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聞こえすぎ


プロローグ

 人は音のない世界で生きられるのだろうか?人間は産まれた時からすでに音を聞いている。初めて耳にするのは自分の産声と母の呼びかける声なのだろうか?だが、命がめばえ母の胎内にいる時から、子供は音を聞いている。母親の体から伝わる鼓動を赤ん坊は聞き取り、その安心感で眠っている。人は生きていくうえで、言葉を聞き、音楽を耳にし、自然の響きを感じ取る。目で見たものはありのままを受け取り、何もそれ以上付加することはない。だが、耳で聞くことは、その音の根源から様々なイメージを想起させてくれる。見ることと聞くことは同じ感覚でもその人間が持つ感性によってとらえ方が全く異なるはずだ。
 聴覚障害の人たちの世界はまさに無音の世界。それは、物が見えない以上に虚しい世界かもしれない。見えないのなら音で想像すればいい。しかし、すべてが見えるのに何も聞こえないことは、悲しいことのように思える。聞こえることがどれだけ幸せか、それは普通の人たちには決して分からない。
 音が存在するこの世界、それは自然と芸術と人との触れ合いを感じさせる心の営みが充満している。その音の世界がもし邪魔になったら?音は雑音になることもある。音の世界が恐ろしい世界になることもある・・・・・・。

1  難聴

 桑原美香は困惑していた。まったく、耳がおかしくなるなんて信じられないことだ。数日前からどうも耳の調子が優れなかった。右と左の聞こえかたが違うのだ。音の方向に向け右耳を傾けた時と、左耳を傾けた時とでは、微かだが音の大きさが違って聞こえた。最初は気のせいかと思っていたが、その症状は徐々に悪化していき、放っておくことができなくなった。子供の時から中耳炎にはよくかかり、耳鼻科咽喉科に何度もいったものだ。中耳炎は慢性化する場合もあるので、またかなと思って病院へ行ったのだが、「軽い難聴ですね」と言われた時は少々驚いた。普段から、音楽などをガンガンかけているわけでもないし、ウォークマンのようなヘッドオンステレオも持ってはいるが、頻繁には使っていないはずだ。原因がよく分からないまま病院通いをする羽目になり、滅入った気分に陥った。半年ほど前、コンタクトレンズのために目に炎症を起こし、眼科に通院して、やっと治ったというところなのに、今度は耳ときた。まったく、踏んだり蹴ったりだ。仕事にはそれほど影響はしないものの、病院に行くのは結構面倒臭い。しかも、耳鼻科咽喉科は夕方行くといつも患者で溢れている。特に子供が多く、待ちの時間が長くて堪らなかった。最近の子供は軟弱なんだからと自分を差し置いて、ぶつけようのない不満を溜めていた。 だが、本当に困惑していたのはその難聴そのものではなかった。難聴になったのは病気なのだから仕方がない。別に不治の病でもないので、治療すればなんとかなる問題だった。しかし、難聴になったせいなのか、はたまた治療の結果なのだろうか?通院し始めてから二週間を過ぎたころ、難聴とはまったく逆の現象が起こった。つまり、「聞こえない」のではなく、「聞こえすぎる」症状が起こったのだ。「聞こえすぎる」というのは物の音が大きく聞こえるのではなく、自分の周りに発生している全ての音が聞こえるのだ。普段耳に入る普通の音はもちろん、尋常な人間には聞こえないような小さな物音、離れた場所にいる人の会話、壁などで仕切られて聞こえるはずもない機械音など、ありとあらゆる音が耳に入ってくる。会社で仕事をしていても、通常はプリンターの音や隣の人がキーボードを叩く音しか耳に入らないはずだ。だが、マシン室で作業をしているのにもかかわらず、離れたデスクでの会話や電話の応答までもが、自然に耳に入る。デスクに座っていても、水野課長と藤井幹弘のひそひそ話がまるで自分の耳元で囁かれているかのように聞こえるのだ。また、松浦美砂と神谷順子の人の噂話や、酒井明徳と脇田奈緒美のデートの約束など、あまり聞いてはいけない話まで勝手に耳に入ってくる。
 むろんこの現象は常時起こっているわけではない。そんなふうになれば、耳の病というより精神的におかしくなってしまう症状になってしまう。「聞こえすぎる」のは一過性のもので、突然それがやってくる。よく高い山などに登って、気圧の関係で耳に異常をきたし、唾などを飲み込むと「キーン」と耳が響く現象に似ていた。静かに仕事に集中している時、突然耳の奥が鐘でもならしたかのようにキンキンしだすと、一挙に周りの音が耳に流れ込む。それは、五分ほどの時間しか続かないが、それが日に二三度襲ってくる。最初、それが襲ってきた時、何が起こったのか咄嗟には把握できなかった。耳を押さえ、周りをきょろきょろするのみで隣にいた谷口文彦がびっくりして声をかけてきたぐらいだ。その谷口の声も他の人たちの声に混ざり込み、ますますパニックに陥った。やっとの事、元の状態の戻った時は汗びっしょりになり、心臓の鼓動が激しかった。ひとまず、その場はめまいがしたと説明して、席で休んでいたが、数時間後また同じことが起こった。二度目はそれほどパニックにはならなかったが、鼓膜が破れるのではという錯覚に捕らわれるような思いだった。その日は早めに帰り病院へ行こうとしたが、三度目の発生は最も大変だった。なんと帰りの列車の中で起こったのだ。その時ばかりは耳が破れそうだった。何十人も乗っている電車の中では無数の会話と列車の機械音、車掌のアナウンスなどあらゆる音が一気に耳に飛び込み、脳が音を解析するのが間に合わないのか、苦痛を伴った耳なり以上の振動が頭を貫いた。自宅の最寄り駅、新一宮まで我慢できないので、取り合えず新清州で降りて、頭と心を落ちつかせた。しばらくして平常に戻り、恐る恐る電車に乗りながら、新一宮で降りるとそのまま病院へ向かった。いつものように人でごったがえしていて、ここでまた発生したら今度は命がなくなるかもという不安に怯えながら、すぐ外に出れる態勢を取り出口付近で待っていた。やっとのこと診療の番になり早速今日の現象を説明したが、医師の方もそんな症状はきいたこともないと、首をひねる始末だった。最後には「精神的なものじゃないんですか」と言われ、美香は落胆した。
 次の日からは突然襲ってるこの「聞こえすぎ」現象におののきながらの毎日だった。時には、眠っている時にも襲いかかり、一気に安眠の底から呼び覚まされることもあった。まあ、夜中だからあまり物音は聞こえないが、それでも、家の前を通る車の音やクーラーの音が耳に入り、すぐに眠ることはできなかった。だが、毎日のように体感しているといつしか慣れが生じ、音を聞き分けることができるようになった。何人かの人の会話が一度に耳に入ってきても、それを個々に聞き分け話を理解できるのだ。今まで雑音でしかなかったものが、各々会話として成立し、それをすべて聞き留めることができるようになった。美香は自分が聖徳太子か「サイボーグ009」の003ことフランソワーズにでもなったような気がしていた。かと言ってそれが楽しいわけではない。聞いてはいけない話、聞きたくない話が勝手に耳に入ってくるのはとても辛いことだった。街を歩いていてこの現象が起こる時も悲しかった。人々の会話は楽しいことや笑い合う話ばかりではない。中には別離の悲しい会話や、人を妬む卑しい会話、誰かを罵る怒りなど様々な場面が耳に入ってきた。聞こえる範囲が徐々に大きくなっていき、どこで誰が話しているのかも分からない状態になり、不特定多数の人々の会話が聞き取れた。つぶやくような独り言さえも入ってくる。人間が生きていく上で、様々なしがらみや葛藤、複雑な問題にぶつかる。それを全て耳に入れるのは人生の縮図を見ているようで、心が痛む。
 美香にとって「聞こえすぎ」現象は苦痛そのものだ。最初は雑音という不快な音に悩まされ、今は、万人の喜怒哀楽という精神的な訴えが苦痛だった。自分は、悩み相談口ではない。多くの人の問題を一方通行で聞かされてどうしようもないのだ。
 そんな苦痛がある大きな事件に発展した。

