このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

名馬・あの瞬間

昭和26年「東京優駿(日本ダービー)」
優勝馬トキノミノル

 今週は、東京競馬場で3歳馬の重賞競走「共同通信杯」が行われます。 自分の中で「共同通信杯」と聞いて、まずまっ先に思い浮かぶのが、 レース名の下に(かっこ)付きで表示される「トキノミノル記念」という文字です。

 そうか、このレースは、「トキノミノル」のレースなんだ。 ところで、「トキノミノル」って何なんだ?っていうのを、競馬を見始めた 時にいつも疑問に思っていたのが、この「共同通信杯」の1番の思い出です。

 東京競馬場に行くと、パドックの脇にトキノミノルの銅像が建ってます。 それを見て、「トキノミノルって凄い名馬だったんだな・・・。」というのは、 実感できます。また、今年(平成15年)のJRAの全重賞競走の中で、競走馬の 名前が冠名として付いているレースは、この「トキノミノル記念・共同通信杯」 の他に、「シンザン記念」と「セントライト記念」しかありません。 そうやって考えてみても、トキノミノルがいかに凄い馬だったのかは想像 できます。

 では、銅像にもなって、さらに後の重賞競走の冠名にもなったこの名馬トキノミノル は、一体どんな活躍をしたのでしょうか?今回は、「トキノミノル記念」を 記念して、トキノミノルのあまりにも凄まじすぎるその競走馬人生を紹介 してみたいと思います。

 トキノミノルがデビューしたのは、2歳夏の函館競馬場でした。時は、昭和 25年。デビューしたときのトキノミノルは、パーフェクトという名前でした。 当時はまだ、デビューした後にも名前を変えることができたんです。

 デビュー戦では、直前のスタート練習で暴れまくったことで、まずは 出走の許可を得るまでに大苦労。そして、ようやく出走の許可が出たものの、 今度はレース当日の曳馬所で騎手を振り落としたりしたもんだから、3頭立ての 2番人気(1番人気の馬の3分の1以下の投票数)と決して評価は高くありませ んでした。

 しかし、スタートしてみると、スピードの違いであっさりと先頭に立ち、 後は後続を寄せ付けない大圧勝。800mの勝ち時計が48秒15というのは、 当時の日本レコードでした。

 これは凄い!ってことで、注目を浴びたパーフェクト。デビュー2戦目からは トキノミノルと改名しその後も「札幌ステークス」や「朝日盃」といった重賞勝利を 含めて2歳時は6戦6勝。年が明けて3歳になっても無敵は続き、 クラシック第1弾の「皐月賞」を無傷の9連勝で勝利!これは、今年の ダービーはこの馬で仕方ない!と誰もが思う快進撃でした。

 しかし、最大目標の「ダービー」を目前にして、トキノミノルにアクシデント が発生。元々膝が悪くって、無理にレースを使い込めなかったのですが、 ダービー前には爪が割れて出血するという裂締にも見舞われてしまいました。最初は 右前脚の裂締、それが快方に向かった頃に、今度は左前脚の裂締・・・。 元々痛めていた膝の状態も芳しくなく、一時はダービーの出走回避も真剣に検討 されたほどでした。しかし、レースの直前になると、奇跡的に全ての故障が 快方に向かい、何とかレースには出走できる状態にまで回復。陣営側の ダービーだけは何としても出走させたいという祈りが通じた瞬間だったと 思います。

 そして、レース当日。当然対戦相手に強敵はなく、唯一の心配は調整不足だけ。 それでもトキノミノルの勝利を信じて疑わないファンは断然の1番人気という 形で後押しして、いよいよスタートの時間!

 まさかの出遅れ!

 これまでデビュー以来、スタートはいつも1番だったトキノミノルが、 まさかまさかの7番手追走。やはり、直前の調教が足りなくって、いつもの スタートダッシュができなかったのか・・・。

 しかし、そんな心配をよそに、向正面に入ると定位置とも言える先頭に 躍り出たトキノミノルは、最後の直線も堂々と先頭で入ってきて、とうとう 後続馬に先を譲ることなく2分31秒1のレコードタイムでゴールイン! 史上2頭目の無敗でのダービー制覇を達成しました!

 これで、この馬の未来はさらに大きく開けた、と誰もが感じました。秋に 「菊花賞」を勝ったらいよいよ海外遠征だ!という計画も出てきました。

 だが・・・、「ダービー」が終わった後、トキノミノルは突然病に苦しみはじめました。 どうやら破傷風を煩った模様・・・。陣営の懸命の治療も甲斐なく、ダービー制覇から わずか17日後の昭和25年6月25日、トキノミノルは帰らぬ馬と なってしまいました・・・。

 生涯成績10戦10勝。そのうち7勝がレコード勝ち。この天才馬の 早すぎる死に、作家の吉屋信子氏が、「あれは、ダービーをとるために 生まれてきた幻の馬だ。」という手記を毎日新聞に発表しました。 この「幻の馬」というフレーズがあまりにもピッタシだったせいか、 その後、トキノミノルを人々は「幻の馬」と呼ぶようになりました。 この馬のオーナーが大映の社長の永田雅一氏であったことから、 昭和30年には「幻の馬」というタイトルで映画にもなった馬、今となっては 、そのあまりの強さから、どこまで勝ち続けたのだろう?という気持ちで、 私の生まれるずっと前の活躍馬ですが、本当に残念でならないです。

 ちなみに、この年から、東京競馬場の内馬場にも馬券売場ができたみたいで、 このトキノミノルの勝った「ダービー」の映像を見てると、内ラチ沿いにも 観客がいて、今とは違う光景で凄いです。また、レース後に、観客が馬場に 雪崩れ込んでくる映像もあって、時代の違いを感じました。 今じゃ考えられないですよね。

 この辺のレースの 模様、並びにトキノミノルの紹介は、「競馬博物館」や「プラザエクウス」 等に置いてある映像で見ることができます。

 当時の競馬は、ダートコースでのレースが無かったことや、スタートが 現在のゲート式ではなくって、「バリヤー式」というものであったことなど、 日本の競馬の歴史の移り変わりも見ることが出来るので、是非皆さんも 「トキノミノル記念」を記念して、トキノミノルの強さを一度鑑賞して みて下さい。映画「幻の馬」も一度見てみたいですね。

 あと、忘れずに。この「ダービー」の時、最後までトキノミノルを 追いつめたのはイツセイという馬でした。実はこの馬、「ダービー」だけで なく「皐月賞」もトキノミノルの2着、さらに「朝日盃」をはじめ 計5回トキノミノルの2着がある馬でしたが、実は、 この時点ではトキノミノル以外には負けたことがないという馬でした。 「ダービー」での最後の伸び脚を見てると、トキノミノルがいなかったら、 この馬が2冠を達成していたかもしれないですね。

 そんなわけで、今回は「トキノミノル記念」を記念して、トキノミノル の紹介でした。

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