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薄野





 台所方鍋組小頭の一人となった灰神楽は、鉱山の経営に参画する資格を得た。ただし、小頭格ではまだ、虹金からの下問に答えることは出来ても、虹金に話しかけることは許されなかった。まめで気さくな虹金は、泥にまみれた掘方坑夫から視力を失った裁縫方老媼まで、誰にでも話しかけてやまなかった。しかし、仕事の上での序列にはたいへん厳しく、則を超える無礼は断じて認めようとしなかった。

 小頭格の者たちは、虹金当人にではなく、虹金を補佐する幹部や、虹金の夜を伽する女たちに仕えるのであった。灰神楽は薄野という側女を受け持つことになった。

 薄野は、都近郊の貧農の生まれであった。父親が借金を抱え、利息すら払えなくなったので、十二の時に遊郭に売られたのであった。幸いなのか不幸なのか、引く手あまたの遊女に育ったが、父親の借金は年々ふくらむ一方で、返す目途が立たなかった。

 やむなく薄野は、もう一度身売りすることで借金を全て棒引きした。薄野の父親はこれで身軽になった一方、薄野は都の遊郭を離れ、鉱山で暮らさなければならなかった。鉱山という場所は、都から遠い山中にあり、好んで行こうという女は少なかった。だから鉱山では、相場をはるかに上回る大金をもって、女を買い求めなければならなかったのである。

 薄野は虹金の側女になった。肉づきがよく、瑞々しい肌を持ち、話術に巧みな薄野は、虹金の好みを満たしていた。さすが都で売れっ子だった遊女だけに、頭一つ抜きん出ており、側女の中での地位を上げつつあった。

 しかしながら、薄野は自分の限界をよく承知していた。虹金を我が肉体に溺れさせながらも、虹金が満足してはいないことを察していた。貧農の家に生まれ、幼時より遊郭に出ていた薄野には、如何せん学がなかった。薄野がいかに頭の回転がよく、男の心をつかむことに長けていても、虹金の求めるところはさらに遠い先にあったのだ。

 薄野の見るところ、虹金は良家の生まれに違いなかった。語彙が豊富で、故事古典に明るく、諸国の最新事情によく通じているという、かなりの教養の持ち主だった。薄野は虹金の切り出す話題についていけなかった。知ったかぶりではかえって侮蔑されるので、黙りこくると、虹金はうす苦い笑みを浮かべるだけだった。

 だから灰神楽に対して、薄野は憧れに似た感情を覚えていた。ほんらい薄野と灰神楽は水と油ほど異なる気質の持ち主で、交われる余地はないはずだった。しかし、灰神楽の立ち居振る舞いのなかに、薄野は虹金の面影を見出していたのであった。

 鉱山独特の荒々しい語調に紛れさせてはいても、虹金の言葉遣いはどこかしら典雅で、抑揚もなめらかだった。薄野にしてみれば、虹金と灰神楽は同じ種類の人間だった。灰神楽からなにか学びとることで虹金により近づきたい、そんな思いが、二人の距離を近づけていた。

 灰神楽は灰神楽で、薄野への憧れがあった。

 舞い一筋に生きてきた灰神楽にとって、男との交わりは想像を絶する世界にあった。そもそも、そんなことは淫らで汚らわしくいやらしい唾棄すべきもの、と思いこんだ時期さえあった。

 ところが、奥山での生活を経て、灰神楽の価値観は一変していた。木樵たちが全て出払う日中、人気のない飯場に独り残るさびしさは、埋めようのないものであった。夕方になって木樵たちが戻り、喧噪がよみがえって初めて、人心地ついたのではなかったか。灰神楽は人間のぬくもりを懐かしく感じるようになっていた。

 灰神楽本人はまったく自覚していなかったが、餓狼の群に襲われた時、灰神楽がなにも出来ず、木樵たちの奮闘に生死をゆだねた経験は、心の芯まで焼きついていた。やさしく頼れる男であれば愛されてみたい、という思いが芽生えつつあった。

 ただし、灰神楽には如何せん、その方面での知識が全くなかった。それゆえに、毎週のように虹金を受け容れる薄野が天上の住人に思えてならなかった。もともと探求心にすぐれた灰神楽にとって、薄野は生きた教科書のようなものであった。

 薄野と灰神楽、仕え仕えられる間柄でありながらすっかり意気投合し、無二の仲良しになっていた。



 秋も更けたある深夜、灰神楽は薄野の部屋に食事を運ぶよう命じられた。薄野は脂っこい料理を好んでいたが、夜遅くの食事は胃に負担がかかると灰神楽は思っていたので、具沢山の饂飩を用意した。雉の肉を乗せながら、香りのよい茸や野菜をあしらい、食べ過ぎないようにするのが灰神楽の気遣いだった。

 薄野の部屋は、常にも増して乱れていた。寝台の上は嵐が去ったあとのようで、敷布も掛布もないほどぐしゃぐしゃになっていた。えもいえぬ匂いが、いつもより強く、鼻を刺激した。

 今の今まで灰神楽はその匂いの正体に思い至らなかったのだが、突如としてわかってしまった。それは男と女が交わった痕跡であるのだと。肉体と肉体をぶつけあい、愛の泉に精が注がれた証こそが、この匂いなのであった。

 薄野は化粧を落とし、乱れ髪を整えながら、眠りに就く前の身繕いをしていた。灰神楽は急に、薄野を羨ましく思った。どうしてこの人は、わたしの知らない世界にいとも軽々と行けるのか。

