このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

精夢の街


プロローグ

 人はなぜ夢を見るのか?それは決して解きあかせない人間の内なる謎なのだ。しかし、人は誰でも夢を見る。それは眠っていても脳という機能が働いているからだ。今も昔もそれは変わらない。人間がこの世に誕生し睡眠を取る時から、それは永遠に続いているのだ。人種・宗教・環境に関係なく平等に人は夢を見る。古来からそれは神秘性を帯び、夢による占いやお告げ、病の判断などが執り行われ、それが歴史さえも変えてきたことがある。
 一時期、夢を題材にしたテレビ番組やそれに伴う著書が流行った。夢にはその人の経験や感情がすべて見いだされる。通常の生活では現れない潜在意識の意味やその人の願望・欲望が夢に投影されている。それは心理学の領域に入り、フロイトが提唱した数々の研究は今でもそれらの基盤になっている。
 ある意味で夢は精神病患者の状態を表すものだと言える。夢を見ている時、それを制御することは困難である。自分の意思に伴わず、夢は勝手に場面を展開させ次から次へとシーンが変わっていく。その脈絡は全くなく、支離滅裂な物語が進む。それは一種の精神病患者が体験しているものに似ているのだ。軽い鬱病や心身症などではなくアメリカのオカルト映画に出てきそうな完全隔離の精神病棟の患者たちの症状だ。極度の脅迫観念や自分が別人と錯覚していたり、魔物や虫などに怯えるなどの症状は夢の中で誰もが経験したことがあるだろう。何者かに追いかけられ、しかも逃げられない。自分が大富豪や指導者になって好き放題にしまくる。自分がもっとも恐れているものに迫られるなど、現実では決して経験できない不思議な世界をかいま見ることができる。
 しかし、夢も一度目が覚めれば全て忘れてしまう。もちろん、目が覚めた時点では多少記憶に残るものもあるが、数時間もすればその記憶は薄れていく。人は毎日、眠るたびに夢を見つづけるがそれはいつも記憶の狭間に消えていく。それはなぜだろう。本当に自分は夢を見ていたのかそんな疑問が湧くこともある。夢の謎を解きあかす時こそ、人間の真の謎が解きあかされる時かもしれない。

1  もう一人の自分

 森隆二が目を覚ました時、あたりは静寂さが漂っていた。何一つ物音が聞こえない。たとえ夜中だろうと、都会の度真ん中だ。車の音ぐらい聞こえていいものだが、それさえもない。
 森は今目覚めた自分を認識し、今まで何をしていたかまどろむ記憶を模索した。
———確か、さっきまで飲んでいて、ふらふらとここに寝ころんだはずだけど。
 もともと回転の遅い頭がアルコールのせいで余計に鈍くなっていた。それでも、徐々にだが、なぜここにいるのかという記憶が蘇り始めた。今日は一課だけの飲み会だった。森や吉田を含めた新入社員の歓迎を兼ねたもので、一課のほとんどのメンバーはもちろん、課長や部長も参加していた。始めは静かに飲み食いしていたのだが、いつしか場は盛り上がり、そのうちめちゃくちゃな状況に陥った。野尻部長や早野課長ははしゃぎ始め、ビールをかけた冷や奴や刺身入りのジュースを作りだした。それを頂かなければいけない犠牲者は一番下っぱの森となり、上司の命令には逆らえず無理やり押し込んでしまった。本来、酒に強い森ではない。二三杯のビールで既に酔いは回って来てしまった。一時間もすると頭は痛くなり現状の把握さえ困難になってきた。
 森は部長たちの矛先が他の人にいっているうちに真野たちに勧められ外に出て、酔いを覚まそうとした。しばらくすると二つ上の先輩、土田が寄ってきて「大丈夫か、悪いな俺の犠牲になって」と声を掛けてくれた。森は「ええ、大丈夫ですけど、もう駄目です」と意味不明なことをいい始めていた。土田もまだ三年目ということで愚食の犠牲になりかけたが適当に森に振ったりして実害はなかったようだ。しかし、本人は相当頭にきている様子で、気分を晴らしてくるとそのへんをうろうろしに歩いていった。
 そのへんまでは森は覚えていたのだが、あとは断片的にしか記憶に残っていなかった。その後、もう一度店に上がったが、飲み会はお開きとなり部長たちはさっさと帰ってしまった。他のメンバーは飲みなおしということでサ店でも行こうかと話していたが、土田だけは怒り心頭のまま店の戸をバタンとしめて帰ってしまった。「森君はどうするの?」と加藤千尋に声を掛けられたが、「僕は帰ります」と言って皆とはそこで別れた。どこをどう歩いたか、またなぜそのような行動にでたのか今ではさっぱり分からないが、森は会社まで戻ってしまった。もちろん、会社にはもう誰もいず、施錠されたビルに入ることは出来ない。これ以上立っていられない森はビルの裏口に向かい駐車場の脇でダウンしてしまった。その場所には無数の段ボールが積まれている。ホームレスのおじさんが定住しているのだ。ここでは二年ほど前トリオで起こった「専務殺害事件」のあおりをくらってホームレスが殺されていたが、今では新しい人物が住み着いていた。森はそんないわくのある場所にも関わらず、座り込んで眠ってしまった。
 何時間たっただろうか?時間の間隔が全くない森には永遠の時間がすぎたような気がした。何時だろうと時計を見ようとしたが腕には時計がなかった。
———あれ、落としちゃったんだろうか?
 そう思って森は周りをきょろきょろした。そして、その時気がついた。自分が何も着ていないことを。上着はおろか下着さえもつけていない素っ裸なのだ。靴さえも履いてない。
———一体どうしたんだ?おいはぎにでもあったのかな?
 と、訳の分からない考えを起こした。周りはシーンとして物音一つしない。人の気配も車が動いている様子もなかった。素足の感覚に森はふと気づいた。何か浮いているような感じなのだ。地に足がついている感覚がない。まだ酔っているのかなと鈍化した頭で考えたが気持ち悪さや頭の痛さもなく、気分的にはすっきりしていた。酒の一滴でさえ体に無い感じだ。
 森はもう少し周りを見てみた。裏口の窪みから見える範囲の街の景色はいつもと変わりない。あちこち電灯や照明があり闇夜を照らしていた。裏口の前には段ボールが積まれている。ホームレスの家だ。その前にはステーキや刺し身、中華料理にデザートの果物まである。なぜ、こんな豪勢な食事があるのか森は不思議に思った。その時、裏口の階段にうずくまる物体を見つけた。どうやら人のようだ。森はいつもここにいる浮浪者かなと思って近づいたが、暗がりから見えるその容姿はスーツ姿だった。森は恐る恐る近づいていった。電灯から外れた闇の中の顔をうかがうとそれは自分の顔だった。
 森は驚きおののき二三歩後ずさりした。
———どうなってんだ?自分が自分を見ている。そんなことがあるのか?鏡が有るわけじゃないし、俺に双子なんかいないはずだ。
 何がどうなっているのか森には皆目見当もつかなかった。驚きのあまり心臓が高鳴り動悸が激しくなった。そして、その混乱した頭の中であることが思いついた。
———自分は死んだんだ。酒の飲み過ぎで急性アルコール中毒にでもなったんだ。
 森は目の前の自分が死体で今裸でその体を見ている自分は魂だと考えた。テレビできいたことのある魂が抜け出した状態なんだと理解した。
 自分が死んだと思いはじめると、恐怖と悲しみが募ってきた。一浪してやっと卒業し社会人になったばかりなのに数カ月でこの世からおさらばなんて信じられなかった。まだ、やりたいこともやっていなし、仕事だって何一つ満足にこなしていない。榊原課長に叱られてばかりでろくに会社に貢献していないのだ。会社の人たちはどう思うのだろう。一課の人はきっと責任を感じるだろう。特に部長たちは、飲ませた張本人だ。犯罪者に匹敵する。今度化けて出てやろうか。まだ、名前をはっきり覚えていない先輩もいたし、同期の加藤たちも寂しがるだろうな。そうだ、家のことだってある。両親や兄弟になって言えばいいのか?いや、もう言うことは出来ない。でも、きっと悲しむだろう。息子がアルコール中毒で死んだなんてちょっと悔やみきれないんじゃないのか。
 家のことを考えると森は家が恋しくなった。ここにいても仕方がない。この遺体が発見されればどうせ家に運ばれるのだから、自分も家に戻った方がいいかもしれない。自分の葬式を自分で見たいし、参列者の人たちとも最後のお別れをしなければいけない。森はそう思い立つとこの場を去ることにした。自分の肉体を置いていくのは心細かったが、魂の自分にはどうすることもできなかった。朝にでもなれば誰かが見つけてくれると祈るしかなかった。
 森の実家は一宮だった。ここからは二十キロ程あるが今の森には距離の感覚は皆無だった。国道二十二号線に出て北に向かえばそのうち着くだろうと楽天的な考えで森は歩き始めた。
 こんなに簡単に死が訪れるなんて、人間の一生なんて儚いものだ。自分が二十代でこの世を去るとは夢にも思っていなかった。そう、これが夢ならどんなにいいだろう。森はほっぺでもつねってみようかと思ったが、魂の体に感覚があるはずはないと妙に素直な理解を得ていた。

