の顔を見た。彼女の瞳には藤井の姿が反射していた。だが、その姿を彼女は実際に捕らえることはできない。だが、藤井は瞳に映る自分の姿が彼女の眼を通し、心の眼に投影されている気がした。少女の眼は美しかった。光を知ることのない瞳は暗い蝋燭の光にもかかわらず、きらきらと輝いていた。幼く汚れのない瞳は嵐など吹き飛ばすような清らかさだった。
 この子に明かりを取り戻させてあげたい。藤井は真にそう思った。当時の医学ではまだまだ網膜移植はそうたやすくできる手術ではない。しかも、この貧しい家庭では手術費もままならない気がした。でも、何とかしてあげたいと藤井は切に願った。物を見る楽しさ、自然を眺望する美しさ、音や体感ではなく視覚で物事をとらえる素晴らしさ、そして、鏡に映る自分の姿を、彼女に実感してもらいたかった。普段、かわいそう、不自由だなと身障者に対し単に同情していた自分が、こうやってそういった人と触れ合ったことで、彼らの苦しさや悩み、そして障害に対する不安を我が身の如く真剣に考えることができた。周りにそういう人がおらず、ただ、募金や同情だけでは彼らのことを理解しているとは言いがたい。彼らに接してこそ本当のことが理解でき、彼らの為に何かできるのだ。
 藤井はもし未来に戻れなかったら、この子のために杖になってあげようと思った。過去の世界に青山と二人だけで取り残された藤井には、最初に出くわしたこの親子との出会いが何か運命的なもののように思えた。このままこの時代から生きていくなら、自分はこの子や同じような境遇の人たちのために成すべきことをしようと、考えていた。自分たちが時間の枠を超越し習得している知識や技術が裨益するかもしれない。それが運命ならそれを受け入れるしかないと決意していた。
 突然、入口の扉が開いた。青山が岩井を肩に担いで中に運び込み、藤井もすぐに通った。
「青ちゃん、大丈夫か、びしょ濡れだな。岩井さんは?」
「大丈夫。少しもうろうとしているけど、意識のほうはしっかりしているから」
 岩井は畳の上に倒れかけたが、頭を少し振って大きく息を吐いた。「藤井さん、すみません、この子に、この薬を・・・」彼女は服の下からビニール袋に入った薬を取り出し、藤井に手渡した。
 藤井はすぐ、溜めておいたやかんの水をコップに入れ、しのぶを座らせて薬と共に飲ませた。少し、むせながらしのぶは薬を飲み込み、再び布団の中に入った。その間青山は岩井は隣の部屋に運び濡れた服を着替えさせ、自分も着替えをした。
「青ちゃん、外の様子はどうだい?水は増したか?」
「ええ、外はもう凄いですよ。あんなの見たことありませんよ。水は激しいし、流木は流れてくる。マジで命からがらですよ。ここも一階はすでに俺の胸ぐらいまで水が来ています。このままだとここも危険かと」
「そうか、でもこうなったらもう外には出れない。この子もこんな状態だし下手に水を浴びればかえって危険だ。あとはここで静かにしていて台風が通り過ぎるのを待つしかない。運を天に任せるしか・・・」
 着替えた岩井は娘のそばに座り、額の汗を拭っていた。大きな物音がするたびに岩井は娘を抱き抱えるような恰好をした。藤井と青山はただ二人を見守るしかなかった。これ以上何事もなく台風が去ってくれるのを神に祈るのみだ。自然の猛威に対し人間がこんなにもろく、力がないことを実感するしかなかった。

7  台風一過

 翌日は青い空が広がった。薄い筋状の雲しかなく、昨日のことが嘘のような晴天だ。風は台風のぶりかえしでときたま強く吹くが、それも心地いいものだった。だが、その心地よさもこの惨状を見れば一遍にどこかへ消えてしまう。
 町は完全に水に埋まった。一階部分が見える家など一軒もない。ほとんどの家が二階近くまで水が達し、二階の窓や屋根から人々が自分たちと同じように周りを見ていた。高層ビルなどない町は遠くの方まで濁った水で滔天と埋め尽くされているのが確認できる。広い道路沿いの家はすでに跡形もなくなっている所もある。昨日まであった建物は完全に押し流されていた。崩壊を免れた家でも、流木のおかげで、あちこち破損しており、半分傾いている家もある。
