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良き子として





 灰神楽は虹金の部屋に呼ばれた。灰神楽は毎日自らの意志で参上していたが、呼ばれることは珍しく、しかも奇妙な注文がついていた。曰く、正装して参上せよ、と。理由がよくわからないまま、とにかく慌てて正装し、灰神楽は赴いた。

 虹金もまた正装して待っていた。しかも執務用の机は取り払われ、かわりに小机が横に置かれ、小箱を乗せ、灰神楽の席の正面に座っていた。これは対等の位置にいることを示している。虹金がどういうつもりなのか、灰神楽は戸惑った。

 灰神楽が着席すると、香茶が運ばれてきた。やわらかい香りに触れ、灰神楽は落ち着いてきた。よくよく見ると、虹金の表情はこわばっていた。自分が戸惑っている以上に緊張している様子で、常にない雰囲気がおかしく、つい微笑がこぼれた。灰神楽の笑みに接して、虹金も落ち着いた。

「今日はそなたに贈物を用意した。受け取ってほしい」

 虹金が開けた小箱には、大粒の紫水晶をあしらった白銀の指輪がおさめられていた。灰神楽は虹金の心をはっきりと察した。来るべき時が、ついに来たのだ。

「結婚してほしい。おれの妻になってくれ」

 長い間待ち望んでいた一言が、現実になって目の前にあった。しかし、しかし。

「ありがとうございます。でも、今のわたしには、この指輪を身につける資格がありません」

 虹金は混乱した。灰神楽が自分を深く敬愛していることは強く確信できるのだ。その敬愛する男からの求婚を、どうして断るというのか。

 灰神楽は灰神楽で、涙を一杯にためていた。虹金からの愛を一身に受けたい、虹金から誤解を受けたくはない。でも今はまだ、先にやるべきことがあるのだ。

 多福女面下の灰神楽の涙に虹金が気づいたことは、まったくの僥倖だった。自分のことを深く愛しながらも、敢えてその求婚を断らなければならない理由があると、気づくだけの余裕を取り戻した虹金は、言葉を静めて問うた。

「そなたは『今のわたしには資格なし』と申したな。では、今はだめでも、時至らば資格が整うことはあるのか」

「御意」

「話してみよ。なぜそのように考えるかを」

 今までの全てを、灰神楽は語った。父母の仲が良かったこと、母が若くして死んだこと、父の手により育ち、父を心の底から敬愛していること、舞神女と呼ばれていたこと、自分が婿取りを拒んだため父は下女に手をつけたこと、下女は男児を産んで正妻に挙げられたこと、そして父は毒殺され、灰神楽は顔を潰され山奥に追いやられたこと。この恥を雪ぎ、父の仇を討たなければ、子としての面目が立たぬこと……。

 虹金は自分の危機感がぴりぴりと働くことを抑えられなかった。なんということだろう。この国は今、骨の髄から侵され、存亡の崖っぷちに立っているようなもの。灰神楽はその危地を乗り越え、生きて還ってきた証人ではないか。

「わたしは虹金さまを深くお慕いし、深く愛しております。わたしの心は虹金様も気づいていたことでしょう。わたしは、虹金さまからの求婚をひたすらお待ちしておりました。家にあっては虹金さまの良き女になり、鉱山にあっては虹金さまの良き妻になり、いずれ子をなせば良き母となることを、わたしは願っておりました。また、わたしはそうなれるとも確信しているのです。でも、でも……」