  2 奇妙な町人たち

 トリオのあるビルを出ると見慣れた景色が目前に広がった。むろん夜なので昼間と同じとは言えないが、それでも数カ月行き来した道になぜか懐かしさがこみあげてきた。
———もう、この道を歩くこともないのか?
 古い作りの家を過ぎると、時たまに食べに行く中華料理店「桜宛」があり、隣には「メンズエステ スタジオR」というちょっといかがわしそうな店がある。反対側は駐車場と何かの商品倉庫があった。村上科学という何の会社か分からない三階建ての建物とそこが運営している立体駐車場の間を通った。薄暗い電灯があるのみで闇の中にポツンと光が漏れているだけだ。「西洋厨房 飯島屋」というレストランがその隣にある。一度ぐらいは行きたかったがその夢はもう叶わない。最初の十字路に出る。角には「里羅」というスパゲッテイ屋がある。一度行ったことがあるが、いつもサラリーマンが並ぶ人気のある店だ。味はまあまあというところだがボリュームだけは十分ある。加藤が喜んでいた店だ。十字路を右へいけば堀川に掛かる中橋を越え中区に入る。その先にはトリオの御用達「エビス亭」があった。二三度森も行ったことがあるが、結構いい店だった。森はちらりと右側を見た。橋の手前に小さな祠があるのだが、その祠がいつもと違う気がした。暗がりではあるがなぜかはっきり見えるのだ。まるで光っているかのようにその祠がぼーっと発光しているのだ。森は興味を持ったが、気持ち悪さもあって左側の方へ曲がった。
 左側には一階が問屋のような店でその上が住宅になっているビルだった。地下に急な傾斜で降りる駐車場がある。反対側には「不可思議」という喫茶店がある。骨董品屋も兼業しているようで森は行ったことはないが話によると、中はアンティークな雰囲気の洒落た店だそうだ。その時、森は気づいた。店の入口の上にある「不可思議」の看板が正しいのだ。正しいのなら何の疑問もないのだが、それがおかしいのだ。いつもみる不可思議の看板は「不可思議」の文字が裏返っているはずなのに、いま見る看板は普通に「不可思議」と読める。
———いつの間に看板を変えたのかな。
 森は納得しないまま進んだ。目前に「浅間神社」と呼ばれる小さな神社があった。森はいつもここで同期の加藤・畦津や末国たちと昼休みの間たむろしていた。向かいの「おひげ」という雑貨屋でパンやジュースを買って昼の時間中ここでぶらぶらしていたのだ。
 森は鳥居の前で立ち止まって神社を眺めた。大きな木が何本も立ち、神社は鬱蒼とした暗さを見いだしている。鳥居の奥に小さい狛犬があり、その奥に大きい狛犬がある。その先にもう一つ鳥居があり本殿があるのだ。神社の右側にここの神主の住居がある。神社と行っても小規模なものだ。それほど、頻繁に祈祷などはせず、一年に一度こじんまりした祭りが行われるぐらいのものだった。
 じっと哀愁の思いで神社を見つめていた森だが、ギクッと心が鼓動した。目の錯覚かともう一度目を凝らして見つめたが、やはりそれは動いていた。大小二組のつまり四体の狛犬が動いているのだ。まるで本物の犬のように台座の上で首を傾げたり尻尾を立てたりして動いているのだ。———そんな、バカな。
 森は信じられないという驚愕の気持ちで四体の狛犬を見つめた。そのうち一匹の狛犬が森の存在に気づいたのか動作を止め森をじーっと睨み付けた。一見してもちょっと怖い狛犬である。そいつが視線をこちらに向けているとその恐ろしさが空気に伝わってきた。しかも、狛犬の目が鈍く光りはじめた。他の三匹も動きを止め最初の一匹目と同じように森を見つめ始めた。八個の鈍い光が森の眼中に入った。森は足がすくみ身動きできなくなった。
 狛犬は目の光を強くさせ一匹が唸りだした。すると狛犬たちは台座から飛び下り、森に向かってまっしぐらに突っ走ってきた。さすがに森もその恐怖で呪縛から溶けたように走り始めた。後ろもかえりみず無我夢中で走った。何で狛犬が生きているのか理解もできず、ただ、闇雲に走った。
 神社から北へ向かう道は四間道と呼ばれる昔からの道で、江戸の始め清州城から名古屋城へ城を移すとき、城下町もそのまま移したのだった。元禄十三年大火に襲われ、その後の復旧で道を四間に広げた。その道の名残が今でも残っていた。名古屋駅から差ほど遠くない土地なのだが、この辺りは昔の面影をまだ残している。高層のビルなどはなく。平屋建てや長屋のような古い建物が立ち並び、蔵や石垣も残っている。一種の下町的な雰囲気が残された貴重な町並みなのだ。 森はその四間道を突っ走った。しばらくして息がえらくなり一瞬だけ後ろを振り返った。後から追いかけてくる様子はなく。森は立ち止まって歩調を緩め後ろを振り返ってもう一度確かめた。どうやら、狛犬たちはここまで追ってこなかったようだ。しかし、焦った。なんで狛犬が動くんだ。魂の存在というのが影響しているのだろうか。森は大きく息を吐き再び歩き始めた。古い家と近代的な家が両立して並ぶ道を進んだ。だが、またしても森の目はある一点に集中した。目の前をピエロが歩いていた。しかも、何人ものピエロが。ピエロは信じられないことに家の壁から現れ、道を渡って反対側の家の壁に消えていった。赤や青の水玉模様に派手な三角帽、大きな鼻を付けた白い顔には目の周りに涙や星が描かれている。そんなピエロが何人も何人も目の前を行進している。中には大きな玉に乗った者もいる。
 森は背後にも物音を感じ後ろを振り向いた。そこには角がはえた白い馬、ユニコーンが立っていた。馬の背には西洋の鎧を来た騎士が乗り、円錐形の槍を持って構えている。森はいつのまにか隣に現れた人物に気づいた。中年のおじさんのようで、森は「あのー」と声を掛けようとしたが、その男は突然苦しみだし、顔に手を当ててもがきだした。すると、男は体が小刻みに震えだし、顔や手に無数の毛が生えはじめた。男が唸り顔を上げると狼男ではなく狸のような顔になっていた。森は後ずさりし、逃げようと思ったが今度はユニコーンの背後からは戦車がガガガと轟音をたてこちらに向かってきた。戦車は砲台を動かし上空に一発大砲を発射した。すさまじい爆音が響き渡ったかと思うと、一瞬にして戦車やユニコーンは消えた。ピエロたちもいない。