 静かに流れる水には様々な物が漂っている。調理器具や化粧道具などの家財品から、大きな木や看板、衣服や靴、動物の死骸。そして、人間の命亡き屍も藤井たちの前を流れていった。
 青山と藤井はそのあまりの凄惨な風景に絶句した。古いニュースフィルムで見たことのある情景が今この目の前にある。それは白黒のダイジェスト的な映像から計り知れない、無残な姿だ。 藤井たちは何とか生命の危険からは脱した。迫り来る水も二階ぎりぎりまで達したが、廊下には波の勢いで流れる程度で済み、二階の部屋には浸水しなかった。建物自体頑丈に作られていたので、流木などの被害もガラスなど所々にはあったものの、大きなダメージにはなっていない。 しのぶの容体は薬のおかげと三人の看病によって回復していた。熱も下がり、息づかいも随分治まった。それよりも、彼女の耳に届く音がいつもの自然なものに戻ったことが、彼女の不安感を消し去り、心の動揺を落ちつかせたのが、一番良かったのかもしれない。今は静かに眠っていた。岩井はほとんど一睡もしておらず、今は浅い眠りに耽っている。藤井たちも全然寝ていない。むろん、疲れは感じているが、普段から徹夜などしているのでそれほど辛くはなかった。
 これからどうするか相談したが、救援が来るまでここで待つしかなかった。たぶ、地元の学校などに避難するのだろうが、こういった災害時の救援活動はえてして遅いものだ。しかも、予想外のこの被害は救援活動を円滑に押し進めようと努力しても無理な話かもしれない。道路はもちろん、鉄道もすべて水に没し、人材や物資の輸送も困難を極めている。消防、警察、そして自衛隊が動きだすだろうが、ヘリなどもまだ充実している時代ではないはずだ。すべて水の上を進む船に頼るのだろう。  昨夜の内に非常食は用意していたので、食には不自由しなかった。余ったお握りは備える暇もなかった同じアパートの住民や近所の人にも分け与え、藤井たちの行いは感謝とともに事前準備のそつなさをも思い知らせた。やっとのこと夕方近く、救援のボートがこの付近にも現れ、四人も救助された。現在名古屋高速がある大通りまで、連れていかれそこからは歩いた。このあたり
から、多少の傾斜があるので水は膝下までになり、青山がしのぶをおんぶして一行は歩いた。避難地は笠寺観音から見晴台一体。ここは高台になっているため、浸水の被害は全く無く、避難所は既に人でごった返していた。気のみ気のままの人がほとんどで、炊きだしされた食事を食べるのが唯一の至福のようだった。しのぶは看護できるテントに運ばれ、岩井がずっと付いていた。それほど、症状は悪くなくすぐに元気になると医者は言っていた。藤井と青山は避難所の手伝いを率先して行った。二人は途方に暮れることなどせず、今この状況下でできることを一生懸命に行った。藤井たちが未来から持ち合わせた技術や知識はこの避難所にとっては魔法のような力を発揮した。ジッポのライターなどこの時代にはまだ珍しい。発電のノウハウも自衛隊の人以上に頼られていた。青山のアウトドアの知識もこのような時には特に役に立つ。少ない物資の中で青山の料理手腕は避難所の人の微笑みを作りだしていった。
 日に日に救援活動は活発になり、政府から一般の人たちまで、その援助は大きかった。見晴台から見える景色も徐々にだが、水が引いていくのが分かった。だが、その引いた後からの方が大変であった。水が去った地域の人たちは家の整理などをするため、時折、避難所を離れた。だが、戻ってる彼らの表情は絶望感と疲労感しかないようだった。藤井たちも彼らにかける言葉はなかった。後は気を取り直し、心機一転頑張ってもらうしかない。  しのぶはすぐによくなり三日後には外で走れるようになっていた。暇があれば藤井がその相手をしてあげ、しのぶはすっかり藤井になついてしまった。
「藤井さんが、こんなに子供好きとは思いませんでしたよ」青山は自衛隊の人からもらった煙草を吹かしながらしのぶと岩井を眺めている藤井の隣に座った。
「そうかい。でも、あの子といると何か心が安らぐんだ。こんな情況で目も当てられないんだけど、あの子のことを思えば何かやっていけるような気がするんだ」
