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イルカに乗った少女


プロローグ

 夢は誰でも見るものだ。自分は夢などほとんど見ないと言う人でさえ、実際には見たことを忘時間ぐらい。脳がその活動を休めβ波からθ波と脳波が変わる、分かりやすく言えば、浅い眠りから深い眠りへと落ちていくことだ。そのサイクルが終わるとき、つまり深い眠りから再び浅い眠りへ移る時、人間は夢を見ている。よく夢を見ていて、特に恐い夢などを見ている時、パッと目が覚めるのはそういう理由からだ。逆に深い眠りの状態の時に目を覚まそうとするのは非常につらい(この状態でも夢を見ることはある)。恐ろしい夢を見ている時など、このまま夢を見続ければどんな恐ろしい目に会うかもしれないので、目を覚まそうと夢の中で思っても意識の方がついてこれず、目を覚ますのに苦痛を伴うくらい辛い。時には目が覚めたと思ってもまだ夢の途中、夢の中で夢を見ていることもある。
 睡眠のサイクルが三時間として、普通八時間眠れば、三回それがおとずれることになる。そして人が目覚める時、夢を見たなと思うのはその三回目の深い睡眠、レム睡眠が覚めかけている時の記憶が多い。なぜ、夢を見るのかそのメカニズムは未だに解明されていない。人間の脳は未知の世界、言わばインナースペースのため、その謎を解くのはかなり困難なのだろう。それは脳の記憶という仕組みを研究しなければ無理な話なのだ。一説には、人は過去の記憶を整理するために夢を見るのだというのがある。コンピュータに詳しい人に分かる言い方をすれば、記憶領域の圧縮・コンデンスをしているということだ。だから、夢の中には今まで見聞したこと、記憶したこと、出会った人々などが現れる。中には予知夢のような未来の出来事を見ることもあるが、これは超能力の世界に属するのでまた別の話だ。
 過去の出来事が夢の中に現れる。時には全く忘れていた事や人が出てくることもある。人間は生きている間に見聞したことは全て記憶している。脳は現代のスーパーコンピュータよりはるかに記憶力の優れたものだが、その数パーセントしか人間は活用していないのだ。人は全てを記憶しているが、それを全て思い出すことは不可能だ。忘れてしまうからだ。ただ、忘れてしまうと言うのは正しくない。コンピュータにデータを記憶し、それを消去したことを“忘れた”としよう。人間は一度入力したデータを消すことはできない。記憶を忘れたというのは、記憶をどこに格納したか忘れてしまったことで、記憶自体は消えていないのだ。コンピュータでデータをアクセスするアドレスが無くなってしまったことと同じだ。どこに何があったか分からなくてもデータはまだ残っている。それが人間の脳で言う、“忘れた”ということだ。人が記憶をするというのは本当は「記録」すると行った方が正しいかもしれない。「記録」することが多すぎて整理されていない脳は重要度の低い「記録」のアドレスを破棄してしまうのだ。
 だから、「記憶」は決して消えることはない。アドレスを忘れてもそのデータ自体は存在するため、時としてその「記憶」をアクセスすることがある。それが夢の中に出てくる映像の一つなのだ。だから、前述の「夢は記憶の整理」というのもうなずける部分がある。夢を見て目が覚めた時、今の夢は何だったのか思い出そうとしても思い出せない。かすかな断片だけが残り、夢を見たなという自覚は残っているのだ。夢の中で「記憶」にランダムなアクセスをしたが、目が覚めた時にはアドレスが無くなっているのだ。前にも同じような夢を見たなという現象も同じ理由だ。何度も同じ「記憶」にアクセスしているのだが、正しいアドレスが見つからず、起きた時にはその「記憶」を思い出せず、同じような夢をまた見たと悟るだけなのだ。

 松浦美砂もそのような状態が続いていた。とはいっても毎日同じ夢を見ているのではなく、長い間隔をおいて随分前にも同じような夢を見たなという、ぼんやりした思考が残っているのだ。何を見ていたのか全く思い出せないが。同じ夢をみたという認識はなぜかあった。わずかに残る夢の記憶は、水とゴムの感覚。それだけだ。そこから何を見たのか判断するのは全く不可能で、いつも消化不良の気持ちで、朝の身支度をしている。そして今日は土曜日で会社は休みだが、会社の仲間たちと出かける予定なので、いつもと同じように起きた。顔を洗いながら夢の中身を思い出そうとしたが、やはり無駄であった。
 ———水とゴム。
 何なのだろう。美砂には思い当たる節が全くなかった。