 再び道路上に爆音が響きわたってきた。また、戦車が来たのかと思うと漆黒の闇の中に二つの光が現れ、その光はこちらに向かって迫ってきた。街灯の下まで来たその光は車のヘッドライトだった。真っ赤なHONDAのNSXはエンジン音を轟かせ森の方に突き進んできた。あまりの速度の速さに身動きできなかった森であったが、NSXは森の目前で急ブレーキを駆け左にスピンしながら止まった。森はホッと溜め息をもらした。車のウィンドウが降りると、「テメエ、何ボーッとつったってんだ。邪魔だ、ドケー」と女の怒鳴る声がしたかと思うと窓の中から鉄拳が伸び森の顔面を炸裂させた。「ざまーみろ!」と女は窓から乗り出し捨てぜりふをはくと再びNSXをのエンジンをふかし、タイヤを軋ませて急発進させた。一瞬しか見えなかったが、どこかで見たことのある女性だった。
 一体全体どうなっているんだ。森の頭は混乱するばかりだった。もしかしたら、これが死後の世界というものかとふと思った。
———何だ、丹波哲郎が言っていたのと全然違うじゃないか。
 そんなことを考えている間もなく、今度は上空から無数の蝶が舞い降りてきた。モンシロチョウもいれば何とかアゲハもいる。白や黄色や黒の様々な彩りが無数の蝶により空を染め下げた。その蝶を追うように一人の若い男が虫取り網を持って「アオムラサキブルーアゲハはどこだ」と叫びながら蝶の大群を追跡していった。何なんだ、と茫然とする森だが、奇異な現象はまだ続いた。少し歩いて進んだところ五メートルほどの高さにきらりと光るふたつの光体を見つけた。暗陰の中からヌッと現れたのは恐竜である。恐竜に詳しくない森だったが、草食だろうと肉食だろうと怖いことには関係なかった。森には昔見たゴジラのイメージしかない。森は恐竜に気づかれないようにゆっくり歩き脇にあった小道に曲がった。恐竜は森には気づかず四間道を真っ直ぐ歩いていった。森は遠回りしていこうと考えそのまま小道を進んだ。道はすぐにT字路にぶつかった。右に森は曲がるとすぐにそこは袋小路でそこから先は進めない。道の先端には小さな祠があり、周りには無数の赤い旗が、風もないのにはためいていた。その旗には「子守地蔵」と書かれている。祠には小さな地蔵様が祀られていた。その時、祠の前にあった影が動きだした。今まで気づかなかったがそれは動かないまま無心にお祈りしていた若い女性だった。女性は振り向き、森を見つけると「坊や帰ってきたのね。ずっと、ずっと待っていたのよ」と涙を流し森に抱きついてきた。何が何だか分からない以上に、真っ裸の自分に女性が抱きついてきたものだから、森は当惑してしまった。
「す、すいません・・・、僕は森です。あなたのお子さんではありません」
「何を言っているの、浩二、私よ、お母さんよ。ずっと探していたのよ」
「だから、僕は違いますって、御免なさい」と森は女性を軽く突き放した。
 倒れ込んだ女性はまだ「浩二、浩二」と叫びながら手を延ばしてきたが、森は一目散にその場を去った。しばらく行くとまたT字路にぶつかり右に曲がった。この辺りには古い建物はあまり見られないが、狭い敷地にぎゅうぎゅう詰めの状態で家が軒を並べている。二三個、交差点を超えまた北に向きを変えた。少し進むと「円頓寺劇場」という建物が目に入った。入口のポスターにはHな成人映画のものが張ってあり、建物の右側はレンタルビデオ屋になっていた。
 何なら裸の女性でも出てくれば嬉しいのにと森は邪心な思いを募らせたが、そうは問屋が卸さない。劇場の入口から出てきたのは黒い着物を着た侍だった。一人の侍が出てくるとそれに続いて何十人もの侍が現れ、黒い着物の侍と対峙している。その間に森は突っ立ってしまった。侍は刀を抜き構えると月を描くように丸く回した。「円月殺法か」と対峙する侍の中から声がした。森がどっかで聞いたことがあるな思っていると、侍たちは刀を抜き動きだした。一人の敵に一挙に襲いかかったが、黒い着物の侍は相手をものともせず見事な太刀さばきでバッサバッサと敵を切り倒していった。森はその間を切り抜けながら刀を避けた。侍たちにの眼中に森はないようだが、刀など森には危険極まりない物だった。しかも、切られた侍からは血がドッと流れだし、中には腕が吹っ飛んだ者さえもいる。こりゃたまらんと、この場も森はさっさと逃げ去っていくことにした。
 一息ついて我にかえると、そこはアーケードの商店街だった。円頓寺商店街と呼ばれるこのアーケードは東は堀川の五条橋から始まり、高速道路建設中の道路を超えて菊井通りまで続いている。大曽根・大須と並ぶ名古屋のアーケード街だが、御多分にもれず、あまり繁盛しているとはいえない。庶民的な店が多いが、近所の人しか訪れず、徐々にその店数も減っている。何とか活気を取り戻そうとはしているが、大曽根のような大規模の改築を行っていないので難しいところだ。もちろん、地元の人はそれなりに頑張っている。いわゆる下町的な雰囲気で夕食時などは賑わうのだが、数キロ先の駅周辺とはまるっきり様相が違っている。
 夜中ともなれば人っこ一人いない。森はそのアーケードの真ん中に突っ立ち、耳をすました。また何か現れないかびくびくしていた。トリオのビルを出発して何分経ったかまったく分からないが、一宮への道は相当遠いもののような気がしてきた。森はゆっくりそのアーケードを進んだ。左手にはこの町のシンボル、「円頓寺」がある。今は門が閉まり中は見れない。むろん、何が出てくるか分からないから(寺とならばとんでもないものが出てきそうだから)覗いてみる気にはなれない。ちょっと進むと道の角に「金刀比羅神社」という四畳半ぐらいの小さな神社があった。小さくて狛犬はいなく森はほっと胸をなでおろした。どの店もシャッターを閉めているので何の店か分からないが、ちらちら見える看板からは肉屋とか金物屋だと判別できた。
 そして、またしても森は立ち止まった。目の前に小さな光点が現れたからだ。今度はなんだ?さすがの森もいい加減に度胸が付いてきたのか、今度は構える姿勢を取った。
———もう、何が来ても怖くないぞ。
 森は勇気を奮い起こし、その光点を見据えた。