「そうですか」青山は煙を吐き、少したらってから言った。「藤井さん・・・、藤井さんはもう気づいていますよね。あの子が誰になるのか」
「ああ、もちろん。ふふふ、ほんと不思議な巡り合わせだな」青山が煙草を差し出したので藤井はそれを受け取って答えた。「あの時、地下街で出会った婦人があの子とは驚いたよ。直前に彼女のテレビも見ていたし」
「そう、やっぱり知っていたんですか。俺もしのぶという名前に何か引っ掛かっていたんですけど、あの時のテレビを思い出して、あっそうかと思ったんです。名字が岩井じゃなく確か牧とか映っていたから思い出すのに、ちょっと苦労したんですけどね。確かに、あの子の面影はあの時の婦人にそっくりですよ」
「それに、あの子は俺のお守りを持っている。あの時、俺と同じお守りを持っているなと変に思っていたんだけど、当たり前だよな、元々俺のだったんだから」
「これが運命の巡り合わせなんでしょうかね。俺たちはあの親子のためにこの時代に来たんでしょうか?」
「そうかもしれない。あの時、地下で出会ったことが、俺たちを過去の世界に導いたのかもしれない。あの時点で彼女は生きていた。それは俺たちがこの時代に来ていたと前提していたんじゃないかな。俺たちはこの時代に、この場所に来る運命だったと予め時間の流れでは決まっていたことなんだろう」
「じゃ、その運命は俺たちをこれからどうするつもりなんでしょう。このままこの時代から生き続けさすつもりなんでしょうか。それとも、未来に戻してくれるんでしょうか」
「さあ、それは分からないな。でも、このままこの時代に生きてもいいんじゃないか?あんなバブル経済のごみごみした世界が本当に住みやすいのか?技術やテクノロジーは発達しても人間が全然進歩していない世界なんか。まだ、この時代は活気があって人々が生き生きしている。この世界の方が本当の人間の生きる世界なのかもな」藤井は煙を吐いて一息入れた。
「それに、この世界で生きなければいけなくても、あの子がいればなんとかなるような気がするんだ。目の不自由なあの子を放っておけない気がして」
「でも、藤井さん、じゃ、未来の世界はどうするんです。俺たちがいなくなった世界にも俺らの家族や仲間がいるんですよ。突然失踪し、老いた姿で現れても皆どう思うのか、それに・・・俺には・・・」青山は藤井から視線を外し、遠くを見た。
「彼女の事か・・・。愛しているんだな・・・」
「藤井さんだって、待っている人がいるじゃないですか?彼女のことはどうするんです」
「・・・しかし、どうやれば戻ることができるんだ?俺たちがタイムマシンを作るわけにはいかないし」
「あの時、地下鉄に乗っている時、俺たちは地震に出くわした。だから、もう一度地震に出くわせば戻れるかもしれない・・・」
「そんな、無茶言うなよ。例え再び地震が起これば戻れるとしても、ナマズじゃないんだから地震なんか予知できないだろ。それにこれから起こる地震を一々記憶していたわけでもないし、そりゃ無理だよ」
「くっそ、こんな事だったら、大学で地学でもやっておけば良かった。いつ地震が起きるか覚えておけば・・・」その時、藤井ははっとした顔で青山を見据えた。
「青ちゃん、地震がいつ起きるか俺たち知っているよ」
「えっ?」
「ほら、あの時のテレビ、あの子がインタビューで答えていたろ。台風の後の地震も怖かったって」
「そう、そうです。思い出しました、確かに言っていた。で、いつって言ってたかな・・・?そう?そうだ」
 二人は同時に思い出し声を揃えて言った。「台風の一週間後!」

8  帰還

「岩井さん、僕たちそろそろ戻ろうかと思うんで」青山は炊きだしの支度をしている岩井に言った。
「えっ、そうですか。そうですね。青山さんたちはもともとここの方でわないんですし、いつまでも私たちのお世話をかけていては・・・」
「ええ、まあ」
 藤井がしのぶと手をつないでやって来た。
「藤井さん、帰られるんですか?」
「は、はい。家のことも気になりますんで、それにここの情況も随分良くなったみたいですし、水さえ引けばすぐに復興しますよ」