1  南知多ビーチランド

 松浦美砂は地下街から大名古屋ビルヂングの前に出た。車道の脇には青山真治のカリブがすでに駐車しており、中には渡辺裕予と桑原美香が乗っていて、外には青山と土田道幸が立ち話をしていた。
「おはようございます」と美砂は皆に笑顔で挨拶をした。五月の終わりごろ、梅雨はまだであったが今日は曇りがちで風も割りと強かった。
 皆が美砂に気付き挨拶の返事をした。
「伊藤君はまだなの?」
「あいつがそんなに早く来ると思いますか?。山田さんを迎えに行かなきゃならないし。ダブルで遅くなりますよ」と土田がいつものことじゃないという顔で答えた。
 噂をすれば影で、その時、伊藤賢司のフェアレディZが山田悦子を乗せて颯爽と現れた。「どうも」とにやけた笑顔で降りてきた。遅れたことに対する反省の色は全くなく、皆からの罵声を浴びても、悦子の支度が遅いんだと人のせいにしていた。
 七人揃ったところで出発した。カリブには裕予、美香、美砂が乗り、Zには悦子と土田が乗った。車は東へ向かい東新町から名古屋高速に乗り、知多半島道路へと走り抜けていった。
 今日は皆で南知多ビーチランドへ行くことになっていた。南知多ビーチランドは知多半島の南西、美浜町にある水族館兼遊園地だ。観光地が多い知多半島だが、遊戯施設となるといまいちパッとしたものがなかった。そこで、北の犬山遊園地、現在のモンキーパークに対抗して作られたのがビーチランドだ。知多半島の観光のメインである海水浴客をターゲットに若松海水浴場の伊勢湾に面した海岸沿いに作られた。水族館にはイルカのショー、こじんまりした遊園地、夏はプールにプライベートビーチに近い海水浴など、夏はもちろん一年中楽しめる施設である。南紀や鳥羽ほどの大規模なレジャー施設ではないが、東海地方の人たちが休日の一日を過ごすのには、日帰り範囲なのでちょうどよいのだ。一行は知多半島道路を進んだが、この時期潮干狩りシーズンとも重なるため、車線の数が減少したあたりから渋滞が始まった。そこで半田北インターで降り、知多半島横断道路(たいした距離もないのに金を取りやがって)を通って常滑に入った。途中、喫茶店を見つけると一服しがてらコーヒーやサンドを注文した。その後二四七号線のバイパスから海岸沿いの道に入る。美浜町に入るころから再び混み始めたが、海水浴の時にもこの辺りを訪れるトリオの人間にはあきらめと慣れがあり、時たま近道をしたりして整然と進んだ。
 ビーチランドに着くと駐車場の呼び込みをしている。地元のおばさんやおっさんがほっかむりして手招きしていた。一瞬誘われそうになったが、朝まだ早かったのでビーチランドの駐車場に入ることができた。空は相変わらず曇っていて、その雲の動きが早い。その原因である風がやたらと強く、たまに小雨をももたらす。少々悪天候だが、ここまで来ては仕方がない。七人は入場券を買って入園した。ちょうどイルカのショーを催す時間らしく、一行は早速会場のイルカプールへ向かった。小中学校のプールほどの大きさがある楕円形のプールがあり、その前に段々となった観客席がある。前の方の席は既に占拠されていたので後ろの中段位に陣取った。これが後で好運となったのだが。
 相変わらず風が強かったが、その時土田がぶっきらぼうに「あれ見てくださいよ」と言って、美香の肩を叩いて、彼女の視線をある方向に促した。美香は信じられない光景を直視し「ウッソー」と言いつつ、他の人たちにも、その出来事を見せようと声をかけた。
「あれ見て!」
 前述したようにビーチランドにはこじんまりした遊園地があり、そこには小さな観覧車があるのだが、その止まっている観覧車の一番上にあるゴンドラが強い風にあおられ、ものすごいスピードで回転しているのだ。もちろん人は乗っていないが、その光景は今見ている人たちにも信じられない出来事だった。後日、この話をしてもほとんどの人が信じてくれなかった。「後で乗ろうぜ」と青山がつぶやいたが、伊藤と悦子は身震いをしていた。
 イルカのショーが始まった。まあ、日本全国、どこの水族館でも行われるショーでそれほどの斬新さはないが、目前で見るとそれなりに迫力がある。ジャンプに輪くぐり、ボール遊び、途中客を呼んでキッスとか愛くるしさのあるイルカのショーは飽きさせない。愛嬌なのか失敗なのか、プールの縁でイルカがジャンプをし、その水しぶきが最前列の人たちにかかった。
「ここに座っててラッキーね、日頃の行いがものを言うわよ」と裕予が嬉しそうに言ったが、単にたまたま座っただけのことだ。
 観客たちの拍手喝采の中、美砂は“イルカ”という生き物に何か引っ掛かるものがあり、「イルカ?」と独語した。
 