3 雲夢界

 光は徐々に近づいてくる。空中を不規則に浮遊し左右上下に光は揺らめいていた。よく見るとその光からはホウキ星のような光の粒子が後方に流れていき、闇の中へパラパラと消えていっている。光は穏やかな暖かさをみせ、心の枯渇を満たしてくれるような優しさがあった。光は森の目前まで迫り、止まった。光の強さが弱まり光球の中から蝶のように羽の生えた生物が現れた。
「なんだ、また蝶々か?」森はホッとしたようにつぶやいた。
 すると、その蝶は言葉を発した。「失礼ね、蝶々とは?」
「げげ、蝶々が喋った」
 その生物は体長三十センチほどの人間の姿をしている。しかも、見た目は女性である。少女のような美しくおおらかな顔だちに透き通るような白い肌、肩まで伸びた赤茶の髪、欧風的な容貌の可憐な美しさを持っている。ただ、違うのはその背中から体より大きな薄いピンク色の羽が左右に生えていることだ。服を来ているのかどうか分からないが体は青い物で包まれれている。「だから、蝶々じゃないって言っているでしょう。私はエルフよ。エルフのシャルン」
「エルフ?エルフって何?トラックのことかい」
「??んー、あなたたちの分かる言葉で言うと『妖精』かしら」
「妖精?そんな冗談はヨウセィ・・・」
 シラーッ。「あなた結構しょうもない人間ね」シャルンは体の光を強くさせた。
「ところで、何でこんなところのいるの。人間のあなたが?」
「何でって、俺死んじゃったんだ。だから、魂になって家に帰ろうと・・・」
「ははは・・・、あなた随分誤解しているわね。ここは霊界じゃないのよ。あなた死んでなんかいないわ」
「えっ、ここはあの世じゃないの。でも、俺・・・、自分の体をこの目で見たんだぜ。それにここには変な物ばかりいて、さっきから怖い思いばかりだよ」
「ここは雲夢界よ」
「ウンムカイ?」聞き慣れない言葉に森は首を傾げた。
「あなたたちの住む次元には地上界や天上界、霊界、魔界などがあるのよ。その中で一番小さいのが雲夢界よ。雲夢界っていうのはね、人間が見る夢を集めている世界なの」
「夢を集める?」
「そう、人間は毎日何時間も夢を見ているわ。それは記憶として全て頭に残されるのだけれど、それだと頭がパンクしてしまうの。本当は人間はそれくらいの記憶を許容出来るんだけど、普通の人間は脳の数パーセントしか使っていないから、無理なのね。頭が夢で一杯になると、精神的にも肉体的にもよくないの。だから、その夢をこの雲夢界が頭から吸いだして人間たちの頭をすっきりさせているの」
 森にはシャルンの言っていることがいまいち飲み込めなかった。夢を集めるってなんじゃらほい。だが、仕事の時と同じように分かっていないのに分かったふりをした。
「雲夢界わね、あなたたちの大きさの単位でいうと数十キロぐらいの大きさなの。それが天体の単位でいう一年をかけてこの地球上の全部を周り、そこに住む人たちの夢を集めているの」
「でも、ここは普段の町と同じだよ。建物何かは?」
「雲夢界は実体のない世界なの。もちろん、人間の目では見えないわ。ただ、単に雲のような存在なの。それが地上界を漂って、その都市や村を投影させているの。だから、人間は存在しない。あるのはその人間が見ていた夢だけ」
「じゃ、僕がさっきみたピエロや侍は夢なの?」
「そう、雲夢界が存在している範囲に住んでいる人たちが見ていた夢なのよ。楽しい夢から、怖い夢まですべてを吸い上げているの。その夢がこの雲夢界の中をさまよっているの」
「だから、夢は覚えていないんだ。でも、たまに覚えている夢もあるけど」
「それはその人間が忘れたくないと心の奥で思っているから、雲夢界には吸い上げられないの。でも、一年間全ての夢を覚えていないでしょ。それはこの雲夢界が存在するからなのよ」
「じゃ、この雲夢界が夢で一杯にならない?」
「それは大丈夫夢を処理する方法はちゃんとあるから」
「そう・・・・」森にはますますわけが分からなくなった。今の体験こそが夢のような気がしてきた。それともこれが死後の世界で目の前の妖精は悪魔なのかもしれない。
「ところでさ、なぜ人間である僕がここにいるわけ、死んだんじゃないなら」
「あなた、幽体離脱とかしたことある?」
「幽体離脱?んにゃ、そんな経験ないよ」
「じゃ、今日眠る前に何かした?何か飲んだとか?」
「ああ、お酒を飲んだけど。随分飲まされてぐでんぐでんに酔っちゃったけどさ」
「やっぱり、それが原因ね。雲夢界は夢しか吸い上げられないんだけど。時に幽体離脱した魂なんかも吸い上げちゃうことがあるの。肉体から離れた魂は夢としての存在にとても近いから。それにお酒を飲んだり、薬をやったりして精神が高揚している人間も稀に魂が浮遊することがあるわ」
「僕は死んでいないのか。じゃ、元に戻れる方法はあるの?」
「もちろん、魂だけが浮遊しているのだから自分の肉体に戻ればいいわ。それだけのことよ。あなたの肉体はどこなの?ここから遠いの?」
「ああ、会社に置いてきたけど、ちょっと行ったところかな」
「そう、じゃ早く戻った方がいいわね。さもないとあなたは永遠にここをさまようことになるわ」
「どうして?」
「さっきも言ったように雲夢界は雲のような存在で、ある一定の大きさがあってずうっと移動しているの。あなたの肉体が雲夢界の存在する範囲内にあれば問題ないけど、雲夢界が移動していって肉体がある場所を外れたら、あなたは戻れなくなるの。次に同じ場所にくるには一年かかるし」
「だったら、永遠にさまようことはないじゃないか」
「あなた、バカね。魂のない肉体は死んだも同然よ。あなたの国では確か火葬するのよね。一年後同じ場所に来ても肉体があるわけないじゃない」
「あっ、そうか・・・、そりゃ、大変だ。早く戻ろう」
「やっと、分かったようね。肉体のあるところまで付き合ってあげるから、さあ、案内して」
「うん」
 森はよく理解できないまま歩き始めた。まあ、死んでなくて元に戻れるならいいやという短絡的な考えでいた。今どこにいるのかよく分からないが方向はだいたいは分かっていた。トリオがあるビルの看板がここからも見えた。シャルンは森の肩を右に左に飛んで光の粒を蒔いている。五条橋の手前を右に曲がった。
