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金津園の切り裂きジャック


プロローグ

 いつもの如くいつものメンバーがいつもの店で、ビール片手に盛り上がっていた。桑原美香の「飲みに行きましょうか」という一言で、その日社内にいた面々が「いいよ、いいよ」と異口同音に返事し、あっと言う間に八人が集まった。藤井以下、佐藤寿晃、松浦、伊藤、土田、加藤共生、そしてたまたま会社に戻っていた竹内である。場所はトリオメンバーのいきつけの一つ、居酒屋「大」である。お世辞にもきれいだとは言えない、狭い店内だが、それがかえってチェーン店の居酒屋とは違う親しみやすさがある。人気のある店なので客はいつも多く、トリオの人々も送別会などを二階の座敷で時々開いていた。食事もオーソドックスなものばかりだが、手作りの温かさが食からも伝わり、ビールの味も一段と旨さをます。何といっても、ここのさつま揚げは天下一品だ。しかし、もうすぐ土地開発のため閉店せざるを得ず、そのこともあってここにしたのだ。ビールを十本も頼んでわんやわんやと一階の奥の大きなテーブルで笑い合い、彼らは仕事のストレス発散にと誰それの噂話や上司の悪口で腹を抱えている。話題が一瞬途切れた時、竹内が思い出したように、話そっちのけで目の前の手羽先を貪り喰っている加藤に尋ねた。
「そういえば、加藤君、この間大変なことがあったんだって?」
「ああ、あの話ですか。ありゃまいりましたよ、ほんと」加藤は手羽先を口にほおぼりながら答えた。
「一体どうしたんだい。何でも殺人事件に巻き込まれたとかきいたけど?」竹内は自分もよく事件に巻き込まれるため、他人のそういう話にも興味があるのだ。何だかんだと言いながら探偵好きなのである。
「そうなんですよ、あんな怖い思いをしたのは始めてですよ」加藤は額に汗をかきながら眼鏡を人指し指で押し上げた。
「思い出すのも恐ろしくて、もうあの事はあまり話したくありませんよ」加藤は怯えているというよりは悲しそうな顔つきをした。
「いいじゃない、私も新聞で見ただけだから、詳しいことを知りたいわ」加藤の表情にも気付かず松浦がせっつくように言った。
「俺も聞きたいぜ、本当はいい思いをしたんじゃないの」と、にやけて笑いながら伊藤がからかった。
「加藤もやるときはやるからな」と藤井までもが突っ込んできた。
「何を言っているんですか?藤井さん!そんなんじゃありませんよ。分・か・り・ま・し・た。黙っていると何言われるか、気がきじゃないんで話しますよ」
 皆の注目が加藤に集まった。

1  駅裏の街

 それなりに助平な男か、東海地方に住んでいる男なら「金津園」という言葉にニヤリとするだろう。言わずと知れたソープランド街である。ソープといえば性風俗の中でも最たるものだろう。余談だが、ソープランドは昔トルコ風呂と呼ばれていた時代があった。だが、トルコ人の学生が自国の名を淫らな個室浴場の名として使われるのは、好ましくないという訴えを起こし、即座にソープランドと改名された。国鉄や電電公社が民営化のためにJRやNTTに、大企業がイメージアップのために社名を変更するのは広告という媒体を使って一気に人々の頭の中に浸透するが、変な言い方だが、一種庶民的なものであるトルコがいとも簡単に改名を成しえたのは不思議としか思えない。
 ソープ街とは大きく分けて二つのタイプがある。一つは繁華街の中にあるタイプで、東京の新宿歌舞伎町や札幌のススキノの街がこれにあたる。これらは飲食街や映画館、カラオケなどが立ち並ぶ中に他の性風俗の店も交えて、混在しているのだ。ススキノで「ドラえもん」の映画をやっているそばにこんな店があるのはちょっと驚いてしまう。一方のタイプは完全に街の一角にソープ店がかたまっているタイプである。東京の吉原などがこのタイプだ。同じ業種の店が密集しているというのは問屋を除けば横浜の中華街ぐらいしか例がないだろう。金津園は後者のソープ街である。
 JR岐阜駅の南口、いわゆる駅裏の一角に、夜ともなれば眩しいネオンが輝き、まるで街の一角だけが昼間のようだ。知らない人が見ればパチンコ屋かと思うだろう。加藤からきいた話だが、岐阜駅の近くをたまにマラソンが通る。テレビ中継される時、線路越しに金津園が見えるのだが、その前を通る時だけはアングルを考え、決して映らないようにしているそうだ。今は岐阜駅の高架化でそんな配慮の必要性も無くなったが、岐阜市民にとってこの街の存在はどう写っているのだろう。
 金津園の正式な地名は加納水野町という。この付近は名鉄名古屋本線の加納駅から西の県道まですべて加納○○町となっている。その一丁目、二丁目をすべてこの手の店が占めている。狭い一角に数十もの店が立ち並び、一歩その一角から外れると、ごく普通の住宅地になっている。この辺に住んでいる人はさぞかし迷惑なのだろう。子供には一体何と説明しているのか?
 一時はエイズ騒ぎや新風俗営業法の発令で下火になりつつあったここも、日本人は熱しやすく冷めやすい体質なのか、エイズのことなどすっかりわすれてたり、店の新しいサービスでほどほどに繁盛している。
 だが今、金津園は全国的に有名になりパニックに陥っている。それは男性側の問題ではなく、そこで働いている女性側、いわゆるソープ嬢たちの問題だった。世間ではマスコミがこぞってつけた「金津園の切り裂きジャック」というフレーズが飛び回っていた。

