このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

奥能登紀行
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 1994年の正月明け、金沢と奥能登へ旅した。
 夜行急行きたぐに号で金沢に午前4時に到着し、その日はまる一日金沢市内散歩。ちょうどその頃、室生犀星の『幼年時代』『性に目覚める頃』『或る少女の死まで』の三部作に感銘を受けており、犀星が青春時代を過ごし、作品の主な舞台ともなった犀川周辺も見て回った。
 美術館、歴史博物館、伝統産業工芸館など見学。伝統産業工芸館では、加賀友禅の優美さに目を見張った。


これは日本三名園のひとつ、兼六園の徽軫燈篭(ことじとうろう)

 翌朝、急行能登路1号で輪島へ。穴水から輪島へは能登半島を横断するかたちで山を越えるが、その途中は深い雪だった。
 で、輪島に着くと、駅名標が。



よく見ると・・・


シベリア・・・? おいおい。

 その日は一日中輪島散歩。輪島漆器会館、うるし工芸作品会館、キリコ会館など見て回る。キリコとは、切り子燈篭の事。夏に能登半島一帯で行なわれるキリコ祭に関する展示が興味深かった。
 燈篭を使った祭りといえば、鹿児島出身の私にはまず六月燈が頭に浮かぶが、もの静かな六月燈に対し、キリコ祭りは勇壮なものらしい。そのビデオを見た。
 冬の寒さが厳しい分、夏に全てを発散させようとするのか・・・そんな感想を抱いた。


その日の輪島は季節風が強く、降ったり晴れたり、時雨模様の天気だった。

 その夜は市内の民宿に泊まったが、お客は私の他は女性の親子と、一人旅の若い女性の3人のみ。そういえば能登路1号も女性の一人旅が目立った。何を想い旅するのか・・・。
 その民宿では、風呂に海藻が入れてあった。温かい湯が心地よかった。
 風の音は一晩中鳴り響いていた。

 翌日はバスで曽々木まで。曽々木は平家の末裔である時国家がある。江戸時代は大庄屋を務めていた時国家の屋敷は、いかにもそれらしくどっしりとした構えだった。
 前日からの風は止まず、粉雪が舞い、樹々は潮のようにざわめいていた。ひとけはまるでなかった。


これは時国家の分家、下時国家。本家と同じく国の重文。

 曽々木にある輪島市立民俗資料館でも、ひとり、展示を見て回っていた。すると、事務のおばちゃん(ひょっとしたら館長さん?)に呼ばれて、コーヒーをご馳走になった。熊本から来たと言うと、「何を好きこのんで、こんな暗くて寒くて寂しいところへ・・・」と呆れられた。
 私はキリコ祭りのことが頭にあったから、「でも夏は一気に明るくなるじゃないですか」と言おうとした。けれどもそれは旅行者の勝手な思い込みかも知れず、言葉を飲みこんだ。
 さて、曽々木まで来た大きな目的に、波の花がある。
 プランクトンを含んだ海水が、波に揉まれ冷たい風に煽られて、泡のようになり、舞う。それが波の花だ。


これ、一面波の花。向こうは垂水の滝と言って、時折強風に煽られて上へ吹きあがる。

 しかしとにかく寒かった。朝の天気予報で最高気温が2℃とか言っていた。
 バスで能登半島を再び横断し、珠洲へ。
 しかしそのバスがまた強烈だった。見た目は相当古かったが、中も床は板張り、両替機が手動、次ぎ止まりますのランプが幕式だったり。これは説明するのも面倒なくらい古い装置で、説明は省略。
 珠洲でも歴史博物館「喜兵衛どん」など見た。その日の宿は、観光案内所で能登半島の突端、禄剛崎の近くにある狼煙という集落にある民宿を紹介され、そこへバスで向かった。
 宿泊客は私一人。一人こたつに当たりながら、窓の向こうを眺めた。
 窓の外は椿の花が赤く咲いていて、粉雪が静かに舞っていた。音らしい音と言えば、風の音。
 翌朝、すぐ近くの禄剛崎へ。


狼煙の集落から禄剛崎へ向かう道にも椿の花が咲いていた。

 禄剛崎は日本海に突き出た能登半島の突端。シベリア颪(おろし)をまともに受ける。冬のそこは、人っ子一人おらず、ある意味、日本最北端の宗谷岬よりも最果てらしい風情だった。


明治16年(1883年)、イギリス人技師の指導で建てられた禄剛崎灯台。

 私は、しばらく滞在したのち、バス、のと鉄道、JR特急雷鳥号と乗り継いで大阪へ、そして寝台特急なは号で九州へと帰った。
 九州は早くも菜の花が咲き始めていた。


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