「何だか喉が渇いたな?」
「あなた、魂のくせに贅沢ね。まあ、いいわ、ここは夢の世界だからあなたの思ったことが叶うの。だから水が欲しいなら欲しいと念じなさい。そうすれば水が現れるから」
「そうなの、便利だね」森は水が欲しいと心で念じた。すると森の頭上に水の塊が現れ、バシャリと彼の頭にかかった。
「ははは・・・、あんたバカね。単に水を思ったらそのまま水が現れるだけよ。ちゃんとコップをイメージして、その中に水があると想像すればいいのに」
「何だよ、そうならそうとちゃんと説明してよ」森は不貞腐れながらもう一度コップに入った水をイメージした。すると目の前にその通りの物が現れ、森はコップが落ちる寸前にコップを握りしめた。コップの中には満々と水が入っている。本当に水かなと疑いながらも舌をつけて確認し、ただの水と分かると一気に飲んだ。
「うまいな、喉が潤ったよ。でもさ、そうすると、この世界では願ったことが何でも叶うの?」「そうよ、夢が集められる世界だからね。でも元々ここにいるのは夢自体だから、それは意思を持ってないので何も希望することなどないけど、あなたは生ある魂だから自由に発想できるの。もし、人間が大挙してここにきたら大変なことになるのよ」
 夢が叶う世界が本当にあるなんて信じられなかった。万が一この世界にいても案外楽しいかもしれない。欲しいものは手に入るし、何も束縛されるものはない。働かなくてもいいし、うるさい上司もいない。こんなすてきな世界があるのなら現実の世界に戻る必要があるのだろうか。森は少し考えてみた。だが、シャルンはそれを見透かすかのように森の考えを制した。
「あなた、この世界で暮らしてもいいかなと思っているでしょ。でも、やめた方がいいわよ。もちろん、最初は楽しいかもしれないけど、そのうち孤独感に襲われて現実の世界に帰りたいと懇願するようになるわ。想像で、人間や友人、家族を作り上げても、所詮は幻なのよ。それに気づいて虚無に襲われても、もう遅いの。この世界では歳をとることもないし、希望すれば死ぬこともないわ。でも、それがいつか永遠の苦しみになるの。人間は夢を持ちつつ現実の世界で奮闘し、望みを成就させて、生きていくほうが幸せなのよ。たとえ、それが失敗でも、結果でなくそこまでの過程が大事なの。聞いた話だけど、昔、ここで生きようとした人間がいたそうよ。でも、結局は自ら命を絶ってこの世界から消えたの。この世界で命を絶つのはある方法しかないんだけど。それはとても悲しいことよ」
 こんなところで、妖精に説法をくらうとは森も思っていなかったが、シャルンの言うことは理に適っている。森自身、何か夢を持って生きているとはいえなかった。そんな自分の立場を思い知らされた気もした。人間、夢を持って生きなければいけないのだ。森は話題を変えようと尋ねてみた。
「シャルンはずっとここに一人でいるの?」
「いいえ、あと仲間が三人いるわ。あちこちに散らばって、いろいろ夢の管理をしているの。それにここにはあなたたちの言う一年ほどしかいないわ。エルフとしての修行の一つだからしかたないけど、正直言ってここの修行は退屈だわ」妖精のわりには本音を言う子だった。
「退屈って、いろんな人の夢が覗けて楽しいんじゃないの?」
「人間の夢なんてどれも一緒よ。富に名誉、嫉妬に自己満足、結局は欲望ばかり。始めは面白かったけど一週間もすると飽き飽きしてくるわ。人間ってどうしてこうもつまらないことばかり考えているのかしら。そりゃ、中には素晴らしい夢を持つ人間もいるけど、それは極一部ね。ほとんどの人間はろくでも無い夢を見て、その結果今度は悪夢に苛まれている。いつもその繰り返しよ」
 そんな事をシャルンが言っていると、足元を万札が風に運ばれ流れていった。誰かがお金の夢を見ているのだろうか。確かに人間は欲に固められた生き物だ。人間の夢を毎日見せつけられたのでは、醜い面ばかりが目立って嫌気がさすのも分かる。しかし、現実の世界では皆慎ましやかに生活しているのだ。でも、考えてみると現実に生きている人間の方が実に醜く、悪どいことをしている人もいる。それに比べれば夢の中で欲望を満たすのは許してもらいたいと思う部分もある。
 この世界は人間の心がすべて流れ込んでいる場所なのかもしれない。人は悪い夢は忘れようとする。誰かを憎み、妬んだりしている気持ちが心の中にいつまでも残っていたのでは恐ろしい結果になるかもしれない。そういった人間の醜いものはこの夢の世界に吐きだされ人の記憶から消えたほうがいいかもしれない。欲望もそうだ。エゴイスト的な欲望はやはりないほううがいい。人間本来が自分を含め家族や友人を幸福にする夢はそのまま残した方がいい。地球上で人間が調和して生きてこれたのはこの雲夢界があったからなのだ。かと、言って犯罪や悪がまったくないわけではない。それは、きっと、それに関わる人たちが雲夢界が通り過ぎる夜に眠っていないからなのだろう。誰もが持つ悪しき心を取り除かれていない人たちが、闇夜の中でうごめくから、一部の愚かな人間が存在するのだ。自然の摂理に従い、闇夜の時は眠るのが一番なのかもしれない。
「修行って言っていたけど、何のこと?」
「私たちはバイストンウェルからきているの、地上界と海の間にある。そこの妖精は自分の役割を担う前にいろんな世界で勉強しなくちゃいけないの。そこで私たちはこの雲夢界にきたわけ」
「へえ、バイストンウェルって本当にあるんだ」
「あら、バイストンウェルを知っているなんて珍しい人間ね」シャルンは嬉しそうに言って光を発した。
「ああ、昔、オーラバトラー・ダンバインで見たから」
「おいらの鳩はコンバイン?何それ?」
「ええ、ダンバインってさ・・・・」
 その時、二人の後方からものすごい轟音が響き、それが大地までも揺らいでいるかのように響きわたった。森はまた戦車でも現れたのかと思い、後ろを振り返った。
「何だ、何だ。また誰かの夢なの?」
「いえ、どうやら違うわ。大変だわ。バクが来たみたい、どうしましょ」
「バグ・・・・・・?」