 すでに被害者は三名出ている。いずれも女性、しかもソープ嬢である。それがマスコミや俗的な週刊誌を騒がせた。最初の事件は二週間ほど前に発生した。雨の降る真夜中、時刻は零時を三十分ほど回っていた。金津園から西、県道の手前で、けたたましい女性の叫び声があたりにこだました。すぐに一一〇番通報され、岐阜県警の署員が駆けつけたところ、路上に刃物らしき物でメッタ刺しにされている女性が見つかった。すでに近所の人が集まり一一九番も通報済で、ものの数分で救急車が駆けつけたが、女性は車の中で出血多量のために死亡した。傷は胸部から腹部にいたるまで数箇所にあり、手や腕、特に顔もむごたらしく切られている。身元はすぐに割れた。彼女が商売用の名刺を所持していたため、金津園のソープ嬢と分かり、すぐに連絡が取られた。被害者は川口京子、年齢は二十二歳で地元の出身であった。「ピーチ」というソープランドに勤め一年ぐらいであるが、それなりの美貌と性格の善さから、人気者となっていて固定客も多かった。こういう店に勤める女性は夜遅いこともあって、たいがいがタクシーを使って自宅まで帰るのだが、この日川口は雨にもかかわらずタクシーを断っていた。店の従業員がそのことを問いただすと、ちょっと用事があると言っただけで、詳しいことは何も告げなかった。どこへ行くつもりだったのか、または、誰かと会う約束でもあったのか、そのあたりは全く不明である。さて、動機の面となるとソープ嬢ということもあって、客とのトラブルが原因ではという見方が強かった。殺害の手口からみてもかなり恨みがあると思われるので、他の女性社員とのいざこざも考えられた。しかし、その方向性は第二の事件が発生し変わり始めた。
 最初の事件から一週間後、再び若い女性の悲鳴がこの静かな街の夜を血に染めた。第二の犠牲者、広田和美も金津園のソープ嬢で店は川口とは別の「エンジェル」に在席していた。ソープ嬢はよく店を替わるので、被害者の二人が同じ店にいたかどうかは調査中である。殺害の手口は最初と同じメッタ刺し。また彼女も普段ならタクシーを使うはずなのだが、その日は歩いて店を出ている。
 このような共通点から、二つの事件は同一犯の仕業で、何らかの理由により呼び出されたのではないかという推測がなされた。犯人像もソープによく来る客の中の変質者ではないかと思われた。特に商売が商売なので性的倒錯傾向のあるものではという見方が強くなった。そこで各ソープの顧客の洗い出しが行われたが、客の名前や住所など身元を示すものなど残っているはずもない。また、予約などで控えておく名前なども本名なのか偽名なのかハッキリせず、不特定多数の客の中からそれらしき人物を探すのは不可能に近い。また各ソープ嬢が持つ固定客でも名前ぐらいは知っているが相手の迷惑が今後の商売に響くため、素直に教えてくれる女性はほとんどいなかった。
 警察の方は金津園付近のパトロールを強化し、事件の再発を防ぐことにした。警察が実際に不法なことをしているソープランドを守るというのも変な話である。また、店側も極力タクシーでの送り向かいを徹底させることにした。もちろん、女性たちもパニックに陥っているので、店を休みだす者もおり、徐々に波紋が広がり始めた。
 が、そんな警備体制にもかかわらず、その四日後、三人目の犠牲者が!場所は金津園から南へ言った商店街の中で状況は今までとほぼ同じであった。被害者・西山華津絵は「トウキョウ」という店に勤める一九歳、近所に住まいがあるためいつも自転車で通勤していた。店のオーナーも危ないからさんざんタクシーで行き来することを勧めたが、彼女は「大丈夫、大丈夫」と言い張り、結局無惨な末路を迎えてしまったのだ。
 警察は連続殺人事件として大規模な捜査を展開したが、これという手掛かりはない。夜一二時をすぎているため目撃者もほとんど無く、わずかに黒いコートの男らしき人物を見たという情報があっただけだった。マスコミも三人の犠牲者を出したため、連日朝昼のワイドショー、または通常のニュースでも放送され、金津園は一躍全国にその名を轟かすこととなってしまった。中には自業自得などと殺人があったのも構わない発言があったり、モザイクで顔を隠したソープ嬢の恐怖が毎日にブラウン管を騒がしている。
 そして、三日後、最初の事件から二週間目、再び犠牲者が・・・。