2  「コロス・・・」

 美香はいつものように出社し、仕事を行った。今日はまだ「聞こえすぎ」現象が起こっていない。このごろ、それが起こる回数も減り、起こったとしても聞こえる言葉や音が途切れ途切れになり、言葉の断片しか分からないようになっていた。耳の機能が回復しているのだろうと彼女は思いたかった。結局原因不明のまま難聴を治す治療だけ行われ、あとは自然回復を待つような状態だった。
 その日の仕事も終わった。会社にいる間、あの現象は起こらず、ホッとした。しかし、どちらかというと、町の中で起こるより、まだ会社の中で起こった方が美香にはあり難かった。不特定の人間より、会社の人間の方が聞いていても誰の声か分かるし、この会社の人間にはあまり悩みや問題はなく、そういった苦言を聞くことは無かったからだ。美香はこの特異な症状のことを誰にも話していなかった。難聴になったことは皆知っていたが、この「聞こえすぎ」のことを打ち明けるわけにはいかない。変に誤解され、皆余計な話を止めてしまい、それ以上に自分が疎遠にされる気がしたから。ただ、後輩が些細な悩みで困っていた時、それを同期に話していたのを耳が感知したことがあった。知らない人間なら放っておいてもいいが、知り合いではそうはいかない。その時は、その問題を解決できるよう助言してあげたが、相手の方はありがたいという感謝の意と共に、よく知ってますねという驚きをも示された。美香は「私、感がいいの」と誤魔化し、相手も彼女に対し畏敬と畏怖の念を募らせていた。まあ、こういうふうにいい結果をもたらすのなら、この現象も悪くはないのだが、そうばかりとは言えない。変なことを知ってしまい、相手に対し平然としようとしてもちょっと意識してしまうこともあり、そんな時は他人の声の方がありがたかった。そういう一長一短な現象だったのだ。
 今日も耳鼻咽喉科に行かなければいけないので、定時に会社を出た。九月なのでまだ帰るころは日が明るい。夕日が傾きかけ、ビルに隠れようとしている中を急ぎ足で駅に向かった。
———キーン、キーン。
 またしても、あの現象が起こった。今日はないだろうと高をくくっていたのに、敵は甘くなかった。耳の苦しみを感じ美香はその場に立ち止まった。四方八方から様々な音や声が聞こえてくる。ただ、最近の傾向通り、それらの音は断片的に耳に入ってくるだけだった。
———フジコ・・・サトシクン・・・アッテイルミタイカモ・・・。
———コン・・・ショウダンハダイジ・・・クレグレモソソウ・・・。
———カラオケニイ・・・パーットノミ・・・イコイコ・・・。
———ヒアノトキアノバショ・・・ボクラハイツ・・・フタリノマ・・・。
———セワニナリマ・・・ゴトモドウカ・・・サヨオ・・・。
———コノハワヌイ・・・ッテオクトゼンブヌカナケ・・・。
———タカノハナ・・・ケボノガ・・・ウショウハヤッパ・・・。
 噂話に商談の打合せ、これからの予定があり、嫌な金属音とともに聞こえる歯医者のような会話、近くを通る車から聞こえる話や歌声など、無数の言葉が頭を貫く。それを脳は断片的な言葉ではあるが全て理解している。そして、もう一つ、気になる会話が耳に入った。
———オダジマリュウイチ・・・ヤリマス・・・カナラズコロス・・・ヨロシクタ・・・
 その会話は美香の心を動かした。只事ではない会話だ。「ヤリマス」、「コロス」という言葉は、そのまま理解すると「殺ります」、「殺す」になる。
 美香はもっと聞こうと耳を傾けたが、「聞こえすぎ」現象は終わってしまった。この現象、自分では全くコントロールできない。勝手に始まり、勝手に終わる。むろん、制御できるならいまさら苦労を強いられず、有為なことに使っていたはずだ。美香は周りを見回した。今の会話はどこから流れてきたのか?そばを通る桜通りの車の中か、向かいの国際センタービルのどこかの部屋か、それとも道路の反対側を歩いている人たちの会話か?だが、それを見つけることは彼女には不可能だった。普通、耳に入る音というものは両方の耳で聞くことにより、その音源の位置や方向を探ることができる。しかし、美香の特異な現象はその位置や方向など分からないのだ。聞こえてくる音や声はあたかも耳のそばで話されているような聞こえ方をする。もしかして、直接鼓膜に届いているような気さえするのだ。
 不審な会話が途絶えた時には、もうその発生源は分からない。人や車の流れはいつものように世話しなく、あっと言う間に動いていく。
 しばらく立ちすさんでいた彼女は、我に返り歩き始めた。今まで「聞こえすぎ」現象でこんなに当惑したことはなかった。特に知り合い以外の会話に対しては、はっきり言って他人事である。自分がどうすることもできないと何も関心を示さないようにしていたが、今度はちょっとばかり違う。「殺ります」、「殺す」という言葉を聞けば心中穏やかでない。
———どういう意味なのだろう?文字通り、「殺す」ということなのか、それとも殺すという本来の意味ではなく、勢いを押さえたり、何かを駄目にしたりすることなのだろうか?
 「ヤリマス」は「遣る」という意味で捕らえる方が普通だ。「行う」や「行かせる」や何かをするという事なのか?だが、「コロス」とい言葉が後にきているだけあって、「殺す」ことを実行するという意味に取れないことはない。しかも、最初聞こえたのは「オダジマリュウイチ」、これはどう考えても人の名前だ。素直に考えれば「オダジマリュウイチを殺ります・・・必ず殺すよう」というふうになる。ただ、聞こえてくるのが会話の断片だけなのでその言葉のつながりがいまいちはっきりしない。ただ、聞こえない空白の部分の時間が言葉では二三語ぐらいの間隔だった。
 美香は一度この考えに捕らわれると、もうそうだと思い込みだした。最後の言葉が「ヨロシクタ・・・」だった。これは「よろしく頼む」と考えられないことはない。最初と最後の会話の主の声は違っていた。初めのほうは少々ガラガラ気味の乾いた声で、後の方は少し高めの落ちつきはらった声だ。誰かが、誰かに殺人を依頼しているのだろうか?ヤクザが誰かを殺そうとしているのか?
 地下街を歩きながら美香は考えに耽った。井内さと美が男の人と歩いていたのも気がつかなかった。

3  ターゲットを探して

 家に帰っても美香はあの「会話」のことが気になって仕方がなかった。誰かが狙われている、殺されようとしている時、黙って見過ごすことは常人にはできないことだ。だが、どうすればいいのか?それも美香には分からないことだ。その解決として一番単純に浮かんだのは警察に知らせることだった。しかし、よく考えればこのことも思ったほど単純ではない。誰かが、狙われていると警察に通報したところで、取り合ってくれるだろうか?警察は存外に事件が起きてからでなくては動こうとはしない。いくら事件を未然に防ごうと言ってはいるものの、実際にはそうか簡単に行動するところではない。第一、本当にあの会話が殺人の依頼だと断言できるわけでもないし、警察は証拠として会話していた人物の特定を迫ってくるはずだ。美香が耳にした、しかも特異な現象で耳にしたことなど警察が信じてくれるはずもない。
 それなら、どうするか?それは本人に直接知らせるしかない。本人に伝えられるのならそれが一番確実な方法だ。しかし、それでも問題は大いにある。どうやってその狙われている人物を探すかだ。分かっているのは名前だけ、住所も年齢も全く分からない人物だ。「オダジマリュウイチ」という名前から判断してまず、性別は男だろう。それだけの手掛かりで人を探すというのは、よっぽど優秀な興信所にでも頼まなければならないだろう。住んでいるところでも分かればいいのだが、名古屋の街で聞いた会話だ。愛知もしくはその近郊の住人であるだろうが、それでも範囲は大きい。愛知だけでも二百万の人間、成人の男と限定し、岐阜、三重、静岡を合わせても百万はいる。これは途方もないことだ。何とか名前からだけでもその人物を特定できないかと、いろいろ思案したが、美香には思いつかなかった。

                       翌日、そのことを気にしながら美香は会社に行った。仕事をしていても「オダジマリュウイチ」という名前が脳裏から消えなく、作業も滞りがちだった。コピーを取りに七階に上がった時、ちょうど土田道幸とコピー機でかち合った。
「ちょっと、待ってて下さい。すぐに終わりますから」
「ええ、いいわよ、そんなに慌てていないから」待っている間、美香は何気なく土田に尋ねてみた。「土田君、名前しか分かっていない人を探す方法って何かあるかしら?」
「えっ、何です。名前しか分からない人を探すんですか?・・・そうですね、まあ、一番簡単なのを電話帳で探すのが手っとり早いんじゃないですか?」
———そうか、電話帳か?それはつい気がつかなかったわ。
「でも、電話帳って自分の家の地区しか分からないでしょ、他の地区や愛知県、岐阜なんかだったらどうするの?」
「ああ、そりゃあ、家には自分の地区しか電話帳が届かないでしょうけど、図書館に行けば全国の電話帳があるはずですよ。小さいのは駄目ですけど、県立とか鶴舞図書館に行けばたぶんありますよ。あと、確か中日ビルの一階にもあったな、今もあるかは知りませんけど」
「ああ、そうなの?それは知らなかったわ。ありがとう、さすが土田君ね」
「いえいえ、ああ、コピー終わりましたからどうぞ。でも、誰を探すんです?」
「ん?いえ、ちょっと引っ越した知り合いよ」と美香は適当に誤魔化して笑った。

