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ドッペルゲンガーの罠


プロローグ

 霧のような細緻な雨が流れるように舞っている。薄暗い感じの雲が途切れなく広がり、湖面に太陽の光を届かせない。緑がかった湖の水面は小さな細波をたて静かにたたずんでいた。下界はいい天気だったのに山に登れば登るほど天気は徐々に悪化していく。春の訪れは既に下界の街を覆い尽くしていたが、新緑の山々はまだ少し肌寒い。湖の縁を回るように進む国道には疎らに車が通るだけだった。その道を二台のバイクが颯爽と走っていた。バイクのライダーはレイン用の装備をまとい国道のカーブを気持ち良く滑っていく。目前の道路上に虹が見えた。普段雨上がりの町中で見るような大きなそして、高い位置にある虹ではない。まるで道路を跨ぐかのように虹は湖面から伸び、低位置に巨大な架け橋を作っていた。バイクはその虹の下を一瞬のうちに通り過ぎ、バックミラーにその反対側を映し出した。一台のバイクに一瞬だが煙のようなものがたかった。バイクはそのまま山際の洞門をくぐり抜けていった。かたわらに黒と白の法衣をまとい網笠を被った僧侶がいたのも気づかずに。

1  連行

 佐藤寿晃いつものように出勤した。月曜日だ。だが、その日は妙な日だった。それが彼の生涯最大の危機の予兆とはその時は気づくはずもなかった。
 昼食の時間、ゑびす亭で桑原美香が最初に言った。
「佐藤君、昨日なんで一宮なんかにいたの?」
「はあ、一宮?一宮なんかに行ってませんよ」佐藤は不思議そうな顔で答えた。
「変ね。確かに佐藤君だと思ったんだけど。着てたのもいつものオレンジ色したジャケットだったのに。よく似ていたわ」
「ええ、違いますよ、佐藤君、上飯田にいたじゃない」今度は松浦美砂が言いだした。
「上飯田?そんなとこ行きませんよ。おかしいな、昨日はずっと家にいたのに。本当に僕でしたか?」
「そうよ、いつものライダージャケット着ていたじゃない」
「また、ですか。あんなジャケットいくらでもあるかな?」
「似た人がいるんじゃないのか?よく世の中には三人は似た人がいるって言うから」青山真治が言った。
「それとも、ドッペルゲンガーじゃないんですか?」土田道幸が聞き慣れない言葉を言った。
「ドッペルゲンガー?」伊藤賢司が尋ねた。
「なんじゃそりゃ」
「ドッペルゲンガーというのは一種の生霊だよ。人間が死ぬ直前に起こる現象で、いろんなところに同時刻にその人物が現れることです。芥川龍之介の話なんか有名ですけど」
「おいおい、じゃ僕が死ぬってことなのか。縁起でもないな、よしてくれよ」佐藤は引きつった笑いをして、配られたランチを食べた。

 木曜日の午前、その男は部下を連れていきなり入ってきた。
「失礼、中村警察署のものですが・・・」とその男は警察手帳を見せてオフィスのデスクに歩み寄った。今年、入社したばかりの加藤千尋が戸惑いながらも応対しようと席を立ったが、他の者にはお馴染みの人物だったので、加藤では対応ができないだろうと側にいた渡辺裕予が加藤を制して、近づいた。
「筒井警部補さんですね、お久し振りです。何か御用で?」
 筒井警部補は数カ月前にここで起きた「専務殺害事件」の主任担当者であった。したがって、今年入社した新入社員以外の社員はほとんど記憶しており、目の前の渡辺や後方に座る真野たちも知っている顔であった。だが、今日は刑事らしい毅然とした顔で渡辺を見据えた。
「佐藤寿晃さんはいらっしゃいますかね?」筒井は周りを見ながら言った。彼の視界に佐藤の姿は無かった。
 渡辺は一瞬、壁に掛かる行動予定表を覗いた。佐藤は現在客先に行くことが多かったが、今日まだ出掛けていない。彼のデスクにはいないのでたぶん、マシン室なのだろう。渡辺が振り返った時、真野がマシン室の方を指差した。「少々、お待ちください」渡辺は丁寧に言葉を返し、マシン室に入った。
 佐藤は一人、マシン室で端末を操作していた。渡辺は小走りに佐藤に近づき小声で話した。
「佐藤君、佐藤君、筒井警部補が見えているわよ、何かしたの?」
「筒井警部補?ああ、この間の刑事ね。僕に用事なの?でも、警察に呼ばれるような心当たりはないけど、まだ専務のことで何かあるのかな?」佐藤は眉をしかめながら席を立ち、マシン室を出た。
 筒井は佐藤を見つけるとすぐに駆け寄り、言った。「佐藤寿晃さんですね。小出祐二さんを御存知ですか?」
「小出ですか、はい、私の友人ですけど、彼が何か?」
「昨夜ですが小出さんは何者かに襲われ怪我をし、現在入院中です。幸い命には別状ありませんが、かなりの重症です。そのことで、少々佐藤さんにお話を伺いたいと思いまして、御面倒ですが、署まで御同行願えますか?」筒井は丁寧な言葉使いだが、その態度は有無を言わさない力強さがあった。
 佐藤は少々怯えたが、刑事に言われたのではしょうがない。スーツの上着をハンガーから取り、真野に「何か良く分からないんですけど、友達が怪我をしたということなんで、ちょっと行ってきます」と一言言って筒井のところに戻った。筒井の部下が佐藤を取り囲むように彼を包囲し、一行はドアを出ていった。
 刑事たちが立ち去るとフロアーは騒然としだした。真野はすぐさま内線で総務の方に今の状況を説明した。フロアーの者たちは一箇所に集まり、今起こったことを協議し始めた。渡辺史子や前沢などの新人はきょろきょろしているだけだった。
「一体どういうことです。佐藤さんが連れていかれるなんて」まず、伊藤が不安げに言葉を発した。
「筒井刑事が言っていたのは、何か佐藤君の友人が怪我をしたからそのことを聞きたいとか言ってたけど」松浦が答えた。
「でも、それじゃ、おかしくないか?そんなことを聞くのならわざわざ、連れていくことはないだろう」青山の疑問は誰にでも理解できた。
「それはそうだ。あのやり方は完全な連行、つまり佐藤を参考人、もしくは容疑者の扱いかただよな・・・。ん・・・」藤井は腕を組んで、大きな唸り声を上げた。
「容疑者だなんて、そんな馬鹿な、佐藤君が人に怪我を負わすようなことするはずがないじゃない」桑原は嘆きに近い声で言った。
「しかし、連れていかれたのは事実だ。ことの真相がよく分からないが何とかしなければな。まだ、専務の事件も冷めやらない時期だ。また、大きなトラブルになると事だな」青山の意見は誰の脳裏にも浮かんだことだ。
「どうしましょう?」松浦は後を続けた。そのとき、土田が名案を浮かべて言った。
「竹内さんを呼びましょう。それしかありません」

2  アリバイと指紋

 竹内正典はいつものごとく出向先でわけの分からない仕事に勤しんでいた。毎日のようにトラブルが発生し、四苦八苦していたが今日はまだ平穏な時間が無為にながれていて、コーヒーをのんびり飲みながら煙草を吹かす余裕もあった。「専務殺害事件」からもだいぶ月日がたち、心の乱れはかなり回復していた。一時期、鬱病のように精神的失調をきたしていたが今は平時の状態に戻りつつあった。だが、その時の苦杯は今も心の奥深くに残り、亡くした友の幻影が今も時折、脳裏をよぎっている。
 その平穏を打ち破るかのように電話が鳴り、竹内が呼び出された。竹内はすでに嫌な予感を心に浮かべていたが、相手が土田と分かるとそれがより一層大きくなった気がした。
「竹内ですけど」
———あっ、竹内さん、土田です。ちょっと大変な事が起こったんですぐに来てもらえません?
「大変な事って、一体何?」竹内は姿勢を正して聞き入った。
———実は、佐藤さん、寿さんが警察に連れていかれたんだ。
「佐藤さんが、でも何で、何かしたの?」
———それが、僕らもよく分からないだけど、佐藤さんの友人が怪我をしたそうで、そのことが佐藤さんと関わりがありそうなんだ。それで、警察が連行していったからこれはかなり問題だと思って。それに、連行していったのが、あの筒井警部補だからさ。
「筒井警部補?」竹内にとっては嫌な名前だった。もうあの事件の事は思い出したくないのに、筒井という名には忌まわしい物しかなかった。
「筒井警部補か、あまり会いたくない人物だな。というより、警察沙汰はもうな・・・」
———そんなこと言わないでよ。皆の意見が一致して竹内さんに協力を得ようってことになったんだからさ。
「仕方がないな、分かったよ。佐藤さんがトラブッているんじゃ、ほっとけないし、今からそっちに行くよ」
———ありがとう。じゃ、待っているよ。
 竹内はまた事件かと少々渋い顔をしたが、心の方はなぜか高ぶっていた。