  2 飛び出した女

 加藤共生はトリオシステムに勤めて半年が経っていた。この半年無我夢中でやってきて、よく理解できないままでも、今日までどうにか過ごしてきたつもりだった。始めはいろんな人と細かい仕事を行って、その後佐藤寿晃の下でしばらく作業を手伝った。が、その後が地獄の第一歩だった。やはり、厄というものはあるのだろうか?前厄の二十三歳、土田という変な先輩の下で働くようになってから、生活のリズムが狂い始めた。滋賀の大津にあるF社からの仕事だったのだが、突然わけの分からぬまま、自分とは課の違う早野部長に呼ばれ、土田の仕事を手伝わされるはめになった。そして、作業の内容もよく把握できないうちに、滋賀から来た州崎という人と打合せを行い、雲をつかむような質問責めにあったまま、「研修」という銀行のシステムの一部を担当する結果になってしまった。それからは苦学の連続、まだ、まともにCOBOLなども理解していないのに、F社特有のYPSなどという見たこともないプログラムで作成しなければ行けないのでますますパニック状態に陥ってしまった。徐々に帰宅の時間は遅くなり、毎日残業の連続だった。十時に帰れればいい方でいつも終電近くまで作業をするはめになっていた。さすがに徹夜まではしなかったが、土田や新たに滋賀グループに加わった佐藤などは自分より遅くまで作業をしていた。
 その日も終電列車に間に合うように桜通りを突っ走って、ぎりぎり列車に乗れるほどであった。岐阜駅までは三十分ほどですっかり眠りの渦に溶け込んでいた。はっと気付くと「岐阜、岐阜」というアナウンスが耳に入り、列車から飛び下りた。まだぼやけた頭で南口の自転車置場へ歩いていった。
 加藤の家は岐阜駅の南口から西の方へ向かったところにあるが、母屋とは別に百メートルほど離れたところの別棟で生活していた。もちろん食事などは母屋の方でするが、寝泊まりはその離れであった。
 加藤が家まで戻る時には大きな難関がある。そのままJRの線路沿いに走れば一番早く帰れるのだが、その途中には「金津園」という難所があったのだ。朝出勤する時には何も問題はないのだが、普段の時間に帰る時が問題だった。金津園の前を通るものならば、若い兄ちゃんや少々強面のおっさんが「いらっしゃい、いらっしゃい・・・」、「よってらっしゃい・・・」、「いい子がいるよ・・・」とせわしなく声を掛けてくる。これが毎日続いては堪らなくなる。
 加藤は子供のころからこの地に住んでいたが、子供のころ、金津園のことは子供心にもキャバレーのような変な場所と思っていたが、物心が付きはじめ、その実態が分かってくると徐々に嫌悪感が増してきて、あまり近づきたいとは思わなくなってきた。加藤自身、別に女性に興味がないわけではないが、今はまだ別の遊びの方が楽しかった。マンガと食事と冬にスキーが出来ればそれで満足だった。それに今は忙しくて、余計なことを考えている暇もない。
 加藤共生はいつも金津園を避けるために少し遠回りし、ついでにコンビニに寄って家に帰っていた。だが、今日は既に十二時を過ぎていたし、連夜の残業で疲れていたため一番近い道を進むことにした。十二時を過ぎると金津園も一斉にネオンを落とし静かな感じを漂わせている。もちろん、呼び込みの男たちもいない。ただ、店の前には何台ものタクシーが止まっているだけだった。近頃のソープ嬢連続殺人事件のため店の女の子を送り返しているのだろう。加藤も最近の騒ぎは当然知っている。地元の事件だ、穏やかなわけがない。近頃は警察のパトロールも増えて、ついつい気になってしまう。
 見た目にも綺麗な女性がタクシーに乗るのが目に入った。こんな女性がこういういかがわしい店で働いているかと思うと、ますます女性観というものが変わっていくような気がしてきた。
 金津園の一角を過ぎ、街頭も薄暗い住宅地に入る。社宅の高層住宅があり、その向こうにはこじんまりした住宅が立ち並んでいた。羊毛の工場地を通ると反対側には貨物列車が線路を駆け抜け、ガタガタとリズムに乗った音が聞こえる。その音に混ざり何か高い異なる別の音が聞こえてきた気がした。何か人の叫び声のような。列車が過ぎ去る貨物の音がドップラー効果と共に遠ざかった。
 加藤は自転車を止め聞き耳を立てた。連続殺人の事が脳裏をよぎった。まさかと思いながらも脚が動かない。心臓が波を打ち出した。汗かきの顔に汗がにじむ。そして「キャー」という叫び声がまたしても。今度ははっきり聞こえた。恐怖が加藤を包んだ。どっちの方向から声が聞こえたか全く分からない。頭の命令よりも早く脚がぺダルを漕ぎ始めた。早く帰ろう、その思いが頭の中に膨れ上がる。まっすぐ進んで思いっきり走れば五分で家に着く。そして、服を脱ぎ捨て布団に潜れば、あとはもう夢の中だ。
 ペダルが高回転する。前など見ているようで、全く見ていなかった。記憶の中にすべてある道とその交差点も全く視界に入らなかった。目の前のT字路に人影が見えた時は既に遅く、加藤はその人影を避けるために急ブレーキをかけハンドルを傾けた。急な制動力は自転車のタイヤをロックし、自転車は横滑りして、ついにはそのまま横転、道路脇の電柱に向かった。加藤はスキーの運動神経を発揮させ、傾いた側の足を地面に付け、靴を滑らせながら自転車のハンドルを離した。自転車はそのまま電柱にぶつかったが、加藤は足を踏ん張りその巨体を支えた。二三歩そのまま脚がもつれたものの、何とか転ばずには済んだ。自転車がぶつかった音も聞かずに、飛び出した人影を見た。暗い路上にうずくまる人の形が見えた。加藤は駆け寄りその小さな人に声をかけた。
「すいません。大丈夫ですか?」
 その人影が顔を上げた。女性だ。暗い中で見せた顔だが、電灯の光の帯がわずかに顔を映した。髪の長い若い女だ。目鼻だちはすっきりしていて、大きな目と小さな口。加藤は一瞬ドキリとした。はっとするような女性の顔が目前にあり、次の言葉が出なかった。彼女の顔にはびっくりしたという表情がありありと出ている。
「大丈夫ですか?怪我はありませんか?」もう一度加藤は尋ねた。
 女はやっと我にかえったのか「ええ、大丈夫です」と一言言って立ち上がった。
「本当にすいません。慌てていたもので」
「いえ、私の方こそ、飛び出したものですから」女は洋服をはたいて回りをきょろきょろ見回した。
「どうかしました?」
「いえ・・・、あの、かばんが」加藤が当たりを見渡すと五メートル程先に大きなバックが転がっていた。加藤は駆け寄りそれを拾った。デパートの袋ほどの大きさのバックで中には何か柔らかそうなものが入っている気がした。
「どうぞ」加藤はバックを女に手渡した。
「すいません」女は軽く会釈して立ち去ろうとした。
「本当に大丈夫ですか・・・」女はもう一度うなずいた。
「あの、今さっき悲鳴のようなものを聞きませんでしたか?」
 女は「えっ」と言って立ち止まった。振り返った女の表情は妙に強張っていた「しっ、知りません」とつぶやいて走り去った。
「あっ、あの・・・」加藤は追いかけようと思った時、遠くの方からパトカーのサイレンが聞こえてきた。加藤は倒れている自転車を起こした。どこか曲がっている感じがしたが、走れないほどではなかった。前かごから落ちたカバンを拾って再び走り始めた。さっきの女性の姿はどこにもない。県道の高架橋のガード下に入った時、上の道をパトカーが過ぎ去った。
 あの女のことが気になった。家に着いた時、なぜか寒けがした。