 その週の土曜日、美香は愛知県立図書館まで来た。もちろん、一宮にも図書館はあるのだが、全国の電話帳を置いてあるほど大きな図書館ではないので、わざわざ名古屋まで出てきた。地下鉄の丸の内から北へ向かうと、名古屋城の外堀を越えた中日新聞本社の前に図書館はある。昔は栄にあったのだが、新築されたためこちらに移転してきたのだ。静かな図書館の二階に上がり、資料閲覧室に行くと、黄色と青の電話帳がずらりと並んでいる棚があった。ひとまず、名古屋の電話帳から探し始めることにした。名前しか分からない人間を探すにはこれはなかなかいい方法だ。ただ、電話帳は契約時に載せることを制限することもできるので、すべての人が載っているわけではない。それでも、そのような処置をするのはだいたい独身で一人住まいの女性ぐらいで男の人はまず電話帳に載せるものだ。
 名古屋の北東部には目的の「オダジマリュウイチ」は無かった。「小田島」や「尾田島」と言う名字はほどほどにあるのだが、名前まで一致するものはない。名古屋の中南部や西部も見てみたが、該当する名前はない。次に名古屋に近い三河方面や知多方面を探してみたが、これも収穫はなかった。
 どだい無理なのだろうかと、少々諦め始めていたが、ここまできて止めるわけにもいかないので作業は続けた。今度は名古屋の北、尾張地方を見てみた。電話帳は一宮や春日井など地区ごとにまとめられ、その中で市や町でまたまとめられていた。次々と電話帳を見ていき、瀬戸という区分になった。瀬戸市から尾張旭市の欄に入り、今までと同じように「お」の部分から探し始めた。そして、「小田島」とう名字を見つけ、指で名前を追っていった時、ある氏名で指が止まった。
———「小田島竜一郎」
 その名を見た瞬間、美香はハッと思った。「竜一郎」・・・彼女が耳にしたのは「リュウイチ」。しかし、当時の美香の「聞こえすぎ」現象は音が途切れ途切れで、正しく全文聞こえる状態ではなかった。「リュウイチ」の後に「ロウ」が付いていたとしてもおかしくない。これだと、美香は思った。とうとう見つけたのだ。住所は尾張旭市旭前・・・グリンハイツ旭前。どうやらマンションのような建物に住んでいるようだ。
 美香の胸は高ぶった。半ば諦めていたのに、こうして名前が見つかるなんて、信じられなかった。いや、それ以上に「オダジマリュウイチ」という人物が存在していたことが驚きだった。小田島竜一郎という人間が存在するということは、つまり、この人物が狙われている可能性があるということだ。
 美香は念のため、他の愛知の地区や岐阜、三重、静岡の浜松近辺を調べてみたが、「オダジマリュウイチ」に該当する名は他には無かった。
 さて、どうしよう?名前がなければないで、もう手の施しようがないと諦められるのだが、こうして名前が見つかった以上放っておくわけにはいかなくなった。謎の会話を聞いてから、毎日新聞の朝刊と夕刊の三面記事には必ず目を通している。「オダジマ」とい人物が何か事件に巻き込まれていないかと目を皿のようにして見ているが、今日までまだそれらしき人物の記事はなかった。だが、これからも載らないという保証もない。事件は未然に防いだほうがいい。しかも命に係わるような重大犯罪の場合は特に。
 美香は図書館の出口で、小田島竜一郎の名と住所、そして電話番号をメモした紙を眺め考えこんだ。

4  警告

       シュンジュン  美香は何度も逡巡していた。電話に手がいき、受話器を握って番号をプッシュする動作までを何度も繰り返しては、相手のベルが鳴る前に受話器を置いた。相手が出たところで何と言えばいいのだろう。「あなたの命が狙われています」といきなり、言ったところで相手は何と思うだろうか?普通ならいたずら電話だと思ってしまうだろう。だが、相手の立場も考えてみなければいけない。小田島がもしヤクザ関係の人間なら狙われているということに対して反応するかもしれない。あと、阿漕な商売をしているとか人に恨まれるようなことをしているとかの悪人ならどうだろう。なんかそう思うと知らせるのをよそうかとも思ったが、悪人とて人間だ、命を粗末にはできない。とにかく電話だ、自分のことがバレルわけでもないし、狙われていると警告し相手の注意を喚起させているのだから、決して罪なことをしているのでもない。
 そんなことを考えて電話のリダイヤルを押すと、相手先に電話がつながった。アッと言う間もなく電話の受話器が取られた音がした。留守電なら切ってしまおうと思ったが、受話器からは生の声が聞こえてきた。
———もしもし、小田島ですけど・・・。
 美香は驚きどうしようかと戸惑った。
———もしもし、もしもし。
 少し低くハッキリ通る声だ。三十歳前後だろうか?決してヤクザっぽいドスのきいた声ではなく、悪人のような嫌らしい声でもない。このまま黙っていたのではいけないと思い、美香は勇気を出して話し始めた。
「あの・・・、小田島、小田島竜一郎さんのお宅でしょうか?」
———そうですけど、どちらさんですか?
「ええ、ちょっと名前は申し上げられないんですけど、小田島さんにお話ししたいことがありまして」
———はあ?、セールスならお断りしますけど。
「いえ、そうではないんです。小田島さんにとって、とても重要な話なんです」
———んー、よく分かりませんけど、何のことです?
「小田島さんがどういう方かは分かりませんけど、あの・・・、変な話かとは思われるでしょうが・・・」
———お嬢さん、はっきり言ってくださいよ。私は焦れったいのが嫌いで。
「は、はい」お嬢さんと呼ばれて美香は一人照れていた。「実は、小田島さんの命を狙っている人物がいるんです」
———はっはっはっ、何をおっしゃやるかと、そんな冗談を。
「いえ、冗談なんかじゃやありません。私そのことを聞いたんです」
———聞いたってお嬢さん、いつどこで聞いたんです?
「それは・・・、ちょっと説明できないんですけど、とにかくあなたを殺すという会話を私は聞いたんです」
———んー、あまり穏やかな話じゃありませんね。しかし、私は普通のサラリーマンですよ。命が狙われる心当たりなんかありませんがね。
 小田島はおおらかな口調で言い、何事にも動じていないようだ。
———本当に私何ですか?あなたの聞き間違いじゃないですか?
「いえ、それは・・・私はオダジマリュウイチという名前を聞いたんです。愛知にはそんなお名前の方はあなたしかいないはずでは」
———まあ、確かに私の名前はそんなに有りませんが、何です、お嬢さんはそんなことも調べたのですか?
「ええ、あの、そのお嬢さんは止めてもらえますか?そんな歳ではないので」
———ははは、そうですか。でも、そちらさんが名前を教えてくれないので仕方がないじゃないですか」
「はい、すみません、でも、名前はちょっよ」
———それじゃ、下の名前だけでも教えてくださいよ。
「えっ・・・、ミ、ミカと言います」美香はなぜか名前を言ってしまった。相手の優しい言葉使い、話術にはまってしまったようだ。
———ミカさんですか。分かりました。あなたのお話は理解しがたいですが、一応伺っておきましょう。
「ありがとう、ございます」
———でも、もし、私が生き延びていたらまたお電話ください。本当に命が狙われていたのならお礼が言いたいですし、もし、あなたの勘違いなら謝っていただきたいですから。
「ええ」美香は相手の勢いに押されるまま返事をした。
———それでは。
 と、小田島は電話を切ったが、美香はしばらく受話器をもったままボーッとしていた。小田島という見も知らずの男に対し、何か引かれるものがあるのを彼女は感じていた。

5  企業テロの裏で

 人間はどうして過激な行動に出るのだろうか?人が十人いれば、考えかたも十ある。これは当たり前のことだ。人間はそれぞれの意見を出し合い、それを協議し、結論を導き出す。その過程で様々な反論や同意、さらなる提案、妥協などを経て論議が活発になるものだ。人間は話し合うことで生活していく唯一の動物で、だからこそ人間なのだ。
 しかし、中にはそうでない人間もいる。意見が合わない、絶対相手に対して譲歩しない、自分の考えだけを無理強いする人間が。そういった人間は相反する人間に対し、いつしか脅迫や暴力という過激な考えに傾倒しだし、公共性を伴わない自分勝手な行動をとる。日本や世界の歴史においてそういった例は枚挙にいとまがない。近年、そういった活動は右翼とか過激派、テロ行為と呼ばれ当事者たちと何の関係ない者たちをも巻き込むようになった。日米安保や成田闘争の時など、警察との激しい攻めぎ合いなどがなされたが、あれはまだいいほうだ。そのうち一部の狂信的な人たちが地下に潜り、無差別な犯罪を起こすようになってきたのが現在の情況だ。
 近頃はFフィルムの社長宅を狙うとか、A新聞の寮やビルに銃弾を撃ちまくるとかいう欧米型の企業テロというものが、多くなり始めた。大会社や報道関係が狙われ、今度は銀行関係までもが狙われだした。そんな中、名古屋でショッキングな事件が起こった。