 佐藤にとってはまさに青天の霹靂であった。友人が怪我をしたと言われただけで、筒井に連れだされれ、パトカーに乗ったかと思ったら、すぐに署の取調室にぶち込まれた。以前の「専務殺害事件」においてもすくなからず嫌疑を受けていた佐藤だが、今回は完全なホシとして連行されたのだ。佐藤にとって筒井警部補は招かれざる客であったが、今は自分が駕籠の鳥にされてしまっていた。 「佐藤さん、小出祐二さんとはお友達ですね」刑事が佐藤に尋問した。筒井はデスクから離れたところに足を組んで座り、じっとこちらを観察している。狭い取調室はまさに刑事ドラマにでてきそうな場所で、テーブルと椅子、それにポットとコップしかない。照明だけは明るく、暗く陰湿な感じがしないのだけは救いだった。
「小出とは高校時代からの友人です。彼、怪我をしたそうですが大丈夫なんですか」
「大丈夫!ふざけるのもいい加減にしろ!お前が怪我を負わせておいて、何ていう言いぐさだ」刑事は調書をデスクに叩きつけ怒鳴った。
「ちょ、ちょっと待ってください。なぜ、僕が彼を怪我させなきゃいけないんです。そんなことするわけないじゃないですか」佐藤も負けじと大きな声で言い返した。
「何で、小出さんを襲ったのかききたいのはこっちだ!言い争いの果てか、それとも何か恨みでもあったのか」
「だから、僕は小出とは会っていないっていっているでしょ。先々週会ったきり電話もしていませんよ。どうして、僕が彼を襲ったと言うんですか?」
「小出さんがそう証言したからだよ」
「小出が?そんな馬鹿な」
「何が馬鹿だ!意識を取り戻した被害者に尋ねたら『佐藤寿晃に襲われた』とハッキリ言ったんだ。小出さんの友人で佐藤と言えばお前しかいないだろ。それに、その以前会った時に、小出さんと口論したそうじゃないか、それが原因で今回の事を起こしたんじゃないのか?」
「確かに喧嘩はしましたが、些細なことでいつまでも根に持ってなんかいませんよ。それにですね、私は昨日その時間にはあるところにいたんですよ」
「それはどこだ?」
「今の仕事で出掛けたところですよ。ヤマホという包装パックの会社です。昨日は十一時ごろまでそこにいました。相手先の方たちも二人見えたのできいてみてください。住所と電話はこれですから」佐藤は懐から名刺入れを取り出し、仕事先の名刺を手渡した。刑事はそれを受け取り部屋を出ていったが、それと入れ代わりに別の刑事が入ってきて、筒井に何かの用紙を渡した。
 筒井はそれをじっくり見てから立ち上がり佐藤の前まで来た。
「佐藤さん、さっき指紋を取らせてもらいましたが、小出氏の衣服に付着した血痕に残っていた犯人の指紋の痕が、あなたのと一致しました。これは決定的な証拠です。それでもしらをきりますか?」筒井は穏やかにそして威厳をこめて言った。
「そ、そんな馬鹿な・・・・・・」佐藤には全く持って信じられないことだった。

 竹内は中村警察署を訪れようとしていた。一度会社の方に戻り事情をきいたが、彼らにも事の真相は明確に把握できていず、直接筒井に会った方がいいとここまで来たのだ。とは言うものの、ここを訪ねるのは正直言って遠慮したかった。まだ、あの事件から数カ月しか経っていない。癒しかけた心の病も治りかけたばかりなので、それをぶり返すような出会いはなるべく避けたかったが、この緊急事態ではやむを得ない。
 玄関をくぐり、受付で筒井警部補を呼び出してもらった。しばらくすると、通路の奥から背の高いスマートな男が現れた。髪を短く刈った端正な顔だちの好男子だ。事件の捜査のため多少の疲れを顔ににじませ、眠たそうな顔で竹内を見据えた。
「どなたかと思ったら、竹内さんじゃないですか?」筒井警部補は少しだけ眉をしかめ唇を微笑ませた。
「どうも。お久し振りです。その節はいろいろ御迷惑をおかけしました。それにお忙しいところ申し訳ありません」竹内は少し退いて挨拶した。
「いえいえ、それで私に何の・・・ああ、そうですか。お宅の会社の方のことですね」
「ええ、そうです。佐藤のことですけど、一体どういう事なのですか?」
「んー、まだ発表できる段階じゃないんですけど、まあ竹内さんにはお話ししますか。まっ、こちらへ」筒井は竹内を刑事課の部屋に導き、ガラスで仕切られた応接椅子のあるところへ案内し、椅子に座らせた。
「昨日の夜、十時頃、岩塚に住む小出という二十五歳の青年が路上に倒れていんです。通行人がそれを発見してすぐに一一九番され、病院に運び込まれましたが、全身を殴られて重症でした。
幸い命には別状ありませんでしたが、一ヵ月は身動きできないでしょう。で、何とか意識の方はすぐに回復し話をきくことができたんです。被害者の証言によりますと友人にやられたと言っていましてね」
「それが、佐藤なのですか?」
「そうです、害者は佐藤に襲われたと言ってましたんで、その佐藤という人物を洗ったところ、お宅の人と分かったんですよ。まあ、名前が判明した時、見覚えのある名前だったんで私の方が驚きましたけどね。また、あの会社かと」筒井はじっと竹内を睨み付けた。
「それで、佐藤は犯行を実行したと言ったんですか?」
「いや、否定していますよ。その時間は仕事先にいたとかで」
「そうです。僕も会社の人間にきいてきましたが、佐藤は今、あるとこの仕事で忙しく、毎日のように徹夜続きだそうです。昨日もその仕事先、確か『ヤマホ』かいうところに行っていたはずですが」
「そうそう、本人もそう言っていましたよ。だから、今その裏を取っているところです。しかしですね、完全な物的証拠があるんですよ」筒井はニヤリと笑った。 「証拠?何ですかそれは」
「それはですね、被害者の衣服に付着した害者の血に指紋が残っていたんです。それが佐藤さんのと一致したんですよ。これ以上の証拠はありません」筒井は自信に満ちた顔をした。
 その時、筒井の部下らしき刑事が入ってきて筒井に耳打ちした。筒井の顔の表情は急激に悩ましげな顔になった。竹内はその刑事が去ったあと考え込む筒井に尋ねた。 「どうかしましたか、筒井警部補」
「んー・・・、・・・っ、さっき竹内さんが仰ったヤマホという会社へ行った刑事から連絡があり、佐藤さんが昨夜十一時まで仕事をしていたとう証言が取れたんですよ。うん、分からんな、じゃあ、小出氏を襲ったのは誰なんだ。指紋は残っているのに・・・」筒井は腕組みして苦渋の顔をした。
「じゃ、佐藤さんは釈放してもらえるのですか?」
「そ、そうですな・・・んー、すいませんが引き取ってもらえますか、佐藤さんのことはもう少し取り調べをしますから」筒井は急に改まって竹内を急かせた。
 竹内は仕方なく中村署を出て、会社に戻ることにした。
                 

