このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

知多半島殺人事件 〜南吉の涙〜

エピローグ


 平成七年春、気持ちいい五月晴れの中を竹内は車を走らせていた。しばらく通らなかった道を進むと左手に半田池が望めた。草がぼうぼうと茂り、澱んだ池の水は静かに風に漂っている。この池が全ての始まりだったのかもしれない。そう思うと四年前のことが思い出され、十九年前のことも想起させた。
 竹内は今農協の職員となっていた。四年前の暮れ、トリオを退社し広告関係の仕事に就職したが、自分の思った通りと違い、徐々にずれを感じ結局二年で辞めてしまった。その後、生活の安定を図るため安泰な農協に就職したのだ。周りからは竹内らしくないとと言われたが、そろそろ三十間近だ、冒険はもう出来なかった。トリオの面々にも最近はあっていない。事件がないのか、単に忘れられてしまったのか寂しい気もするが、騒ぎもなく落ちついている気もした。同期の連中とはたまに電話をやり取りするが、既に二人も亡くしているので悲しみも湧いてくる。

 今日は新見南吉記念館に行くつもりである。四年前はまだ工事中だったが、昨年完成した。竹内も行こう行こうと思ってはいたが、仕事が忙しくなかなか行く暇がなかった。今日、ふと思い立ち、何も予定が無かったので出掛けてみることにした。
 半田池を通り、知多半島横断道路の起点にぶつかってから、岩滑の方に向かった。Y字路を直進すると、記念館の案内が道路上にあり完成された建物が見えた。
 建物は一風変わった建造物だ。半地下式のコンクリートブロック剥き出しの建物だ。建物自体が半分地下に埋まっている形で、周りもそうだが、屋根にも芝生が引き詰めてある。反対側の景色は四年前と変わらない。ごんげん山もまだ残っているし、田畑が一面に広がっている。
 竹内は車を駐車場に止めた。土曜日だが、疎らに車が止まっている。人工の小川を越え、昨日の雨で湿った芝生を踏みしめて記念館の入口に入った。中は外から見るより広い感じでゆったりとしたスペースだ。入場券を買い案内をもらって進んだ。展示室の入口はスロープになっており、ゆるやかな坂を登ると展示室を跨ぐ形で、反対側に出る。そこを降りて最初の展示室に入ることになる。中は様々な南吉の資料が展示してあり、新見南吉資料館にあったものもある。南吉の生い立ちから貴重な原稿や直筆の手紙、古めかしい写真もある。南吉が創作した童話のジオラマも紙芝居のようにミニチュアで作ってある。
 ゆるやかなループの展示室を竹内はゆっくり丹念に見て回った。以前は南吉のなの字も知らないので理解もできず資料館を見ていたが、今回は童話を読んだ後なので何となく懐かしく思えた。竹内と同じようにのんびり見ている人たちもいる。子供から大人まで様々な人が訪れていた。展示室の他にも喫茶店や記念品を売っているショップ、図書館などもある。
 竹内は一通り見てロビーに戻った。その時、休憩所であるそのベンチに座る女性を見て竹内は驚いた。赤ん坊を抱えていやしているその女性は吉田真紀だった。
「吉田さんじゃない、久し振りだね」
「あら、竹内さん、驚きましたわ、どうしてここに?」真紀は嬉しそうに笑い、子供をシートに置いて立ち上がった。
「ああ、記念館が出来たってきいたから来てみようとずっと思っていてやっと来たんだ。君こそどうして?」
「私も記念館が完成したから来てみたかったんだけど、赤ちゃんができて去年はこれなかったので、少し落ちついたから来てみたんです」
「そう、僕がトリオを辞めた後、吉田さんも退職して結婚したという噂はきいていたけど、こんなかわいい子までいるとはね。お祝いももしないで御免ね」
「いえ、こちらこそお世話になっときながら何の連絡もしなくてすいません」
「いや、いいんだよ」
 赤ん坊がかわいい声を上げて手足を動かした。生後半年ぐらいのでまだ毛も生えきっていない丸々と太った子供だ。子供好きの竹内は思わず微笑み、赤ん坊をあやすがのごとく面白い顔を振る舞った。
 記念館の外には人工的に作られた緑地があり、その中央を散策できるようになっている。入口まで続くせせらぎがさわやかな水音を奏でている。花のき広場という小さな休憩場のベンチに二人は座った。
「しかし、君とまた出会うなんて奇遇だね。しかも、今度も南吉絡みで不思議な縁としか言えないな」竹内は感慨深げに言った。
「本当にそうですね・・・・・・」真紀も遠くを見つめるような視線で答えた。
「あ、御免、また昔のこと思い出させたかな」
「いえ、いいんです。あのことはもう心の傷になっていませんから」彼女は竹内をなだめるように穏やかな笑顔を向けた。
「そう、それならいいんだけど。でも、吉田さんがまた岩滑に来るなんて意外だと思ったから」
「ええ・・・、確かに四年前の事件の時には南吉のことは忘れてしまおうと誓って、本なんかも処分してしまったんです。でも、子供が生まれて母親になると、この子に何か読んであげなくっちゃと思うと、やっぱり南吉の童話が思い出されるんです。南吉に罪はありません。南吉は子供たちに夢を与えようと数々の童話を作ったんです。その思いは南吉が亡くなった後も我々が受け継いでいかなくてはいけないと思うんです。南吉の美しい、心温まるお話は永遠に語り継がれなければいけいと。そして、まず自分の子供にそれを伝えなければと思うんです」
 竹内は真紀の変貌に驚いた。元々、芯のしっかりとした子だとは思っていたが、結婚して本物の女性、母親になり一まわり大きくなった感じがした。
「そうだね。君の言うとおりだよ。南吉のことを今でも大事に思っている人たちがいるからこの記念館も出来たんだし、彼の遺志は子供の時代に彼の話をきいた我々が、我々の子供たちにまた話していかなくてはいけないんだろうね」
 確かに南吉の話をすればあの事件の事が思い出される。だが、そんなことにいつまでもこだわっていてはいけない。彼女の心の傷は二度と開くことはないだろう。もちろん、内田兄弟のことを忘れてしまったわけではない。彼らのことは永遠に心の中に残っているだろう。そして、兄弟が愛した南吉を彼女もそして、その子供たちも愛しつづけることだろう。
 竹内はふと思った。南吉が死去したのは二十九歳の時、今の自分と同じだということを。南吉は人生の半分も生きず、この世を去った。まだ、やり残したことが一杯あるはずなのに。竹内は今までの人生で何を残したか考えてみた。この二十九年、ただ流されてきたような気がした。南吉のように偉大な人物になるのはもちろん不可能だ。しかし、誰かのために生きることはできるかもしれない。一人でもいい、誰かのために。自分はまだ多くの人と出会える機会がある。そしていつか・・・・・・。

———— 南吉の涙 完 ————


  この作品はフィクションです。作中の登場人物、出来事などは実在のものとは一切関係が有りません。
          
 参考文献 名古屋 三河湾 美濃 飛騨  日本交通公社
 おじいさんのランプ 新美南吉童話集 岩波書店

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