4 夢喰うもの

「バグ・・・?妖精のなのにコンピュータ用語も詳しいんだな。どっか情報管理していてプログラムミスでもあったのかい」森は最近覚えた業界用語ひけらかしてみた。
「何わけの分からないこといっているの。バクよバク」
「ああ、大和田漠でも来るのか」
「・・・あなた、本当につまらないことは良く知っているのね。バクっていうのは夢を食べる生き物よ」
「ああ、聞いたことあるよ。悪夢を食べてくれるってやつ。そうか貘って本当にいるんだ」
「けど、悪夢を食べてくれるというのは間違いね。ここのバクは夢なら何でも食べるんだから」
「何でも?」
「そうよ。雲夢界に集められた夢は中央にあるバク牧場に集められて、バクの餌になるの。そうやって、夢の処理を行うのよ。でも、時々、バクが牧場から逃げてあちこちで暴れまわるの。きっと、トウイがまた居眠りしてんだわ。トウイは怠け者だから。整理されていない夢をバクがめちゃくちゃ食べると収拾がつかなくて大変なのよ。バクは底無しだから、やたらめったら夢を食べ尽くしてしまうわ。何とかしなきゃ」
 バクの暴れている音が徐々に近づいてきた。像のような雄叫びさえ聞こえる。
「それと、あなたは隠れなきゃいけないわよ」
「どうして?」
「いくらあなたが魂の存在だからといっても、この雲海界では夢と同等なの。バクにとっては他の夢と同じただの餌なのよ」
「げげげ・・・、そりゃ一大事」という割りには緊迫した表情が現れない。
 二人は少し先に見つけたガレージの中に隠れた。車の陰に隠れて森は迫ってくるバクの姿を見た。バクは体長二十メートルはあろうかの巨大な生物で、四つ足でも高さ七、八メートルはある。貘という生物は現実の世界にも存在する。ウマ目に属するが鼻がやや長く像に似た夜行性の哺乳類だ。大きさは羊程度でおとなしく、マレーや南アメリカに生息している。その貘が中国の伝説になると鉄や銅、そして夢を食べる想像上の動物になる。その容姿は熊に似たものとされているが、目の前のバクはそんなところではない。体中は長い体毛に覆われ顔の周りは獅子のようにたてがみがある。顔も熊というよりは虎や豹などの野獣に近く、口がやたらに大きく感じた。耳は犬のようにピンと突き立ち、目は飢えた獣のように血走っている。長い体毛のため体の形はよく分からないが、足が細い動物とは違うしっかりした体型に見える。そして長い尻尾は先端が二つに割れ、蛇のように縦横無尽に動いていた。森は同じ中国の伝説の生き物、麒麟に似ている気がした。ビールのラベルで見たのを思い出したからだ。
 その巨大なバクは建物をすり抜けている。雲夢界の町並みは現実の世界の投影、影でしかなく単なる虚映でしかない。バクは町中にあふれている夢を食べ尽くしている。今まで見たピエロや戦車、侍、恐竜までもがバクの巨大な口の中に吸い込まれるように飲み込まれた。見様によってはとても残忍な光景だ。夢の産物たちは別に悲鳴も上げないし、血も出さない。そのままの状態でバクの中に消えているだけだった。だが、人間が描いた夢がこうもあっさり、消されてしまうのは少々偲びない気がする。それよりも、森にとっては自分もあれと同じようにバクの中に吸い込まれるのかと思うと、いやがうえにも恐ろしくなる。死んでもいないの死んだようになるのは実におかしな話だ。
 その時、森はバクの後方に迫ってきた霧のような靄に気づいた。
「シャルン、あの霧みたいなのは何?」
「霧?あっ、大変。あれは雲夢界の境界よ。この世界はあそこまでなの、あそこから先は何もなく、行くこともできないの」
「でも、あの境界動いているよ」
「だから、言ったでしょ。雲夢界は移動しているって。もう、雲夢界はこの地を離れようとしているの。急がないと、あなたの肉体がある場所をあの境界が過ぎたら、もう戻ることは出来ないのよ」
「だけど、バクがうろうろしているし、どうするんだよ」
「八方ふさがりね、でも、危険を覚悟で肉体のあるところまで行きましょう。バクは何とかするから」
 トリオのあるビルはここから三百メートル程だった。その道筋に平行して少し離れたところにバクはいた。建物の影に隠れて行けば見つからないかもしれない。バクの嗅覚が優れているとは聞いていないし、建物が現実の投影でも透き通って見えるわけではない。
 二人はガレージを跳びだし、反対側の建物の影に入った。バクの雄叫びが建物を通して聞こえているようだ。早足で二人は進む。途中建物が途切れるところは慎重にバクの様子を見ながら進んだ。ちょうど、バクと平行になる位置まで来た。バクの歩みはのろくなり、その場にある夢を食べていた。
 その時だ、バクは突然動きだし、森たちがいる道路に踏みだした。目の前に巨大なバクの足が降り降ろされ、森はのけ反った。森は一瞬動きを止め、バクの様子を伺った。だが、バクはこちらに顔を向け森の視線とぶつかった。バクはいななき、前足の方向を変え森に向かって突進してきた。森はシャルンに足で小突かれ、恐れから我に返り、踏み降ろされようとした足をよけ建物の壁にぶつかった。元々、虚像である建物だから、ぶつかることはない。そのまま通り抜けて森は足を絡ませた。勢い余って転げてしまったが、バクの口が向きを変え、森に向かってきた。シャルンに引っ張られるかのように、森は立ち上がり、全速で建物の中を走った。暗い壁の中を通り抜け、さっき狛犬に追いかけられた四間道に跳びだした。
 雲夢界の境界は随分迫ってきた。肉眼でも一キロ無いほどだ。さっきまで見えた遠くの建物が全く見えず、「ザ・フォッグ」という恐怖映画で見たような霧の壁が少しずつ押し迫ってきている。
「まずいわ、境界があんな近くまで。急がないとだめよ」
「でも、バクがさー」
 と、言ってる間にバクも建物をすり抜け森を追ってきた。この辺の夢は食べ尽くしたようで、何も周りにはないようだった。