3 職務質問

 翌日、電車に乗っていても、歩いていても、会社で仕事をしていても、昨日のことが気になってしかたがなかった。今朝、母屋へ朝食を取りにいき、早速新聞を開いた。三面記事には大きな見出しで「四人目の犠牲者 ジャック再び」と書かれていた。時間は十二時半ごろ、手口は今までと同じで、殺害されたのもやはりソープ嬢だった。今度は一件目と同じ「ピーチ」という店の女性であった。朝刊なので詳しいことはまだ載っておらず、今までの事件の概略や犯人像などが書かれていた。
 加藤は事件の発生を知るとともに昨夜の女のことが思い出された。始めて彼女を見た時、驚いた表情をのぞかせていたが、今思うとあれはひどく怯えていた顔に思えた。それに慌てていた様子、なぜだろう?そう思い始めるとどうしても昨日の事件と結びつくような気がしてならなかった。何らか、あの殺人と関係がある。つまり、目撃者ではないのか?だからこそ、あんなに怯えていたのでは?それとも、彼女も狙われていたのだろうか?そうなると彼女もあの商売の人なのだろうか?次から次へといろんなことが考え浮かんでくる。ボーッと考え事をしながらマシンの前に座っていると、佐藤寿晃に「何、ボサッとしているんだ」と突っ込まれ「いえ、別に」と慌ててキーボードをたたくという繰り返しが一日続いた。
 その日は昨日遅く帰ったので、いつもよりは早めに帰宅することにした。夕食は土田たちと近くの桜宛へ食べに行ったのでいつもよるコンビニにはマンガと夜食を買いに寄った。家に着いたものの、毎夜の遅い帰宅に慣れてしまった生活では何もすることがなかった。テレビも連続物のドラマでは途中の話から見ても面白くない。ぼんやりニュースを見ていると、金津園の事件の続報が流れ、意識が活発になった。昨日発生した、四件目の事件のことが細かく報道された。が、事件の進展はほとんどないと締めくくられた。ニュースが終わるとまたあの女の顔が浮かんできた。時刻は十二時になろうとしている。どうも眠気が感じられなかった。明日は土曜日で会社は休みだ。と言ってもこの忙しい毎日、毎週のように休日出勤をしているので、明日も行かなければと思いつつ、寝る気にはなれなかった。加藤は表へ出て自転車に乗り、夜更けの暗闇を駅の方へ向かった。
 別に目的地が有るわけではない。ただ、フラフラと駅へ向かえば彼女に会えるかもしれないと思っただけだ。“もう一度彼女に会いたい。”それは彼女に会って事件のことをきき、もし関わりがあるのなら事件解決のために協力してもらいたいと思ったからだ。たとえ、ソープ嬢といえども一人の人間である。その人間が殺害され、しかも自分の街で事件が起こっているのでは、早く犯人を捕まえてもらいたいという気持ちは人一倍である。加藤としては彼女は何かを知っているが、彼女の立場上警察に協力できないのでは、という考えがこびりついていた。それは加藤の勝手な思い過ごしかもしれないが、とにかくもう一度彼女に会って確かめてみたいという気持ちが、今自転車を転がしている理由の大半だ。そして、その理由以外にも・・・・・・。
 子供のころから歩き回っている道を闇雲に走る。金曜の夜とはいっても事件の続く中、人の姿はあまり見かけない。時々いつもの自分のように自転車に乗ったサラリーマンがいるぐらいで、女性の姿は全くなかった。金津園が見えるところまで来た。十二時を過ぎているので輝きは全くなく、街頭に照らされた異様な形の建物が光と影の中に見えるだけだ。そこまで行く気になれないので、途中工場の手前で曲がり、狭い路地に入っていった。昨日彼女と出会ったところだ。彼女が来たと思われる方向に足を向けた。その時、かすかに人影が見えた。加藤はもしやと思ったが、その思いははかなくも打ち砕かれた。
 影は二つになり影の一つから光が灯されている。その光から発せられる光の帯が加藤の顔を照らしだした。相手はパトロール中の警察官だったのだ。
 ———しまった。最近の厳重なパトロール体制のことをすっかり忘れていた。 
 やばいと思ったものも束の間、向こうの方から声を掛けてきた。
「もしもし、ちょっと失礼しますが、こんな時間にこんなところで何をしているんですか?」二人の警官はまだ新人のような若い警官とかなり年季の入った背の低い警官だった。
「あっ、いえ、その・・・・・・ちょっと寝れないんで散歩していたんです」
「散歩ですか?」年輩の警官は怪訝そうな表情を示した。「近頃この辺は物騒だということは御存知ですね」
「ええ・・・、でも私は男ですから」
「まあ、そうですけど、今は男の方もうろつかない事態ですよ」
 警官の言っている意味がすぐに理解でき、加藤は嫌な予感がした。
「失礼ですが、身分を証明するようなものはお持ちですか?」
 加藤は仕方なく財布から免許書を取り出し、手渡した。警官は懐中電灯を免許書に当ててから加藤の顔と見比べた。
「お住まいはすぐそこですね?ほう、まだお若いんですな、学生さんですか?」
「いえ、働いています。サラリーマンです」
「分かりました。申し訳ないですがすぐそこの交番まで来てもらえますか?別にあなたが怪しいというわけではないんですけど、現在の緊急警戒下では、少しでも不審なところがあれば、調査しなければならないのでね。元々、こんな時間にうろついているあなたが悪いんですから。まあ、ついでに付き合ってもらえますか、そのうち眠くなりますから」
 警官は優しい言葉つきで接しているが、その態度には有無を言わせない厳しさがあった。加藤もここで抵抗しても仕方ないと観念し、何もやましいことはないので指示に従うことにした。年輩の警官と若い警官に挟まれて、加藤は自転車を押しながら警官に歩調を合わせた。正直言って気分のいいものでないが、この際文句もいうことは出来ない。
 警官たちはネオンの消えた金津園の前を通った。店長らしき人物が店を閉めている光景もあった。交番は駅の南口のロータリー内にある。いつも通るところだが、案外お巡りなどの顔は覚えていなかった。中に入るともう一人制服を来た警官と、スーツ姿の男が座って談話をしていた。スーツの男は三人が入ってくるのを見ると、話をパタリと止め鋭い目付きをした。
「どうした?その男は?」スーツの男は加藤の顔を見据えた。
「この付近をうろついていたので念のためと思いまして」年輩の警官が丁寧に答えた。どうやら上級の警官、刑事なのだろう。
「そう、まあこっちに座ってください。そんなに怯えなくてもいいですから」刑事は加藤を目の前にある椅子に座らせた。
「こんな時間にうろついていて何をしていたんです?あなたも金津園のことは知っているでしょ?怪しまれても仕方ないですよ」
 刑事は加藤の全身を見ながら言った。加藤のほうも男の方をじっと見た。三十は過ぎているが、短めの髪にすっきりした顔立ちだった。
「いえ、ちょっと眠れなかったもので、ついついいつもの癖でふらふらと散歩に出たんです」
「んー、うろついていたあなたが悪いのですから少し付き合ってもらいますよ」
「はあ・・・」加藤にとってはこういう体験は初めてなのだ。どうしていいのか戸惑っているのみだった。
「身分証明書は見せてもらったのか?」刑事はさっきの警官にきいた。
「はい、橋本刑事、この近くに住んでいる方ですが」警官が奥の部屋から答えた。
「お名前とお住まいは?」橋本刑事は加藤に向き直って尋ねた。
「加藤と言います。加藤共生です。住所はこの近くの久保見町ですが」
「お仕事は?」
「サラリーマンです。コンピュータ関係の」
「ほう、そうですか、なかなかですな、もう長いんですか?」
「今年入社したばかりですが」
「おや、そうですか、おいくつなんです?」
「二十三ですが」
「そんなにお若いんですか、これは失礼」と言いつつも橋本は微かにニヤリと笑っていたのに加藤は気付いた。
 加藤は歳のわりに老けてみられる。会社でもさんざん土田や佐藤に「オヤジ」だとか「おっさん」とか言われていつもふさいでいた。が、見ず知らずの刑事にまで言われたのでは腹も立ってくる。
「さて、ここからが重要なのですが、気を悪くしないでくださいよ。形式的なことですから。昨日の夜中、正確には木曜から金曜になった十二時から一時ごろぐらいですが、あなたはもう家にいましたか?つまり、四人目の犠牲者が出た日ですが」
 加藤は少し焦った。あの日のことを話せとなると、彼女の事も話さなければならなくなる。それにあの悲鳴を聞いている加藤自身にも疑いを向けられてしまう可能性がある。かといって下手に嘘をつけば列車の時間などを調べられ、かえって心象を悪くするかもしれない。
「あの事件のあった時はちょうど自転車で家に向かっている時でしたけど。家に着くころパトカーのサイレンが聞こえましたが」
「それはそれは、それじゃ殺害があった時間に何か聞いていませんか?悲鳴とか?」
「悲鳴のようなものは聞いた気がします。その時はそう思わなかったですが、今思えばそうかもしれませんが」
「ほうほう」橋本は身を乗り出してきた。
「あと、何か見ていませんか?怪しげな人物とか、特に黒いコートの人物とか?」
「いえいえ、別に。その時は誰も見かけませんでしたが」加藤は動揺を顔に出さないよう努めた。が、刑事を欺くことが出来たかは少々不安だった。
「そうですか、残念ですな、そうなると、あなた自身もアリバイが無いっていうことになりますね」
 加藤は一瞬ドキリとした。刑事の視線が心臓を貫いたようだった。女の事を刑事に話す気にはなれない。彼女に迷惑が掛かるような気がしたし、人に告げ口をするような真似も加藤は嫌いだった。それに、加藤は・・・・・・。だが、そのことが逆に自分を窮地に陥れてしまった。彼女がいない以上加藤のアリバイも実証できないのだ。  だが、運がいいことに他の三件の殺害事件の時には完全なアリバイがあった。ちょうど仕事で徹夜したり、滋賀県の大津に出張で泊まっていたのだ。嫌な仕事だったが、仕事様様だ。もちろん、橋本刑事は後で確認するといっていたが、加藤もひとまず安心だった。何とかそれで解放され、家に戻ることが出来た。  家に帰る途中、加藤は考えた。もう一度彼女に会わなければ。そして、話をしなければ。そんな思いが大きくなっていった。