 美香は毎日欠かさず新聞やテレビのニュースを見ていた。むろん、小田島という人物が事件に巻き込まれていないかと心配でしょうがなかったからだ。母親など熱心に新聞を読む娘に対し、勉強しているのねと妙に感心していたが、彼女の真の目的など知るよしもなかった。
 ある日、仕事を終え家に戻って早速夕刊を開けると、一面に大きな記事が出ていた。
———S銀行支店長銃撃
 それは、単に小田島の記事を探している美香にとっても驚く事件だった。
 事件はその日の朝、七時二十分頃起こった。S銀行取締役名古屋支店長である、田中英夫氏が自宅のマンション、玄関前で何者かによって射殺された。向かいの住人が玄関に出ると田中氏が倒れていたのですぐに一一九番通報した。現場は千種区XX町、覚王山近くの高級住宅街で、近くには日泰寺と言う有名な古刹もあるところだ。田中氏は富士見が丘マンションという十階建ての高級マンションの最上階に住んでいた。高級マンションだけあって入口はオートロック、また、非常口などの裏階段はすべて内側から鍵が掛かっていた。つまり、犯人がどうやって中に入り込んだのかそれが大きな謎だった。オートロックなので番号を知っているか、中から住人が確認して鍵を開けなければ入れない。警察は関係者から事情を聞き、朝、新聞配達員が田中氏の部屋に新聞をおいた後、田中氏が新聞を取りにいった時、襲われたものと考えていた。その後、エレベーターに田中氏の微かな血痕が残っていたのを発見、犯人はエレベーターで逃げたものと断定。また、凶器は三十八口径の回転式短銃と判明した。
 この事件は企業テロの脅威として社会面にも大きく掲載されていた。美香は一市民として驚きながらこの記事を読んだ。だが、この事件に比べれば小さな事件かもしれないが、彼女にとっては衝撃的な事件がこの記事の下に小さく書かれていた。普段ならもっと大きな扱いになってもよさそうなのだが、あまりにもこの事件が大きすぎたため美香が見つけた記事は小さかったのだ。———元暴力団組員殺される。
 こちらも殺人事件だった。しかも元暴力団という血なまぐさい事件だ。今日の午前十一時ごろ、小牧市のアパートで男の人が胸を刺されて死んでいるのを、訪ねてきた女性が発見したというものだ。だが、美香はその被害者の名に興味を持った。
———田島修一。
「タジマシュウイチって、読むのかしら?」美香は独り言のように言った。
 「タジマシュウイチ」、以前美香が耳にしたのは「オダジマリュウイチ」。よく似ている名前田。「オダジマ」の「オ」がもし「を」だっらと考えると、そして「リュウイチ」が「シュウイチ」だったらと考えると、この名があの名と一致する気がした。「オダジマ」の「オ」が「を」と考えるとどうも後の文の関係がおかしくなる。でも、「聞こえすぎ」現象はそのころ断片的にしか聞こえない状態になっていて、聞き取った言葉もはっきりとは理解できなくなっていた。結局単語だけでは全体の文はいまいちよく分からない。また、「シュウイチ」を「リュウイチ」と聞き間違えた可能性もある。それにもまして、田島の身元が元暴力団組員というのが、とても大きなことに思えた。元でも暴力団だった男だ。今でも何らかのことをしているのかもしれないし、過去に行った行為で恨みを買っていると考えてもおかしくない。年齢は三十六、今はトラックの運転手のようだが、完全に元の組と手が切れていたと思えない部分もある。小さな記事なので背景などは分からないが、組の対立による抗争の一つではと新聞は締めくくっている。死因が刃物による刺殺というのも、やくざ映画や極妻に出てくるような組員同士のやり方みたいだ。 ———じゃ、あの会話はもしかしてこの事だったのかしら?
 美香はそう思うようになった。「殺す」とかいう物騒な話はやはり、こう言った世界の事なのだ。そうでもなければ、前述の企業テロのように無差別な殺人しかない。もちろん、殺人など病んだ現代の世界では日常茶飯事に近いものがあるが、このような事件の方が納得できる。
 殺された人には申し訳ないが、美香としてはホッとした気分だった。自分は知っておきながらこの人を助けられなかったという負い目はあるが、相手が元暴力団と知ると自業自得かもと自分を慰め、正当化してしまう気持ちが働いていた。仕方のないことだったのだ。美香には責任がない。もうこれであの事はケリが付いたのだ。そう彼女は自分に言い聞かせた。
 しかし、美香は思い出した。自分の勝手な思い込みである人に迷惑や不安を与えてしまったことを。
———どうしよう?
 美香は小田島に対する軽率な自分の行動をどう弁解するか迷った。しかし、相手に対して謝らなければいけないという思いが徐々に大きくなっていったのは間違いない。

6  出会い

 その日の夜、美香はまた電話を睨み付けながらじっとしていた。やはり、お詫びの電話を入れた方がいいのだろうか?しばらく、考えていたが決心がついた。常識的なことはきちんとしなければいけない。それに謝罪して電話を切ればそれで、何もかも終わりだ。相手はミカという名前しか知らない。だからそれ以上のことは波及してこないのだ。
 美香はメモを見ながらダイヤルを押した。二回ほど呼び出し音が鳴ると相手の受話器が取り上げられ、前と同じ声が聞こえた。
———もしもし、小田島ですけど。
「あの・・・」
———ああ、あなたはミカさんですね。声で分かりましたよ。
 名前を覚えてもらって美香はちょっと嬉しかった。
「ええ、そうです。先日は失礼しました」
———いえいえ、愉快な電話で私も面白かったですよ。それで、今日は私がまだ生きているか確かめるためにですか?
「いえ、その・・・、あの、今日の夕刊ご覧になりましたか?」
———見ましたよ。どっかの銀行の偉いさんが事件にあったとか大きく出ていましたね。でも、それは私じゃないですよ。こうして生きていますから。
「いえ、その記事じゃなくてですね、新聞のどっかに元暴力団員が殺害されたという記事があると思うんですけど」
———ん?、見覚えないな、ちょっと待ってください、新聞持ってきますから。
 受話器が置かれしばらく無音の後、また声がした。
———ああ、有りましたね。小さな記事が、で、これが?
「被害者の名前を見てください」
———被害者ね・・・・、なるほど、ミカさんの仰りたいことが分かりましたよ。田島修一ですか、確かに私の名前に似ていますね。そうですか、本当はこの人が狙われていたんですね。
「ええ、私もそう思います。ですから、小田島さんには大変な御迷惑をおかけしたと思い、お電話したんですけど」
———そうですか。ミカさんはなかなか律儀な方ですね。ちゃんと約束を守ってくれて。
「いえ、その、私の早とちりで嫌な思いをさせたのですから・・・」
———私はそんなに気にしていませんでしたから、ミカさんもそんなに恐縮しないで下さいよ。「ありがとうございます。では、いろいろ申し訳ありませんでした。これで、失礼・・・」
———ああ、ちょっと待ってください。
「はあ、何か?」
———ミカさん、電話だけで謝罪するのは少々失礼じゃないですか?あなたは私をあらぬ事で不安に陥れたんですよ。これは結構大きな罪かもしれませんよ。それを電話で終わらそうなんて。 小田島の話しかたは怒っているというよりは穏やかな、なだめるような口調だった。
「でも、それなら、どうすれば?」
———そうですね・・・。それじゃ、一度会ってもらえますかね?
「えっ、お会いになるって、それは・・・」
———駄目ですか?でも、それでは私の気が済まないんですけどね。
「ええ、それは・・・」
———まあ、とって喰おうとかいうわけじゃないんですから、それに私はあなたに興味があるのでね。どんな人かと思っていますし、まあ、赤の他人が命を狙われていると耳にしただけでその人物を探して警告しようとするなんて、ちょっと変わった人か、とても人を思いやる方だと私は思っていますよ。ですから、ぜひお目に掛かりたいんですけどね。
 美香は当惑した。謝罪の電話を入れるつもりだったのに、相手に会いましょうと言われ思わぬ展開になってしまった。どうしようと迷いながらも小田島という人物に引かれるものもあった。声しか聞いていないのだが、その話し方、声、物腰の柔らかさなど魅了されるものがあった。会うだけならいいかと、彼女は思い始めていた。元は自分が起こしたことだ、相手に対しきちんとしなければいけないことも常識としてあった。
「分かりました」
———そうですか、ありがとう。では、いつ時間が空いてます。お勤めはどちらまで?
「名古屋駅の近くですけど」
———そうですか、それなら都合がいいですね。私は栄の方で働いていますので、名古屋駅の近くでお会いしましょう。明日の七時ごろはいかかです。
「ええ、大丈夫ですけど」
———それなら、七時に、駅のメルサの前、ナナちゃん人形のところで待ってますよ。目印にどうしましょう・・・、んー、まあ、ちょっと恰好付けかもしれませんけど、花でも持っていますよ。赤い花を。それでいいですか?
「は、はい、分かりました。私は・・・」
———いいですよ。声をかけてくれれば、それに私の方から見つけてみせますから。
「・・・・・・」
———それじゃ明日。
 そう言って小田島は電話を切った。
 美香の胸はドキドキしていた。何か相手の言われるままに事が進んだように思えたが、小田島という人物に対する興味は募っていくばかりだった。