「でも、本当に助かりました。お二人が見えなかったら私たち、どうなっていたか・・・」岩井は怯えた表情をした。
「いえ、こちらこそ。あの日、お宅に上がらせてもらわなければ、僕たちこそ危なかったですから」
 大人たちの会話を察したのか、しのぶは手を握る藤井にしがみついて言った。「お兄ちゃん、行かないで」それと同時に彼女は大粒の涙を流した。
「御免ね、でも、僕たちも行かなきゃ行けないところがあるんだよ」藤井は頭をなぜながら慰めた。
「いやだ、いやだ、ずっと一緒に居てよ」
「しのぶ、わがままを言うんじゃありません。お兄さんたちにもお仕事があるのよ」
「じゃ、またいつか来てくれる?」
「えっ・・・」藤井は戸惑って青山を見た。青山も少々当惑した表情を見せた。
「ああ、またいつか会えるよ。きっと、いつか」
「約束だよ。お兄ちゃん」
「ん、分かった、約束だ」
「それじゃ、僕たちこれで失礼します。これからが大変だと思いますけれど頑張ってください」青山が笑顔で岩井やその側にいる人たちに挨拶した。
 岩井を含め周りに人たちは深く頭を垂れ、心から感謝の意を示した。
「青山さん、連絡先でも教えてもらえませんか?いつかお礼に伺いたいと思いますんで」
「いえ、それはですね・・・、ああ、あの近所の青山に聞いてください。知っているはずですから」
「そうですか」
 藤井が複雑な表情で言った。「岩井さん、もしかしたら、すぐに戻ってくるかもしれません。それはよく分かりませんが、その時はまたよろしく」
「は、はい」岩井は藤井の言っている意味が分からなく、戸惑っていた。
「それじゃ、お元気で」
「そちらこそ、お元気で」岩井は割烹着の縁で涙の流れる目を押さえた。青山は数年後この女性が娘の目の回復を待たずに召される事実を知っているだけあって妙に悲しかった。
 藤井は最後にしのぶに向かって言った。「元気でな。目が見えないことでくじけるんじゃないぞ。俺のお守りがきっと守ってくれるから。そして、いつかきっと会いに行くから」
「お兄ちゃんー」しのぶは離れていく藤井に向かって叫んだ。  二人は見送る人たちに手を降り、避難所を去ろうとした。その時、若い夫婦が横を通り過ぎた。藤井はその夫婦を見てはっと思って言った。
「青ちゃん、今通り過ぎた人たち、青ちゃんの御両親じゃないか?男の人、そっくりだったよ」「えっ」青山は振り返り、避難所の人たちに挨拶している男女を見た。
「ほんとだ、親父たちだ。若いなー、無事で良かったよ」
「当たり前だろ、亡くなっていたら今の青ちゃんの存在はどうなるんだ?それよりも、避難所の人たちが俺たちのことを尋ねたら、ややこしくなる、早く行こう」
「ええ、そうですね」
 二人は後ろ髪引かれる思いで走り去った。
「青山さん、御無事でしたか?」岩井は青山夫婦を見つけて言った。
「ええ、旅行に出掛けていたので、体は何ともないんですけど、家が全部流されてね。苦労してここまで帰ってきたのに、どうしようもないですな」青山の父が答えた。 「そうですか。そうそう、今までそちらのご親戚の方がいらっしゃったのに、途中でお会いになりませんでしたか?」 「いいえ、どういう人です?」
「ええ、二十五、六の背の高い、がっしりした体格の男の方で」
「はあ?そんな年頃の男は知りませんけどね。甥っこにもいないはずですけど」
「えっ、そんな、おかしな?でも、青山さんによく似ておいででしたよ」
「???」

 二人は一旦、岩井のアパートに戻り、ここに来た時の服装を持ち出した。水はかなり引いていたがまだ膝の下ぐらいはある。熱田神宮の近くまでひたすら歩き、そこからはバスに乗った。そして、栄に着くとすぐに地下鉄に乗った。駅の構造など今とあまり変わらないが、栄地下などは無く、単に駅という感じだった。電車も黄色い一枚扉の電車で、車両は新しいのだが、二人の記憶上では古く感じられた。
「しかし、藤井さん、本当に今日地震が起こるんですかね。しのぶちゃんが未来のテレビインタビューで答えていましたけど、彼女が言う一週間なんてだいたいのことでしょ」