4 再会

 翌日、と言っても交番に連れていかれた時は既に日付が変わっていたのだが、土曜日の朝、いやとうに昼を迎えようとしていた。本来なら休日出勤のため名古屋へ出掛けるはずなのだが、昨夜家に帰ってから眠ったのは結局三時過ぎで、疲れもたまっていたことも合い重なりすっかり熟睡してしまった。それに、あまり今は仕事に精を出す気力もなかった。どうしても彼女のことが浮かんできてしまうのだ。
 昼食を母屋でとってから気晴らしに岐阜の街へ出ることにした。いつも通る道を自転車で進み、金津園の手前の踏切を渡った。線路沿いに駅の方向へ向かった。途中、昔は倉庫だったらしいがレンガ作りの建物があり、今はアンティークなブティックを営んでいた。
 JRの駅前はそれほど派手なところではない。それは問屋街があるためいまいち古めかしいのだ。一方、名鉄側の新岐阜駅の方はかなり騒々しい。駅から徹明町へ向かう道は両側をアーケードが覆い、ファーストフードの店やレストランが並ぶ。そして、その道の真ん中を東海地方では豊橋とここにしかない路面電車が走っている。
 加藤は岐阜の町が好きだった。生まれた時からこの地で育ち愛着もあり、名古屋のように都会染みていないのが好きなのだ。岐阜市は濃尾平野の最北端に当たり、長良川という木曽三川の一つが悠々と流れている城下町だ。隣の愛知とは木曽川を境にして、しばらく田園地帯と工場地が続き岐阜市に至る。岐阜市は県庁所在地でありながらも、小さな町で典型的な地方都市だ。長良川までの間に古い住宅地が密集し、川の向こう側は田んぼもある新しい住宅地だ。そしてそこを過ぎれば飛騨山脈の山々にぶちあたってしまう。
 岐阜といってもそれほど全国に知られている町ではない。ただ、長良川の鵜飼だけは郷土が誇れる伝統である。岐阜城がそびえる金華山のふもと春から秋にかけた夜に行われる鵜飼は、真夏の風物詩であり、五木ひろしが「長良川演歌」でその名をよりグレードアップさせてくれた。ダムのない長良川も下流の河口堰問題で揺らいでいる。岐阜市民としてはいても立ってもいられない気分だ。
 近頃では博覧会ブームの中、未来博という大きなイベントを行い、ほどほどに成功した。加藤も入場券はもらったものの、結局行かずじまいとなってしまった。終わってしまえば何だったのかという思いにさせられてしまう。
 路面電車も好きだ。今は既に廃止されてしまったが金華山に行く時にはよく乗ったものだ。それに運賃もメチャ安である。今では駅から忠節を経て谷汲方面へ向かうのと、各務原線からの美濃へ向かう電車が残っている。電車も新しいものから古いものまで揃い、バラエティーに富んでいる。まあ、これ以上廃止になることはしばらくないと思うができればこのまま存続してほしいものだ。
 バス待ちでごった返す歩道をねって加藤はパルコへ向かった。最近名古屋の栄にパルコができて大騒ぎしていたが、岐阜市民にとってはそれが何だと言いたかった。岐阜には十年も前からパルコがあったのだ。とは言うものの加藤がパルコというブランドの価値を知ったのは最近のことだった。まだ少年のころはただのデパート、パルコの前の岐阜名鉄百貨店と何ら変わりのない思いでいたのだが、パルコにはちょくちょくやって来ていた。衣類もそろえば、靴もあるし、子供のころはよく上階でプラモデルを買ったものだった。今日はスポーツ売場へグラススキーでも見に行こうかと思ってやって来た。
 店内は土曜日とあって若い人、特に女性が多い。加藤はエスカレータに乗り上の階へ向かった。エスカレータのスピードというものは遅いようで早いものだ。上りと下りのエスカレータがすれ違う時、ふと反対側のエスカレータを見ても真横を通り過ぎた人の顔は、あっと思った時には既に後頭部になっている。
 だが、今の加藤にはそれがスローモーションに見えた。二階から三階へ昇る途中、反対側の下りのエスカレータで降りる人の中に、淡いピンク色のブラウスにうすい黄色のスカートをはいた女性がいた。加藤はその女性の顔を見つめた。小さく見えた顔が徐々に大きくなり、目前に見えた瞬間、眼のカメラは彼女の横顔にパーンして、その一コマ一コマが眼に焼きついた。加藤は振り返りながら彼女の後ろ姿を見つめた。
 エレベータが三階に着いたのも気付かず加藤はつんのめった。我に返り加藤はエスカレータの反対側に走り、下りのエスカレータに飛び乗って、ステップに乗っている人を避けながら一階まで駆け降りた。
 既に一階には彼女の姿は無い。加藤は入口の方に急ぎ外を眺めた。パルコの前は新岐阜駅につながるスクランブル交差点で、道路の中央が路面電車の乗場になっている。人の往来が激しく、縦横斜めに交わっていた。その中に加藤は彼女を見つけることができた。信号が青から点滅に変わり始めた。向こう側に着こうとする彼女に走り寄りなんとか追いついた。彼女の前に躍り出て、加藤はわずかに息を吐いた。彼女は立ち止まり「何?」という驚きの表情を浮かべた。
 加藤はどうきり出していいか、切れる息のなかで言葉を探した。
「あの、何か?」女が不審そうに尋ねた。
「・・・すいません、覚えていますか?・・・一昨日の夜中、駅の南で会ったものですが、あの・・・自転車に乗っていた」
 彼女は少し考え、思い出すと同時に微笑んだ。
「ああ、あの時の方ですか。その節はすいませんでした」
「いいえ、こちらこそ。あの後、直ぐにいなくなってしまって、ちょっと気になっていたんですよ。そしたら、ここで偶然見かけたものですから」
「そうなんですか。本当に偶然ですね」
「それで、あの・・・・・・少しききたいことがあるんですけど・・・」
「ええ、何でしょう?」
「その・・・・・・」加藤はあたりを気にするかのように周りを見た。
「お時間はあるんでしょ?あそこの喫茶店でも入ってお茶でも飲みません?」加藤は有り難いと思った。自分からはどうしていいか分からなかったので、彼女が促してくれたのは嬉しかった。 二人は目の前のタクシー乗場の横にある喫茶店に入った。窓際の席に座り二人ともアイスコーヒーを頼んだ。
 前に会った時は夜でしかも慌てていたのでそれほどとも思っていなかったのだが、今間近で見ると実に美しいと言うか、清楚な感じのする女性だ。長いストレートのさらりとした髪、大きなくっきりした目が印象的で、前には気付かなかったのか口の右上に小さなホクロがあり、それが彼女の美しさを際立てている感じがした。だが、ツンとしたお嬢様っぽい感じは全くなく、落ちついた優しさを感じる。
「で、何でしょうか、その前にお名前は?私、清水麗華と言います」
「はい、僕は加藤と言います。加藤共生です。あの・・・・・・この間、怪我はありませんでしたか?」 
「ええ、大丈夫ですよ。何か御心配をかけたみたいですみませんでした。急いでいましたので、慌ててまして」
「いいんです。それでですね。あの・・・その・・・」加藤は一番ききにくい事に触れようとしたので、言葉に詰まってしまった。
「・・・あの時、あの日の夜ですけれど、あそこの近くで事件があったこと、御存知ですよね」 麗華は今までのさわやかな顔を少し強張らせた。加藤はやはりきかないほうが良かったかなと後悔したが、いまさら引くこともできなかった。
「ええ、新聞で読みましたけれど。それが・・・」麗華は思い口を開くように答えた。
「いえね、もし、間違っていたらすいません。あの時あなたが慌てていたように感じましたから、何か事件と関係があるのか、つまり、何かを見たとか、そんな状況じゃなかったのかと思ったので、それがずっと気になっていて」
「・・・・・・」彼女は黙ってうつむいた。
「実は次の日警察に職務質問されて、事件の日現場近くにいたことを話したんですよ。もちろん、あなたのことは話してませんよ。迷惑が掛かるといけないと思って。でも、もし、清水さんが何かを知っているなら、警察に話したほうがいいんじゃないかと思って。もう、四人も被害にあっていますから」
「・・・・・・」
「すいません。やっぱり、僕の思い過ごしでしたかね。変なことばかり言って御免なさい」
「・・・いいえ・・・、その・・・、私も迷っていたんです。加藤さんの言うとおり、私も悲鳴を聞きました・・・・・・」意を決したように彼女は話しはじめた。加藤は真顔で彼女を見つめている。
「・・・・・・いいえ、現場を見たんです。その・・・、誰かが女の人を襲っている。いえ、もう女の人は倒れていて、その男が走り去っていくところでした。私は怖くて無我夢中で走ったんです」
 驚いたのは加藤の方だ。本当に彼女が目撃者だったなんて。
「それじゃ、犯人を見ているんですか?」
「いいえ、はっきりとは、顔は分からないし。ただ、黒いコートのようなものを着ているのだけは分かったんですけど」
「犯人の方は気が付かなかったんですか?」
「ええ、そう思います。でも、私、怖くて」
「だったら、やっぱり、警察に行った方がいいんじゃないですか?」
「でも、犯人をはっきり見たわけじゃないし、それに・・・・・・」そこで彼女は押し黙ってしまった。
「それに・・・・・・」加藤は催促するように繰り返した。
「それに・・・私・・・、私も彼女たちと同じ仕事をしていますから、行きづらくて・・・」
「彼女たちと同じ仕事っていうと、被害者たちと・・・じゃ・・・」加藤はショックを受けてしまった。こんな綺麗な人がああいう店で働いているなんて、信じられなかった。
「ふしだらな女と思われるでしょうが、いろいろ事情があるもので」
「いや、その別に・・・・・・」加藤は言葉に窮した。何と言ったらいいか、ボキャブラリーと経験のない男にとって慰めの言葉は難しかった。
「その・・・大変だとは思いますけど、やっぱり警察に行ったほうがいいと思いますよ。もし、犯人があなたのことに気付いたら大事ですし」
「そうですね、分かりました。でも、もう少し考えさせてください」
「ええ、もちろん。これは僕がどうこう言う問題じゃないんですから」
「でも、本当にありがとうございました。今までどうしようかと悩んでいたんですけれど、加藤さんに言われて前向きになった気がします」
「いえ、そんな」
「それじゃ、失礼します。これから用事がありますので。いろいろ御心配をかけてすみませんでした」麗華は立ち上がりもう一言言った。
「加藤さんって優しい方なんですね。こんな形で出会っていなければ、きっといいお付き合いが出来たと思います」
 加藤はその言葉に茫然としてしまい、麗華が伝票を持っていったのに気が付かなかった。