   翌日、美香は一日中そわそわしていた。「聞こえすぎ」現象も最近は稀になり、ここ二三日は全く起こらなかった。その分、気分もよく、それに今夜の約束が彼女を奮い立たせていた。
「美香さん、今日はどことなく着飾っていますね、化粧もいつもと違うみたいだし」と脇田に声をかけられ「そう、別にいつもといっしょだけど」と言ったが、脇田は「怪しいですね、デートでもあるんですかと」と若いわりには鋭い洞察力を持つ彼女に美香も笑って誤魔化すしかなかった。
 五時半を過ぎ、今日も仕事は終わった。松浦に「美香さん、今日は早いんですね」と言われ、「うん、病院なの」と返事をすると、「まだ耳の方、良くないんですか」と鈍感な松浦は納得していた。
 他の人にあれこれ言われないうちに着替えてすぐに会社を出た。今日着ている服装もいつものようにカジュアルな感じではなく、結構着飾っている。ちょっと観察力の鋭い真野祐子あたりが見れば何か思われるのは間違いない。
 地下街を歩く歩調も心なしか早かった。少しうしろめたい気持ちと、嬉しい気持ちが交錯している今の心境がそうさせていた。七時まではまだ時間があったので、メルサの一階を見て回ったり、化粧室でもう一度確認したりして時間を潰した。七時五分前にそこを出て「ナナちゃん」がある表通りへ向かった。
 ナナちゃんとはメルサやセブンのある大通りの前にそびえ立つ大きな白い女性の像で、セブンの前にあるところから「ナナちゃん」と呼ばれ、名古屋の人間なら知らない人がいないという待ち合わせスポットだった。季節毎に水着やサンタの服を着るシンボルである。すでにその広場のあたりには人がごった返していた。若いカップルからおじさん、なかにはパンクみたいな奴もいる。
 その人込みの中に大きな花束を抱えた人物がいた。もしかして、あの人と見ていると、向こうもこちらの視線に気づいたのか見つめ返してきた。そして、その男は美香を見つめたまま近づいてきた。背の高いスマートな体型、端正な顔だちにきりっとした眉と切れるような目、自然に分けたちょっと長めの髪、どこをどう見ても好男子という素敵な人物だった。歳のころは三十ぐらいだろうか、淡いグレーのスーツがビシッと決まり、優雅な足取りで彼女の前に立った。
「ミカさんですか?」
「はい、そうです。小田島さんですか?」
「はい、初めまして、小田島竜一郎です」と言いながら小田島は大きな花束を渡した。確かに赤い花がメインだが、その周りには黄色やオレンジの花が添えてある。
「ああ、どうも、初めまして、桑原美香と申します。あの、こんなに大きな花とは思っていませんでしたわ」胸に小さな薔薇でも差しているのかと思ったのに、こんな派手なものとは予想外だった。だが、普通このようなことをすると、きざで厭味たらしくなるのだが、この小田島が行うといかにも自然で素直になれてしまう。
「ははは、折角ですし、大きな花ではないと美香さんが分からないと思いましてね。まあ、私はあなたをすぐに見つける自信はありましたけど」
「私、分かりましたか?」
「もちろん。声を聞いたイメージ通りの人だったんで、すぐに分かりましたよ」
 美香は何と答えたらいいのか困った。小田島という人物が想像以上に素敵な人物だったことに少々驚かされた感じだ。
「じゃ、どこか行きましょうか、ここにいても何ですので」小田島は美香を促し、歩き始めた。
   美香はとても恥ずかしく、身の縮む思いだった。こんな完璧な男性と歩いていることが、夢のようで、通り過ぎる女たちの視線が妙に気になっていた。自分には不釣り合いな相手と思いながらも、今はその夢の中にまどろみたい気分だった。
 小田島は美香をホテルの最上階にある喫茶店へ連れていった。窓からは闇夜の中に街の明かりがちらつく夜景が美しく望める。二人はその窓際の席に座った。美香は頂いた花束を丁寧に席の隣に置いた。
「何か食べますか?」
「いえ、結構です」美香はいつになくしおらしい返事をした。
「じゃ、コーヒーでいいですね。コーヒー二つ、一つはアメリカンで」とウェーターに言った。
 美香はここで改めて先日のお詫びを言った。「あの、この間は本当に申しわけありませんでした。私の聞き間違いで、変な不安を与えてしまって」
「いえ、もういいんですよ。私は何事もなく元気ですし、まあ、最初は驚きましたけどね。でも、こうして、あなたと出会えたのですからいいじゃないですか。私もこんな巡り合いなんて始めてですよ。ですから、もう気にしないでください」
「ええ、そう言っていただくと・・・」美香は完全にこの小田島に魅了されてしまった。トリオにいるよな脳天気で粗野な変な男たちとは全然違う。こんな絵に描いたような男が存在するなんて、しかも、自分の前にいるなんて信じられなかった。
 二人はそれから互いのことを事を話した。小田島は名古屋にある輸入関係の仕事をしていると話した。年齢は三十二歳、でもまだ独身だった。こんな男を女が放っておくはずがないのに、小田島自身あまり女性には興味がないようなことを言っている。
 美香も自分の事をいろいろ話した。仕事のことや家のことなど、普段あまり話さないようなことまでなぜかこの男には自然と語っていた。この男には何か魔力のような吸引力がある。かと言ってプレイボーイや詐欺師のような、見掛けの恰好よさだけを持ち合わせているのではなく、内面から漂ってくる男らしさがある。「聞こえすぎ」の現象のことも彼には話した。それを話さなくては今回の事の成り立ちが彼には分からない。小田島は美香の話を半信半疑で聞いている様子だった。それは「聞こえすぎ」現象を体験していない人間には理解できないことだからだ。
「不思議な話ですね。んー、そうすると。新聞に載っていたやくざの事件はその人たちが画策したことなのでしょうか?」
「今思えば、そうだと考えられますけど」
「じゃ、その会話は誰がどこでしていたのか分からないんですか?」
「そうです」
「そうですか。それでは美香さんが聞いたということも証拠にならないですね。もし、警察に言っても変人扱いされるだけでしょうから」
「・・・・・・」
「失礼、私は美香さんのことを変人だなんて思ってませんよ」
「ありがとうございます」この言葉をトリオの男たちに聞かせてやりたかった。
「あら、もうこんな時間だわ、帰らなくちゃ」美香は時計を見てそう言った。もう一時間以上も話し込んでいたが、時間が過ぎ去っていくのを全然感じていなかった。
「そうですか。随分長居させてしまって、あまりにも美香さんとの会話が楽しくて時間を忘れていましたよ」
「いえ、そんな」
「美香さん、また、会ってくれますか」
「えっ」
「ああ、もちろん、あなたにも付き合っている人がいるでしょうが、まあ、そういう関係ではなくてお友達として、また会ってくださいよ。これも、何かの縁かもしれませんから」
「ええ、それは構いませんけど」美香にも付き合っている彼氏がいた。だが、長い付き合いのため最近どうも新鮮さが無くなっていたのは否めない。そんな時に、こんな素敵な男から誘われたのでは断ることもできなかった。
「そうですか。では、今週の週末、金曜日なんかは空いていますか?」
「ええ、たぶん大丈夫ですわ」
「それなら、また今日と同じ時間同じ場所で」
「分かりました」
 二人は喫茶店を出て、地上に降りた。小田島は名鉄の改札口まで見送ってくれ、爽やかな笑顔を投げかけてくれた。
 美香はまだ雲の上を歩いているかのようだった。いいことがほとんど無かった「聞こえすぎ」の現象も、今となっては怪我の功名に思えてきた。

7  逢瀬は危険な香り

 ついに金曜日が来た。先日よりもワクワクしていて時間が経つのも遅く感じられた。なるべく表面に出さないようにしていたが、脇田や神谷の視線はどうも気になって仕方がなかった。 
 そんな時、ひょっこり竹内正典が現れた。珍しいと思ったが、今日は月末だったことを思い出した。竹内は水野課長のところへ行き、何がしかの報告を澄ませ、伊藤賢司と小声で談笑していた。その後、書類を手に取り、七階へ行こうとしたが、美香にふと目を止め近づいてきた。
「桑原さん、元気ですか?耳の方もういいんですか?」
「あら、そんなことまで知っているの?さすが竹内君ね」
「いえね、土田さんから聞いただけですよ。でも、今日の桑原さんはどっか変ですね」
「そう・・・?」美香は竹内の力に恐れた。男なら気がつかないと思っていたのに、竹内は微妙な変化までも気づいている。それに比べ、伊藤や藤井は何も気づいていないようだ。
「桑原さん」竹内は顔を近づけ、小声で言ってきた。「最近、変わったことありませんでしたか?」
「んーん、別に」美香は竹内の質問に作った顔で答えた。竹内が何を言おうとしているのか、全く分からなかった。まさか、「聞こえすぎ」のことなど知っているわけもないはずだし、それとも、小田島のことを偶然にでも見かけたのだろうか?竹内の実家は確か知多の方だった。ならば名鉄に乗るはずだ。美香は疑心暗鬼のまま澄ました顔をした。
「なら、いいですけど。まあ、体には気をつけてください」と、竹内はいつもの表情で部屋を出ていった。

 その日も誰にも悟られないように静かに会社を後にした。先日と同じように時間までぶらついていたが、どこでだれに見られるか分かったものじゃないので、周りを気にしながらうろうろしていた。
七時になり、「ナナちゃん」広場の前に行くと、前回と同じように小田島は大きな花束を持って待っていた。小田島はすぐに美香に気づき、手を振った。 「どうも、今晩は」
「今晩は」
「今日も素敵ですね」
「いえ」
「それでは、行きましょうか。今日は車で来たので」と小田島は美香を促し、路上に止めた車に案内した。彼らしいシーマという高級車だ。車内は綺麗に片づけられ、若い者の車みたいな無駄なものは置いてなく、爽やかな香りがする。荘厳なクラッシックの楽曲が車内に流れ、センスのよさを感じさせる。
小田島は静かに車を走らせ、南へ向かった。二人は車内で取り止めのない会話をした。楽しい会話だった。前回は初対面ということもあり、少し緊張していたのでどことなくよそよそしい話し方だったが、今日はその会話も滑らかで親しみを持っておこなえた。自然な微笑みと落ち着いた雰囲気が、二人の間に流れている。
 車は港の近くまで行き、運河沿いにあるレストランに到着した。全面ガラス張りのシックなフランス料理店で、豪華な味を楽しめそうだった。
 二人はウエイターの案内で席に着き、ソムリエに任せたワインで乾杯した。何とも甘美な気持ちだった。幻のような最上の時間が、時の流れを忘れさすかのように経っていく。フランス料理のフルコースが次々と出され、楽しい会話と旨肴を満喫した。
 彼らを見つめる視線があった。名古屋駅を出てからずっと後を付けていた。だが、二人ともそんなことには全く気づいていなかった。