 森はこの世界なら何でも叶うことを思い出した。何か武器を取り出そうと安直な考えを起こし、「ピストル、ピストル」と念じた。すると手の中に映画で見たことのある大きな拳銃が現れた。今度は失敗しないように弾のこともちゃんと念じ、思いっきり引き金を引いた。弾はまっすぐバクの口に目掛け飛んでいき、口の中に入った。しかし、バクは何ともないようだった。ピストルなどという茶血なものにしたのが間違いなのかなと思ったが、シャルンが呆れて言った。
「あなたね、相手はバクよ夢の世界で創造したものはやっぱり夢なの。バクにとってはただの餌なのよ」
「そ、そんな・・・」森は自分の機転のきかなさに嘆きを入れてしまった。「じゃ、どうするんだよ」
 バクの前足が森に目掛け降り降ろされた。森は咄嗟に「ジャンプ」と思い、その足を避けた。森の体は想像以上の跳躍をみせ、高く遠くに着地した。
「すげえ、オリンピックなら金メダルものだ」
「何言っているの。夢の世界だから当たり前でしょ」
 森は再び走り出し、神社の横を曲がった。バクは森目掛けてまっしぐらに家々を通り越して「不可思議」の店の所に現れた。それに加え、雲夢界の境界もみるみる迫ってきていた。
「しょうがないわね」シャルンは落ちついた面持ちで言葉を吐き捨て、両手の人指し指だけを立て顔の前で拳を交差させた。そして、目をつぶり呪文のような言葉を発した。
「アズセケタマリクイルソデラ、レニクレニファルクオルソニデラ、ゾバシンカテルニオクラスティ・・・・・・」
 シャルンの体が黄金色に輝き、光の玉となった。その光の玉からいくつもの小さな光の帯が飛びだし、ゆるいカーブを描いてはバクの方向に飛んでいった。光は赤や青の玉に変化し、それがまた複数の玉に割れた。玉たちはバクを包むかのように周りを取り囲み、今まで以上の光を発した。バクは眩しいのかその場で立ち止まり、「グオー」と雄叫びをあげた。
「今のうちよ、光の玉はそんなにもたないわ。消えないうちに早く肉体のところに行って」光の玉となったシャルンはそう叫び森を行かせた。
 森はトリオのビルまで一目散に走った。村上科学の駐車場を通り抜け、桜宛の前まで出た。トリオのビルはもう目と鼻の先だった。その時だ、森の右手側からいななく声が聞こえ、バクが横顔をのぞかせた。あれっと森は思った。後方では光に惑わされているバクの鳴き声が聞こえている。よく見ると目の前のバクはさっきまでのバクより少し小さい。逃げたしたバクは一匹ではなく、もう一匹いたのだ。バクはその首を動かし、森の存在を見つけた。バクの視線が森の目と合致した。森は絶体絶命の危機に陥り、「シャルン」と大きな声で叫んだ。
 バクは大きな口を開き森に向かって迫ってきた。身動きがとれず森はその場にたちづさんだ。バクの口があと少しという時、バクが突然悲鳴のような声を上げ、横にずれはじめた。それはバクの意思で動いているようには見えず、何か別の物によって押されているようだった。境界の霧がすぐそこまで近づいていた。その境界に押されバクは動かされていたのだ。
 シャルンが猛スピードで飛んできて森の肩に止まった。
「何やってるの、急いで。境界がもうそこまできているわよ」
「ああ・・・」シャルンは森の耳を引っ張り引きずろうとした。森も引っ張られるままに全速で走り、バクの下をくぐり抜けた。
 一気にトリオのビルまで行き着き、森の肉体がまだそこに有るのを見つけた。境界の霧はすぐそこまで迫り、向かいのガソリンスタンドのところまで来ていた。
「急いで、早く肉体に戻って」シャルンは急かすように言った。
「でも、どうやって戻ればいいのさ」
「あなた、何を言っているの。さっきから言っているでしょ、この世界は夢の世界なんだから、願えば何でも叶うって。だから、肉体に戻りたいって念じればいいのよ」
「ああ、そうか、そうか。えへへ・・・。じゃ、これでお別れだね。いろいろありがとう。また、会えるかな」
「いいえ、もう会えないわ。ここを通るのは一年ごとだし。それに、あなたのような人がまた雲夢界にきたら大変よ。今度は普通に眠っていてね」と、文句を言うようにシャルンは言ったが、その顔は笑っていた。
「そうか、じゃ、本当にありがとう。さようなら」と言って森は目を閉じ、念じ始めた。
「さよなら、元気でね。でも、いつかまた会える・・・」シャルンの言葉が徐々にかすれていった。森は心が何かに吸い込まれるような感覚に陥った。目を開こうと思っても開くことができない。耳には風を切るような鋭い音が聞こえた。何か天に昇っていくような気になっていた。
 突然、周りが静かになった。何も聞こえない静寂が森の意思を覚醒させた。しばらくすると、パーンという車のクラクションの音が聞こえた気がした。続いて、車の発進するエンジン音に風が空き缶を転がす音が聞こえた。森は恐る恐る目を開けてみた。目の前は暗闇だった。何も見えない感覚でもあったが、ぼやけた視覚の中に自分の手の輪郭を見ることができた。森はその手を視線で追って、腕時計とスーツを確認した。体にもスーツを着、足にも靴を履いている感覚がはっきりとあった。森は立ち上がった。足が大地にしっかり着いている感覚が明確にある。暗闇の外には街灯の伸びてきた明かりがあり、裏口の前には段ボールが積まれていた。ただし、あの時の豪勢な料理はもうない。森は裏口のところから出て、表側の桜通りに出た。いつもと変わらぬ町並みがある。それはさっきの夢の世界と同じであったが、そこに流れる音は夢の世界とは違っていた。もちろん、奇妙なものは何もない。夜の都会の町にあるわずかな車の流れと、心地よい風があった。桜通りに掛かる桜橋もいつもと同じたたずまいでいた。あの雲夢界はもうどこまで行ってしまったのか。目に見えない異世界は確認することはできない。だが、大通りのかなたに霧の境界が見えるような気がした。
 森はふと思った。今までのことは本当にただの夢だったのじゃないかと。いや、そんなことはない。あの世界は本当にあるのだ。自分の体験は夢の産物ではない。
 掌を見てみた。そこには光る粒子のような細かい粒が張りついている。息を吹きかけるとそれは上空に舞い上がり、四方に拡散した。シャルンの光が散らばったかのように。