2 感触

 イルカのショーが終わり七人は園内を回った。珍しい魚の水族館には今では既に忘れ去られたウーパールーパもいた。イルカの水族館ではステージの裏から入り、水の中からイルカたちを見ることができる。ゾウアザラシのでかい奴が水槽のガラスにへばりついているのも愛嬌があって楽しい。風はまだ強かった。雲は多いものの雨は降りそうでなく、時折日が射すこともあった。 園内の中央辺りに小さなプルーがあり、中にはイルカがゆったり泳いでいる。芸をすることは卒業したイルカなのだろう。ここのコーナーのイルカには直接手で触れるというものだった。物好きな七人も当然触ってみようとプールに近づいた。イルカはゆっくりだがプールを泳ぎ回っているのでなかなかチャンスがない。それでも時折泳ぐのをやめ、空気を吸うためなのか水面に体を浮かせる時があった。これ見よがしに皆そばに走り寄り、手をイルカの背中に置いた。悦子などはおっかなびっくりだが、触った後の感想は「何だかゴムみたい!」と素っ気ないものであった。誰もがそう感じたのは間違いない。濃紺色のイルカの背は水に濡れているが、潜水用のウェットスーツ、悪く言えば魚屋のおっさんが履くような長いゴム長靴のようだ。
 次々にイルカに触っていき、美砂は最後に触れた。手のひらをイルカの背中に置いた瞬間、全身を貫くエレキのようなものが走った。
 ———何!この感覚?
 美砂が一瞬思った時、ある記憶が脳裏に浮かび上がった。今まで忘れていた記憶が瞬時に目覚め、走馬燈のごとく一気にかけめぐった。デジャブーが起こり美砂はイルカに触ったままその場に凍りついた。彼女はその時、全く別の世界にいるような錯覚に陥っていた。空をさまようような浮遊感、周りの景色も一変し、青い空と青い海しか視界に入らない。心地よい風を受け、長い髪がたなびいた。それと共に水の感覚が全身に伝わってくる。海は穏やかな波を漂わせ、体に水しぶきがかかる。匂いは爽やかな海独特の香がするだけだが、彼女の五感は敏感になっていた。ふと、目の前を見てみると何かが泳いでいるが分かった。流線型の形をした・・・・・・。
 美砂の肩を土田が叩き、彼女は我に返った。
「どうしたんですか?」
「いえ、何でもないの。イルカに触れるのがが珍しいから」
 イルカは既にプールの反対側で泳いでいる。土田は気の抜けてしまったような美砂の横顔を見て、首を振ったが、彼女を促して皆の方へ歩いていった。一行は遊園地のエリアにやって来た。遊園地といっても大したことはなく、ゴーカート、観覧車、ジェットコースターといったそれなりのものはあるが、長島温泉や犬山モンキーパークほどの大規模なものではなく、東山動植物園なみのこじんまりしたものだった。
 最初にあの観覧車に乗ろうという話になり、四人と三人で乗車した。さすがに人が乗っている状態ではゴンドラは回転しないが、いまだに風は強いので最高点まで行き着くとガタガタ揺れている。この地点から海が見えるのだが、やはり波が荒い。吹きすさぶ風の音がゴンドラのすきまを通して聞こえてくる。こういうのが苦手な悦子と伊藤はビクついていた。 
 次にジェットコースターに乗ろうとしたが、悦子と伊藤はガンとして乗ろうとはしなかった。伊藤という男は車はフェアレディZ、バイクは四〇〇㏄に乗って峠を攻めるぐらいのスピード狂なのだが、遊園地のジェットコースターの類は全く駄目なのだ。慰安旅行で札幌へ行った時も飛行機を利用したのでずっとブルっていた。本人いわく自分で運転しないものは信用出来ないと言っているのだが、何とも変な奴である。悦子の方も幽霊や暗闇やら恐いものばかりの女性だ。二人はほっといて五人はコースターに乗ったが、美砂はいつもの元気がなくどことなく、ぼんやりしている。美香が「どうしたの?」と尋ねても「いえ、別に」と作り笑いをしていた。
 一行は一通り見て回り時間もお昼を過ぎたのでビーチランドを後にし、昼食へ向かった。フォレストパークへ行く予定もあり、知多半島を南下した。いつも夏の海水浴に行く、小野浦海岸を過ぎ、内海を通ってから「タカミネ」という海鮮レストランに入った。ここはアイスクリームの天ぷらが目玉で、珍しもの好きの青山と美香がそれを頼み、あとはピラフやスパゲティなどの軽食を注文した。
「美砂ちゃん、さっきからボーッとしているけど、どうかしたの?」美香が美砂に再び尋ねた。「そうですよ。どうもイルカに触ってから、変みたいですよ」と土田が続いた。
「そうじゃないんですけど、ちょっと思い出したことがあって」
「何なのそれ?」と裕予。
「実は・・・、私、まだ子供のころなんですけど、イルカに助けられたことがあるんです」
「イルカに?」皆が声をそろえてつぶやいた。

3 イルカ

 松浦美砂がまだ幼稚園に通っていたころの大昔の話だ。彼女は両親とその親戚とで、南紀の方へ家族旅行に出かけた。季節は夏、当然彼らは海水浴に出た。陽射しは強かったが、波は穏やかで海水浴客も多かった。美砂は親戚の子供たちと浜辺で遊んでいた。子供用のワンピースの水着を付け、浮輪を腰に通してはしゃいでいた。親戚の子供たちは彼女より年上だったが、完全には目が行き届いてはいない。もちろん彼女らの親たちも目を離さないように注意していたが、ちょとした油断が水難事故にはつきものだ。
 美砂は子供のころから水に対しては恐怖感を抱いてはいなかった。水上に浮く浮遊感が好きだった。浮輪につかまりながら水辺をちょこちょこ歩いていたが、水に浮かびたいという衝動が、彼女を海の方へ導いた。脚がつかなくても美砂は恐れることなく波に乗った。海はプールと違い波がある。それも自然がおこした不規則な現象だ。美砂はいつしか沖へ沖へと流され始めた。運の悪いことに海水浴の監視員の目も届いていなかった。
 美砂がふと気が付くと彼女は随分沖へ流され、遊泳限界の浮きポールまで越えていた。彼女もそこで気が付いたのか、回りに人がいないことに心細さを感じた。沖へ戻ろうと思ったが、幼子の力では波の力に打ち勝つことは至難の業だった。そのころには浜辺でも彼女がいなくなったのに気付き、大騒ぎとなった。監視員は双眼鏡で彼女を発見、至急、救出の用意を整えたが、救出が間に合うのと彼女の体力の消耗との差がありすぎた。美砂の力が弱まり、浮輪につかまっていることも容易ではなくなりかけていた。
 美砂の体が浮輪の中心に消えた。だが、瞬時の間に彼女の体が再び浮かび上がった。浮き上がったというのは正しい表現ではない。実際には押し上げられたのだ。美砂は自分の股の下に何かがいるのを感じとった。水に濡れているがゴムのような弾力性のある感覚だ。美砂は少し塩水でむせたが、その物体にすがりつくような形でのっかかった。
 美砂にはそれが何か分かった。「イルカ」という海の生物だ。もちろん幼い彼女にはイルカがどういうものかという正しい認識はない。でも、テレビや図鑑で見たことのある“海の大きな魚・イルカ”だと分かった。そのイルカは全長一メートルほどの小さなイルカだった。色は水に光っているが、薄い紺色の鮮やかなネービーブルーだ。イルカの頭から塩が吹かれ美砂の顔に少しかかった。小さな手で顔を拭いながらも反対の手でイルカの背を叩いた。イルカに乗っていること自体恐いとは思っていない。以前、動物園で羊の背に乗ったのと感覚的には同じだった。イルカは彼女を乗せたままゆっくりと浜の方へ進んだ。遅いスピードながらも波を切って進む乗り物に美砂ははしゃいだ。今までの恐慌などとっくに忘れていた。
 美砂とイルカは浜の近くまで辿り着いていた。浜辺の人たちも彼女を確認し、救出に向かおうとして救護員が急いで泳ぎだした。彼らにイルカの姿は見えなかった。それはイルカが少女を乗っけているなんて誰も思っていないので、イルカの存在を識別することはできないからだ。  イルカは水深が分かるのか自分が泳げる深さまで来ると彼女の体を離すために下に潜った。そして潜ったまま沖へ泳いでいった。そのため誰もイルカには気付いていない。
 美砂は救護員に助けられすぐに両親のもとへ連れていかれた。両親たちは彼女を抱き抱え、大丈夫かと何度も尋ねた。彼女の方は「イルカさんがいたの、イルカさんが・・・」と無邪気に言ったが、大人たちは誰もその言葉をきいていなかった。美砂はどこも怪我がなく、両親はもちろん周りの救護員もホッとしていた。両親たちは監視員・救護員、そして周りの人に「お騒がせして、すいません」と何度も詫びていた。その間も美砂は沖の方をジーッと見つめ、小さな顔に微笑みを浮かべていた。胸の前で小さく左手を振ったが、大人たちにはその仕種も眼中にない。彼女だけが海の中のイルカの姿を見つめていた。波の合間にさからうわずかな流線が沖へ向かっていった。