「だが、昨日まで地震は起こっていない。今日がちょうど一週間目だ。起こるなら今日以降ということになる。だから、何とかなるよ」
「それじゃ、一日中地下鉄に乗ってなきゃいけないんですかね」
「まあ、いつ起こるか分からないからな」
「今日がだめなら、明日も明後日も・・・。でも、よくんば地震が起こったとして、本当に未来に帰れるんですかね?」
「それは俺にも分からん。これは賭だよ。それで、駄目ならあきらめてこの時代から生きていこう。仕方ないさ、それが運命なんだから」
 午前中に地下鉄に乗り、二人はずっと乗りつづけた。栄と名古屋の間を何度も往復し、列車が回送になるときは乗り換えた。車掌や駅員にもなんでずっと乗っているんだと不審がられながらも、二人は乗り続けた。乗ってるほうも辛かった。二人で話すこともなくなり、車両中に掲示されている広告も全て見てしまい、暗闇の中をただ行き交うのみで退屈だった。
 午後十時を過ぎたころ電車はそろそろ終電を迎えそうだった。
「藤井さん、やっぱ今日は駄目みたいだな。あと二、三往復で終わりだよ」
「そうだなん、今日はどこで寝る?ホームレスの人みたいにビルの下で寝るか?でも、夜になるとそろそろ冷えるからな」
「避難所に戻りましょうか?」
「ああ、それも・・・」
 列車は今までと変わらない轟音で地下を走っている。伏見から名古屋に至る時、今日何度目かの堀川の下の轟音を聞いた。それが過ぎ去った時、急に激しい横揺れが起こった。
「ふ、藤井さん、これはもしかして」青山は興奮して言った。
「ああ、こ、これは地震だ」藤井も立ち上がって叫んだ。
 ひどい揺れではなかったが、地下鉄はすぐに急ブレーキを駆け停車した。情況的にはあの時と同じだった。二人は黙したまま身動き一つしなかった。
 車内の電灯が一瞬消えたかと思うと、またすぐに点いた。二人は車内の様子をうかがった。さっきまでの状態と違っている。車両自体は変わってないようだが、一枚扉が両開きの二枚扉になっていた。天井の広告も皆変わっている。入口の上の地下鉄案内図には桜通線まで書かれている最新のものだった。
「藤井さん、俺たち戻れたのか?」
「ああ、そんな気がする」
 だが、完全に戻れたという保障は無かった。自分たちが旅立った日に戻れたのか?それとも、あの日より前か後に戻ったのではないのだろうかという不安はまだあった。
 ブチッという音と共に車内アナウンスが流れた。
———只今、地震が発生し停車しております。運行に支障がなければ発車しますので、しばらくお待ちください。
 地下で止まった地下鉄は静かだ。二人はしばらく待った。すると、電車は動きだし、名古屋に着く直前のカーブを曲がった。車内アナウンスが「名古屋、名古・・・」と告げた。電車は駅に滑り込み、二人は恐る恐る降り立った。
 駅は藤井たちが知っている風景だった。近年工事された綺麗な壁と柱、そして「本陣」と書かれた案内板もある。二人は周りをきょろきょろ見ながら名鉄へ連絡する出口へ向かった。階段にはエスカレーターもあった。二人が階段を上り詰めるとそこは見慣れた自動改札が並んでいた。 二人は三十四年と印刷された古い切符を持っていたので、それで自動改札を通ろうとすると当然、ボードが締まり、ピコピコと音が鳴りだした。二人はそれを飛び越え一目散に走り、地上の出口を目指した。二人が出た出口はちょうど毎日ビルの前だった。地上は夜だった。見える景色は見慣れた夜の町並み、大名古屋ビルヂングもあるし、名鉄ビルにイルミネーションが光っている。JRの名古屋駅は工事中で、路面電車も無く、走っている車もよく知っているものばかりだ。藤井は毎日ビルの新聞掲示板に走り、青山も後に続いた。藤井は新聞を見上げその日付を見た。———平成三年八月XX日。
「青ちゃん」
「藤井さん、俺たち戻れたんだ、あの日に」
「そうだ、あの日に」二人は歓喜して抱き合い飛び回った。
「ひゃっほー・・・」近くを通りかかった通行人がなんて酔っぱらいだというしかめた表情で通り過ぎたが、二人はそんなこともお かまいなしで奇声を上げ喜び回った。