 号泣しながら、灰神楽は叫んだ。

「わたしはまず、父に対して良き子でありたいのです」

 居ても立ってもいられず、虹金は灰神楽を抱き寄せた。灰神楽は激しく泣きじゃくり、虹金の胸にしがみついた。

「おれはそなたの父上が羨ましい。おれもそなたに、そこまで深く愛されたいものだ」

「愛しております。愛しているのです」

 深い二つの愛あるゆえに、灰神楽の心は引き裂かれかっていた。これを縫えるのは、今生きている虹金しかいないのであった。

「おれはそなたの仇討ちを手伝えると思う」

 穏やかに虹金は言った。灰神楽は顔を上げ、虹金を見つめた。

「さすがに今すぐとは言えぬが、数年もせずに、仇討ちは果たせるだろう」

 その時、この国は戦乱の巷になってしまうのだ。

「そんな、申し訳ありません」

 一念が高じた結果とはいえ、たいへんなことを言ってしまったと、灰神楽は恥ずかしく思った。しかし、心の駆け引きに関しては、虹金の方がはるかに上手であった。

「そなたが今なにを思ったか、当ててやろう。父上の仇討ちを見返りに求婚を受けるなど、恥ずべきはしたなさ、そう思ったのであろう」

 まったくの図星をさされ、灰神楽はうなずくしかなかった。

「なにが恥ずかしいものか。綺麗ごとはよせ。人間、長く生きれば生きるほど、恥を重ねるものなのだ」

 虹金は灰神楽を抱え上げると、寝台に放り投げた。野獣のように荒々しい息をふりまき、虹金は灰神楽に迫った。

「おれはこれからそなたに、たくさんの恥ずかしい格好をさせ、たくさんの恥ずかしい声をあげさせようというのだ。ここで一恥かいたとしても、さらに多くの恥を重ねていけば、なんの痛痒があるものか」

 なんと露骨でなまなましい表現であろうか。さらにいえば、無茶で飛躍がありすぎる言いぐさでもある。野蛮そのもの、それが虹金の本質であった。

 人間の機微というものは、まったく微妙で面白い。虹金の強引さは、灰神楽の頑なさを簡単に溶かしてしまった。そして、瞬時にして灰神楽がさらなる成長を遂げたのもまた、人間の機微の面白さというべきか。このまま虹金を受け容れたいという思いよりも、この愛恩を虹金に返して虹金の成長、すなわち自制をも促したいという思いが勝ったのである。

「虹金さま、なんと力強い御方。そして、わたしが深く敬愛する御方」

 灰神楽の言葉の明澄さに、虹金は怯まざるをえない。

「灰神楽よ、おれの愛を受け止めてくれるのだな」

 虹金は、不覚にも語尾を震わせていた。しかし、それは不覚でもなんでもなかった。灰神楽のなかに兆した、新たな高貴さにうたれて、怯まない者などいるだろうか。灰神楽の顔は、わずか数寸の近みにあるというのに、果てしなく遠く見えてくる。

「虹金さま、わたしが深く深く尊敬し、深く深く愛する御方。そのような御方が、敢えてわたしの好まぬことをなさるとは思いませぬ。信じております」

「そのように言われては、手の出しようがないではないか」

 苦笑してはいるものの、虹金はすっかり立ち直っていた。人間の機微というものは、まことに微妙で面白く、ほんの短い間に切磋琢磨し、成長を果たしていくのであった。虹金は蛮勇隆々としてたくましく、直前に倍する荒々しさをもって、灰神楽の心を鷲づかみにしたのである。

「ではせめて、そなたの顔だけでも拝ませて貰うぞ」

 抗う暇などなかった。虹金の両手はすばやく多福女面を外していた。灰神楽の素顔が、あらわになった。灰神楽は言葉を失っていた。

 恥ずかしい、隠したい。その一方で、虹金にはこの顔をとくと見てほしい、という心も湧いていた。見せたくない、でも見せたい、見てもらいたい。赤裸をさらすよりはるか複雑な葛藤に、灰神楽は上気した。

「思ったとおりだ。そなたの顔は、美しい」

 心の底からの言葉だった。灰神楽の顔はかつて毒液を浴びせられ、焼け爛れてしまった痕跡を消しようがなかった。しかし、若さゆえに回復も早く、筋肉の弾力や肌のつやなどは少しずつ昔に戻りつつあった。なによりも、過去をばねにして明るく前向きに生きる、灰神楽の心もちそのものが、表情に美しさを宿らせていた。

 灰神楽に自信が湧いてきた。面貌を害されたことは、灰神楽の心を深く切り刻んでいた。奥山の飯場で熊吉たちが驚いた顔色は今でも忘れられない。他者に恐怖を与える顔の持ち主になってしまった、と後ろめたさを感じていた。

 その顔を、虹金は美しいという。全てを認め、全てを受け容れて。

「にじかねさま」

 乱れる息で、かろうじて言葉を絞り出した。

「愛しいぞ、灰神楽」

 虹金が唇を重ねてきた時、灰神楽の目から涙がとめどなくあふれてきた。愛し愛されるとは、なんと幸せなのだろう。嬉しさのあまり涙が出るとは、灰神楽の人生において初めてのことではなかったか。





次章に続く

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