3 僧侶

 竹内は会社に戻り、事の次第を皆に伝えた。会社はすでに就業時間を過ぎていたが、新入社員以外はほとんどまだ残り、竹内の帰りを待っていた。
「それじゃ、佐藤君は釈放されるわけ?」真野が尋ねた。
「と、思いますけどね。アリバイがハッキリしている以上は」
「でも、指紋が残っていたんでしょ、それは現場にいたという証拠にはならないの」と桑原が問いただした。
「そこがよく分からないんですよ」
「となると、共犯でもいたのかな」伊藤がきいた。
「それはないと思うよ。指紋と本人のアリバイだろ、他人にはできっこないよ。佐藤さんのそっくりさんがいてヤマホに行ったなんて到底思えないし、第一佐藤さんがそんな犯罪を犯すわけがないよ」
「まあ、ひとまず、何とかなるだろう。佐藤からの連絡を待って、今日は帰ろう」と藤井が話をしめた。
 その時、唐突に入口の扉が開き、白と黒の法衣をまとい手に網笠を持った男が入ってきた。男はまだ若く、二十歳そこそこの感じだ。その若さと着ている着物のギャップが大きく、それ以上に突然の異様な訪問者に誰もが唖然とした。
 気を取り直した渡辺がすぐに動き、男の前に恐る恐る近寄った。「何か御用ですか?」
男はニヤッと笑って「あんたさん、綺麗な人でんな、ちょっと、電話番号教えてくれまっか」
 いきなりの大阪弁にも驚いたが、その内容にも度胆を抜かれた。坊主がナンパをしているからだ。
 渡辺も返す言葉がなく「えっ・・・、あの・・・、その」と詰まっていた。
 青山が見かねてその男の前に立ちはだかった。「申し訳ないですが、そういう宗教の勧誘はお断りしているんですけど、それに今立て込んでいて・・・」
「あっ、こりゃ失礼しました。私はそんなつもりで来たんではないんで。あの、一階に置いてあるオートバイはどなたさんのですか、赤いやつですが」
「それは僕のですけど」土田が声を上げその男に近づいた。男はじっと土田を見つめた。その目は恐ろしいほどの眼光が走ったかのように何でも貫くように見えた。
「ちゃいまんな。あんたさんではないわ。でも、あんたさん、この間の土曜日、御母衣ダムにいなさったろ」
「ええ、そうですが、それが」
「その時、もう一台バイクが走ってましたな。その方はここにおられまっか?」
「いいえ、今はいませんが・・・?」
「そうでっか・・・」
「ところで、あなたはどういう方ですか。僧侶だとは思いますが・・・?」藤井が間に割って言った。
「ああ、これは申し遅れました。私、宮崎という修行僧です。行脚の途中でここまで来たんですが・・・」
「ちょっと、待った」竹内が宮崎の言葉を制し立ち上がった。「あなた、一体どうやってこのビルの中に入ったんです?もう七時を過ぎているんで、このビルには簡単に入れないはずなんですけどね」そう竹内が質問すると皆もそのことに気づき不審がった。このビルは七時を過ぎると正面の自動ドアは施錠され、裏口のドアからしか入室できない。しかもビルに入る時は特別のカードがいるのだ。誰か他の人が出入りした時に、続いていくこともできるが服装が服装だ、怪しまれるのが必至のはずだ。 「ははは、そのことでっか。私は僧侶でもただの僧侶じゃおまへん。それなりの特別の力を持っておるんです。霊力といいますか、簡単に言えば超能力でっかな。ほな、ちょっとばかし見せましょか?」
 宮崎はそう言うと、目を閉じ小声で呪文のような経を唱え、「カッー」と右手を上げた。すると、その手の先にいた松浦のスカートがめくれ上がった。「キャッー」と言って松浦はスカートを押さえると、宮崎はヘラヘラと満足げに笑った。だが、松浦はずかずかと宮崎に歩み寄り、「バシッ」と平手を宮崎の頬にお見舞いした。宮崎は少しよろめいて「何すんでっか」と涙目で訴えた。
 一同は宮崎の力に一応は驚いたものの、松浦の鉄拳をよけれない鈍感さに何なんだという疑念も湧いていた。
「それで、一体なんの用なんですか?佐藤のことをお尋ねのようですが?」桑原がたまらず尋ねた。
 宮崎は殴られた左頬を両手で覆いながら答えた。「いつつつ・・・、今週の土曜日、私は御母衣ダムの近くを行脚しとったんですが、その時大きな低い綺麗な虹が道路上にかかっとったんです」
「ああ、その通りです。僕と佐藤さん、この間の土曜、白水湖へ行ったんです」土田が、その時の事を話しだした。

4  虹の伝説

 佐藤と土田は土曜日ツーリングに出掛けていた。佐藤は今の仕事が忙しかったが、気晴らしにと土田を誘って以前に行ったことのある白山方面に出掛けたのだ。二人は木曽川を超え岐阜市から国道一五六号線、通称・飛騨街道に入った。関、美濃を過ぎると長良川沿いの谷間を進んでいく。国道と平行して旧国鉄の民営化路線、長良川鉄道が通っており、国道・川・鉄道が交差しながら美しい山々の間を縫っていく。徹夜踊りで有名な郡上八幡を通過し白鳥辺りで鉄道は終点を向かえ、川も急激に細くなり、道路からは離れる。急勾配の曲がりくねった道を登るとひるがの高原に到着する。冬はスキー、夏はキャンプやテニスなどレジャーに富んだ高原である。ちなみに、ここには日本海と太平洋に水が別れる分水嶺がある。二人もここで休憩して先を急いだ。
 白樺の林を突き進むと牧戸というところで、高山に向かう一五八号線、白川街道とぶつかる。一五六はそのまま白川街道となり、御母衣ダムに到る。御母衣ダムは世界有数のロックフィル式ダムで大きさは諏訪湖ほどある巨大な人造湖だ。
 ひるがの高原辺りまではまだ曇っていたが、この付近に来ると空からは霧のような小雨が舞い降りていた。その影響で大きな、しかも、低い位置に虹が掛かっていたのだ。二人はこの珍しい虹に見とれ、虹をバックにバイクをかっ飛ばす写真も交互に撮影した。少し肌寒い感じだったがこの神秘的な風景を心に刻んだ。
 御母衣ダム展示室でもう一度休憩し、最終目的地へ向かった。石と粘土で作られた巨大なダムをバックミラー越しに見ながらバイクは一気に下った。このまま行けば合掌作りで有名な白川の里に行き着けるが、バイクは平瀬の集落の手前で白川街道と別れた。大白川という庄川の支流の一つ沿いにバイクは進んだ。道は徐々に狭くなり、川は渓谷の模様を示しだす。車一台通れるのがやっとというガードレールもない急峻な坂道をバイクはゆっくり進んだ。そして、その道の終点が白山の登山口でもある白水湖だ。白山は岐阜、富山、石川、福井にまたがる霊山で泰澄大師匠が開山したと伝えられる白山神社二七六〇余りの総本宮だ。白水湖は大白川ダムであり、標高一二三〇メートルの日本一高いところにある。硫黄分を含んだ湖水はエメラルド思わせる神秘的な色合いで、そこから流れ落ちる水は天下の三大名瀑の一つである白水の滝に流れ込む。白水湖の近くには温泉の源泉があり、ここの湖にも小さな露天風呂があった。佐藤たちの目的はこれであった。
 登山口の入口にほったて小屋の休憩所がある。登山客の休憩はもちろん、白水湖を訪ねる観光客の休息にも利用される。露天風呂の入浴料もここで払うことになっており、佐藤たちも早速料金を払って温泉に入った。脱衣所はあるものの温泉自体はほとんど囲いらしきものがなく、休憩所の反対側に回れば温泉は丸見えだ。小雨の降るなか二人は素っ裸になり温泉に入った。他には入浴客もなく二人で独占だった。温泉の中は暖かいが一度外に出ると寒さで凍える状態であったが、二人はここを楽しんだ。
 休憩所で一服したあと、もと来た道を戻り名古屋に帰った。それが今週の土曜日の出来事だった。