 二時間ほどレストランで二人は美香は至福の時を過ごした。小田島は接すれば接するほど、優しく暖かく、そしてウェットに富んだ包容力のある好男子だった。美香は少々、完璧すぎるこの男に対し、畏れを感じていた。だが、それも心の片隅に起こる僅かな感情で彼に対する思いは新たな展開に向かおうとしていた。
 二人は再び車に乗り、小田島は金城埠頭に向けて車を走らせた。港一体は基本的には工場地がメインで、あとは市民の為にと様々な公共施設が存在し、今も建設されている。金城埠頭には国際展示場があり、毎週の様に数々のイベントや展示会が行われ、昼間は人で賑わう。また、夜になると絶好のデートスポットとなり、埠頭の周りや隣接する名港西大橋に若いアベックの車が夜の港を楽しもうと集まってくる。
 小田島も港の一角に車を停車させた。美香は少し胸をときめかせながらも、ここまで来てしまった。少々の後悔と不安もあったが、紳士な小田島に対し心を許してもいい気にもなっていた。「今日は有り難うございました。こんな楽しい思いをしたのは久し振りです」美香は今日の礼をあらためて言った。
「そうですか、美香さんが楽しんでもらえたのなら、私も満足ですよ」遠くの明かり越しに見える彼の顔は映画のワンシーンを見ているようでゾクゾクとするぐらいだった。
 小田島は美香の方に向き直り、彼女を見つめた。その場の雰囲気が彼女を虜にしそうな耽美なものになり、小田島の瞳に映る自分の姿を心の中で想像した。
———ピーピーピー。
 折角のところを台無しにするかのように、突然音が鳴った。小田島はハッとしてスーツのポケットから携帯の電話を取り出した。
「失礼、電話のスイッチを切っておけばよかったですね」と言い、小田島は電話のアンテナを伸ばし受信状態にした。「もしもし・・・」小田島は相手の声が聞こえると、軽く美香に手を振って車の外に出た。
 何か仕事上の重要な電話なのだろうかと美香は思ったが、その時、しばらく襲ってこなかった「聞こえすぎ」が突如やって来た。
 車のエンジン音、遠くを通る船の音、周りにいる他のアベックの車からの声。様々な音と声が一度に彼女の耳の中に迫ってきた。その中で、今、小田島が外で話している電話の会話も聞こえてきた。
———ドウモヤバイ・・・ハヤクニゲ・・・オンナハシマ・・・。
 会話の主は小田島ではなく、電話の相手だった。だが、彼女はその声に聞き覚えがあった。
———どこかで、きいたことのある声だわ。どこだったっけ・・・。
 小田島が車に戻ってきた。しかし、彼女の現象はまだ続いていた。
「どうかしましたか?気分が悪そうですけど」
「いえ、ちょっと頭痛が・・・」
 その時、さっきの声をどこで聞いたか思い出した。以前聞いたその声の言葉がフィードバックされた。
                          ———オダジマリュウイチ・・・ヤリマス・・・カナラズコロス・・・。
 あの時の声だ。間違いない。特徴のあるがらがらの声だ。でも、なぜ?なぜその声の主が小田島に電話したのだろうか?美香の頭は混乱しだした。
 あの時の会話をもう一度考えてみた。断片的にしか聞こえなかったあの言葉のつながりを再度思い出した。「オダジマリュウイチ」を美香は最初、名前と思った。その後新聞の記事で田島修一の事と理解し、「オ」が「ヲ」の意味だと考えた。だが、そうだとどうしても言葉のつながりがおかしい。ならば、「オダジマリュウイチ」は小田島竜一郎だと考えよう。さすれば、殺されようとしたのは小田島だったのではなかろうか?いや、あの聞こえなかった部分をいろいろ想像してみよう。「オダジマリュウイチ」と「ヤリマス」の空白の時間は本の数秒、二三の言葉しか入らない。しかし、「田島修一を殺ります」では短すぎるのだ。それよりも「小田島竜一郎を殺ります」の方がぴったり来る。そして、次の空白部分も、二三の言葉が入る程度だった。「小田島竜一郎を殺ります。私が必ず殺す」とでもすれば、空白の部分が埋まり、そのあとの言葉は「・・・と約束します」ぐらいが適当な文字数と言葉だ。その後に別の人物が「よろしく頼みます」とでも言ったと想像できた。
「小田島竜一郎を殺ります。私が必ず殺すと約束します」、「よろしく頼みます」
 これが、あの時の会話の中身なのだろうか。だが、これが全く逆の意味であったかもしれないと美香は思った。殺されようとしていたのは小田島ではなく、殺そうとしていたのが小田島だったら、どうなるのか?「小田島竜一郎を殺ります」ではなく「小田島竜一郎が殺ります」では、どうだろう。「私が必ず殺す・・・」ではなく「XXXを必ず殺す・・・」としたら?
「小田島竜一郎が殺ります。XXXを必ず殺すと約束します」、「よろしく頼みます」
 これでも会話のつながりはおかしくない。その根拠の一つが今の電話だ。あの時の電話の主が今の電話の相手と同じなら、電話の相手は依頼を引き受けた人物に思える。そうなると、この小田島はその依頼された殺人を実行した人物となるのではないだろうか?
 まさか、と美香は思った。自分の考えすぎだと。でも、よく考えるとこの小田島の接し方はどこか変だ。たかが、変な電話を対応したからといって、その相手の人物を誘うだろうか。もちろん、好奇心が湧くというのも分かるが、冷静になって考えると小田島の行動はどこか不自然だ。もし、小田島が殺人の請負者なら、自分の家に自分が殺されると電話が掛かってきた時、どうするだろう?やはり、相手の素性を探るのではなかろうか。もし、小田島がプロの殺し屋なら、自分の身に振りかかる危険を回避するため、何らかの手立てに出るのだろうか?小田島が美香に接近してきた理由はそこにあるのだろうか?美香は急に小田島に対する疑惑を高めていった。そして、今掛かってきた電話の内容を思い出してみた。
———ドウモヤバイ・・・ハヤクニゲ・・・オンナハシマ・・・。
「どうも、やばい・・・早く逃げ・・・女はシマ」は「どうもやばい様子だ。早く逃げた方が懸命だ。女は始末したか」と考えてしまった。それは、単なる想像だ。美香の思い過ごしかもしれないし、「聞こえすぎ」現象の悪化かもしれない。急に起こった「聞こえすぎ」現象により、頭が混乱しある種の被害妄想が出てきてしまったのだろうか。
「大丈夫ですか?顔色が悪いですよ」小田島が声を掛けてきたので美香は我に返った。だが、今までの楽しい気分には戻れない。小田島に対する不安と恐れが少なからずも顔に現れてきた。
 小田島は美香の表情を把握しようとじっと見つめた。その瞳は今までの彼とは違う、凄味と鋭さ、そして冷たさが現れていた。
 美香は咄嗟に言った。「あの、もう時間も遅いですし、帰らないと」と急によそよそしい感じで言いだした。
「どうかしましたか?何か変ですよ、急に」小田島はあくまでも冷静に対処しようとした。それが帰って美香には怖かった。
「いえ、ちょっと気分が・・・」
「まだ、いいじゃないですか。折角ここまで来て」と小田島は美香の腕をつかもうと手を伸ばした。
 美香はその行動に驚き、腕を振り払って車から飛びだした。小田島もすぐに車から出て、車越しに美香を見据えた。だが、その目には今までとは全く別人のような冷徹で、鋭利なものを表していた。
 美香はますます怖くなり走りだした。小田島もすぐに後を追いかけてきた。珍しくハイヒールを履いていた彼女なので、走るのは不利だった。港の護岸まで走ったが、すぐにも小田島に追いつかれ肩をつかまれた。
「なぜ、逃げるんです。私が怖いのですか?」小田島は嘲笑しながら言った。
「あ、あなたは、誰なんです。一体?本当に小田島さんなのですか?」
「私は小田島ですよ。それとも何かあなたは知っているんですか?」
「いえ、私は何も・・・」
「あなたは、聴覚の異常で聞いてはいけないことを聞いてしまったんじゃないですか」
「私は何も知りません!」美香は悲鳴のような声で言った。
 その時、エンジン音を響かせ、一台の車が二人の目前に急ブレーキを掛け止まり、眩しいヘッドライトを彼らに浴びせた。
「シャドーXこと峰岸誠二、殺人の容疑で逮捕する」と車から大きな声が飛んできた。
 美香はどこかで聞いたことのある声だなと思ったが、その時、小田島はスーツの内側から何かを取り出し、その車の方に向けた。それは拳銃だった。遠くから差す光がその拳銃に反射し、キラリと光った瞬間、大きな炸裂音と閃光が走った。
 目の前で拳銃が発射され、美香は驚くのと同時に耳を塞いでその場に座り込んだ。発射された弾は車のボンネットに当たり、小さな光を発した。美香が小田島を見た時、彼の手の拳銃が彼女に向けられようとしていた。美香はあまりの恐怖にどうする事もできなかったが、拳銃が彼女の顔を捕らえようとした時、別の場所から銃撃音がした。それとともに、目の前の小田島の体がよじれ、飛ばされるようにそのまま海の中へ落ちていった。
 美香が茫然としていると、誰かが彼女のところに走り寄ってきた。
「桑原さん、大丈夫ですか?怪我はないですか?」
「た、竹内君・・・、ど、どうしてここに?」
「それは、こっちが聞きたいですよ」
 その時、もう一人背の高い男が近づいて来た。
「竹内さん、どうです。彼女は無事ですか?」
「ええ、大丈夫ですよ、筒井警部。ちょっとショック状態ですけど」
「筒井警部・・・?」美香は何がどうなっているのか混乱したまま、その場で気を失った。