「ふーん、それって本当の話?」美香が不思議そうな顔で尋ねた。
「本当ですよ。といっても私も今まで忘れていたんですけど。さっき、イルカに触ったら突然思い出したんです」
「イルカね、どうしてイルカが松浦さんを助けたんです?」伊藤も覗き込むように尋ねた。
「さあ、それは分かりません。でも、あのイルカ小さかったから、たぶん子供だと思うんですけど、だから、何か子供同士の共鳴があったんじゃないんですかね」
「とにかく、命の恩人、イルカだから人じゃないけど」と悦子。
「そうですね。あのイルカがいなかったら今の私はいなかっったし、もしイルカがいなくて助かったとしてもきっと水を怖がって水泳の選手なんかにはなっていなかったでしょうね」
「昔、城みちるの『イルカに乗った少年』というのがあったけど、まさに“イルカに乗った少女”だな」と青山が冷やかし半分に言った。
「イルカに乗った少女ですか、今の松浦さんが少女っていう歳じゃないでしょ」と土田が余計な一言を言ったが、「バキッ」と言ったのと同時に美砂の鉄拳が土田の顔に炸裂した。

4 ニュース

 美砂たちはフォレストパークへ行く予定であったが、雨はまだ降っていないものの風が強いこの天気では野外で遊ぶのに適していない。と言っても帰るのにはまだ早いので、国道沿いにあるカラオケボックスに入って時間をつぶした。第一、今戻ると道路渋滞が激しく、結局帰るのには遅くなるので、三時間ほどたむろしていた。道が空き始めたころを見計らって帰路についた。美砂は青山に家まで送ってもらい九時ごろに帰宅した。
 今日の出来事はあまりにも衝撃的であった。今までもやもやしていたものが一気に吹っ飛んだのだが、爽快感というものはない。思い出したことがまたより深い感慨を生み出していた。
———私がイルカに救われていた———
 その思いは妙な懐かしさと心の憂愁をも引き起こしている。すべてを思い出した時、あのイルカはどうしているのだろう。ふとそんな慕情までもが湧き出てくる。
 美砂は母に尋ねてみた。
「お母さん、私、昔、海で溺れたことあるよね」
「溺れる?」母は娘に突然奇妙なことをきかれ、遅い夕食の準備をしている手が止まった。「ああ、そういえば、あなたが幼稚園のころそんなことがあったわね・・・・・・。あの時はビックリしたわよ。気が付いたらあなたは沖まで流れていっちゃってるんですもの、ほんと」
「じゃ、その時誰が私を助けてくれたの?」美砂は試しにきいてみた。
「誰って、あの時は自分で泳いだんじゃないの。運よく浮輪だけは離さないでいたから、やっぱり覚えていないんだわ。でも、あの時から水泳の才能があったのね」
 母親は自慢げに語っている。やはり、イルカの存在は母でさえも気が付いていないのだ。あれが自分の幻とは彼女は思っていない。今日思い出したことは絶対に本当のことなのだ。夢が現実のように思われる、一種の誇大妄想ではない。今日イルカに触れた瞬間、あの日、イルカに乗った感動を思い出したのだ。あの感動は決して夢ではない。眠っていた記憶が今甦った。水とゴム、それが海とイルカだったのだ。
「美砂、なんでそんなこときくの?今日何かあったの?」
「ん、んーん、別に・・・。今日海を見たから、何となく思い出してね」美砂は澄ました顔でとぼけた。

 お風呂に入ってそろそろ寝ようかなと思い、テレビを付けっぱなしにしながら、就寝の支度をしていた。テレビはニュースの時間になっていて、今日の出来事が終わった後、ローカルな話題に移った。だが、その報道は美砂を俄然、画面に引きつけてしまった。
———今日の午後、三重県の志摩半島、英虞湾沖でイルカの大群が泳いでいるのに釣り舟が遭遇しました。これはその場面に遭遇した釣り客のホームビデオです。
 画面はアナウンサーの女性から海の映像に切り換わった。ホームビデオのため多少画面がざらつき、虹色の走行線が時たま画面に走る。
———撮影者の白田孝さんは舟釣りを楽しんでいた時、目の前にイルカの大群が泳いでいるのを発見、とっさに持ち合わせていたホームビデオで撮影したそうです。
 少々波が荒れている。その水面をイルカの背びれが漂っている。時折、イルカがジャンプをしその全身がはっきり写っている。
———イルカの種類は背びれの前方部に見られる黄土色斑点からマイルカと思われ、太平洋から大西洋まで赤道を中心に温暖な海域に分布しているものです。英虞湾でも時折イルカは目撃されますが、これほどの大群は珍しいとのことです。本来、南紀沖に多数生息していると考えられていますが、最近の陽気のよさのため、北上したものと思われます。
 そうアナウンスが流れる中、画面では無数のイルカがまるで舟を追いかけているかのように側面に平行して泳いでいる。今日見た水族館の狭い水槽の中にいるイルカと違い、そして人間にコビを売って芸をしながら生きているイルカたちと違って、ノビノビと自由に自然の海を軽快に泳いでいる。
 美砂はその画面にクギ付けになった。
———何て偶然なんだろう。今日はイルカづくしだわ。
 そして、偶然以上に何か運命的なものを彼女は感じとっていた。