5 雨の中

 世の中の人と人との出会いは血縁関係を除いて、すべては偶然である。いつどこで、学校、会社、飲み屋、道端、人は誰かと出会い、別れ、時には再会を果たす。真実は小説よりも奇なり、ドラマのような出会いもありうるのだ。
 一度目の出会いが運命なら、二度目は偶然、そして三度目は必然、それとも宿命と言ったらオーバーだろうか?二度あることは三度ある。そのことわざは、まさに、真実は小説よりも奇なりである。
 月曜日、加藤はいつものように出社した。「土曜日何で来なかったのか」と土田に愚痴られたが、「ちょっと用事があったんで」と言うしかなかった。
 麗華のことを忘れようと加藤は仕事に没頭しようと努めたが、どうにも気になって仕方がなかった。彼女が事件の目撃者だったこと、そして彼女の事が胸を突く。あんなに美しく、優しそうな人が・・・・・・。
 加藤が抱く彼女への想いは自分が気付かないまま、徐々につのり始めていた。そして、あの殺人鬼に狙われている次の標的は、彼女ではないかという不安がよりいっそう麗華に対する心の揺さぶりを強くさせた。
 今日も残業する羽目となった。土曜日、休日出勤しなかったツケがまわってきたのだが、よく考えてみると、休みなのに出なければならない不合理なツケが普通の出勤日に回ってくるのが、納得できない点があり、現在の仕事を呪いたくもなった。
 いつものように土田たちと夕食から戻ると、帰りがけの早野部長に呼び止められた。
「加藤君、今日、岐阜の警察から問い合わせがあったけど、大丈夫なのかね?近頃、君の家の近くでは物騒な事件が続発しているようだが」
「ええ、大丈夫です。私は一切関係ありませんから」
「当たり前だよ。これ以上トリオが話題になるのは好ましくないからね。まあ、夜の女遊びもほどほどにしときなよ」と少しかん高い声でニヤリと笑いながら、加藤の肩を叩き帰っていった。「いや・・・その・・・」と加藤は口ごもってしまった。すっかり勘違いされて、腹も立ってきた。
———あのオヤジが、とろいことほざきやがって。第一、俺が残業しようとしているのに、てめえはつっつと帰りやがって、この仕事の責任者のうえ、俺をはめたくせして。
 と、ついつい思ってしまった。

 結局、会社を出たのは十一時を回っていた。相変わらず、土田と佐藤は残っていて、お先に失礼しますと少々後ろめたい気持ちで名古屋駅まで走った。
 岐阜に着いたのは零時近くになっていた。今日は朝から台風の影響で雨が降っていたので、自転車は避け徒歩で来ていた。まだ、接近までには至っていなかったが、雨足は結構激しく、風も幾分強くなってきた。
 こんな天気の中、遠回りする気にはなれないので、一番近い線路沿いの道を選んだ。十二時は過ぎているので金津園のネオンも消え、客引きの男たちも当然いない。前を通る時、このどこかに麗華がいるのかと思うと再び胸の高鳴りと悲しさを感じた。そして、先日彼女と出会った交差点まで来た。もう彼女のことは考えないと思ったが、心と思考とは相反してしまうものだ。
 その時だ。雨音と風の音の間に微かな人の声がした。加藤はビクンとして足を踏み止めもう一度耳を澄ました。再び人の声が、傘に当たる雨の音の中に「助けて」という悲鳴にも似た声が聞こえてきた。
———確かに、人の声だ。
 この間と同じ状況に陥った。しかし、今度は逃げようとはしなかった。もし、襲われているのが麗華だったら・・・、いやそうでなくても大変な事が起こっているのだ。このまま放っておくわけにはいかない。加藤は勇気を奮い起こし、声のする方向へ走った。激しい雨が加藤を打ち付ける。スーツは既に水が染みていて、ズボンは肌に吸いついている。走るのに邪魔な傘は折り畳んで手に持ったまま駆けている。加藤は眼鏡を掛けているので、水滴がグラスに付着し前方がぼやけだした。そのぼやけた映像の中に動く二つの影が見えた。影と言ったが後ろの一つはまさに影そのもので真っ黒だった。そう、黒いコートを着た者だ。その影が前の影、それは女ということが近づくにつれてはっきりしてきた。まさに五人目の犠牲者が出ようとしている。女は倒れてしまった。加藤は二人の前まで迫り、「やめろ」と怒鳴った。
 黒いコートの人物はやっと加藤の存在に気付きこちらを向いた。頭はフードを被っているので顔の様子はよく見えない。スターウォーズに出てきたジャンク屋のようだ。
 加藤は倒れた女の前に出たものの、どうしたらいいか動きが止まった。ここまでは無我夢中できたが、いざ殺人鬼と対面する事態となり我に返った。殺人鬼の右手には刃渡り二十センチもあろうほどのナイフが握られている。加藤は一気に恐怖を感じた。冷たいものが顔によぎる。雨ではない、死という戦慄が走ったのだ。心臓が高鳴る。後ろの女は気を失ったのか動かないままだ。麗華ではないかとちらりと見たが、濡れた髪でも違う女と分かり、ひとまずホッとした。彼女ではないので少し気持ちが萎えたが、いまさら引き下がれない。凍った時間が長く感じられた。実際の時間はわずかなのだが、加藤には何分間にも思えた。
 影の人物が動きだした。右手を振りかざしながら加藤に立ち向かってきた。加藤は手に持つ傘を振り回し抵抗した。傘の先が相手の右手に当たり、殺人鬼は一歩退いた。その時、コートのフードがめくれ影の人物の顔が露出した。
 加藤は驚いた。こんな事があろうか?なぜだ、なぜなんだ。なぜ、あなたが「金津園の切り裂きジャック」なのだ。頭が混乱し始め、前後の見境もなくなってきた。加藤はその迷いの中で後ずさりし、倒れている女の脚につまずき転んだ。
 殺人鬼である女、清水麗華はゆっくりと迫ってきた。加藤は水槽を覗くような眼鏡でもう一度彼女の顔を見た。確かに麗華だ。彼女に間違いない。しかし、その顔付きには彼女の優しい面影が全くない。あの美しさ、あの清らかさなどかけらもなく、今あるのは恐ろしい形相と憎しみに満ちている狂気の眼しかなかった。
 麗華は再びナイフを振りかざした。ナイフがどこからかの光に当たりキラリと光った。その光が加藤にはあの世の入口に見えた気がした。

6 悲しい女

 加藤にとっての女性観は変わってしまった。人は見かけによらないと言われていても、やはり外見で人なりを判断するものだ。特に美しい清楚な女性で、しかも物腰に優しさが感じられれば、素敵な女性だと思わない人のほうが不思議だ。しかし、そんな女が恐怖の殺人鬼だったとは、加藤にしてみると人生最大のショックだったかもしれない。喫茶店で対面したあの淑やかな女性が再会した時には見るも恐ろしい鬼と化していた。あの怒りと憎しみに満ちた女の顔は決して忘れることが出来ない。雨に濡れた長い髪が顔にべったりと張りつき、額を滴が流れ落ちる。その流れ落ちる滴の中に赤いものが混じり、道路に流れだしていた。転んで身動きが取れなくなった。加藤に向かい今しも麗華の手に持つナイフが振り降ろされようとした時、橋本刑事と部下が現れ危機一髪麗華を取り押さえた。何が起こったのか理解できないまま、呆然としていた状態で加藤は今いる岐阜県警までどうやってきたかのか全く覚えていなかった。警察署の廊下の長椅子に座り、首にタオルを巻き付けてボーッとしている。今までのことを整理しようとしていたが複雑な恐怖、つまり、恐怖と悲しみと怒りが心に渦巻いていて、落ちつくことが出来ない。橋本刑事が濡れたスーツを着替え、シャツとスラックスというラフな姿をし、頭をバスタオルで拭きながら歩いてきた。
「大丈夫ですか、加藤さん。それにしても危なかったですな。まさに危機一髪というとこでしたよ」今までとは打って変わって優しそうに話しかけてきた。
「ええ、まあ」ぼんやりうなずくだけである。
「さっき、車の中でもききましたが、加藤さんは彼女を知っていたんですね?」橋本は加藤の隣に座り尋ねた。
 パトカーの中で何を話したのか加藤には記憶が断片的にしかなかった。あの日、麗華と始めてあった日のこと、そして再会した日のことをポツリポツリと言葉を抑えて橋本に語った。
「加藤さん、それじゃ職務質問の時、嘘をついていたことになるんですね?」
「すいません」
「まあ、済んだことですから、仕方がありませんが。しかし、一歩間違えればもう一人、いやあなたも含めて二人犠牲者が増えたところなんですよ。幸い今度の被害者は怪我はしたものの命には別状ないのでよかったようなものですが、ともすればあなたにも重大な責任が覆いかぶさるところだったんですから」
「はい、すいません」加藤は詫びることしか出来なかった。
「それじゃ、ひとまず今日はお帰りください。彼女の本格的な取調べも明日から、いやもう今日ですか、始めますから。加藤さんも後日、また呼び出しますので。車で送っていきますから、玄関で待っていて下さい」
 加藤が立ち上がると橋本はもう一言言った。「加藤さんって、優しい方なんですね」
 加藤はその言葉を以前にも聞いた気がしたが、思い出せなかった。いや、思い出したくはなかったのだ。