 青山は静かに家に入った。もう真夜中を過ぎていたので家族を起こすわけにはいかない。それに、来ている服も一日のうちになんでそんなによれてしまったんだ、と思われるくらいくたくた になっていたので、見られたくなかったのだ。
 藤井とは名鉄の名古屋駅で別れた。現代に戻った安堵感と何日も野宿のような生活をしていて二人とも疲れ切っていた。
「じゃ、また明日」
「ああ、明日ね」といつもと変わらない挨拶をして各々の電車に乗った。
 駅からはタクシーで帰った。料金を支払う時、現代のお札を使うことができるのがとても嬉しかった。
 二階に上がろうとすると、出会い頭にトイレに行く父親とぶつかった。
「おお、今帰ったのか、遅かったな。飲んできたのか?」
「ああ、そうだよ」
 目の前の父は数時間目に見かけた父とは違っていた。自分のように若々しかった父は年相応に老けていた。台風の惨禍にもめげづ、自分を育て上げ、今のこの地に新しい家を建てた。父親が三十年の歳月を母と共に歩み、今の生活を築き上げたのかと思うと、今までないがしろにしていた親に対する思いがこみ上げてきた。
「親父・・・」青山は声をかけてみた。
「何だ?」
「いや、何でもない。お休み」
「ああ、お休み」
 青山は自分の部屋に行き、着替えてから風呂に入った。何日振りかのまともな風呂だった。避難所では水が大切なので、体を拭いたり、軽い行水ぐらいしかできず、どっぷり湯に浸かるなど夢のようだった。いや、この一週間が夢のような気がしてきた。
———本当に俺と藤井さんは三十年前の、しかも、伊勢湾台風の日に行ったのだろうか?
 タイムスリップという奇妙な体験が現実だったのか、疑問に思えた。単にこの風呂のなかで寝 てしまい夢を見ていただけだったのかも。でも、やはりあれは本当のことだった。背中に紫の痣を見つけたからだ。
 風呂から上がって部屋に戻ると、あることを思いつき、また下に降りた。そして、電話の受話 器を取り、記憶した番号をプッシュした。
———もしもし、渡辺ですけど。
 眠そうな渡辺裕予の声が受話器から聞こえた。彼女の部屋に直接つながる電話だった。
「ああ、俺だけど」
———何よ。何時だと思っているの、こっちは眠っていたのよ。
「いやね、ちょっと声が聞きたくなってね」
———声が聞きたいって、何言ってるのよ。今朝会ったじゃない。あんた、酔ってるわね。もう、いい加減にしてよ。
 渡辺は怒って電話を切ってしまったが、青山は彼女の声が聞けて満足だった。

エピローグ

 九月も終わろうとしているある土曜日、青山は藤井からの電話を受け取った。
「藤井さん、どうしたの?」
「ああ、青ちゃん、今日暇?暇だったら付き合ってくれる?」
「ええ、暇ですけど、どこ行くんです?」
「ちょっとね、迎えに行くから待ってて」
「ええ」
 一時間後、藤井は新車のMR2で現れ、青山を乗せて名古屋の方に向かった。四一号線をその ままずっと南下し、笠寺を越えてから国道二三号に向かい、その手前で曲がった。古い団地や住宅が並び、臨海鉄道の高架がある。小さな空き地のような公園の手前で藤井は車を止めた。周りは普通の住宅と公園の裏側には五階建ての団地、反対側は中学校になっている。
「藤井さん、ここは?」
「行けば分かるよ?」藤井はいつもと違う神妙な顔つきで前に進み、青山も後を追った。
 藤井はその小さな公園に入り立ち止まった。青山は藤井の前にある黒い大きな碑を見て、ここがどこか悟った。
———靴塚。
 伊勢湾台風において、水に浸かった家から流れ出た無数の靴がここに集まったのだ。そして、台風の犠牲者の魂を弔うためここに碑が建てられ、「靴塚」と呼ばれるようになったのだ。
 碑のそばには伊勢湾台風の時、ここまで水に浸かったと言う深さが書かれた棒が建っている。それは青山の背の高さよりずっと上だった。
 ふと気づくと藤井が目を閉じ黙していた。青山もそれに従って静かに目を閉じた。伊勢湾台風の犠牲者を単に弔う気持ちは二人にはない。時空の壁を越え、あの壮絶な台風を体験し、その後の目に余る惨状を目の当たりにした二人にとって、死者への思いは単純なものではない。避難所で死んだものもいた。水が引いた町を歩くと、野ざらしにされた遺体も見つけた。川や海に流れた遺体。それらを直視している二人はおざなりな感情ではなく、心の底から亡くなった者たちへ 鎮魂を願った。