 土田は一通り話を終えて言った。「だから、虹は御母衣ダムの所で見ましたけど」
「私もその場におったんですわ。あんたさんがたのバイクを私も見とります。それで、その時の虹が問題なんですわ」宮崎は真剣な顔をして言った。
「問題って何がです?」
「あの地方、白山の麓には虹の伝説つう言い伝えがあるんですわ。『雲暗き氷雨越し、低き虹のもと通らざるべし、従わざるもの呪われし』という」
「意味はなんだい」竹内が尋ねた。
「つまりですな、虹の出た日はその下を潜ってはいけない。もし潜ると災いがあるってことでんがな」
「わ、災いって」土田が恐る恐るきいた。
「『写魂鬼』が取り憑くんですわ」
「写魂鬼!なんだそれは?」
「写魂鬼というのはでんな、一種の邪霊なんですわ。そいつは人間に取り憑きその人物をそのまま複写する、つまりコピーするわけです。容姿から体つき、その時の服装、それに性格までそっくりにです。そして、勝手に暴れまくるという厄介な霊ですねん」
「まるで、クローン人間みたいだな」青山がつぶやいた。
「そうでんな。現代の科学でいえばそうなりますかいな。ただ、写魂鬼は人間の持つ悪い心を増大させ、その元の人物が好ましく思ってへん人間を襲う傾向があるんですねん」
「じゃ、それって、佐藤君の立場にピッタリ合わない?現に彼の友人が佐藤君に襲われているんですもの」渡辺が言ったことは誰の心にも浮かんだことだった。
「何ですって、もうそういった事件が起きてんでっか!」宮崎はシマッタという表情で言った。「そのもう一人荘川にいたバイクの人が写魂鬼に取り憑かれたんですな。で、その人は今どこでっか?」
「実は警察にいるんですよ。佐藤さんの友人が何者かに襲われ重体なんで、そのことでね。それで、佐藤さんに嫌疑が掛かっていて、今は取り調べの最中なんだよ。しかも、佐藤さん自身には犯行時に確かなアリバイがあるのに、被害者は佐藤さんがやったと言い張っているんだ」竹内がこれまでの経緯を簡単に説明した。
「そうでっか、ちょっと遅かったんでんな。とにかく、写魂鬼をほっておくとろくなことはありまへん。私が何とかしますさかい、その佐藤さんと連絡が取れましたら、私にも知らせください」と言って、宮崎は自分のいる寺の住所と電話番号を手渡した。ついでに、「暇でしたら、いつでも電話ください」と余計なことを女性陣に言い加えた。
「ほな、失礼します」と宮崎は頬を押さえながら出ていき、「クワバラ、クワバラ」と言い残していった。
 桑原は自分のことを言われているのかと思ってムッとした。

5  逃亡者

 松木敏史は家に戻るため暗い家路を歩いていた。その時、突然目の前に人影が現れ、松木は立ち止まった。街灯に照らしだされた顔を眺め、「何だ、お前か驚かすなよ。でも、何でこんなところにいるんだ?」と尋ねた。しかし、その瞬間その相手の人物はいきなり殴りかかった。松木は「おい、や、やめろ」と怒鳴ったがその人物は闇雲に殴りかかり、松木は抵抗らしき抵抗ができずその場に倒れた。「さ、佐藤・・・、なんでこんなことすんだよ・・・」

 佐藤寿晃は釈放された。小出が襲われた時間のアリバイがハッキリしたからだ。しかし、警察側は納得はしていなかった。現場に残された指紋が佐藤のと一致する以上、何らかの工作があるものと考えていたからだ。だが、佐藤に取ってみれば全く身に覚えがないことなのだ。現場に指紋が残っていようと、自分は決して小出を襲っていないと確信しているからだ。しかし、現実の小出は大怪我をしている。このことはどう説明したらいいのか、皆目見当もつかない。  佐藤は会社には戻らず、このまま家に帰ることにした。名古屋から地下鉄に乗り、伏見で乗り換えて、素直にそのまま帰路に付いた。川名の駅に着き、地上に出るとホッとした気持ちがこみ上げてきた。警察から連絡があったのか家に着くと早速母親が矢継ぎ早に質問してきたが、疲れ切って何も答える気がなかった。風呂にも入らずそのまま布団にもぐり込みすぐに寝入ってしまった。何時だろうか?夜中にふと目を覚ますと急に空腹感を覚えた。そういえば連行されたから何も食べていない。家族の者を起こすのもしのびないので、静かに玄関を出て、近くのコンビニに行った。
 コンビニを出て、家に戻ろうとした時、赤い回転灯の影が暗闇の中に瞬いているのが見えた。佐藤は何か嫌な予感を感じ、咄嗟に走って家の方に突き進んだ。自宅に向かう路地を曲がろうとしたとき、自分の家の前にパトカーが止まっているのに気づいた。佐藤はますます、嫌な感じを増長させた。背後に車が迫ってきた。それは普通の車だが、中には中村警察署で取り調べを受けた刑事が乗っていた。それに気づいた佐藤はこのままではまずいと思い、後ずさりしながら走り始めると、覆面パトカーから刑事が飛びだし佐藤を追いはじめた。もう一本向こう側の路地を曲がり、駐車場に止めてあるバイクに飛び乗った。ヘルメットはないものの、鍵は保持していたので、そのままエンジンを掛け、後輪をスピンさせながらバイクを反転させ、発進した。駐車場の出口には二人の男が立ちはだかっていたが、そんなこともお構いなく佐藤はフルスロットルで二人を突破し、道路に飛びだした。
 自分が何をしているのか、佐藤にも全く理解できない状態だった。今の状況を冷静に考えれば自分は不利な手段に出ていると思われた。だが、今の佐藤には逃げることしか脳裏になかった。パトカーのサイレンが聞こえた。佐藤はとにかく、この場から離れようと必死にバイクを走らせた。

 伊藤は朝から不安だった。朝、いつものように起きて「ズームイン朝」を見ていると名古屋からのニュースで路上を歩いていた人が何者かに襲われたというレポートがあったからだ。犯人はまだ不明で通り魔の可能性もあるということだったが、伊藤は被害者の名前をきいておやと思った。
———どっかできいた名だな?
 その意味を思い出した時、伊藤は急いで会社に向かった。

 社内には緊迫した空気が流れていた。誰の表情も堅く、重苦しい雰囲気だ。
 筒井警部補は言った。威厳を込めた口調で。「よろしいですか、佐藤氏から連絡があった場合すぐに警察の方にも連絡するよう、よろしくお願いします」そう言うと筒井は部下を伴って事務所を出た。
 伊藤の不安は的中した。テレビで知った傷害事件の被害者の名「松木敏史」は記憶にある名だった。昨年伊藤と土田は佐藤の誘いで、三重県鈴鹿市にある鈴鹿サーキットの「八時間耐久レース」へ出掛けた。通称八耐、バイクレースにおける最高峰でレーサーはもちろん、バイク好きの人種には堪らない夏の大イベントなのだ。七月下旬の梅雨の明けた真夏に行われ、選手も耐久だが、見るほうも耐久という過酷なレースなのだ。佐藤はバイクに乗るようになってから毎年八耐を見に来ていた。そして、今年は後輩の伊藤と土田も誘い、テントでキャンピングして三日間をエンジョイした。そこには佐藤の友人である松木も来ていた。だから、伊藤は「松木」という名に覚えがあったのだ。伊藤は会社に出社してすぐに土田のとこに行き、松木の確認を取った。土田もそのことには驚き、佐藤に対する危惧を募らせた。すぐに佐藤の家へ連絡を入れたが、佐藤の居所は家族にも分からず、その後すぐに警察が会社に現れたのだ。
 筒井は佐藤の所在を問いただしたが、むろん誰も知らない。事件の内容についてはあまり言及しなかったが、すでに昨夜の事件のことは報道されているため、皆事件の展開に戸惑うばかりだった。
 筒井が帰った直後電話が鳴った。電話を取った加藤は震える声で言った。「あの・・・、佐藤さんからお電話です」
 すぐに土田が電話を替わった。「佐藤さん、今どこにいるんです?何があったんですか?筒井警部補が今来たばっかですよ」
———それが、俺にもよく分からないだよ。夜中にコンビニに行って戻ろうとしたら、家の前にパトカーがいたんで、あとはもう逃げだしちゃったんだよ。
「じゃ、松木さんのことは知らないんですか?」
———−松木って、まさか、松木が何か事件に関係あるのか?
「そうですよ。昨夜、何者かに襲われて怪我をしたそうです。だから、警察が佐藤さんを・・・」
———でも、俺は昨日警察を出てから真っ直ぐ家に向かってどこにも行っていないんだけどな。
「じゃ、なんで逃げたりしたんですか?事実を正直に話せば・・・、不利になるだけですよ」
———けど、俺だって何が何だか分からないんだから。小出の件だって、さっぱりなのに。
 佐藤は少し苛立ちげに怒鳴った。
「佐藤さん、そのことなんですけど、昨日変な坊主が来てですね、佐藤さんが何かに取り憑かれたと言っているんですよ」
———取り憑かれた?でも、俺は至って普通だけど、それとも無意識に俺が何かをしているって言うことなのか?いや、アリバイはあるんだから・・・。
「坊主が言っていることがよく分からないんですけど、この間の土曜日、白水湖に行きましたよね。その時、御母衣ダムで虹を見たでしょ。あれなんですけど、あの時、何かが佐藤さんに取り憑き、佐藤さんをコピーしたそうなんです」
———コピー?ますます分からないな?
「とにかくですね。その坊主に引き合わせますから、今どこなんですか?」
———今は鶴舞公園の中だよ。昨日はあちこち走って結局ここに逃げ込んだのさ。
「分かりました。一時間後に公園の中にある植物園で落ち合いましょう」
———いいけど、土田君やその坊主だけでは何か不安だな。
「ええ、もちろん、竹内さんも呼びますから」
———それなら安心だ。
「そりゃないでしょう・・・」土田は不満げに答えた。