エピローグ

「で、森君昨日はどうしたの?あれから、ちゃんと帰れたの?」と真野が尋ねた。
「何でも、会社までふらふら歩いてきて、その後家まで歩いて帰ったんですって」と佐藤寿晃が答えた。
「信じられない、だって、森君の家、確か一宮よね。よく帰れたわね」渡辺裕予が呆れ半分で言った。
 森は「てへへ・・・」と笑って頭をかいている。
 結局森は歩いて家まで帰った。二十キロ近いに道のりをひたすら歩いたのだ。六時間はかかっただろうか、家に着くころには日が昇り、帰ったらすぐに出掛ける時間になっていて、いつも通り出社した。酔いは完全に覚め、二日酔いの状態にはなっていない。睡眠不足のはずなのになぜか眠気もなく気分的にはすっきりしていた。
 夢の事は今でもはっきり覚えている。でも、誰にも話すことはしなかった。所詮、だれも信じてくれないし、森はそういった話をするのが苦手だった。シャルンとの出会いは心の中にそっと閉まっておくことにした。シャルンとは会おうと思えばまた会えるような気がした。シャルンにとっては迷惑かもしれないが、森は夢を見るのが楽しみになっていた。
 夢は誰でも見ることができる。それは人間が感情をもつ生き物であるかぎり永遠に行われるものだ。地球上に何十億の人間がいれば何十億の夢が毎日描かれている。だが、その夢をコントロールしている世界があることを人間はしらない。極一部の人間を除いて・・・・・・。

———— 精夢の街 完 ————


短編一覧へ 目次へ HPへ戻る


このページは GeoCities です 無料ホームページ をどうぞ

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください