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移る殺人鬼


プロローグ

 俺は今までにも数々の不思議な、不可解な事件に出くわしてきた。トリオに入社してからは特に顕著で、俺は祟りにでもあったのかと思うくらい、様々な事件に出会ってきた。中には俺があまり信じていない霊的なものや、脳髄を刺激するような複雑な事件にも対面している。
 しかし、今から話す事件は俺の経験した事件の中で最も謎めいて、最も恐ろしい出来事だった。恐ろしいと言っても霊的なものではない。あまりそういうものを信じない自分にとって、幽霊などことさら恐いものではないのだ。実体のないものより実体のある人間の方がよほど恐ろしい。しかも、その人間に実体がないのだから、科学では割り切れない心霊的な世界よりも科学によって生み出された世界の方がはるかに恐懼を感じることもあるのだ。
 この事件はある程度世間でも騒がれたが、結局は未解決、謎のまま迷宮入りしそうである。そう、この事件は解決することはない。それは不可能なのだ。そして、この事件の真相を知る者は数少ない。そのうちの三人は既にこの世の人ではない。残りの人たちもこの事件の話は二度と口にはしないという、一種の禁句であった。
 この事件を知る者は俺と、伊藤、土田。そして、最後の被害者、渡辺史子だけなのだ。

1  電話

 俺は出向中の身なのでほとんど毎日、出向先のY省関係のところにいる。時々俺あてに会社から電話があるが、「竹内さん、会社から電話です」と呼ばれるといつも嫌な予感がする。特に相手が土田と判明するとなおさらだ。もちろん、単に会社の連絡事項や飲み会の誘いなどの電話である時も多いのだが、どういうわけかそういう時は嫌な予感はしない。今までいろいろな事件に巻き込まれたが、その発端が土田からの電話(もしくは本人)という事が多々ある。
 今日も会社から電話と言われ嫌な予感がうごめいた。そして、案の定相手は土田であった。
———もしもし、竹内さん、お疲れさま。土田です。
 少々控え目な声だった。俺は見えない相手に対し少し眉をしかめた。
「ああ、お疲れさま。元気だった」
———ん、元気ですけど、あの・・・、今は仕事で忙しい?
「いや、ここんとこは暇だけど」俺は恐る恐る正直に答えた。
———そう、なら、ちょっとこっちまで来てくれないかな?相談があるんだけど。
 “相談”という言葉に過敏な反応をしてしまい、一瞬返す言葉がなかった。また、厄介なことなのかと思っていると、土田もそれを察したのか先制攻撃をされた。
———あのさ、相談と言っても僕のことじゃやなくてさ、渡辺さんが相談したいって言うんだよ。
史ちゃんだよ。
 渡辺ときいて少し心が動いた。
「で、何を相談したいの?」
———詳しいことは僕もきいていないんだけど、かなり深刻な問題みたいだよ。本人はだいぶ落ち込んでいるみたいだから。
「そうか、分かったよ。じゃ明日定時ごろに帰るからさ、それでいいかな」
———いいよ、僕たちはそれで、じゃよろしく。
 僕たちの「たち」とは誰を指しているのか少し気になったが、相談相手が女性でしかも史子なのだから、まあいいかと軽い気持ちで引き受けてしまった。これが全ての始まりで、この時は既に後の祭り状態であった。

 翌日五時ごろ俺は会社に戻った。就業時間の変更で五時半が退社時間に変わったからだ。七階に入ると資料に囲まれたデスクに土田が座っていたので挨拶がてら近づいた。
「お帰り、すいませんね」
「ああいいよ、渡辺さんはいないの?」
「マシン室にいるよ」
 俺がマシン室に入ってみると、奥の端末の前に渡辺史子は座って作業をしていた。俺に気付い たらしく軽く会釈をしてくれた。確かに見たところ顔色も良くなく、どこか憔悴しきった感がある。いつもの明るい雰囲気が漂ってこない。長い髪もなぜか、やつれたような顔つきを強調させているように思えた。
「竹内さん、どうもすいません」史子はいつものようにしゃべっているが、やはりどこか翳りがある。
「いいんだよ。どうせ、暇だし。じゃまた後で詳しいことはきくから」俺はその場ですぐに立ち去った。むろん、ここで話をきけるはずもないし、それ以上に、彼女の辛そうな顔を見ているといたたまれなくなったのだ。
 俺は定時になるまで六階にいることにした。下の事務所に行くと、藤井たち、いつものメンバーがいたが、水野課長はいなかった。適当に愛想を振りまいて自分の席に着くと向かいの伊藤が鼻を押さえながら渋い顔をして席に座った。どうせ、松浦でもからかって一発「バキッ」と鉄拳を食らったのだろう。俺は煙草を取り出し一服した。

 五時半を過ぎまだ残業をしている者もいたが、さっさと帰る人たちの方が多かった。俺は桑原たちと雑談して史子が来るのを待っていた。しばらくすると彼女は私服に着替え現れたが、背後には土田が控えていた。二人が俺に近づくとなぜか伊藤賢二も立ち上がり近寄ってきた。「行こうか」と土田が言ったので、俺は「お前たちも行くのか」と少し怪訝そうにきいた。
 「そうだよ。当たり前じゃん。最初に話を持ちかけられたのは僕たちだし・・・・・・ははん、竹内さん、史ちゃんと二人っきりで話をしようと思っていたんだね。そんなことさせるわけないじゃない。狼に羊を与えるようなものじゃん」
 狼は余計だと思ったが、電話で“僕たち”と言ったのが今になって納得できた。まあ、仕方がない。
 俺たちは駅の方まで歩いて大名古屋ビルディングの地下にある喫茶店に入った。史子の状況から判断していつものように居酒屋へ行くのは避けたのだ。俺たちは皆コーヒーを頼み、早速史子の話をきくことにした。
「で、相談というのは何だい?どうやら、大変そうな事とは思うんだけど」
 史子は少し躊躇ってというか困惑した表情をみせた。それは話の内容が突拍子もなく常識外れの話だからだ。意を決したのか、彼女はわずかに瞳を潤ませ重い口を開いた。
「私・・・・・・、私、狙われているんです。私の命が・・・」

  2 連続殺人事件

 俺たち三人はその場に凝固してしまった。史子が発した言葉は意外というよりは驚怖といった感じだった。
「い、命が狙われているって、マジなの?」伊藤が引きつった表情で尋ねた。
「本当です。私どうしたらいいか分からなくて、毎日が恐いんです」
「しかし、一体誰が何の目的で史ちゃんの命を狙うわけ?」土田がきいた。
「とにかく、順おりに話してよ。最初から」俺がその後に言った。
「はい、分かりました。みなさん、最近岐阜市と羽島市で女性の殺人事件が二件続けて起こっているのは御存知ですか?」
「ああ、知っているよ。テレビのニュースでみたけど」俺はそう答え、他の二人も知っているということでうなずいた。
「そ、その二人の被害者は、私の友人なんです」
「そ、それは・・・、とんだことだね」俺は返す言葉が見つからなかった。
「でも、それらの事件はまだ未解決で、犯人も捕まっていないんでしょ。その二人が渡辺さんと友達ということは、つまり、共通点があり、同一犯ということになるのかな?」
「ええ、私はそう思っています。いえ、犯人は分かっているんです」
「分かっている?犯人が分かっているって。でもさ、逮捕されたという報道はなかったはずだけど」
「そうです。犯人は捕まっていません」
「どうも矛盾するな。犯人が分かっていてどうして捕まらないの?」
「犯人は事件の時刻に別の場所にいたんです」
「つまり、アリバイがあるわけ。じゃ、犯人じゃないんじゃないの?何かその人物が犯人だという証拠でもあるの?」
「洋子、その・・・二人目の犠牲者の子が殺される時、別の友人と電話していて、電話口で次はお前だぞと言ったんです。その声に聞き覚えがあるんです」
「何かさっぱり分からないな」伊藤がつぶやいた。俺でもよく分からないのに、伊藤に分かるはずがない。
「じゃ、さあ、もうちょっと整理して最初の事件のことからきこう。渡辺さんには辛い話かもしれないけど」
 史子は時々涙にむせながら話をした。周りの人から見ると三人の男が、か弱い女性をいじめているみたいで、体が萎縮した。
 彼女の話をまとめると以下のようになる。最初の犠牲者は西川紀美江という史子の高校時代の友人だった。彼女は岐阜市の長良川近く、忠節というところのアパートで一人暮らししていて、仕事は名古屋で普通のOLとして働いていた。事件は今から二週間前の金曜日の夜に発生した。午後八時ごろ西川は家に戻ったようだが、九時前に悲鳴がアパート中に響き渡った。すぐに隣人が駆けつけたが、部屋には鍵が掛かり、中からも何も物音はしなかった。すぐに警察が呼ばれ管理人によって扉を開けたが、内部には首を絞められ絶命している彼女の亡骸があるのみだった。
警察は殺人事件として捜査を開始、だが、事件は初めから壁にぶつかった。まず、部屋が密室だということだ。部屋からの出入りは玄関と裏側のベランダのみ。が、ベランダのガラス戸は内側から鍵が掛けられており、玄関も第一通報者の証言から鍵が掛かっていたのは間違いない。しかも、その第一通報者は悲鳴を聞いてからすぐに部屋を飛び出したにも関わらず、犯人らしき人物が隣の部屋から出てくる様子を全く見ていない。部屋の鍵は西川の机の上にあった。完全な密室殺人なのだ。スペアーがあるかどうか分からないが、前述のように事件直後に人影は全くない。管理人がマスターキーを持っているが、彼が犯行を行うことは不可能だった。この時点で史子は西川の親しい友人ということで、警察から話をきかされていたが、事件の深意に気が付くはずもなかった。だが、二人目の犠牲者が出た時、彼女はというよりももう一人の友人により事件の流れが明白になったのだ。
 二人目の犠牲、沢井洋子も史子の友人で西川とも親しかった。彼女も一人暮らしで羽島市の岐阜羽島近くのマンションに住んでいた。一週間前の金曜日、彼女も何者かによって首を絞められ殺害された。犯行の情況は西川紀美江の場合と酷似していて、室内もまた密室であった。ただ、一つの大きな違いというか、手掛かりがあった。それは沢井が友人と電話中に犯行が行われたことだ。その友人、室山智予は史子、西川とも親友であった。室山が沢井と話をしている時、突然電話口から悲鳴が聞こえた。室山はどうしたのかと必死の思いで電話に呼びかけたが、受話器の向こうからは「誰なの?」、「智予、助けて」という声と後はかすかに聞こえた断末魔のみだっ た。だが、それ以上に室山を震え上がらしたのは犯人が電話に向かい「次はお前かもしれないぞ」と言ったことだった。警察もこのことに注目したが、前述のように室内はすべて内側から鍵が掛かっており犯人が出ていった形跡は全くなかった。警察は何が何だかさっぱり分からず、困惑するしかなかった。だが、室山は声の主に心当たりがあった。しかし、その声の人物らしき男には完全なアリバイがあったのだ。

3 犯人ではない真犯人

「その男というのはどういう奴なの、渡辺さんは知っているの?」
「はい、知っています。あれは、今年の春ごろだったと思いますけど、私たち四人で栄のディスコへ遊びに行ったんです。そこで、その男が声を掛けてきたんです」
「男は一人だったの?」土田が的確な質問をした。
「そうです。一人でした。私たち四人のうち紀美江に声を掛けたんです。紀美江は離れようとしたんですけど、その男、しつこくて。そのうち、私たちも彼女がからまれていることに気付いて助けに行ったんです。そうこうしているうちに、喧嘩腰ぽくなって、周りや店の人も少し騒ぎだしたんです。何とかその場は取り繕ったんですけど、その男の人は結構怒っていたみたいです」「その男が電話に出た犯人だって言うの?」俺は釈然としないままきいた。
「そうです。智予が言うには間違いないって言ってました」
「んー、それで、そのことは警察に話したんだよね」
「もちろんです。智予は警察にすべて話しました。私たちの仲間の二人もが殺されるという理由はそれしか思い当たらないですから」
「それで、警察は調べてその男を突き止めた。でも、その男にはアリバイがあったんだね」
「はい。私と智予はその男の写真を見せてもらい、確かにあの男でした。でも、その人は事件の日、栄のバーで飲んでいて、店員やお客に目撃されていたそうです。時間的に犯行は不可能だと言っていました」
「なるほど・・・・・・」俺は腕を組んでシートに背を付けた。彼女の言っている情況は理解できたが、その中身となると随分曖昧である。彼女の友人が二人殺されたということは共通性を示している。その共通性に合致する出来事はディスコでの問題の男との遭遇しかない。だが、犯行時、男には完璧なアリバイが・・・。
「その電話の男は間違いなくその男の声なの?」
「智予はそう言ってます」
 俺たちは三人とも困惑してしまった。何ともつかみがたい話で、どう対処したらいいか分からない。だが、恐怖に震える彼女を放っておくわけにもいかなかった。
「で、俺たちはどうすればいいのかな。その男を捕まえることは出来ないし、アリバイがあるんじゃ追求のしようがない」
「・・・・・・」彼女も先のことは分からず黙ったままだ。
「今日は火曜日だろ。そうすると、今度の金曜日にまた、狙われるということなのか」伊藤が珍しく深刻な顔をしてつぶやいた。
「史ちゃんか、そのもう一人の女性が危ないのか。ひとまず、誰かが守らなければいけないな。犯人がその男かどうかは別として、狙われている可能性はあるんだから。犯人を見つける以前の問題として、彼女たちを守らなきゃいけないよ」土田があごに手を当てて真剣に語りかけた。
「分かった。とにかく渡辺さんを守るのが先決かもしれない。金曜の夜は俺たちで彼女を護衛することにしよう。細かいことは後で打ち合わせるとして、渡辺さん、それでいいかな?頼りない三銃士かもしれないけど」
「はい」史子は涙を拭いながら少し笑顔を見せうなずいた。

 俺たちは彼女を名古屋駅まで見送った。一人で帰すのは心配だったが、次の犯行も金曜日だという判断からひとまずは安心していた。それに彼女の家には両親と姉もいる。大垣の駅までは父親が迎えにくるので心配はないだろう。
 俺たちは再び適当な喫茶店を見つけ、腰を落ちつけた。今後のことを話し合うためだ。
「どう思う?渡辺さんの言っていること信じられるか?」俺は二人に疑問を投げかけた。
「ん、確かに信じがたい話だけど、二人が殺されたことは事実だし、彼女の怯え方も尋常ではないよ」土田が難しい顔をして答えた。
「でもさ、犯人らしき男というのは本当に犯人なのかな」伊藤も難題のクイズを解いているような表情である。
「そこが疑問なんだよな。アリバイがあるから犯行は不可能、でも、殺意はあるし、殺された二人の共通性から考えれば怪しい」
「そんじゃ、誰かに依頼したんじゃない?」と伊藤。
「個人的な怨恨で人に頼むかな?そんな殺し屋みたいのが簡単に見つかるわけないし、まあ、その男の実体はよく分かっていないから、何とも言えないけど。それにさ、声、電話の声は似ているわけだろ」
「じゃ、兄弟とか双子がやったとか?」伊藤らしい突飛な考え方だ。
「何か推理小説みたいな話だな」
「そうだよな、推理小説ならアリバイのトリックとかあるから可能かもしれないけど、現実はそう簡単にいかないよ」と土田が言った。
「時間的な詳しいことはよく分からないけど、警察が白と見たんだから、その点ははっきりしているんだろうな」
「そいつテレポーテーションでもしたんじゃない」と土田の考えそうな空想の世界が出てきた。
「テレポーテーション?瞬間移動ってやつか。それこそ笑止だよ。そんなもの現実にあるわけないじゃない」
「そうだな。超能力でもないとな。それよっか、『ザ・フライ』っていう映画があっただろ、人間がハエになるやつ。機械的に瞬間移動出来たとしても、その機械がこっちとあっちになきゃいけないからな。そう言えば「電送人間」っていう古い東宝の映画もあったよな。その話は今回の似ているけど・・・・・・」これ以上聞いていると土田の領域に入ってしまうので話を制した。「ともかく、彼女を守ることにするか。その謎の男についても調べなきゃな」
「男を調べるってどうするの?」
「ん、まあね。ちょっと、当てがあるから」
「???」

4 報告

 俺自身、死に直面した経験はない。まあ一度、事件の成り行きで犯人に狙われたこともあることはあるが、それほど逼迫したものはなかった。なにぶん、犯人は分かっていたし、男の身だ、自分を守ることぐらいはできる。だが、史子の場合はそうはいかない。友人が二人も殺され、残るは自分ともう一人の友人、しかも、友人が犯人の声を聞いていて、狙われているのは間違いない。その上、犯人は分かっている(本人たちはそう思っているのだが)のに捕まっていない。
 俺は違う意味で「死」に対する恐怖を持っている。以前に出くわしたトリオの大きな事件は、繊細な俺の心を蝕み、「死」というクモの巣に俺は捕らえられそうになった。今は平常心だが、めぐり会った人たちの死と対面するたびにその深い苦衷が甦る。史子もその中に含ませることは絶対にできない。そして、何よりも彼女の恐怖を取り除かなければ、精神的に死んでしまう。だが、今回は難事件だ。頭脳を駆使する、つまり、パズルを組み立てるような事件ではないのが、俺の力の及ぶ範疇でない気がする。そこで、まず事件の詳細を知らなければならない。新聞を読んでも表面上の断片しか出ておらず、史子が語ったようなことは、警察は完全に隠している。そこで、あの人の登場だ。

 木曜日、俺は地下鉄に乗って荒畑という駅で降りた。改札口には初めてそのカジュアルな私服姿を見る男が立っていた。
「どうも、竹内さん。時間通りですね。はるばるこんなところまですいません」
「いえ、こちらこそ。とんだ御迷惑をかけたみたいで、すみませんね。筒井警部補さん」
「こういうところで警部補はやめてください。でも、たいした迷惑ですよ、管轄外の事件のことを調べるのは大変なんですから。まあ、今までいろいろとお世話になった竹内さんですからね。おっと、こんなところじゃなんですから、行きつけの店へ行きましょう。すぐ近くですから。一度、竹内さんともゆっくり飲みたいと思っていましたし」
 筒井は俺を手招きし地上に出てから、暗い道を進んだ。事件の詳細をつかむためにはやはり警察の調書を見るのが一番手易い。しかし、一般の市民にはそんなことはできない。が、知人に刑事がいれば話は違ってくる。中村警察署にいる旧知の筒井警部補に無理矢理頼み込んで、事件の詳細を調べてもらったのだ。筒井の方も俺には恩義がある。彼が担当した事件のいくつかに俺が陰ながら関わっている。筒井は今までの功績で今度警部に昇進し、しかも、愛知県警に異動することが内定したらしい。本人も機嫌がよく、俺の頼みを承諾してくれた。
 筒井は「ナツ子」という雑居ビルの三階にある小さなスナックに案内した。店はいかにも水商売らしい、陽気な三十代後半のママと若い女の子が二人いて、店内はカラオケが鳴り響いていた。店の中は八人くらいが座れるカウンターと奥にテーブルが一つあった。カウンターには常連らしい客が三人いて、俺たちは奥のテーブルに座った。
「筒井さん、いらっしゃい。久しぶりね、元気にしてた?あら、こちらは新しい方ね。ナツコです、よろしく」とママは立て板に水のようにしゃべりまくった。
 筒井はキープしてあるボトルと軽食を頼んでママは引き下がった。若い子が水と氷を持ってきて水割りを作り、俺の隣に座ったが、筒井が「ちょっと大事な話があるんでしばらく席を外してて、後でまたカラオケでもするからさ」と優しい笑顔で女の子を下がらせた。
 彼女が下がってから、少々声を潜め俺は尋ねた。「で、どうでした、事件のこと分かりました
か?」
「ええ、もちろん。運よく岐阜県警の方に後輩がいるんで、そいつに調書をコピーさせましたよ。知り合いが事件に巻き込まれたので、教えてほしいって適当なことを言ってね」筒井はニヤリと笑うと、懐から手帳を取り出しパラパラとめくった。
「じゃ、何からお話します?」
「事件の概要はだいたい分かっているんです。二人の被害者についてなどは。問題は彼女たちの友人の証言から判明したはずの犯人と思われる男のことなんです」
「やはり、そうですか。県警の後輩もその点はあまり見せたがらない感じでしたね。でも、ちゃんと調べましたから。それから、このことは絶対に部外秘ですよ」
「はい、わかってます」
「男の名は相川真一。二十八歳です。職業がですね、研究員なんですわ。一の宮にある原子物理エネルギー研究所とかいう、難しいところに勤めているんです。独身で、一人暮らし、まあ、生活に不自由していることはないようですね。普通の男らしいですよ・・・」
「問題は事件の日の彼のアリバイなんですけど」
「ええ、そうですね・・・。二つの事件はどちらも金曜の夜に起こっています。で、その日の相川の所在ははっきりしています。栄の錦にある「グルテーゼン」というアメリカンスタイルのバーにいたそうです。彼はここの常連で週末はたいてい来ているそうで、どちらの金曜日にもいつも通り来ています。これは店員や同じ常連の客の証言で明白になっています。ですから、相川のアリバイは完璧です。時間的に栄から岐阜や羽島に出かけることは絶対に不可能です」
「そうですか・・・・・・?」俺はそれ以上言葉がなかった。
「被害者が友人に電話を掛けていて、その電話に犯人が出たのは御存知ですよね」
「ああ、それは知ってます」
「そこから、犯人は割れていないのですか?」
「んー、その友人はどうしても相川が電話に出たと言い張っているんですよ」
「結局、振り出しに戻ってしまうのですね。彼女たちは相川が犯人だというし、相川には鉄壁なアリバイがある。それ以上、話が進まないんですね」
「県警もそれで、まいっているみたいですよ。二人の被害者の共通性を探しているようです。彼女たちの過去を徹底的に洗っているようです。今のところこれといった進展もないようですけどね」
「そうですか・・・、でも、あと二人の女性が狙われているのも事実なんですけど」
「どうも、そのことは県警の方も重要視していないみたいですよ。彼女たちの被害妄想だと決め込んでいるみたいです」
「そんな、明日は金曜日ですよ。彼女たちを警護する準備はしていないんですか?」
「みたいですね。その一人が竹内さんの会社の方なのですね」
「そうです。渡辺と言いますが」
「渡辺さん?ああ、この前、乗鞍の事件で容疑者のことを尋ねた時、話をうかがった人にいましたね。髪の長いかわいい子ですよね。覚えていますよ」
 筒井も見るところは見ているらしい。彼が女性の話をするのは意外だったが、こういった世俗的なことを言うのは興味深かった。筒井と初めて出会った時は刑事という先入観もあってあまり好意を持っていなかったが、いろいろ接しているうちに彼の良さ、人間味を感じるようになった。刑事という職業をしているだけあって、人間の、人生の縮図というものを見ているからだろう。筒井はまだ独り者らしい。仕事がら、いい人を探す暇もないだろうが、こういった店に来るのもその反動なのかもしれない。仕事を離れた彼をあらためて見ると、筒井の魅力がわかってくる。俺に似ているのだ。
「警察は動いてくれないのですか?」
「自分で言うのも変ですけれど、警察はよっぽどの確証がないかぎり、事が起きなければ動きませんから」
「じゃ、放っとけと」俺は少しにらみつけてみた。
「そう言われても、私では。今のところは個人で何とかしなければなりませんよ。実際、竹内さんもそのおつもりなんでしょ」
「えっ、分かりますか?」
「竹内さんはそういう人ですから」俺は少し照れた。
「ひとまず、いつものメンバーで何とかしようとは思っているんですけどね」
「そうですか、これ以上協力できなくて申し訳ありません」
「いえ、いいんです。こちらこそ、無理なお願いをして」
「じゃ、こんな時になんですけど、ちょっと酒でも飲んで気晴らしでもしましょう」
「そうですね」
 筒井はカウンターの方に手を振り、女の子を呼んだ。ソバージュをかけた陽気そうな女の子が来て、自分の分の水割りを筒井に断ってから作り乾杯した。カラオケでもしましょうかと筒井が言ってママに「おどるポンポコリン」をリクエストした。俺は筒井の姿を笑いながら見ていたが、頭の中は明日の金曜日の事で一杯で、「タッタタラリラ・・・」も上の空だった。

5 第三の殺人

 金曜日になった。恐怖の日が再び巡ってきた。史子はその日も会社で仕事をしたが、顔色は悪く、時間がたつ毎に落ちつきを無くしていった。普段の彼女とは全く違う様子に周りの仲間も気にはしていたが、彼女はなるべく表面には出さないように気を配っていた。
 俺たち三人は妙な組み合わせになっている。いかにもテレビや小説にある典型的な三人組だ。
腕力や運動には自信がないが知識や作戦の組み立てには力を発揮する人物、逆に知恵や判断力には乏しいが、機敏な動きや行動力を伴い時には意外な活躍をする人物、そしてその両方を適度に持ち全てを統括するリーダー的な人物、そんな凸凹トリオが俺たちのような気がした。今までの事件でも三人が三様事件やその背景に関わっていて何らかの結果をもたらしているような気がした。
 俺たちは相談した結果、次の手立てに出ることにした。一つは彼女を護衛すること。もう一つは彼女たちが犯人と思っている相川を監視することだった。そこで、誰がどの役を担うか問題になった。おれは一人でも大丈夫だという自信があっが、あとの二人は少々物足りない。どちらも一人で任を負わすのには不安が多すぎる。そこで、土田と伊藤を相川の監視役にし、俺が彼女を護衛することにした。この提案に二人は不平がありそうだが、俺は頑として譲らなかった。彼女を守ることの方が優先されるし、どうせなら、女性の側に入るのは自分の方がいいという下心もないとは言えない。他の会社の人間に協力を頼もうとも考えたが、あまり、彼女の事で騒ぐのも不都合だと考えた。どうしても、俺には彼女の話が半信半疑だったからだ。
 当日俺は早めに出向先を出て、会社に戻った。伊藤と土田もこの日だけは仕事を定時に切り上げ、打合せ通りの行動に出た。
 俺は彼女と大垣の実家まで向かった。名古屋駅からJRで大垣駅まで普通列車に乗った。帰りのラッシュでほどよく混んでいるが、この中にあの犯人がいるのではないかという彼女の不安が俺にも伝染しているようで、周りを気にしながら彼女をカバーできる態勢をずっと保っていた。駅には彼女の父親が迎えに来ていた。最初の事件が起こってから毎日、家族の誰かが車で送り迎えするようになっていた。史子は家族に対してきちんと事件のことを話していた。家族が彼女の話を信じているかどうかは分からないが、友達が殺害されている以上黙って見過ごすこともできず、彼女の考え方を受け入れているようだ。この日、俺が彼女を護衛することも家族は承諾していて、父親が俺を見ると「御迷惑を掛け本当に申し訳ありません」と丁寧に挨拶され、こちらの方が恐縮してしまった。
 そのころ土田と伊藤は相川を監視させるため彼が金曜日にいつも訪れる「グルテーゼン」へ行かせた。彼が本当に事件と関わりがあるのか確認するためだ。二人に相川の行動を逐次監視させ、今日起こるかもしれない事件との繋がりを見いだすのだ。
 史子の家に着くと母親と姉らしい人物が迎えてくれた。史子にきくと姉は看護婦だそうで、どことなくそういった優しい物腰をみることができる。夕食の用意ができていた。俺は最初遠慮していたがお言葉に甘えいただくことにした。しかし、楽しい食卓の雰囲気は見られなく少々重々しい感じだ。
 食事の後、史子の部屋に上がった。女の子らしくこざっぱりした清潔感のある部屋だ。女性の部屋に入るのは久し振りなのでどことなく落ちつかなく、まわりをきょろきょろ見ていた。窓際にはきれいに整頓された机があり、大きな花瓶とスタンドが目を引いた。反対の壁に整理された本棚がある。推理小説や映画に関する本など趣味のものが並んでいる。ベッドが壁際にあり、女性らしく犬のぬいぐるみの置いてあった。途切れ途切れに会話しながら気まずい時間が流れていく。九時を向かえる少し前、史子の部屋の電話が鳴った。
「もしもし、渡辺ですが・・・」彼女が受話器を取るとすぐに俺に手渡した。
「伊藤さんです」伊藤は携帯電話を持っていた。まだ、基本料金など高い代物だが、物珍しいものが好きな伊藤の家では仕事の都合もあって買ったそうだ。それを今日は拝借している。
「もしもし、竹内だ。そっちはどうだ?」
———ああ、竹内さんこっちは予定どおりかな。相川という人物は一時間前に現れてずっとカウンターに座っているよ。
「で、様子はどうだ。何か変わったところはないか?」
———いや、別に楽しくバーテンと会話していて不審な点はないよ。
「そうか・・・」その時、電話から別の音が聞こえた。どうやらキャッチホンのようだ。
「伊藤、キャッチホンが入ったからまた何かあったらかけてくれ」
———あいよ。
 俺は受話器を史子に返し、新たな受信を受けさせた。相手は室山智予だった。室山は笠松、競馬場の近くに独り暮らししている。彼女にも今日はボディガードがいた。むろん彼女の彼である。それを思うと、史子には彼女を守る人がいないのかと妙な感繰りをしたくなってしまった。