 二人は同時に目を開け背後に人の気配を感じた。そこには十歳くらいの女の子とその母らしき婦人の姿があった。二人は息を呑んだ。目の前の少女に藤井は驚いた。 ———しのぶちゃん。
 まさに、少女はあの時のしのぶに似ていた。だが、それが違うことも二人はすぐに分かった。少女と手をつないでいる婦人が先日地下街でぶつかり、テレビにも出ていた婦人だったからだ。その婦人こそがあの時の少女・しのぶだったのだ。
 婦人はサングラスをしていたが、その動きは盲人の動きではなかった。杖は突かず、娘の手にすがって歩いている。目が見えるのだ。藤井は彼女が網膜手術をするというインタビューを思い出した。彼女はそれに成功し、念願の靴塚を訪れたのだ。
 彼女が見えるのは間違いない。こちらに近づいてくると二人に対し、軽く会釈した。その時、婦人はまだ見えることに慣れていないのか、足がよろめき倒れかけた。それに気づいた藤井は機敏な動作で彼女の前に躍り出て転倒を防いだ。
「すいません」婦人は慌てて言った。
「いえ」その時、藤井の手が婦人の手をつかんだ。その一瞬婦人の顔は何かを思い出したように藤井の顔を見つめた。
 藤井には分かっていた。彼女がこの手の温もりに覚えがあることを。それと共に目の前の青年 の存在が不思議だということも彼女は感じたのだろう。
「大丈夫ですか」と言って藤井は、婦人の態勢を戻してあげた。
 婦人は「あのー」と言いかけたが、藤井は「失礼しますと」その言葉も聞こうとせず歩きだした。青山も我に返り藤井を追った。
「藤井さん、いいのかい、あのまあ放っておいて」
「ん、どうしろって言うんだ。俺があの時の藤井だと言えとでもいうのかい?」
「いや、それは・・・、でも、彼女は、ずっと、藤井さんを・・・」
「三十年も前の男がいきなり彼女の前に現れても、信じられるわけないだろう。俺たちが時の壁を越えたことは誰も理解できないんだ。だから、これでいいんだよ。これで」
「藤井さん・・・」
 藤井は悲しく寂しい顔をした。折角しのぶに再会できたのに名乗ることもできない。でも、藤井は約束を果たした。彼女と再会するという約束を・・・。それだけでも藤井に取っては十分だった。
 そして、彼女も分かってくれるだろう。目が見えなかった時の藤井の記憶はあの手の温もりと声だけだった。その温もりが三十年も隔てているのにかかわらず、ついこの間と同じような感覚と暖かみで巡り合えた。彼女にとり「お兄ちゃん」はいつの時にも現れる守神のような存在だったと。
                                        
 しのぶは藤井の後ろ姿を見送りながらも声が出ず、瞳を涙で潤ませただけだった。母の動揺に気づいた幼い娘が声をかけた。「お母さん、どうかしたの?」
 しのぶは「うーん、何でもないのよ、富士子。ちょっと昔を思い出していただけ、懐かしい思い出を」と言って、嬉しそうに笑った。

 二人は車に戻り家路に向かった。
「藤井さん、俺たちの時の旅は結局、決定型だったのか変動型だったのかどっちだと思う?」
「んー、そうだな。多分、運命決定型だったんじゃないかな。あの子のテレビを見て、地下鉄でぶつかったことが全て最初から決まっていたのかも。俺たちがあの親子を助けることが予め決まっていたから、あの地下の出会いもあったんじゃないかな」
「そうだね。でも、三十年前の出会いが先なのか、地下街での出会いが先なのか、それは難しいことだけど」
「ふっ、そんな複雑な問題は土田にでも答えてもらえばいいさ」
「はっはっはっ」
 車は名古屋高速に乗った。ここから見える景色は、避難所だった見晴台からの景色に等しかった。だが、過去と現在ではその様相は全く違う。それが時の流れ、運命なのかもしれない。

———− 嵐の思い出 完 ———−

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