 清水麗華は以前は普通のOLであった。だが、派手な生活のため、カードの使い過ぎ、いわゆるカードローンのため首が回らなくなり、万策つきてソープランドで働くことにしたのだ。麗華は「ピーチ」という店に勤めていた。そう、最初の犠牲者、川口京子と同じ店である。麗華はソープで働き始めてからも遊び癖はなかなか直らず、店が休みの時には、ちょくちょく名古屋のディスコやバーへ行き、夜を楽しんでいた。そんなある日、たまたま出会った男と意気投合し、そのまま付き合うようになった。相手の男は不動産関係の実業家で羽振りもよく、互いに深い関係となっていった。もちろん麗華は自分がソープ嬢などとはおくびにも出さなく、岐阜のOLだと言い切った。そして、ついに結婚話まで持ち上がり、麗華にとっては千載一遇のチャンス、いわば玉の輿状態になろうとしていた。そのことに浮かれ過ぎ、同僚の川口につい結婚のことを話してしまった。川口という女は妬むタイプの女で麗華に対し嫉妬を感じていた。それ以上に近頃麗華に人気の方をすっかり取られ気味だったため、それまでのうっぷんもたまり、ついに麗華に対しある要求を迫った。それは麗華の婚約者にソープのことをばらすという脅しで、そうしてほしくなければ金を出せと、ほとんど脅迫に近いものだった。麗華は誰にも相談できず、金を少しだけ与えたが、川口の方は図に乗り再び金銭を要求してきた。このままでは埒があかないと悟った麗華は川口を殺害することにしたのだ。麗華は金を渡すと言って川口を呼出し犯行を実行した。返り血を避けることと、万が一姿を見られても男の犯行だと見せるために黒いコートを羽織って凶行に及んだのだ。
 川口が亡き者になり麗華も一安心したが、他のソープの仲間も脅迫してこないかという疑念に捕らわれ始めた。彼女自身川口にしか話はしていなかったが、川口が誰かに話していないか、それに川口の殺害に対する疑いが川口や自分の友人に浮かんでくるかもしれないという脅迫観念が麗華の心を蝕んでいった。川口を殺害した時点で麗華の精神は狂気というクモの巣に捕らわれてしまっていた。そして次々と自分の仲間であるソープ嬢を殺害しはじめたのだ。第四の犠牲者が「ピーチ」という同じ店の女だったが、第二、第三、そして未遂に終わった第五の犠牲者も今は別の店にいたが、以前は「ピーチ」に勤めており、麗華とも顔なじみだったのだ。麗華は自分の休みの日、彼女たちを電話で呼び出した。世間が「金津園の切り裂きジャック」と騒いでいても、まさか犯人が女性で自分の知人だとは思わない彼女たちは、のこのこ出かけてその短い一生を終わらせてしまったのだ。
 警察の方はほとんど手掛かりがない状態のまま、次々と犯人に先を越されているのに業を煮やしていた。橋本刑事は今一度被害者たちの過去を徹底的に調べるよう命じ、ソープランドの経営者たちの重い口を開かせ、被害者たちの職歴を洗った。その結果「ピーチ」に共通性があることが判明し、今度はピーチを隅から隅までくまなく調べ上げた。そして清水麗華という名前が浮かび上がりマークしようとした矢先、最後の事件が発生したのだ。休みなのに家にない麗華を探しまくり、第五の犠牲者に麗華からの連絡があったことを知った警察は、直ぐさま彼女たちを捜索し間一髪間に合ったのだ。

 加藤は後日冷静になってから考えた。麗華と喫茶店で話した時は彼女は犯人である男を見たとハッキリ言っていた。新聞やテレビの報道では犯人は男らしいと、なかば先入観で報道していたが、警察自信ははっきり男の犯行とは言明してなかった。だのに彼女は男と言った。しかもはっきり姿を見ていない、顔は見えなかったと言ったのにだ。まあ、報道も含め世間一般、この手の犯行は男がするものと誰でも思うのが普通で、加藤もその時は犯人を見たということに驚いたのでそれ以上のことは思いも付かなかったのだ。彼女が犯人だったからこそ、彼女は犯人が男だと言い切ったのだ。結果から見ればあの時気付けばと思えるのだが、先輩の竹内正典のような明晰な頭脳を持ち合わせない凡人の加藤には無理というものかもしれない(竹内でも美人には弱いが)。それ以上に加藤にとって今回の事件は相当なショックであった。女は恐いということを認めざるを得なかったのだ。

エピローグ

「・・・・・・というわけなんですよ」と加藤は半分不貞腐れた口調で言葉をしめた。あまり食事時に相応しい話でもなかったので、皆しばらく沈黙してしまった。
「本当に大変だったのね、あまり聞いちゃいけない話だったかしら」桑原が優しそうに問いかけた。
「いいえ、いいんですよ。もう、済んだことですから」精神的なショックからも立ち直ったようで加藤はいつものように笑ってみせたが、少しだけまだ翳りがあるようにも感じられた。
「新聞ではほとんど加藤君の名前は出ていなかったけど、実際には想像もできないようなことがあったんだな」佐藤がつぶやいた。
「ええ、警察の方はあまり僕のことをマスコミには言わなかったので、まあ気をつかってくれたのだと思います」
「加藤君、もしかして女性観変わった?」松浦がさり気なくきいてみた。
「ええ、そうですね。変わったと言えば、変わったかもしれませんね・・・」加藤は眼鏡のフレームを指で押して、眼鏡を上げた。
「でも、トリオの女性に対しては変わってませんよ。もともと恐い人ばかりでしたから」と加藤は冗談まじりでいった。
「バキッ」と言ったのと同時に松浦の鉄拳が加藤の顔面に炸裂して、後から「あんたね」という桑原の突っ込みが続いた。
「イテテテ、何をするんですか?」と加藤は華を手のひらでこすり、ついでに額の汗も拭った。「あっ、そうそう、何か知らないんですけど、金津園の協会とか何とかいうところが、事件解決に協力してくれた礼とか言って、実際は何もしていないんですけど・・・」加藤は自分の鞄から財布を取りだした。
「・・・ええっと、あった、何かソープランドの入浴料サービス券をもらったんですけど、僕こんなの使いませんから、どなたか要りませんか?」
 真っ先に「はい」と言って手を出したのは竹内であった。

———— 金津園の切り裂きジャック 完 ————


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