 史子は室山と今の状況を話していた。どうやら今のところ何もないようでホッとした表情が史子に見られる。だが、次の瞬間史子の表情が急変した。受話器に向かい「もしもし、もしもし」としきりに呼びかけている。
「どうしたんだい。何かあったの?」
「分かりません。急に彼女の声が途絶えて・・・」
 俺は受話器をひっつかみ耳に押し当てた。受話器の奥からはどたどたと物が倒れる音、そして悲鳴が鳴り響いた。それと同時に俺は電話の録音ボタンを押した。後で何が起こったか検証するために必要かもしれないと咄嗟に思ったからだ。俺は何度も「もしもし、もしもし」と問いかけたが応答は全くない。史子も様子を探ろうと受話器に顔を近づけた。
———てめえっ、この野郎。うわー。
 室山の男の怒声が聞こえる。それに続き、部屋が荒らされるような物音が、そして静かになった。受話器の電子音が聞こえるような沈黙が流れた。こちらも問い掛けができないほどの緊張感が流れている。受話器を取る音が微かに聞こえ俺は「もし・・・」と言いかけた時、「次はお前だ」と低い響くような声が聞こえた。
 俺はすかさず聞き返した。「きさま何者だ。何をしたんだ。おい・・・」と言う間もなく相手の電話は切られた。
「ひゃー」と言って史子はその場に気を失った。
「渡辺さん、渡辺さん」俺はどうすることもできず、部屋のドアを開けて家族を呼んだ。史子の姉と父が駆けつけすぐに介抱してくれた。看護婦だけあって姉の手際はいい。
 俺はすぐに警察に連絡し、笠松の様子を見てくれるよう頼んだ。すると再びキャッチホンが入り、俺はすぐに切り換えた。
———竹内さん、土田です。どうです。何かありました?
「何かあったところじゃないぞ。室山さんが襲われたようだ」
———本当?
「ああ、細かいことは分からないが何かあったようだ。ところでそっち、相川の様子はどうなんだ」
———相川は相変わらずここにいるよ。
「そうか、一歩もそこを離れていないのか?」
———もちろん、ずっとカウンターに座ったまま店にいるよ。
「何か様子に変化はないのか、それに電話を掛けたとか」
———電話はかけていないよ。カウンターを動いたのは今さっきトイレに行ったぐらいだよ。そういえばトイレから出てきた時は妙に疲れていたな。入った時とは一変した感じだ。ものすごく疲労したみたいだけど、腹の調子でも悪く踏ん張っていたのかな。・・・で、渡辺さんの方は大丈夫?
「んー、実はちょっと失神しちゃってね。室山さんと電話の最中に事が起きたから。今はお姉さんたちが介抱しているから大丈夫だけど・・・。また、そのことはあとで話すよ。もうしばらく相川の様子を見てからそこを出てくれ。また明日会社で会おう」
———分かったよ。じゃ。
 結局第三の事件は防げなかった。まだ室山の状況は把握できていないが、多分いい結果ではないだろう。ボディガードがいたにも関わらず室山は襲われた。犯人は一体何者でどうやって犯行を行っているのか?ただ、相川犯人説もないような気がした。相川は犯行時「グルテーゼン」にいたのは間違いない。どう転んでも彼が犯行を犯すことは不可能だ。しかし、確実な事が一つだけある。それは次に狙われるのは史子に間違いないということだ。

6 陽炎

 室山智予も帰らぬ人となった。笠松の自宅に警察が駆けつけた時には既に全てが終わっていた。俺の連絡以前に近隣の住民からの通報で警察は急行したのだ。内側から施錠されていたドアが管理人によって開けられた時、そこには彼女と彼氏である小川豊の無残な姿があるのみだった。正確に言うと、警察が踏み込んだ時点で小川はまだかすかだが息が合った。警官の問い掛けに彼は「カゲロウが・・・」と言い残して息絶えた。室山は絞殺、小川は殴られた痕と、後頭部を強打したことが死因だった。どうやら部屋にあったガラスの灰皿で殴られたらしい。隣の部屋の住民の証言によると午後九時すぎ、突然の物音と悲鳴、罵声が起こりその後静寂が訪れたようだ。ただし、ドアが開いたり、誰かが部屋を出ていった気配や音はしなかった。つまり、室山の部屋は完全に密室状態で裏のベランダから犯人が出入りした痕跡は全く無かった。
 状況は沢井、西川の殺害の場合と似ている。いや、同じと言っていい。そして三人の女性の喉を絞められた痕が同一と判断された。指紋は全くないが同じ手によるものと判断されたのだ。警察は三件の事件を連続殺人事件と断定し捜査を強化させた。ただ、三人の関連性となると高校時代からの友人というだけでそれ以外の事件的なつながりはない。何者が何の目的で彼女たちを襲ったか判断しかねていた。むろん、生前の室山が唱えたディスコでのいざこざが捜査の中に現れたが、以前にも警察が捜査したとおり、その時の当事者、相川には今回も完全なアリバイがあった。しかし、彼女たちの友人・史子は相川が犯人に違いないと明言している。それは室山が殺害された直後の電話の声から間違いないと言い張ったのだ。俺が機転をきかして録音した犯人の声は確かに相川と似ていたが、アリバイがある以上白と判断するしかなかった。
 犯人はともかく次に狙われているのは史子に間違いない。同一犯による犯行と断定された段階で史子の身辺を警護する手筈になった。だったら、室山が事件に会う前からと警察の怠慢に憤る面もあったが何とか史子の危機は理解され、ここは怒りを治めるしかない。しかし、警察もどのように彼女を警護すればいいのか判断しかねる点もある。それは犯人がどのように被害者宅に侵入したかということだ。どの事件でも部屋は完全なる密室、入った痕はもちろん出ていった痕跡さえない。これには警察も頭を悩ませた。その侵入手段が分からなければ彼女の警護もままならない。ことによれば史子と昼間はもちろん、寝ているときも一緒に行動しなければ彼女を守りきることは不可能に思えるぐらいだ。
 事件後史子はショック状態に陥ってしまった。友人三人が殺害されればもちろんだが、次に自分が狙われているというのはこのうえない恐怖である。しかも、犯人の予告電話を直に聞いてしまったのではなおさらだ。二三日床に伏せてしまった史子は心身共に衰弱し疲労の影を濃くしていった。