5 志摩へ

 イルカとはクジラを含めたイルカ・クジラ類〈鯨類〉に属する哺乳類である。つまり肺呼吸をおこなう温血動物で、卵ではなく交尾で子供を産み乳を与えて育てる。まあ、当たり前の常識だが、子供のころ“イルカってお魚さん”と親に尋ね、“あれはお魚じゃなくて動物なのよと親に教えられる光景が水族館などでは良く見かけられ、誰もが体験しているはずだ。そう、イルカやクジラは魚ではなく最も巨大な哺乳類なのだ(海だからこそ巨大になれたのだが)。
 イルカとクジラは構造的には全く同じ動物である。その違いはと言うと、明確なものはなく単に大きさの違いなのだ。つまりでかいのがクジラで、ちっこいのがイルカとなる。小さいのがイルカといっても陸上の生物に比べればかなり大きい。
 イルカは比較的暖かい海ならどこにでもいる。イルカと一口に言っても三十種類ほどが世界各地に散らばり、餌となる魚の多い沖で群れをなして生活する。日本近海でも太平洋側ならどこにでもいる。近年、小笠原諸島で自然のイルカをウォッチングするというスキューバが話題を集めているほどだ。イルカとは真に魅力的な海の生き物で、海の自然というものをまざまざと我々に見せてくれる。
 イルカの特徴と言えば、まず頭のいいところだろう。つまり、曲芸をする水族館のイメージがかなり大きい。イルカの脳は人間のそれに匹敵するほど大きくしわも多い。それゆえあのような芸当ができるのだ。ただ、芸ならば下等な動物でも訓練すればできるようになる。しかし、イルカは人間とのコミュニケーションがとれるのだ。もちろん、まだ研究段階で明確な解答は得られないが、人間の言葉を理解し会話さえも行える可能性はある。SF科学映画に「イルカの日」というのがある。それではイルカが人間と会話をし、軍事に使われようとする近未来的なストーリーだった。イルカはコウモリと同じ音響操測(エコーロケーション)の能力を持つ。鳴き声だけでなく、特殊な音響により周りの様子を探るのだ。イルカは暗闇や目隠しをしても獲物を追ったり、障害物を関知できるのだ。そういった不思議な力を持つが、まだまだ未知の生物なのだ。