8  執念

 美香が気がつくとそこは病院のベッドの上だった。腕には点滴が施されている。はっきりしない意識の中で、目の前に竹内と筒井警部がいるのを確認した。
「気がつきましたか?桑原さん」竹内が心配そうに言ってきた。
「ええ、でも、ここは?」
「病院ですよ。もう大丈夫ですから、安心してください」筒井も穏やかな笑顔で言った。
「あー、一体どうなっているの?何がなんだか・・・」
「まあ、順降りに話しましょう。あの小田島という男は何者か桑原さんは知っているのですか?」筒井が質問した。
「えっ、小田島さんは、どこかの貿易会社の人だと・・・」
「あなたとはどういう関係なんです?」
「関係って、この間偶然知り合っただけですけど」
「どうやら、何にも御存じないようですな。いいですか。奴は、小田島は殺し屋なんですよ」
「殺し屋・・・?」その言葉を聞いて、さっき自分が考えていた推論を思い出した。
「先日、S銀行の支店長が撃たれるという事件がありましたね。小田島、本当の名は峰岸誠二、通称シャドーXと呼ばれる殺し屋が実行犯なんです。シャドーXは裏の世界では名の知れたスナイパーで警視庁から広域一二五号犯として特別手配されている謎の男です。それで、今回の件ですが、S銀行の副支店長・長谷川義春が政治家との間に不正の融資をしていましてね、その事が支店長の田中氏に露顕しそうになり、以前から付き合いのある暴力団の紹介で殺し屋を雇ったんです。長谷川にとっては不正融資の発覚を阻止するのと、支店長への昇進という一石二鳥を狙っていたんです。そして、先日事件が起きました。そこで我々愛知県警が捜査を開始したんですけど、ニュース等で御存知のように事件は難航し、企業テロの疑いが出てきました。しかし、一番の謎、どうやって犯人はマンション内に入れたかというのが、大きな壁だったんですけど、あのマンションのオートロックシステムの暗証番号を知っている者を徹底的に洗い出したんです。そしたら長谷川の名が上がってですね、長谷川自体すでに捜査二課の方が目を付けていたらしいとうことが分かり、今回の背景が見えてきたんです。そこで、極秘裏に捜査し長谷川も任意同行という形で取り調べを行い、殺し屋を雇ったということが分かったんです。その殺し屋が小田島こと峰岸だったんです。そこで、我々は奴と、奴の仲介人・多田大介をマークしていたんです。ところが、峰岸を監視しているとなんと女がいるじゃないですか。仲間か情婦なのかと我々は思いましたが、私はその女性に見覚えがあったのです。それが、あなた桑原さんです。そこで、私は当惑しましてね、殺し屋とあの会社の女性とが関連があるのかと思い、それで、竹内さんに内密に調べてもらっていたというわけです」
 そこで、竹内がうなずいた。今日の就業中、竹内が会社に現れたのもそのためだった。そして美香の不審な行動を筒井から聞いていたので、あのような質問をしたのだ。
「私も筒井警部補、じゃなかった警部でしたね。あっそうそう、筒井警部はですね。先日警部に昇進し県警の方に移ったんですよ。ですから、今回中村警察署管内の事件じゃないのにこうやって捜査しているんです。で、話を元に戻して、私もその話を聞いて驚きましたよ。あの支店長銃殺犯と桑原さんが関係しているって。それで、私はいろいろ調べたり、土田さんたちから話を聞いて回ったんです。で、今日、桑原さんのあとをずっと付けて、峰岸と会っているのをキャッチし港まで尾行していたんです」
「で、危機一髪というところで我々が登場したわけです。でも、危なかった。奴も捨て身でしたからね」筒井は雄弁に語ったが、発砲したことが少々気掛かりのようでもあった。
「じゃ、今度は桑原さんが説明してください。どうして、今回のようなことになったのか?」
 美香は「聞こえすぎ」の現象のことから、電話の事、新聞で事件を知ったこと、小田島と会う約束をしたこと、そして今日の事と、全部洗いざらい話した。ただし、小田島に対する個人的な感情だけは伏せておいた。
 二人とも複雑な表情で聞き入った。特に「聞こえすぎ」現象の話はSF的な話を信じない竹内と、科学的な現代人の筒井には信じられなかったが、そのことを理解しなければ後の話が付いてこなくなってしまう。
「全く、不思議な話だ。まあ、信じがたいと言えばそうですけど、とにかく峰岸はあなたが何者か知るために近づいてきたのは間違いない」筒井は首を傾げながら言った。
「さっき電話を掛けてきたのは、多田という人物なのですか?」
「そうです。多田についても監視の目は光らせてありますから、既に確保されているでしょう」
「では、田島修一という人の事件はどうなるんでしょうか?単なる偶然?」
「それはちょっと出来すぎじゃないですか。あらためて、県警で調べてもらったほうが?」竹内が筒井に言うと、筒井もすぐにうなずいた。
「ところで、小田島さ・・・峰岸という人はどうなったんですか?」
「それが、海に落ちたまま、見つからんのですよ。死んでしまったのか、どうか?私も滅多にしない、銃を抜いてしまったんでね。まあ、桑原さんを救うために仕方がなかったんですが」
「すみません、私の為に」
「いや、あなたが気になさることはありません。じゃ、ちょっと捜査の情況を見てきますんで」 立ち去ろうとした筒井に、竹内が近寄って小声で言った。「筒井警部、峰岸の所在がつかめないかぎり、桑原さんの危険は去ってないと思った方が」
「えっ、じゃあ、奴がここに来ると?まさか、奴は最低でも負傷しているんですよ。それなのにわざわざ、ここへって、捕まるかもしれないのに」
「しかし、ああゆう殺し屋は何を考えているか?」
「んー、まあ、竹内さんの感はよく当たりますからな。用心に越したことはありませんか?分かりました。おい、君」筒井は側を通りかかった制服の警官を呼び止めた。
「事件の目撃者があのベッドで休んでいる。犯人がここに現れるかもしれないので、次の指令があるまで彼女を見張っててくれ。いいな、医者の姿をした者とか、入院患者を装った者など特に気をつけてくれ」
「分かりました」その若い警官は筒井に向け敬礼をし、指示に従った。
 竹内は警官と美香の側に行き説明した。「桑原さん、心配はないと思うんですけど、念のためこのお巡りさんに見てもらっておきますね。あっ、それじゃ、僕は桑原さんの御家族に連絡をいれますから。では、よろしく」と警官に言って竹内は部屋を出た。
 美香は落ち着きを取り戻し、冷静に考えた。あの小田島が冷酷な殺し屋などとは今もって信じられなった。だが、表の顔と裏の顔を使い分ける巧みな技を持つ恐ろしい男だった。確かに出来すぎの男だった。裏があると思わないほうがおかしい。美香は自分が浮かれてはしゃいでいたことが恥ずかしく情けなかった。自分の優しさに枯渇していた心の隙間を巧みに突かれた気がしたすべては仕組まれた事なのか?元暴力団の事件も関係あるのか?「聞こえすぎ」現象にいいことなど全く無かった。
 救急車のサイレンが近づき、病院内が騒がしくなった。救急車が止まると、搬入口のドアが開き、担架が運ばれる音や、看護婦の慌てている声が聞こえてくる。美香は緊急治療用の部屋の中にいた。ベッドが三つあり、それぞれがカーテンで仕切られている。彼女はその一つに横たわりベッドの周りにもまたカーテンで囲んであった。
 美香はカーテン越しに聞こえる物音を聞いていた。どうやら怪我をした人のようで、治療用の器具の音や薬を取り出す引き出しの音が聞こえた。看護婦が医療用語で会話し、彼女には何のことか分からないが、そのうち、「先生はまだ・・・?」、「探してきて」、「遅いわね」といつの間にか急患だけを置いて誰もいなくなった。
 美香を警護するように言われた警官は、カーテンを開けじっとその様子を見ていた。急患を運び込んだ救急退院、インターンの新米医師が行き変わり部屋に入るのを厳しい目で見回った。だが、警官は油断していた。むろん、看護婦や運ばれてきた急患などを気にするはずもなく、誰もいなくなると気を抜いて、美香の様子でも見ようとカーテンを閉めながら振り返ろうとした。気づいた時には遅かった。ベッドから起き上がった急患は手直にあったメスを握り、警官の口を押さえメスを首もとに走らせた。