 俺は筒井警部補経由で「カゲロウ」のことをきいた。いわゆるダイイング・メッセージだがそれが何を指すのかは分からない。「カゲロウ」は虫のカゲロウなのか、それとも陽炎のことか、今はそれほど暑い時期でもない、しかも部屋のなかで陽炎が立つのだろうか?しかし、この言葉が俺の心を捕らえ離れようとはしなかった。
「相川が犯人でないというのは間違いないんじゃないの?」伊藤が俺に問いかけた。
「そりゃ、そうだな。何十キロも離れたところにいたんだから絶対に犯行は不可能だな」俺は不承不承答えた。「相川はあの店から一歩も出ていない。電話さえもしていないんだろ」
「そう、絶対に。俺たちはずっと相川を見ていたからね」伊藤は土田に同意を求めた。
「ただ、相川がトイレに行った時間が気になる。ちょうど室山さんが襲われた時間とぴったり一致するのが妙に気になるんだ」
「確かに、偶然にしては出来すぎている。携帯電話でも持っていったのかな」土田は独り言のようにつぶやいた。
「でも、あの店は地下だろ。伊藤君の携帯電話でさえ掛かりにくいというのにトイレみたいな密封された部屋では余計掛かりにくいんじゃないかな。まあ、それ以上に相川が電話で誰かに連絡をして犯行を行わせたというのもどうも合点がいかない気がする。もう一度聞くけど相川がトイレから出てきた時、様子が変だったのは本当なの」
「それは本当さ。汗をびっしょりかいて疲れ切った様子だったよ。髪も乱れていたし、普通じゃなかったね。トイレで何をやってきたのか疑いたくなるね」伊藤はにやけて言った。
 相川の行動はどうも腑に落ちない。トイレに行っている時間が犯行の時間と一致することはもちろん、その時の様子の変化が気になる。何かある。俺はそう思ったが何があるのか考えつかなかった。相川は犯人ではないと状況証拠がはっきり示しているが、おれは絶対に犯人ではないという確信が持てなくなっていた。史子の不安が移ったかのように俺の心も恐怖が浸食しだしているようだ。
「じゃ、一体誰が犯人なんだ?彼女たちが殺される理由は相川との揉め事しかないんだろ?」土田が俺に向かって言った。
「そこが、分からない。何か全然違う接点があるのかもしれない。それは警察の捜査を待つしかないな。とにかく犯人が何者であろうと、次に狙われているのは渡辺さんだということは間違いない。今週の金曜日がたぶんその日なのだろう。さて、どうしたものか?」
「やはり、彼女を警護するしかないな。今回は警察も本腰をあげているようだし」と伊藤が答えたが土田はそれに反論した。
「いっそのこと、彼女を避難というか隠しでもしたほうがいいんじゃないか」
「しかし、それでは何も解決しない。犯人の素性がハッキリしない以上彼女の身を隠しても彼女に対する危機が無くなるわけではない。それよりも日に日に狙われているという脅迫観念は増していき、精神的にまいってしまうんじゃないかな。この際、犯人と対峙しなければいけないと思うよ」
「それはそうだが・・・、犯人は神出鬼没だろら、油断や隙でもあったらおしまいだ。下手に対決してもかえって危険じゃないのかな」土田が疑問を唱えた。
「そこは難しいところだ。どうやら警察は彼女を警護しつつ犯人を現行で捕まえようとするつもりらしい」
「だけど、それじゃ犯人が尻込みして現れないんじゃないかな」伊藤が言った。
「それなら、それでいいじゃないか渡辺さんが狙われなくなるわけだから。でも、ずっとそんなこと出来るわけもないか。犯人が出てこないなら出てこないで問題だな」
 土田の設問はよく理解できる。犯人逮捕のため一種史子を囮にしなければいけないことは必要だが、それで犯人が現れなければ意味がない。とはいってもそのことが史子の身の安全を保証するわけでもない。完全なジレンマに陥ったこの状態は見えない迷路のように永遠を彷徨いそうだ。だが、おれは確信していた。犯人は必ず今度の金曜日に犯行を行うと。どんなに厳重な警戒をしていても奴はどこからか現れ去っていく。謎めいた奴の行動は尋常な世界観では計り知れない。そんな途方もない考えが俺の脳裏をうごめいていた。とにかく、史子を守ることだけは絶対に成し遂げなければいけない。
「竹内さん、でもどうして犯人は被害者たちの住所を知っているのだろう。まあ、調べれば分かることかもしれないけれど」土田が単純な質問をした。
「そのことは俺も疑問に思って渡辺さんに尋ねてみたんだが、沢井さんが彼女たちの住所録を記した手帳を無くしたらしい。それがいつどこで無くなったかは分からないそうだが、もしかしたらそれが使われたのかもしれない」
「それは、ディスコの件の間際に起きたことじゃないの」
「そうかもしれない。今となっては確認のしようもないが」
「とにかく、今度の金曜はどうする?」伊藤が重要な問題を提示した。
「そうだな、君達はもう一度相川を見張ってて欲しい。俺も同じように渡辺さんの警護に付くからさ」
「はあ?でも相川は犯人じゃないんだろ。なら、監視なんかもういいんじゃないか」伊藤が何でやという表情で尋ねた。
「んー、それはそうだがおれはどうしても相川が気になる。それに渡辺さんの警護につくのは危険だぞ、室山さんの彼氏の例もあるから、楽観視はできない」
「それはそうだけど・・・」土田は多少尻込みするような態度を示したがすぐに俺の立場を解した。「しかし、それじゃ竹内さんはどうなるの?竹内さんだって危険だということにはかわりないじゃない」
「そうだ、そうだ。竹内さん一人より三人の方がまだ・・・・・・」伊藤も同意した。
「確かに、だが、今回は警察もちゃんと警戒している大丈夫だ。それよりも俺は相川の行動を逐次観察してもらいんだ。奴が何らかの形で事件に関わっているという確証を見つけて欲しいんだ」
「竹内さん・・・・・・」伊藤と土田はそのまま押し黙ってしまった。
 俺の決意は堅かった。史子の命は俺が必ず守る。そして犯人も必ず捕まえると。今までのように頭脳を駆使する事件とは全く異なるこの事件を俺はどうしても解明したかった。