 美砂は昨日のイルカのニュースを見て心が揺らめいた。なぜか、海のイルカを見たいという衝動が彼女の思いを志摩へ駆らせた。昼前になり、やっぱり行こうと決心し、母親にちょっと出かけてくると言って、美砂は愛車のパルサーを繰り出した。車を北へ向け、東名阪自動車に乗りそのまま三重まで突っ走り、御在所サービスエリアで一服した。昨日とは打って変わり、快晴で風もほとんどなく、気温も暖かい。パルサーのウィンドーを開けると心地よい風が車内に通る。スピードを出していたので、長い間開けっ放しにはできないが、オープンカーならどんなに気持ちがいいかと思えるほどだ。一時間半ほどで、東名阪の終点・亀山へ着き、そこからは伊勢自動車へ道を変えた。少し前、二課だけの一泊旅行で勝浦の方へ行ったことがあるので、志摩へ行く道はだいたい分かる。自分の所属する二課はこういった面では他の課よりまとまっている。一課や三課とは系統の異なる作業をしているし、藤井や美香のおかげで課としての連帯感も強い。他の管理職より一般社員に年齢的にも近い水野課長の指導もあるのだが、その水野も最近は社員よりは会社側に付くようになった気がして、少し寂しく疎隔ができたような思いがしていた。
 伊勢自動車道を進み、折角なので海が見たいと思い立ち、松坂インターで下りて海岸へ向かった。松坂市からは国道二三号線に入り伊勢へ向けた。伊勢と言えば、神道の聖地・伊勢神宮がある。内宮と外宮からなる巨大な神社で、早い話伊勢の市街地そのものが神社だ。いたるところに伊勢神宮に関わる神社があり、観光客が絶えることはない。昔からのお伊勢参りがいまだに続いているのだ。美砂も子供のころ来たらしいのが全く覚えがない。それほど信心深いわけでもないし、伊勢行くのはどうも年寄りくさい気がして、あらためて行く気にはなれない。まあ、結婚でもして(できればの話だが)落ちついたら、旦那と子供のお宮参りにでも来りゃいいさと思っている程度だった。
 伊勢と必ずセットになっているのが二見が浦だ。お伊勢参りして二見で泊まるというのが定番である。二見が浦は伊勢神宮の潔斎場で昔はここで身を清めて参拝したそうだ。白砂青松の海岸は昔のままで、もう少しすれば海水浴場となりにぎわう所だ。二見が浦と言えば夫婦岩だろう。十メートルと三メートルほどの高さの岩が海面に突き出ていて、清めの綱で結ばれている。岩の間から朝日が望めれば最高の風景となるだろう。その奥にはカエルの置物で有名な二見興玉神社がある。
 美砂は国道一六七号線に入り海岸沿いに鳥羽方面へ向かった。伊勢から鳥羽、そして志摩までが三重県の一大観光スポットだ。特に鳥羽はその中心で名古屋からも近鉄ビスタカーで一時間半ほど、家族旅行としては最良だ。見るところも、海洋博物館・ブラジル丸、真珠王=御木本が真珠養殖に成功した縁の地・ミキモト真珠島、ジュゴンやラッコがいる鳥羽水族館、イルカやアシカのショーが見られるイルカ島など、一日ではとても遊びきれないほどあり、鳥羽は観光街となっている。
 美砂は飼われたイルカではなく本物のイルカを見に来たのでイルカ島などには寄る気もない。鳥羽からは近道をするため一六七号線と別れパールロードへ向かった。パールロードは有料道路だが、リアス式の美し海岸線と黒潮の穏やかな太平洋を見下ろしながら走る快適な道で、途中の鳥羽展望台からの眺望は海の美しさを堪能できる。途中、大がかりな工事現場があった。看板には「志摩スペイン村」と記されている。長崎のオランダ村みたいなものだろうか。懲りない日本人だと少々やっかみに思ったが、完成すれば自分もたぶん面白がって行くのだろうと苦笑してしまった。
 パールロードが終わると賢島になる。真珠と牡蠣からなる観光地で、ハイセンスなリゾート地になる。マリンスポーツもにぎやかで合歓の郷というアウトドアーステージもある。車は二六〇号線に入り、大王崎を通って志摩町へ至った。民家の横を通り過ぎるような狭い道を進み、志摩半島の先端である前島半島の御座まで来た。
 観光地を回っていくように進んで、時間は既に四時をまわっていた。適当な所に車を止め外に出てみた。車に乗りっぱなしでさすがの彼女も疲れ、大きく伸びをした。シーズンオフなので人もほとんどいず、店屋も開店休業のようにのんびりしている。あまり観光地という感じはなく、連絡船の乗場があったが、今は運行していないようで、古めかしいバスが一台客待ちをしているだけだった。美砂は海辺の方へブラブラと歩いていった。この辺りは白浜海水浴場と呼ばれ民宿なども多いが、今はひとっこひとりとしていなかった。海が静かに貝殻の残骸が残る砂浜をたたき、遠くには漁船が横切っているのが見える。ここまで来たが昨日のテレビのニュースだけではどこにイルカがいたのかよく分からない。よく考えればあのホームビデオは舟の上から撮影されたのだ。舟に乗って沖へでも行かなければ会えないのだろう。思いつきでここまで来たが、冷静に考え自分の無謀さに呆れてしまった。まあ、いいか、といつもの気楽さでしばらく砂浜を散策してみることにした。一人で海を眺めると普通の人は寂寥感が湧いてくるのだろうが、彼女はなぜか泳ぎたいなとスイマーの血が騒いでしまう。対岸の陸地にヨットやウィンドーサーフィンが見え、あれもやってみたいなと行動的な彼女の本性が湧きだしていた。
 その時、どこからともなく「キー」という笛を鳴らしたような甲高い音が耳に入った。美砂は何かしらと思い周りを見渡したが誰もいなかった。気のせいかカモメの鳴き声かなと思ったら、再び「キー」という音が聞こえた。もう一度周りを見たがやはり人などはいない。美砂は少々気味が悪くなり、一目散に戻ろうかと考え始めた。だが、何だろうという好奇心もありもう一度周りをゆっくり観望した。海の方に目がいった時、それは飛び跳ねたのだ。水の中から噴水のように水が上がったかと思うと、一頭のイルカが波の谷間に跳び上がっていたのだ。