 土田は竹内と宮崎に連絡を取った。昨日宮崎から受け取った連絡先は彼のいる寺だった。住職らしき年をとった人物が電話口に出て、宮崎に替わってくれた。宮崎は「すぐに行きまっさ」と明るい声で言った。

 鶴舞公園は名古屋の中央に位置する、都会の中の緑地で春の桜の時期には一気に賑わう。公会堂や勤労会館も敷地内にあり、数々のイベントが執り行われるし、図書館やグランド、ベビーゴルフもあり、いろんな意味で市民の憩いの場になっている。緑化センターもその中の一つで温室で熱帯の植物を展示しているほか、菜園や植林に関しての相談にも乗ってくれる施設だ。
 伊藤と土田は社用車のプリメーラに乗って公園まで来た。勤労会館の駐車場に車を止め、公園内を横切っていると、出向先から駆けつけた竹内にあった。
「あっ、竹内さん、今来たところ?」土田が声を掛けた。
「おう、いいところであった。佐藤さんは・・・?」
「まだ会ってないよ。たぶん、中だろう」
 三人は緑化センターに入った。平日の昼間なので誰もいない。三人はセンター内をうろつき小声で「佐藤さーん」と呼びかけた。すると温室の片隅から佐藤は現れた。
「佐藤さん、大丈夫ですか」竹内がきいた。佐藤は着の身着のまま逃亡したのでラフな姿だった。あまり、眠っていないのだろう、隈ができた目の下が疲労に伴って強調されている。
「大丈夫とは言いがたいな。一体全体どうなっているのか?もう無茶苦茶だよ」佐藤は溜め息を付きながら嘆いた。
「佐藤さん、宮崎・・・坊さんはまだですか?」
「ん、坊さん?見てない・・・ああ、そういえば外を袈裟着た男が歩いていたっけ、女子高生と話をしていたけど」
「女子高生・・・?伊藤ちょっと見てきてくれ」竹内が頼んだ。
「ああ、分かった」伊藤は外に出て、周りをうろうろし近くにある売店で若い女の子たちと笑いあっている坊主を見つけた。
「宮崎さん、ここにいたんですか?もう皆、揃っていますよ。早くしてください」
「おや、もう来なさったんですか。もうちょいレイちゃんたちとお話したかったんでっけど・・・しょうがおまへんな。じゃねー、レイちゃん今度電話してねー」と女子高生笑顔で手を振り立ち上がった。この袈裟を着たナンパ男にさすがの伊藤も呆れた。
「連れてきたよ」伊藤はつっけんどに言って、宮崎を佐藤に紹介した。
「あんたさんが佐藤さんでっか?確かに写魂鬼に憑かれた痕跡がありまんな」宮崎は今までとは違う真剣な眼差しで佐藤の顔を見つめた
「シャコンキって何だ・・・?」佐藤は尋ねたので、土田が今までの経緯を説明した。
「じゃ、その写魂鬼って奴が俺と全く同じ姿で暴れまくっているということなのか?」
「そうです。写魂鬼は取り憑いた人間と全く同じ姿、性格、癖と記憶を持ちます。外見も内面も全く瓜ふたつです。ただ、違うのは心ですわ。写魂鬼は元の人間の邪悪な心を肥大させてます。
その人が持つ、妬み、憎悪、虚栄心、奢りなど、人間として卑しい、負の感情を好いて、それを何十倍にも増幅させて、その邪心を成就させようとするんですわ」
 「じゃ、何だ、俺が憎んでいる人物をそいつが代わりに征伐するというのか?」
「そうでんな」
「しかし、小出や松木にしても殺したいほど憎んじゃいないぜ、確かにちょっと前に喧嘩みたいなのをしたけど、そんなのただの痴話喧嘩で、仕返しするほど根に持ってなんかいないよ」
「でっから、写魂鬼はそんな些細なごく小さな思いでも、それを大きくさせてしまうんですねん。まあ、本来は雲夢界があるんで邪心は消えてしまいまんがね、まだ時期が来てなかったんでっしゃろ」
「雲夢界?何だそれは?」土田が尋ねた。
「まあ、凡人の方には分からん世界ですわ」と宮崎は説明した。
「んー、何かよく分からんけど。まあとにかく、恐ろしい、奴だな・・・」伊藤がつぶやいた。
「最近、佐藤さんと喧嘩してなくてよかったよ。ちょっとでも恨まれていたら、俺のところにもやって来たかもしれないんだよな」
「そうだよな・・・」今度は土田が言った。「あっ、もしかするとこの間、松浦さんや桑原さんが見たというのもその写魂鬼だったかもしれない」
「写魂鬼はその人の記憶を全て持ち合わせていまっから、どの人間を襲おうかと模索していたかもしれまへん。でっから、佐藤はんの知り合いの所にはすべて現れているかも知れまへんな」
「じゃ、俺たちのところにも本当は現れていて、単に気づかなかっただけかもしれないな」竹内が震えるように言った。
「佐藤さん、最近他に喧嘩した人はいませんか。こんな状況だとまだ誰かが狙われるかもしれませんよ」土田があらためてききだした。
「・・・そうだな、・・・どうだろう。・・・あっ、そういえば」
「何か思い当たることがありましたか?」
「ああ、この間、ちょっと彼女とね・・・」
「彼女って、まさか・・・」
「そうだよ・・・」