7  対峙

 その日は雨だった。朝からずっと降りっぱなしで止む気配など全く無く、夜まで降り続いた。湿った空気が俺の心中をより一層うっとうしくさせた。あれから一週間、ついに金曜日が来た。これが彼女、いや俺にとって最後の金曜日になるのだろうか。そんな不安が陰鬱な心を駆け巡った。史子は先日の事件の後、二日程会社を休んだが水曜からは出勤して、いつものように振る舞おうとしていたが、恐怖に苛まれる彼女には普段の明るさと笑顔はなかった。事件のことを知っているのは我々三人だけだが、彼女の翳りのある表情と我々の行動、特に頻繁に会社に来る俺の行動が会社の仲間たちにも何かあるのかという疑念を生みだし始めている。しかし、その回答を教えるわけにはいかなかった。
 史子には通勤に際し彼女を警護する私服警官の女性が付いていた。会社では一応心配がないので警護はいないが、伊藤や土田は決して彼女から目を離さなかった。俺自身は犯人の行動パターンから金曜日までは大丈夫とある程度の確信は持っていた。
 そしてその金曜日がついに来たのだ。先週と同じように俺たちは動きだした。土田と伊藤はすぐにグルテーゼンに行かせ、俺は彼女と一緒に帰宅した。駅までは父親が車で迎えに来たが、後方には覆面のパトカーがいるのに俺は気づいた。今度は警察も本気で考えているようだ。これ以上の犠牲者を出すのは警察の面子に関わるし、犯人を逮捕しなければ謎の事件の恐怖は広がるばかりだ。
 これはあの時、筒井警部補から仕入れた話なのだが、今回の連続殺人のような事件は以前にもあったそうだ。岐阜県下や愛知で起こった未解決の女性殺害事件が数多くある。どの事件も犯人が部屋に侵入した経路がハッキリしない点が共通している。そして、動機の面も分からず、捜査が停滞したままのものが多い。全部が全部そうだとは言えないが、これらの幾つかの事件の内、今回のモノと同一犯のモノがあるかもしれない。警察もこれらの事件は未解決ということもあってあまり大きな報道をしないようにひかえていたらしい。それは背後にある奇妙な事件の成り立ちと、その後のパニックを考慮したものだと言っていたが、今回のように毎週事件が起こったのでは、マスコミを抑えることはできない。連日各局の報道関係が被害者たちの家に集まり、近所の人や友人に話をきくといういつもの光景がテレビで見られた。むろん、史子のことはまだ明かされていないので、彼女のところには来ていない。
 史子の家に着くと周りの道路にはやたらと車が止まっていた。ところどころに人の気配がする。彼女の家は幹線道路から外れた田畑の中にあり、その付近だけ住宅が密集しているようなところだ。近くに新幹線の高架があり、列車が通るたびに「シュッー、シュッー」とパンタグラフを擦る音が聞こえてくる程度の閑静なところだ。だから、警察の人間がやたら動けば目立ってしまい、犯人をおびき出すことができないのではと思えたが、奴にとっては関係ないことのように、俺には感じ取れた。
 今日は夕食も取らず、家に帰ってからはずっと彼女の部屋で待機した。気まずく、重苦しい空気がずっと流れている。テレビを付けることもなく、音楽もかけず、気のきいた会話もない。俺と彼女は押し黙ったまま時の過ぎるのを待ち続けた。時計の針の音だけが妙に大きく聞こえ、緊迫の度合いを増していく。突然、電話が鳴る。一瞬、ドキリとするが相手が伊藤だと分かるとホッとした。
「伊藤か、こっちはまだ何もない。そっちはどうだ?」
———こっちも今のところ異常は無いよ。相川はいつも通りここに来ているけど、先週と同じようにただ飲んでいるだけだよ。
「そうか、じゃ、そのまま様子を見ていてくれ、ちょっとでも変なところがあればすぐに連絡してくれ」
———分かったよ。それじゃ、気をつけて。
 俺は受話器を切り、史子に首を振る動作だけ見せて静かに時計を見た。