「食事をお持ちしました」

 声の暗さを怪訝に思った薄野は、小首を傾げて尋ねた。

「いつもありがとう。でも、どうしたのかえ。ひどく落ちこんでいるように見えるけど」

 灰神楽は慌てふためき、真っ赤になり、自分のはしたなさを恥ずかしく思った。しかし、その真理を知りたいという希求の方が、はるかに勝った。恥ずかしさをかなぐり捨てて、食膳を整えながら、灰神楽は尋ねた。

「薄野さま、殿方に抱かれるというのは、どういう心地がするのでしょうか」

 一刹那、薄野はきょとんとしてしまった。そして、問いかけの意味に気づくとけらけら笑った。突拍子のないことを言い出す灰神楽の様子が、おかしくておかしくてしかたなかった。

「あんた、おぼこだったんだねえ」

 この鉱山ではまったく稀有で、珍奇な存在といってよかった。灰神楽、もはや齢十八。この年まで純粋無垢でいられるなんて、ほとんど奇跡ではあるまいか。

「笑っちまって、ごめんよ。悪く思わないでおくれ」

 屈託ない薄野の笑みに悪意の影は微塵もなく、灰神楽はかえって恐縮した。

「わたしこそ、不躾なことを聞いてしまって、申し訳ありません」

「いいんだよ、女だもの、誰だって知りたいだろうよ」

 薄野は食事をとりわけながら、灰神楽に席を与えた。その表情からは笑みが消えて、すっかり真顔になっていた。

「教えたげるけど、たぶん、あんたが思っているほどわくわくする話じゃないよ」

 氷のように冷たい口ぶりで、薄野は語り始めた。

 幼くして遊郭に売られた薄野にとって、男と女の交わりなど、飯の種にすぎなかった。悦びの表情も、喘ぐような息づかいも、全ては擬態なのであった。行為を通じて男を満足させることで、金を稼ぐのが、薄野の生業だった。

 男に媚びを売りながら、男なんて他愛のない動物だと、薄野は心の奥で男ぜんたいを軽侮していた。明確な意識は薄野にはなかったが、借金のかたとして簡単に娘を売り飛ばした父への憎悪が、根底にひそんでいた。

 ただし、虹金だけは世の男の枠外にあった。あまりにも激しく、あまりにも力強く、あまりにも巧妙な虹金は、溺れさせたつもりでいて、実は薄野が溺れていたのであった。いま薄野が最も恐れていたのは、虹金の寵愛を失うことにほかならなかった。

 憎しみと愛、矛盾しているようで表裏一体の感情は、薄野に葛藤をもたらした。薄野は饒舌に話し続けた。過ぎるほど話した。いつの間にか興奮しきっている自分に、薄野は気づかなかった。幼き時からの思いの丈、ぶつける機会は今まであっただろうか。

 灰神楽は、涙を抑えられなくなった。薄野もまた、辛く悲しい人生を送っていたことを知ったからであった。多福女面の下から涙がこぼれるのを見て、ようやく薄野は我に返った。

「ごめんよ、つまんない話をしちまったね」

「とんでもない、有り難い話を頂戴し、御礼のしようがありませぬ」

 不幸な経験こそが水と油の二人を結ぶ触媒となっていた。共有しうる不幸があることで親しさを覚えるとは、まさに不幸中の幸いなのかもしれなかった。

「あんた、ひょっとして、これには一生縁がないんじゃないかと思ってやしないかい」

 薄野の一言に、灰神楽の肩がぴくりと動いた。図星であった。美貌を失ったことは、灰神楽にとって最大の負い目であり、自信が揺らぐもとだった。おそるおそる灰神楽は言った。

「わたしは醜い顔になり果ててしまいました。こんなわたしを愛してくださる殿方がいるとは、とても思えませぬ」

「そんな心配しなくてもいいよ。あんたはきっと、いい男と結ばれる」

「でも、でも……」

 おろおろする灰神楽の肩を、薄野はぽんと叩いた。

「女の顔は大事だけどさ、顔だけじゃあないんだよ。あんたは女のあたしから見ても、惚れ惚れするよな気っ風の良さがあるんだから。小頭になったことだし、今にたくさんの男が言い寄ってくるようになるさ」

 これは世辞でもなんでもなく、灰神楽の実相をよく示していた。とはいえ、“たくさんの男が言い寄ってくる”という予言は当たらなかった。のちの灰神楽は、ただ一人の男の愛を独占し、その男の愛に全てを傾け応えることになる。

「灰神楽、あんたにお願いがあるんだけど」

「なんでしょうか」

「今度、昼間に来て、あたしに舞いを教えてくれないかい」

 唐突な話に面食らいはしたものの、灰神楽に異存はなかった。小頭になった今では時間を自由に使えたし、なにより薄野のために尽くしたかった。

 薄野はといえば、たとえ一片でも灰神楽の素養を身につけておきたかった。若い肉体はいずれ衰えてしまう。年をとっても変わらない美しさが欲しかった。目の前に灰神楽という良い手本があるではないか。面貌を損なったというのに、なんと魅力ある女なのだろう。



 明くる日から、薄野の部屋は舞いの練習場になった。控えめでおとなしく礼儀正しい灰神楽であったが、舞いの指南は鬼神のように厳しかった。薄野は悲鳴をあげることさえ出来なかった。舞いの稽古をつけている時の灰神楽は、まるで別人格が憑依しているかのごとき変貌ぶりだったからである。

 熱心に稽古をこなした薄野は、めきめきと上達した。その噂を聞きつけ、弟子入りを望む者が相次いだ。薄野の部屋は賑やかになり、鉱山のなかでも異彩を放つようになっていた。





次章に続く

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