6  狙われた女

 中田ひとみはその日家にいた。今日は第三金曜日なので図書館に勤める彼女は休みだった。ただ、本来第三金曜日は図書館の整理日に当たるため出勤しなければいけないのだが、彼女は次の日曜日に出勤しなければならなかった。同僚が急用のため日曜に休まなければいけなくなり、中田がその同僚と休日を交換したのだ。よって、今日が休日となり、家にいることになった。ただその休日の交換で思わぬ弊害が出来てしまったのは彼女にとっても心苦しかった。
 日曜日、中田は友人である佐藤寿晃と出掛ける、つまりデートの約束があったのだが、そのことをつい忘れて同僚との休日交換をしてしまったのだ。あとから佐藤の事を思い出し、日曜日が駄目になったことを詫びたが、佐藤にとっては先約だったのにキャンセルさせられたのが、少々面白くなかった。かと言って佐藤もそれほど物事にこだわる人間でもないのでそんなに気にはせず、承諾してくれたのだが、中田にとっても気まずさは拭えなかった。
 佐藤と中田の出会いは互いの友人が夫婦という知人の紹介で対面したのが始まりだった。初めて出会った時から、すぐにも意気投合し休みの度に出掛けるようになった。佐藤はバイクやスキーなどのアウトドア派でトリオでもその活動は活発であった。一方は中田のほうは静かでおとなしいタイプ、つまり、佐藤とは対称的な性格であっが、彼女が佐藤に出会ってからは彼の勧めるままに外に飛びだすようになり、いつしか佐藤に染まってしまっていた。中田の友人も彼女の豹変振りに驚きを隠せず、人間、恋愛でどうにでも変わるものなのだと実感させられていた。今では互いの家族同士も公認の関係で将来的な展望もほぼ決まっている状態であった。
 その日、中田は自分の部屋で今度図書館で行う児童向けのお話をまとめていた。すると、彼女の母親が呼びにやって来た。
「ひとみ、佐藤さんがいらっしゃっているわよ」
「佐藤さん、あら、おかしいわね、今日はお仕事のはずなのに?」中田は小首を傾げながら下に降りていった。
 玄関にはいつもバイクに乗るときのオレンジのジャケットを来た佐藤が突っ立ていた。
「佐藤さん、どうなされたんです?今日はお仕事では?」
「いやね、日曜日の事が駄目になったでしょ。だから、今日は有休にしたんだ」佐藤は中田の顔を見据えて単調な言葉を発した。
「そうなんですか、それはわざわざすいませんね。でも、急ですね。前もってそう言ってくれれば」
「ん、何となく急に思い立ってね。ひとみさんも今日は暇なんでしょ、だったら、ちょっと付き合ってよ」
「ええ、いいですけど。でも、今日はオートバイなんでしょ、その恰好からすると」
「いや、バイクじゃないよ。バイクはここに来る途中で点検に出しちゃったから。悪いけど君の車で出掛けないか?」
「はい、いいですよ。支度してきますから、ちょっと待っててください」
 中田は出掛ける支度をするために、二階に上った。今日の佐藤はどうも変だ。どこが変と言われてもよく分からないのだが、いつもの佐藤とはどことなく違う。まだ、先日の事を起こっているのかなと、その場はそう思い込むことに彼女はした。

「もしもし、佐藤ですけど、今日は」
———あら、佐藤さん、どうかされました?
「いえ、ひとみさん、いらっしゃいますか?」
———はあ?、何仰るんです、ご冗談を・・・、今佐藤さんが見えて、ひとみの車で出掛けたんじゃありませんか。
「えっ、ぼ、僕がですか?・・・・・・あの、僕、どんな服装でしたか?」
———はあ・・・?ふ、服装って、いつもオートバイに乗るときのオレンジ色のジャンバーじゃないですか?あの・・・、どうかされました?
「いえ、いいんです。すいません」  佐藤は公衆電話の受話器を置いてその場で震えた。それに気づいた竹内が近寄ってきた。
「佐藤さん、どうかしました?」
「た、大変だ。すでに奴は彼女を連れ去っていたよ」
「えっ、中田さんをですか?」土田が驚いて言い、伊藤に視線を向けた。二人とも彼女の事は知っていた。二人が鈴鹿サーキットへ行った時や、オフロードバイクの耐久レース、エンデューロに参加した時にも彼女が佐藤に付いてきていたからだ。
「しかし、そんな些細な感情でも写魂鬼は狙うのか?」竹内が宮崎に問いただした。
「そうです。さっきから言うてますように、奴はちょっとした反感でもそれを増幅させます。特に、元の人間が親しくしていた人物ほど好んで襲うんです。写魂鬼にとって写し取った人物が苦しむのが最高の楽しみなんですわ」
「苦しみが楽しみなんてとんでもない奴だな」伊藤が苦々しく言った。
「宮崎さん、そうなると、僕に取っての最大の苦しみとは・・・、もしかして」佐藤が宮崎に向き直り、深刻な表情をした。
「そうでんな、今までみたいに怪我だけじゃすまんかもしれまへんな」
「そんな・・・、何とかして彼女を探さなければ・・・。どうすればいいんです」
「んー、わての出番でっしゃろな。まあ、まかせなさい」宮崎は自信満々の面持ちで立ち上がった。
「どうするんだ?」竹内が尋ねた。
「写魂鬼は微弱ながらその霊波は出しています。そこで私がその霊波をキャッチして奴の所在を見つけてみます。ただ、なるべく奴に近づかなければあかんので、その女性の家の方にすぐにでも向かって下さいな」
「よっしゃあ、俺たち車で来たからすぐに行こう」伊藤が声を掛けると皆真剣な眼差しで立ち上がった。
「ちょっと待ってください。私は協力を惜しみませんが、一つだけお願いがあります。むろん、お金なんかはいりません。仏に仕える身ですから、そのかわり、可愛い女の子を紹介してくださりまっせ、それだけが条件です」
「はあ、はあ・・・」と四人はなんじゃこいつはという思いで自然とうなずいていた。

「佐藤さん、どこへ行くんですか?」中田ひとみは不安そうにきいた。
 今日の佐藤はやはりどこか変だ。いつものような陽気な雰囲気が全く伝わってこない。車内でも黙ったままで、ただ行く先を指示しているだけだった。中田には先日のことをこだわっているのか思えたが、佐藤がそこまで過ぎたことをいちいち考えている人ではないというのも彼女の熟知していることだった。だからこそ今日の佐藤の様子は彼女が今まで見たことのない姿だった。まるで他人のような佐藤、姿形は佐藤なのだが、見えるはずもない佐藤の心は別人のような気がしていた。
「そのまま、北の方へ行って」
「北ですか、分かりましたけど」中田もこれ以上何も聞けないきがして言われるままに車を進めた。