6 イルカの目

 美砂は息を呑んだ。目の前に本物の自然のイルカが現れたのだ。もちろん、イルカを見るためにここまで来たのだが、実物に会えるとはほとんど思っていなかった。それが今、自分の間近に現れたのだ。それは喜び以上の驚き、そして偶然以上の運命的な邂逅にも思えた。体調は三メートルもあろうか。イルカ特有の二色体で背中は濃い灰色、内側はそれより薄い灰色である。かなりの長生きなのか、ここから見ても体に筋状の白い傷が無数に有るのが分かる。イルカは海中に潜っては再び海上へジャンプし「キー」という甲高い声を上げている。
 美砂はふと気付いた。あのイルカは私の事を意識している。イルカから見て浜辺に人間がいることを認識していると彼女は感じ取った。それはイルカが跳び上がった時、一瞬ではあるが視線がこちらを見つめていると思えたからだ。単に彼女のイルカに対する思い込みからくる錯覚ではない。確かにあのイルカは私を見つめていた、凝視しているのだ。ここからでははっきり判別できないイルカの小さな瞳が、彼女にはクローズアップされたように見えた。それが何を意味するのか分からなかったが、美砂もそれに答えるかのように、再びジャンプしたイルカの目を見据えた。その一瞬がスローモーションのような感覚になり、心の奥に何かを貫かれたような衝動が走った。イルカは再び海中に沈むと、今度は跳び上がろうとはせず、水面に浮かび上がり泳ぎ始めた。美砂はそれに誘われるかのようにして、その後を追っていった。彼女とイルカの距離は五十メートルほど、水深がそれなりにありイルカが泳ぐのには問題ない。波の合い間にイルカの上部と天空に向かう背びれが漂う。イルカは彼女の歩調に合わせているかのごとくゆっくり泳いだ。百メートルほど砂浜を小走りに進むと、前方に白っぽい物が浜辺に打ち上げられているのを発見した。それは小刻みに動いていて美砂はその大きさからカツオかと思った(こんなところにカツオがいるわけないが)。だが、近づくにつれて何か分かった。イルカなのだ。それも大きさからして子供のイルカだろう。体調は一メートルほどで全体が淡い灰色。そう、それは魚ではなくまぎれもなくイルカだ。
 子イルカは砂浜に横たわりもがいていたが、手足がないのではどうすることもできない。イルカやクジラには座礁という危機的な事がある。単に病気や衰弱で波に打ち上げられることもあるが、集団座礁という不思議な現象まである。イルカ類は数十から時には千を越える群れを形成する。その中にリーダーシップを取る個体がいるはずで、それの導きによりあやまって浜へ近づくこともある。また、地中の磁気による影響があるのではとか、寄生虫により反響定位の機能が狂ってしまうのではという報告もあるが、正直言ってはっきりしていない。
 美砂にはそんな知識はない。だが、目の前の子イルカは座礁し、命が危ないという事だけは理解できる。海にいるイルカがまた「キー」と鳴いた。美砂は咄嗟に事の成り立ちを悟った。海中のイルカはこの子イルカの親なのだ。父親か母親か分からないが、とにかく親もしくは仲間で、子供が座礁したのを助けたいがために、人間にサインを送っていた。そこにたまたま美砂が来あわせたということなのだ。
 美砂は子イルカを救うことにした。どうすればいいのか少し戸惑ったが、とにかく海へ戻せばいいだろうと考えた。美砂は子イルカのところへ行き持ち上げることにした。引きずったのでは貝やゴミで体が傷ついてしまうと思い、子イルカを抱えたが子供といっても一メートルもあるのではかなり重い。人間的に考えても四十キログラムぐらいはあるだろう。とても女の力では持てそうになかったが、ここは踏ん張り「火事場のクソ力」で一気にいく気だった。両手をイルカの体の下に入れ、抱っこするような形で持ち上げた。すっかり体皮は乾ききっていて硬いゴムのようだ。海水浴場なので浅瀬は二十メートルはあるだろう。親イルカのいるところはここから五十メートルぐらいだ。美砂は靴だけ脱ぎ、ゆっくり横歩きで進んだ。服装は単パンにシャツなので濡れてもいいやと思いそのままにした。砂浜の貝殻やゴミなどで素足の裏を傷めたがここは我慢するしかない。海草のヌメッとしたのも好きではないが、それもしょうがない。膝下まで水に浸かったが、まだ下ろすには早い。でも、腕の方がそろそろ限界になってきた。重さの痛みを通り越して、腕の感覚が麻痺しだした。とにかく、あと一息と踏ん張り腰が水に浸るまで進んだ。子イルカを波に浮かすようにして重さを軽減し、大丈夫と思ったところまで来てから、子イルカを離してやった。子イルカは海に戻れたことを喜ぶかのように、水の中で体を回転させ親のところへ戻っていった。次に海中から出た時には子イルカは親イルカの側に浮上し、体を擦り寄せていた。美砂その光景を見て、ホッと胸をなでおろした。
 すると、親イルカが美砂に近づき体を寄り合わせてきた。礼でも言っているのだろうか。が、その時、またしてもデジャブーが襲ってきた。イルカに両手で触れた瞬間、懐かしい感触と心の潤いを感じた。水に濡れたゴムの触感が美砂の魂を揺さぶった。このイルカの感触はあの時の、そう、幼き頃、イルカに乗った時の感覚と同じだった。それはイルカだから同じというものではなく、あの時、自分を助けてくれたイルカだという感触なのだ。動物などどれも同じ顔で見分けがつくものではないが、今の彼女にはこの親イルカがあの時の子イルカだということが明確に分かった。感触だけがそう物語っているのではない。触れ合った時、心が共鳴した感じがあった。イルカの方も、昔自分が助け背中に乗せた少女だということが分かっているようだった。互いの心と心、人間とイルカの心が融合していた。言葉を交わすことはむろん不可能だが、言葉などなくてもお互いの目を通して意思と感情が通じ合えた気がした。イルカは上半身を水の上に上げ顔を美砂の顔にこすり付けてきた。水のしぶきが目に入ったが、懐かしい感覚と喜悦も体全体にしみ入った。イルカの瞳が目前に迫った。水で濡れた瞳だが、彼女には涙に思えた。それは子供が助かったことに対しての喜びか、旧友に出会った歓喜なのか、たぶんいろいろ混ざった複雑なものなのだろう。彼女はイルカにも人間と同じ深い感情があることを認識した。
 イルカは顔を引き戻し、再び海中に没した。美砂は驚きと寂しさを感じ両手だらしなく伸ばした。イルカは今一度「キー」と鳴いてジャンプしたかと思うと、子イルカのところまで一気に泳いでいった。