 美香は静けさの中でドタッと倒れる音を聞き、ハッとベッドの上に起き上がった。彼女は「すいません、すいません」と警官に声を掛けたが返事がない。何事かと耳を澄ましたが何も聞こえない。どうして、こんな時に「聞こえすぎ」現象が起きないのだろう?竹内君はどこにいったのだろう?だが、美香は近くに人の気配がするのを感じた。しかし、それには底知れぬ不安が伴っていた。美香がカーテンを見つめていると、背後のカーテンが引き裂かれ肩から血を流し、濡れて血が染みついたワイシャツを着た男が現れた。
「逃がさないですよ」峰岸はメスを振りかざしベッドに乗り込もうとしてきた。
 美香は振り向きざま点滴の瓶を投げつけ、ベッドから裸足のまま飛び下りた。瓶は峰岸の顔に当たり粉々に割れた。薬品を被った峰岸は顔を拭っり、「くっそー」と悪態をついた。
 美香は手に刺さっている注射を引き抜き、治療室から逃げだした。無我夢中で走ったため、出口とは反対の方向に向かい、目の前にエレベーターが現れた。ちょうど一階に止まっていたのでボタンを押し、開いたエレベーターに乗り込んで適当にボタンを押した。閉まるドアの向こうには這い擦り回って近づく峰岸の姿が見えた。美香はドアが早く閉まるよう切に願ったが、病院のドアはゆっくり閉まる。峰岸の左腕が閉まり掛けたドアに触ろうとしたが、美香はそれを押し出してエレベーターのドアを閉めた。

 竹内が電話から戻ると治療室付近が騒がしいのに気づいた。そこに通りかかった筒井警部に訪ねた。「どうかしたんですか?」
「さあ、ちょっと聞いてきます」筒井は側にいた看護婦に尋ねて、すぐに戻ってきた。
「急患がいなくなったとか言ってますよ」
「急患が?」竹内はその言葉を聞くと、血相を変えて美香がいる治療室に走った。
 カーテンを開けると、そこには倒れている警官がいるだけで、美香がいたベッドはカーテンが
引き裂かれ薬品や瓶のかけらが散らばっているだけだった。
「しまった!」
 遅れて来た筒井が現場の状況に驚きながらも、すぐに倒れた警官の生死を確認した。筒井は虚しく首を振り、「桑原さんは?」と尋ねた。
「いません。でも、ここに血の痕があります。これを追っていきましょう」
 部屋からは点々と赤い斑点が続き、エレベーターの方に向かっていた。
「桑原さん!」竹内は歯ぎしりしながらエレベーターの脇にある階段を登った。

 美香はエレベーターで最上階に降りたが、そこは真っ暗で脇にある階段しか目に入らなかったその階段の下から誰かが登ってくる音が響いてくる。美香は慌てて階段を上り、屋上の扉を開けた。屋上には病院のシーツが干され、わずかな風にはためいていた。美香は闇雲にそのシーツをくぐり抜け、下に降りる非常階段か隠れる場所を探した。だが、空調の給水器とポンプしかなく周りが柵で囲まれているだけだった。屋上への扉が開いた音がし、美香は周りをうかがった。その時、またしても「聞こえすぎ」が発生した。シーツのはためく音、ボイラーの鳴る唸り、そして独り言のような声。
———どこへ行った。絶対逃がさないぞ。
 その声は彼女を震え上がらせたが、「聞こえすぎ」現象の欠点である、方向が分からないことは彼女を余計不安にさせた。美香は姿勢を低くし、屋上の入口に戻ろうとした。シーツの下を覗いても峰岸の足は見えなかった。ゆっくり周りを見ながら幾つものシーツの下をくぐり抜けていった。目の前のシーツをふと見上げた時、そこには血に染まった手の痕が残っていた。美香はしゃがみこんだまま辺りを見た。
———動くな。今行くぞ!
 と、耳に聞こえた瞬間、美香は立ち上がり背後を見た。シーツを干してある洗濯竿にぶら下がっていた峰岸が飛び掛かってきた。ひるむ間もなく美香は峰岸の怪我をしていない左腕に締めつけられ、右手に握るメスを首筋にかざされた。
「こんな結果になって私も残念です。しかし、あなたをこのままにしておくことはできないんですよ」峰岸は美香を引きずりながら柵際の方に進んだ。彼から流れる血が美香の頬に付き奇妙な暖かさを感じた。
「田島という人は何だったんです?あの人もあなたが?」
「そうです。あなたが私が狙われているなどと言いだすので、あなたの正体を知るためにしたことです。私に似た名の人物が死ねば、あなたも納得し、また私に連絡してくると思ったからですよ」
「じゃ、田島という人はそのためだけに?」
「奴は暴力団にいた人間で、私とも面識がありました。小田島という名前も奴のを模倣しただけなんですよ。どのみちやつは今でもヤクの売買をしている、ろくでもないしたっぱですからね。死んだところでどうってことないんですよ」
「そんな、人間のすることですか?」
「ははは・・・。私は殺し屋ですよ、そんな感傷も人間的な心も持ち合わせていませんよ。ようはビジネスなんです。それと私の楽しみもですがね。だが、あなただけは違う。私としてもプライドがあるので、女で失敗したなどと思われては今後に差し支えるのでね」
 屋上の入口のドアが開き、筒井警部が現れた。
「峰岸、観念して彼女を離せ、もう逃げられないぞ」筒井は拳銃を構え怒鳴った。
「うるさい、きさまこそ、銃を置いてこっちに蹴ろ!この女が死んでもいいのか?」
 筒井は身動きできず、苦しい顔で悩んだ。そして、相手の視線を外さないようにしながら銃を置き、足で軽く蹴った。
 銃は筒井と峰岸の中間で止まった。峰岸はそれを拾おうと美香を抱えたまま動こうとしたが、横から現れた竹内が峰岸を突き飛ばし、美香を取り返そうとした。しかし、峰岸も機敏な反応をして美香を奪われるのを阻止した。竹内の方も勢い余ってつんのめってしまった。その隙を付いて筒井は拳銃を拾い、峰岸の脚めがけて発砲した。脚を撃たれた峰岸は後方にのけ反り返り、柵を越えて向こう側に落ちた。美香もつかまれたまま柵にぶち当たり、体の上部が柵から出て、腹が柵の真上にある状態になった。 
 峰岸は建物のへりに左手だけでぶら下がっていた。「助けてくれ」と苦しそうに訴えた。
 桑腹は一瞬ためらった。自分を殺そうとした男を救えるか?しかし、目の前の男は今、死に直面していた。それを見過ごすことは彼女にできない。しかも、一時ではあるがこの男に対し抱いた感情のことを考えると尚更だ。彼女は峰岸を助けようと手を差し延べた。峰岸はその手をつかもうと右手を伸ばそうとしたが、その手にはまだメスが握られていた。メスを振りかざそうと右手を回したが、美香は咄嗟にそれを避けた。メスを思いっきり回した勢いで峰岸はバランスを失い、左手がへりから離れた。
「うぉー・・・」と言いながら峰岸の体は宙に浮き、重力のままに落下していった。断末魔の叫びが美香の耳に木霊した。いつまでも、いつまでも彼女の耳に響いていった。

エピローグ

 美香は事件の後、かなりの精神的ショックを受けたが、それもすぐに回復した。本来持つ、明るい性格と気丈な精神、そして過去の事にこだわらない彼女の気質が心の治癒をみるみる成し遂げていった。「聞こえすぎ」の方も難聴が完全に治るのと同じくして、全く起こらなくなった。ただし、その原因等は不明でぶり返しあるのではという懸念はあったが、その時はその時と彼女は開き直っていた。事件から一週間後、普段の仕事に戻り、今までと何も変わらぬ生活を送っていた。トリオのメンバーはそれぞれに様々な事件に巻き込まれている。だから、誰かに何かがあっても、普段と変わらぬ環境を自然に作ることができ、事件後の悪影響はほとんどない。S銀行支店長銃撃事件もほぼ解決、背後にある不正融資のことも明るみに出て、違う意味で社会を驚かせていた。むろん、美香の事は全く言及されていない。
   田島が殺された事は美香も責任を感じていた。しかし、田島自身、薬付けの為、命が危ないというのも検視の結果分かっており、筒井警部も彼女に対しては気にしないでくださいと慰めの言葉を掛けていた。だが、彼女が起こした事は警察にとってはラッキーだったのだ。峰岸は支店長を射殺した後、すぐにでもほとぼりが冷めるまで高飛びするつもりであったのだが、美香の電話のためそれもままになり、警察が彼をマークすることができたのは彼女のお蔭だと言ってもよく筒井も感謝していた。
 二週間後、竹内が美香の様子を見にやって来た。竹内自身も過去に辛い体験をしている男だった。それゆえ、美香の気持ちが分かるとともに、彼女の現状が心配であったが、そんな危惧も杞憂と分かりほっとした。
「桑原さん、どうです?もう大丈夫ですか?」
「ええ、もう。竹内君にもいろいろ迷惑や心配かけて御免ね」
「いえ、これも僕のトリオにおける役目ですから。でも、知多の事件が解決したかと思うとすぐでしょ、僕も仕事が手に負えず大変ですよ。でも、良かった。桑原さんに何事もなく、そしていつものとおりに戻ってくれて。じゃ、また後で」竹内はそう言って部屋から消えた。
 昼食が終わり、竹内が伊藤と土田とで何か話をしていた。コーヒーを片手に美香が彼らに近づき、冗談で言った。「あんたたち、また私の悪口言ってない?」
「えっ・・・」伊藤が驚いて言った。「桑原さん耳の変な症状、治ったんじゃないんですか?」
「うん、もう治ったわよ、完全に・・・。えっ、じゃ、あなたたち、本当に私の悪口言っていたの?」
「いえ、そうじゃなくて、ですね・・・」と伊藤たちは弁解しながら、席から逃げようとした。 美香は「待てー」と明るい笑顔で彼らを追いかけた。
                  

———— 聞こえすぎ 完 ————


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