 史子の家の中に警察はいない。それは犯人は外からやって来るという当たり前提の事で判断しているからだ。不審な人物が近づけばすぐに行動に移れるように態勢を整えている。家の裏は別の家が建っているので、そこもそちら側から監視している。警察からも一定時間毎電話があった。だが、それも今のところは異常無しと言うのみだった。
 時計が九時を指した。先週はこの時間に犯行が起こった。その前の犠牲者もだいたい九時ぐらいが犯行の時間だった。緊張のボルテージは一気に高まった。奴はどこから来るのか。これだけ、警察が目を光らせていたのではやはり、今回の犯行は無理なのではないだろうか。不安と希望的な観測が交互に心をよぎる。
 周りは妙に静かだ。こういった住宅街だから飼い犬の声でも聞こえてくるはずだが、気味悪いほどの静寂が立ち込めている。
 一体犯人はどうやって被害者たちの家に侵入したのか。その疑問を再考しているとき信じられない光景が目の前に起こった。
 俺と彼女は向かい合って絨毯の上に座っていた。彼女の机がある反対側の壁、ベッドの上に何かもやもやとしたものが現れ始めた。いや、それは壁ではない。壁の手前にある空間だった。何もないはずの空間に空気が歪んだような屈折した光の塊が現れ始めた。それは徐々に大きくなり縦に広がっていく。
———陽炎。
 その時俺は即座にそう思った。室山の彼氏が言った「陽炎」とはこの事だったのだ。俺はその場で片足を立て、身構えた。空間の歪みはますます大きくなり、小さな雷のような光を発した。その中におぼろげな人影が現れたかと思うと、その姿は一気に人間の姿を現した。それは真っ裸の男で、部屋に現れた顔は相川のそれに間違いなかった。
 史子は「キャー」と悲鳴を上げた。俺は「逃げろ」と叫び彼女をドアの方へ誘導したが、相川は機敏な動きでドアの前に立ちはだかった。
「逃がしはしないぞ、このアマ、俺をコケにした報いは受けさせてやる。そして、きさまも道連れだ」俺を指差し、ニヤリと不敵な笑みを浮かべ相川は豪語した。
 俺は両手を広げ彼女を守ろうとしたが、相川はすぐに俺に襲いかかってきた。奴は俺よりひとまわりも大きいぐらいしかなかったが、力は俺の倍以上だった。体格は華奢なのに恐ろしい力だった。その力を奴は両手に集めおれの首に向かってきた。手を外そうと俺がもがいても奴の力にはかなわない。俺は拳を奴の腹や顔に食らわしたが、効果はなかった。奴の裸体には全身に汗が滲み出し、筋肉が盛り上がるかのように張っている。そして、奴の陰部もいきり立つように勃起し、男の俺が見ても気持ち悪いほどだ。息が苦しくなってきた。しかし、ばたばたするだけで俺にはどうすることもできない。
 その時、史子が机の上に飾られた花瓶を持ち上げ奴の頭に投げつけた。さすがの相川もこれにはひるみ、俺の首から手を離し頭を押さえた。俺は息も絶え絶えのままその隙にやつの背後に回り込み、思いっきり蹴飛ばしてやった。奴が床に倒れている間に史子の手を取り、ドアを開け外に出した。下の階からは騒ぎを聞きつけ家族と警察が上ってるところだ。彼女がドアを出ると俺はドアを閉め背中で押しつけた。彼女はひとまず安心だ、でもこいつをどうする。手を押さえつけている頭から血を流して相川は怒りの形相で俺を見た。
「きさま、ただではすまんぞ。だが、あのアマを殺るのが先だ。どこへ逃がそうとも無駄だぞ。俺には瞬時に移動できる能力があるんだ。お前がドアに立ちはだかったところで俺には意味のないことなんだ」
 そう言うと相川は目を閉じ、全身に力を入れた。体中の血管が膨れ上がり、髪の毛も逆立った。奴の周りの空気がまた歪み始め、細かな電流が散り張りだした。俺は咄嗟に机から倒れ落ちた電気スタンドを拾い上げ、奴に投げつけた。電球が割れると、その電極の先から電流が流れだした。壊れたスタンドは奴に突き刺さったように体の中央に留まり電流を発して、奴の体中でスパークを起こさせた。その時、ドアが無理やり押し開けられ警察の人間が拳銃を構えて入ってきたが、目の前の光景に息を呑んだままたちすさんだ。相川は全身に電気を帯び、火花が散っている。顔の表情も苦悶の形相で目が飛びださんばかりになり、髪の毛も焦げているようだった。だが、奴の周りの空気の歪みはますます大きくなり、奴の姿はその中にかすれだした。相川の影は崩れ、空間の中に消えていった。空気の歪みは徐々に小さくなり、パチパチと電気がショートする音が残ったまま、空間は元の空気に戻った。
 刑事たちは何なんだという表情で空を見つめていたが、俺は我に返り、すぐに部屋を出て史子の所に向かった。彼女はリビングで家族と刑事に囲まれて、ソファーで震えていた。
「どうなりました」と父親が尋ねたが、俺は周りの様子をうかがった。どこにも空気の歪みはない。奴が現れる様子は無かった。刑事たちも俺の動きに同調し周りを見たが、不審なものは何もない。
 史子は震えたまま立ち上がり、俺に寄ってきた。「あいつはどうなりましたか?」
「よく、分からない。奴は再び空間の中に消えたけど、どうなったかは分からない」
 二階から一人の刑事が降りてきた。「竹内さん、あなた宛に電話です」
「伊藤君からだろう。君はここで待っててくれ」俺は彼女を家族に託し、再び二階に上がった。彼女の部屋には刑事たちがたむろしていたが、ことの成り行きが理解できず、うろうろしているだけだ。一人の刑事が「竹内さんですか」と尋ねたので、「そうです」と言って受話器を受け取った。
———土田だけど、どうかしたの。
「ああ、奴が現れたんだよ。・・・大丈夫だ。俺も渡辺さんも無事だから。それで、相川は?」———それがね、トイレに入ったきり出てこないんだ。十分くらい前に入ったんだけどね。それで、今伊藤君に覗きに行かせたんだ。ああ、戻ってきた、替わるよ。
「伊藤、それでどうだった」
———わけが分からないよ。相川、トイレに入ったきり出てこないんで見に行ったんだけど、相川いないんだ。トイレのどこにも。便座の方も覗いたよ。そしたら、相川が着ていた服があったんだ。下着や靴下も。でも、相川の姿はないんだよ。きれいさっぱり消えちゃったんだ。あのトイレは入口は一つしかないのに。どうなっているんだ?
「これは、一言で説明できない。ひとまず、君達はそこを出ていいよ。明日説明するから」
———ああ、分かった。
 伊藤は不承不承のまま電話を切った。
 俺にも理解を、常識を超える出来事だった。今、目の前で起こった光景はとても信じられない。だが、相川は未知の力を発揮し恐ろしい犯行を重ねていた。そして、その相川は消えた・・・。

エピローグ

 相川は消えた。あの事件の後、彼の姿を見たものは誰もいない。「グルテーゼン」から忽然と消えた相川の消息は二度と知れることはなかった。事件の捜査はいまだに続いている。だ、結局この事件は迷宮入りになるだろう。俺たちの証言で犯人は相川だと警察には証言したが、その証拠になるものはない。犯行時、「グルテーゼン」にいたのは間違いないことだ。そのことから、相川の犯行と断定することはできないという今までの主張と変わりなかった。だが、その相川自身が失踪してしまった。警察は重要参考人として一応捜索はしてみたが、むろん見つかるはずはない。相川が空間に消える瞬間を見た刑事たちもそのことを文書としては残していない。そういう非科学的なことを警察は認めることはできなかった。
 あとで、筒井警部補からこっそり聞いたことだが、俺が録音した犯人の声と、相川を事情聴取したときに録音した声の鑑定が行われ、声紋が一致したそうだ。声紋は指紋と同じように同じものはない。だが、このことは正式に事件の記録としては残っていない。すべてが曖昧なまま終わりに近づいていった。
 奴がどうしてあのような特異な力を得たのかは、今もっては全く分からない。奴が勤めていた原子物理エネルギー研究所と関係があるのかもしれない。そして、過去に起こった他の女性殺害事件との関連も不明のままだ。こうして、この事件は不可思議なまま俺たちの記憶から消されていった。
 消されていったと言っても、決して忘れることはできない。俺たちはこの事を二度と口にしないと誓った。伊藤や土田には理解できないだろうが俺にとっては本当に恐ろしい出来事だった。それ以上に史子の恐怖は計り知れない。そんな彼女も今では普段の生活に戻っている。あの事件のことはすっかり忘れたようにいつもの笑顔を取り戻していたが、彼女の心の傷はきっと深いのだろう。
 相川は本当に死んだのだろうか。俺はそう思わない。奴はあの時、空間移動に異変を起こし、異世界をさまよっているだけなのではと思える。つまり、いつかまた奴がこの世界に再び現れる可能性もあるのかもしれない。そう思うと俺にとっての恐怖は一生消えないような気がする。今でもそうだ。部屋に一人でいると、背後が気になることがある。空気が歪んでいないかついつい振り返ってしまう。そして、夏の暑い日など道路上に立ちのぼる陽炎を見るたびに奴の顔を思い出す。あの顔だけは永遠に忘れられない。

———— 移る殺人鬼 完 ————


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