「どうなんです。奴のいどころは分かりましたか?」佐藤は不安げにきいた。
「そうでんな。霊波の強さがあまり変わりまへんな。奴との距離が縮まっていないんじゃないでっかね」
「つまり、我々が進む方向に奴も進んでいるということなのかな」土田が尋ねた。
「そうでんな」
 五人は鶴舞公園からプリメーラに乗って中田の住む名東区に向かっていた。宮崎は写魂鬼の霊波をとらえ追跡を始めた。誰もが、宮崎の力に対し半信半疑であったが、今は彼に頼るしかなった。
「どこへ行く気なんだろ?」伊藤がきいた。
「もしかしたら、定光寺かもしれない」
「定光寺?どうしてですか?」
「彼女と最初にデートしたのがそこなんだ。奴は俺の記憶を共有しているんだろ、だから、そのことも知っているはずだ」
「こんなことをきくと佐藤さんが気を悪くするかもしれませんけど、なぜ写魂鬼は今回に限ってターゲットを連れ回しているんですかね。今までの被害者はその場で襲っていたのに」今度は土田が疑問を唱えた。
「それはでんな、さっきも言うたように、まず取り憑いた人間を精神的に苦しめることと、もしかしたら、佐藤さんを誘いだしているのかもしれまへんな」
「誘いだす?どういうことなんだ?」
「んー、奴は佐藤さんそのものを滅ぼし、自分がとって替わろうとしているかもしれまへん。奴が佐藤さん自身になるんですわ」
「おいおい、そりゃないよ・・・」佐藤は顔をしかめて言った。
「佐藤さんはここで降りて、待っていたほうがいいんじゃないですか?宮崎さんがいるんだから退治することも簡単だろうし」と竹内が提言した。
「いや、それはあきまへん。佐藤さんがおらんと駄目・・・、いや、その、佐藤さんだって彼女が狙われているのに黙って待ってることはできまへんよね」宮崎は慌てた言葉で言った。
「ああ、もちろん。俺が狙われるのはかなわない。しかし、彼女だけは・・・」佐藤は歯ぎしりするように答えた。
 竹内は何か変な気がした。宮崎が写魂鬼を追跡する力があるのなら、なぜもっと早く奴を捜し出そうとしないのか?どうも宮崎は佐藤を気にしているような感じがする。どこまで信用していいのか竹内は多少の不安を覚えていた。
 名東区から守山区へ入るため矢田川を越す小原橋に至った時、ドライバーの伊藤は戸惑った。橋の向こう側から車が停滞している。橋を超え何だろうとハンドル越しに覗いてみると、そこには数台のパトカーが止まっていた。
「まずいぞ、検問だ。どうする。くっそお、もうバックもできなくなった」プリメーラの後ろには既に車が続き戻ることもできない。
「佐藤さん、床にでも隠れますか。いまさらトランクにも入れないし」
 万策尽きたと言わんばかりのようすで「あっ、どおすりゃいいんだ。今ここで捕まるわけには絶対いかない」佐藤は悔しそうに拳を握った。
 すると宮崎が自信満々の表情で、「まあ、私に任せて下さい。簡単に切り抜けてみせますから」と悠然に豪語した。
 車は一台ずつ警官によりチェックされている。徐々にプリメーラの番となっていった。車内は緊張の糸が張り巡らされたようで、誰も黙したままだ。ただ、宮崎だけは余裕の構えをみせている。そしてついに、プリメーラの番になった。前の車が動きだすと、伊藤はゆっくり車を進め警官の前で止めた。このまま突っ切ろうかとも思ったが、伊藤にもそこまでの勇気はなかった。その時、おもむろに宮崎は車から降り警官たちの前にいきり立った。
「おいおい、何をする気なんだ」伊藤は呆れた顔をした。
 警官たちも驚いた。いきなり車から袈裟をきた坊さんが現れたのだから。宮崎は目を閉じ、顔の前で手を組み何かを念じ始めた。職務を思い出した警官が宮崎に近づこうとしたが、二三歩あるいた瞬間にその場に倒れてしまった。その周りの警官も何事だと思って踏みだそうとしたが、次々に気を失って倒れていった。宮崎は澄ました顔で車に戻った。
「さあ、行きましょか。お巡りさんを引かんように気いつけてください」
「す、すごい技ですな・・・」伊藤は感心して言い、車を発進させた。
「ミスタースポックみたいや」と土田もつぶやいた。
「宮崎さん、信じられない力を持っているようですね」佐藤が畏敬の面持ちで言った。
「しかし、あなたは一歩その力を間違えれば大犯罪者になるかもしれせんね」竹内は冷静な顔で言った。
「はは、そうですな。でも、私はこれでも仏に仕える身でっせ、そのような邪心など持ち合わせておりまへんわ」
 そのわりには女子高生を追っ掛けるなど、少々信じがたい面もあると竹内には思えた。