7 黄昏の中で

 美砂は岸に戻り、靴を持って堤防に座った。単パンはもちろんシャツまでずぶ濡れで乾かさなくてはならない。着替えなど持っているはずもなく、脱いでほすこともできないので、そのまま自然乾燥することにした。二匹のイルカは再会を果たすとそのまま沖へ行ってしまった。彼女はもっとイルカを見たかったのだが、彼らの意思に対抗することはできない。イルカを見送ったあと、心に深い寂寥感が募り、一人寂しく岸へ戻った。
 浜辺には夕暮れが迫り、対岸の陸地と海の堺辺りに大きな太陽が沈みかけていた。雲一つ無く瞳に眩しいほどの光が当たる。海は静かな波に琥珀色のきらめきが輝き、幻想的とも言える神秘な美しさを漂わせている。美砂の背後には既に闇が迫りつつあり、極わずかだが星の瞬きも見えだした。
 彼女は今日の出来事をいろいろ思い返していた。不思議な巡り合わせが自分とあのイルカを再会させた。単なる偶然なのか、それとも目に見えない物の導きなのか。二十年という歳月の隔たりを越え、命の恩人に出会えたのは至福の極みかもしれない。自分も子供から一端の大人になった。そしてあのイルカも子イルカから親イルカとして、海の世界に生きつづけていた。成長した人間と動物の見えない絆が今まで結び付けられていたことが今ハッキリと分かった。彼女が時折見た夢はその証だったかもしれない。イルカと彼女の心が夢という超非現実的な世界で共鳴していたのかもしれない。イルカだって眠るはずだ。夢を見ないとも決して言えないことはない。しかも、知能が高いと言われるイルカである。例え言葉が通じなくても、現実の世界では全く異なる環境に暮らしていても、夢という別世界では魂という存在で共存していたかもしれない。記憶上イルカのことを忘れていた彼女も、その感謝の念を心の奥では忘れえなかった。イルカの方もきっと、あの時の少女のことを忘れられなかったのだろう。そして、二人は再会した。しかも、今度は彼女がイルカの子供を助けるという逆の立場で。目に見えない力で導かれた彼女が子イルカを救ったのだ。昨日のビーチランドの一件からすべては始まっていた。あのイルカの子供を助けたいという気持ちが時間の壁を通り越して、彼女に記憶の活性化と志摩への旅を思い立たせたのかもしれない。そんな不思議な偶然を彼女は考えられずにはいられなかった。
 半渇きの服を肌から剥がし、早く乾くように軽く振った。陽が沈みかけると辺りは海辺ということも重なって急速に冷え込み始める。もうそろそろ車に戻って、車のヒーターで乾かしながら帰ろうかと思った時、琥珀に輝く海の一部に水しぶきが上がった。彼女は暗くなりかけた水面に目を凝らした。波の合間に何かが漂っている。夕日の影で黒くしか見えないが三角形の様なものが見えた。潜水艦を思わせるそれは紛れもなくイルカの背だった。前に進むような形で水面に現れては消える。いつしかそれが二重にも三重にも見えだし、それはみるみるまに無数の数に膨れ上がった。そして、その無数の背びれの中から垂直に跳び上がるイルカがいた。「キー」と木霊するような大きな鳴き声をあげだ。さっきの子イルカだ。その鳴き声に合わせるがのごとく他のイルカたちが上半身だけ海面に浮き上げ、「キー、キー」と鳴きだした。それと共に無数のイルカたちが水面をジャンプしだし、イルカたちの動きが激しくなった。
 美砂は我を忘れてそれに見入った。夕日に照らされる海の風景と、その黄昏の中に繰り広げられるイルカたちの交わりはこの上ない美しさと優雅さを見せつけた。こんな優美な情景を彼女は今まで見たことがなかった。彼女の瞳には涙が滲んできた。普段ほとんど泣いたことも、特に物事に感動して涙を見せたこともない彼女が、この神秘な舞台に涙した。気丈なはずの自分にこんな心の震えがあるなんて、今まで全く気づいていなかった。だが、目前の出来事に感動しえないはずがない。決して、テレビや映画の虚像の世界、どんなに映像技術が進もうともこんな自然の美しさを心に写し出すことはできない。二十四歳の一生の中でこれほど感激と耽美に陥ったことはない。目を通して身体中の全ての感覚を通して、今の出来事を心に焼き付けた。心の震えが止まらない。頬を伝う涙が止まらない。仕事のことも辛かったことも全てを忘れ、今彼女はイルカたちだけの別空間にいる錯覚・デジャブーに引き込まれた。
 イルカたちが子イルカを助けてくれたお礼に来たのだということはすぐに読み取れた。人間以上の仲間意識、家族意識がイルカにはあるのだ。美砂にはイルカたちの心の叫びが聞こえてくるようだった。
———ありがとう。
 彼女も心の中で語りかけた。
———こちらこそ、ありがとう。本当にありがとう。
 その心の感謝に気付いたのか、無数のイルカたちの群れの中から一匹のイルカが岸辺に近づいた。あの親イルカだ。泳ぐことができるぎりぎりのところまで来て、そのイルカは海面に顔を出し、静かに美砂を見つめた。
 彼女ももう一度「ありがとう」と心の中で語った。イルカもそれを受けてか「キー」と一言鳴いて、口をカタカタならせた。

エピローグ

 松浦美砂はパルサーを東名阪自動車道に乗り入れた。時刻は九時を過ぎ行き交う車も疎らだ。家には途中の公衆電話で連絡した。「どこ行ってんの?」と母親に小言を言われたが、「遅くなるけど今から帰る」と伝え帰路についた。今日の出来事は決して忘れることの出来ない体験だった。
 夕日が完全に沈み闇が海を支配した。松浦の視界にはもう何も見えない。波の音に混じって、イルカたちが泳ぐ音が聞こえたような気がしたが、それは彼女の思い過ごしかもしれない。イルカたちは海へ帰っていった。松浦も余韻があるなか、立ち上がった。今度は寂しさなど全くなかった。イルカたちとの出会いに充実した満足感があり、悔いるものはなにもない。もし、イルカたちに会いたければ、またここに来ればいいのだ。きっと、ここに来れば何度でも、いやどこの海に行ってもイルカたちに会えるような気がしていた。イルカとの別れなどない。永遠に彼らとは友達なのだ。
 今日の出来事は誰にも言う気はなった。伊藤たちに話したところで、信じてもらえるはずもなく、結局茶化されて、変な話にされてしまうのがオチだ。それ以上に、イルカたちとの触れ合いは自分の一生の宝物のように思えた。この至宝はかけがいのないもの、けっして無にしたくはない。今の環境では人間とイルカの共存は無理だろう。しかし、いつかその希望が持てるなら、その時自分の体験を語るべきかもしれない。人が自然と環境のことを再認識し、本来の立場に立ち戻ったときイルカと、いやそれ以外のすべての動物・植物と語り合えるときがくるはずだ。
 生物の源は海なのだ。その海にいる生き物との交流、そして人間が海を愛し、海に帰るとき、全ての調和が生まれる。自分は泳ぐこと、そして海が好きだ。それは自分も海の一部だという潜在意識の名残なのかもしれない。イルカを愛し、海を愛す。その思いはいつしか報われる日がきっとくるはずだ。
 松浦はそんなことを考えながら車を運転していた。パルサーに煽られたベンツが道を譲ったのにも気が付かず、松浦は車を走らせた。

———— イルカに乗った少女 完 ————


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