7  対決

 中田ひとみは車を定光寺の駐車場に乗り入れた。定光寺と言っても寺はあるもののその付近一体の自然公園を総称して定光寺と言っている。瀬戸市と春日井市、そして岐阜県の多治見市に挟まれた山深い地帯だ。JR中央線が通る庄内川沿いは、愛知には珍しい渓流が流れ、並行する元有料道路の愛岐道路から望める景色も素晴らしい。名古屋近郊の小学校に通っていれば一度は遠足等で訪れたことのある公園で、正伝池を中心にボート乗りや、ハイクなど自然を満喫できる。 二人は車を降りて池の方へ向かった。
「どうして、こんなところに来たんです?」中田は佐藤にきいた。
「んー、昔来たからさ」佐藤は素っ気ない返事をして先へ進んだ。今日は平日なので人の姿もあまりない、学校も始まってまだ間もないので遠足に来るところもないようだ。その上天気のほうが怪しくなりだし、午前中は晴れ渡っていたのに、今では一面黒々とした雲が広がっていた。遠くの方でゴロゴロと雷も鳴っている。暖かい風だったのが、中田には冷たく感じられた。誰もいない森林は寂しいというより、どこかうすら恐ろしい感じがしていた。
 二人は広場までたどり着いた。雷の響きはますます大きくなり、とうとう雨までもが降りだした。
「佐藤さん、車に戻りましょう。雨も降ってきたことですし」中田が戻ろうとしたが、佐藤は彼女の腕を強引につかんだ。
「さ、佐藤さん」中田は驚いた表情で佐藤を見据えたが、その佐藤の形相は普段の彼とは全く違っていた。
「黙れ、静かにするんだ」そう佐藤は言うと中田を羽交い締めにして、口を押さえた。
 中田はもごもごと言いながら抵抗したが、今のこの佐藤にはかなわない。佐藤は彼女を引きずるように運び、森の方に連れ込もうとした。雨は激しさを増し、二人はもうずぶ濡れになっていた。空は夜のように暗くなり、雷の稲光が電光のようにきらめいた。
「まて、写魂鬼!彼女を離せ!」雷鳴の中から本物の佐藤が絶叫した。
 写魂鬼はそれに気づき辺りを見回した。降りしきる雨で霞んだ前方から佐藤を先頭に五人の男が駆け寄ってくるのが見え始めた。戸惑ったのは中田の方だ。後ろにも前にも佐藤がいる。何がどうなっているのかさっぱり分からなかった。戸惑ったのは佐藤の方も同じだった。勢いよく走ってきてついに彼女を見つけたが、その後ろには自分と全く同じ姿の男が立っている。違うのは服装だけで髪の毛の一本までまるっきり同じように思えた。
「やっと来たか、待っていたぞ。けけけ、この女を殺し、お前の苦しむ顔を見て、お前も消し去ってやる。そして、その後は俺がお前に取って替わってやるぞ」写魂鬼はその獰悪な本性をさらけ出した。
「何だと、きさまの好き勝手にはさせない。早く彼女を離すんだ。こっちにはお坊さんという強い味方もいるんだ。観念しろ!」
「坊主だと、はははは、くそ坊主お前も来たのか。お前のおかげで折角自由になれたんだそう簡単には捕まらないぞ」
「おい、宮崎さんよ、あいつ変なこと言ってるな。あなたのおかげとかいうのはどういうことなんだ」土田が写魂鬼の言葉をきいて尋ねた。
「いや、そのでんな、ちゃいまんねん・・・・・・」宮崎は何かを言おうとしたが、写魂鬼は言葉を続けた。
「お前が壺を割ってくれたおかげなんだからな、ひとまず礼は言っておくぜ」
「おいおい、話が違うぞ、宮崎さん。あなたが壺を割ったって何なんだ」
「いや、その、実は写魂鬼を開放させてしもうたのはわてなんですわ。尾鷲の方で捕まえた写魂鬼を白山の御神山に奉納するつもりがでんな、途中で奴を入れた壺を割ってもうて」
「じゃ、何か『虹の伝説』とかいうのは真っ赤な嘘だとでも」伊藤が怒りながらきいた。
「すんまへん、まさかこんな事になろうとは・・・・・・」宮崎は身震いしながら小さくなっていった。
「ちぇ、この野郎」と、等閑な坊主に対し、皆の態度はコロリと変わった。
「まあ、待て、とにかく奴を何とか取り押さえてくれ、話はそれからだ」と竹内が間に入った。
「それがでんな、奴を捕まえるのことは私にはでけんのですわ」
「できんって、じゃどうするんだ」
「写魂鬼を捕まえるのには奴に取り憑かれた人物が退治しなければいけないんですねん」
「何だって、お前さんには、あんな力があるというのにか。あっ、そうかだから佐藤さんにこだわっていたのか」竹内は今まで持っていた疑問の答えを見つけた。
 驚いたのは佐藤の方だ。後ろでごちゃごちゃ言っていることに耳を傾けていたが、宮崎が奴を退治できないのでは、佐藤にもなす術がない。
「それじゃ、どうすればいいんだ」佐藤は前を見据えながら宮崎にきいた。
「写魂鬼はあんたさんの邪心から産まれているんです。でっから、あんたの良心の力で奴を封じ込めなければあかんのですわ」
「良心って言ったって、そんな目に見えないもどう扱えばいいんだよ」
「つまりでんな、あんたさんが持つ、正しい心の念を奴にぶつけるんです。手っとり早く言えば、彼女を助けたいという思いだけでもかましまへん。かっこよく言えば『愛』の力でんな」
「彼女を助ける・・・、愛する心・・・」
 雨風は荒れ狂い、佐藤の顔面にもひっきりなしに打ちつけていた。雨で霞む目の前には写魂鬼に捕らわれた彼女が助けを求めている。
———彼女を思う、彼女を愛する・・・・・・。
 佐藤は心の奥から念じた。自分が持ち合わせている全ての力を奮い起こすかのように。彼女に対する思いを、彼女を決して失わない、離さない思い、そして、彼女を愛する堅い意思を。竹内たちには見えないが、佐藤の体全体からオーラのようなものが沸き上がり、そのエネルギーは大きな塊となり始めた。
 それが見える宮崎は「その調子です。その心の思いを奴にぶつけてください」と助言した。
 発散されたオーラはそのエネルギーを放出し、写魂鬼目掛けて一気に放たれた。まともにそれを受けた写魂鬼は少しよろめき、中田をつかんでいた力を緩めた。中田が離れた瞬間、宮崎は機敏な動きをし、彼女を捕らえて、写魂鬼から遠ざけた。
「もう、彼女は大丈夫でっせ、あとはあんたはんの力をフルにぶつけて奴を倒し下さい」と結構無責任なことを言い放った。
 だが、写魂鬼も只者でない。中田が救われたという安心感から佐藤の力が弱まった瞬間を見抜き、今度は佐藤に襲いかかった。一瞬の油断を突かれ、佐藤は怯んだ。写魂鬼はすかさず佐藤の後ろに回り込み、首を腕で押さえ込んだ。佐藤は視界が届く範囲で後ろを見た。目の前にはまるで鏡があるかのようにもう一人の自分が間近にいる。だが、その表情はもはや人間のそれではない。目は血走り、口は耳まで裂けそうだ。鼻からは異臭が吐きだされている。まさに魔物の形相だった。
「死ね!きさまを殺し、またあの女も殺ってやる。そして、きさまの家族も友達も、皆きさまの下に送ってやるぞ」
 その言葉をきいて佐藤は奮い上がった。奴をこのまま野放しにすれば、トリオの仲間や家族、そして愛する人までもが奴の餌食になる。そんなことは決してさせまい。その勇気と人々を思う心が、今までの以上のオーラを発散させ、写魂鬼を取り巻くように放たれた。佐藤のエナジーに取り囲まれた写魂鬼は急に苦しみだした。
「きさま・・・」
 写魂鬼の腕がゆるみ佐藤は隙を突いて抜け出したが、その力を弱めようとはしなかった。写魂鬼の精気を凌駕した佐藤の心の力が、魔物の威力を無くし、ついには地面にへばり始めた。
「オー、グルー、ワー・・・」写魂鬼から今までの威勢は消え失せ、苦しみもがきが始まった。佐藤はパワーを落とさず、さらに写魂鬼に迫った。すると、写魂鬼の体がその形態を崩しだし、徐々に小さな塊へと変化していった。みるみるとその塊は縮小化していき、拳よりも小さくなっていた。すると、宮崎はどこから取り出したのか三十センチほどの壺を持ち出し、その塊を中に入れ、詮をすると同時にお経のような言葉が書かれた御札を詮の周りに張った。
「ふー、これで安全」宮崎は一人つぶやいた。
 佐藤は全ての気力を使い果たしたのかその場に倒れ込むように座り込んだ。竹内たちが駆けつけ「大丈夫ですか」と声を掛けると、汗と雨で濡れた顔で微笑んだ。中田ひとみも駆けつけ、佐藤を抱き抱えた。「大丈夫ですか、佐藤さん」
「ああ、大丈夫だよ。君こそ怪我なんかないかい?」
「ええ、佐藤さんのおかげで、無事です」
「そうか、良かった。しかし、僕は君に謝らなくちゃいけないな」
「どうしてですか。こうして助けていただいたのに」
「いや、写魂鬼は僕の悪しき心が産んだ僕の分身みたいなものだ。だから、君を襲ったというのも僕の心の中に君に対する反感があったせいなんだ。その事を思うと僕は・・・」
「そんなことはありません。私を救ってくれたのは佐藤さん自身です」
「そうですよ、佐藤さん」竹内が言葉を挟んだ。「誰だって小さな反感ぐらい持っていますよ。人間なんですから、いろんな人に対しいろんな感情があるはずです。しかも、奴はその反感を数十倍にも増幅させているんですから。それに、奴を退治したのは佐藤さんですよ。佐藤さんの彼女に対する思い、真の心が奴を滅ぼしたんじゃないですか。それが佐藤さんの本来の姿ですよ」
「そうです。そうです。佐藤さんにあんな力があるなんて驚きましたよ。愛の力って凄いものだなってつくづく感じました」と土田も感動した面持ちで言った。
「ああ、そうだね。ありがとう」佐藤は竹内の肩に持たれながら立ち上がった。
「いや、これでめでたしめでたしですな、はっはっはっ」と宮崎は壺を抱えながら高笑いしたが、皆は冷たい視線を浴びせた。
「てめえ、偉そうに笑ってられる立場かよ。お前がとどのつまりだったなんて、今まで起きた事の責任はどうするんだ、えっ」伊藤は宮崎を睨み付け言った。
「いや、まあ、その・・・いいじゃないですか。皆さんが無事でしたから」と宮崎は及び腰で答えた。
「しかし、佐藤さんは警察から傷害の容疑で目を付けられているんだぞ、そのことはそう処理するんだ?ちゃんと、後始末だけはしろよ」竹内もきつい口調で言い放った。
「ええ、まあ・・・・・、何とかしますわ、はい・・・」
 いつの間にか雨は止み、雷鳴も遠くに去っていた。厚かった雲も急速にばらけだし、その隙間から日がさし始めた。山の谷間に虹が掛かっていた。誰もがそれを見て一瞬震えたが、虹は単に美しいものだということ再認識した。

エピローグ

 突然、事務所のドアが開き、男が慌てて入ってきた。
「どうしたんですか。筒井警部補、そんなに血相を変えて」入口の側にいた佐藤が尋ねた。
「あっ、さ、佐藤さん、何とかしてくださいよ」
「何とかって、何をですか?」
「いやね、変な坊主が署に来たかと思うと、私の前に壺を出し、詮を抜いたんですよ。すると、何か煙みたいなものが立ち込めたかと思ったら、なんと目の前に自分そっくりの男がいるじゃないですか。そしたら、そいつ署内を走りまくり、同僚や上司にも構わず殴ったり暴れたりしてるんですよ。このまんまんまじゃ、私が悪者にされてしまいますよ」
 土田が近寄って言った。「筒井警部補、佐藤さんも同じ目に遭っていたんですよ。これで佐藤さんが無実だということが分かりましたよね」
「ええ、ええ、十分分かりましたから。佐藤さん何とかしてください」
「筒井警部補さん、とにかく署の方に戻って、そのもう一人の筒井警部補をあなたの良心でおとなしくさせてください。そうすれば、壺に戻りますから」
「良心?なんですか、そりゃあ」
「つまりですね。筒井さんも刑事でしょ。だったら正義感というものがあるじゃないですか。それを心から念じればいいんです」
「はあ、はあ。何かよく分からないですけど、ひとまず帰ります。ほっといたら、もう一人の私が何をしでかすか分からないですからな、それじゃ」と筒井は不承不承のまま、入ってきた時と同じように慌てて出ていった。
 伊藤が佐藤のところに寄って言った。「あいつ、写魂鬼を警部補の前で開放したんだな。とんでもないことをする坊主だ。それにつけても、警部補もいろんな人に反感を抱いているようですね。はっはっはっ」
「しかし。今回は参ったよ。とんでもないことに巻き込まれちゃったな。もうあの坊主と関わりたくないな」佐藤は苦笑して言った。
「まあ、いいじゃないですか。写魂鬼のおかげで佐藤さんは邪心のない、清廉潔白な人間になったことですし、真実の愛も知ったんですから」土田が冷やかすように言った。
「そうですよ、佐藤さんはもう二度と怒ったりしませんよね」と伊藤がからかった。
「おい、この・・・」と佐藤が言いかけると、「駄目ですよ、怒ったりしたら」と周りの皆が一斉に声を掛けた。

———— ドッペルゲンガーの罠 完 ————


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