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大戦
主将虹金が率いる軍の進みは鈍かった。国全体が泰平に親しみすぎていた。参軍の経験ある者があまりに少なく、隊伍も整わないほど軍紀が緩みがちで、威勢が上がらなかった。多くの人数を擁したことも足枷になり、行軍は日にわずか数里にすぎなかった。
猛将が数名いたため、負ける心配がないことだけが幸いだった。敵方は小手調べのため何度も仕掛けてきたが、そのたびに圧倒し退けていた。虹金軍の中核は来るべき大会戦に備え、万全の構えをとりつつあった。
灰神楽は鉱山を守備していた。敵は正面の会戦に全力を注いでいるが、外交努力により他国を動かし、横腹を衝いてくるおそれが多分にあった。遊撃戦を警戒すべきは、第一に都城、第二に鉱山であった。たとえ敵の外交努力がなくとも、国の中心都城や富の根源鉱山に、空き巣狙いが襲ってくることは当然想定しなければならなかった。
都城は平野の真ん中にあり、多くの守備兵を置かなければならなかった。豊かな国といっても動員力には限界があった。鉱山に派遣する正規兵の余裕はなかった。鉱山はおのれの力で守りを固めなければならなかった。留守を統率する灰神楽の責任は重かった。
年が暮れ、新年になった。虹金軍の戦況は決して順調ではなかった。正々堂々の戦いには強くとも、伏兵に打撃を受けることが一再ならずあった。そしてついに、鉱山に敵が現れた。灰神楽は用意した号令を唱えた。
「守門を閉じよ。守りに徹し、敵を寄せつけるな」
守備にあたるのは掘方二千名ずつ、三交代で昼夜の別なく目を光らせていた。
敵にとって、堰堤城塞は難攻不落であった。堰堤城塞の前面にある木々はことごとく伐採され、身を隠す場所がまったくなく、近づけば容赦なく遠矢を浴びせかけられた。かろうじて堰堤城塞にとりついても、急角度で登ることもままならず、頭上から大石を落とされたり、煮えたぎった油を注がれたりした。迂回しようにも地形は急峻、小人数で肉薄したところで個別に撃破されるだけだった。敵はまったく攻めあぐねてしまった。
自ら戦わぬ灰神楽の役どころは、全鉱山の心の支えとなることであった。ほんの一瞬でも油断があれば、そこから守りは破られてしまう。城塞の高楼で朝昼晩と舞うことにより、たゆみなく戦う意志を示し、皆の士気を高揚させた。
灰神楽は、味方にとってありがたい神女であったが、敵にとって悪魔そのものであり、地獄の門番であった。灰神楽が健在である限り、鉱山を落とせる見込みはなかった。
敵方の一人の勇者が、灰神楽狙撃を試みることになった。夜陰に乗じて尾根にとりつき、高楼を見下ろせる場所に伐り残された大樹の後ろに隠れ、厳しい寒さに耐えながら時を待った。夜がしらじらと明けてきた。いつもどおり灰神楽は高楼にのぼり、舞い始めた。勇者はかじかんだ手を温め、強弓を引き絞り、ひょうと矢を放った。狙いは違わず、灰神楽に命中した。勇者は拳を握り、成功を喜んだ。
矢は灰神楽の肩を射抜いていた。血がほとばしり、激痛が走った。灰神楽は悶絶した。あまりの痛さに、声をあげることさえ出来なかった。
「仕留め損なったか」
勇者は二の矢をつがえようとしたが、堰堤城塞から雨のように反撃の矢が飛んできては、衆寡敵せず逃げ出すしかなかった。
「まあいい。これで流れが変わるだろう」
勇者は自分の戦果に満足していた。
灰神楽の状況は深刻だった。出血が多すぎ、意識を失ってしまった。医師の見立てでは、命に関わる重傷で今日明日が山場だという。
昼が近くなった。灰神楽が舞えないとあれば、味方の士気は萎えしぼみ、かわりに敵方の意気が盛んになってしまう。そんな事態は避けるべきであったが、肝心の灰神楽は幽冥の境を彷徨し、帰ってくる見込みはまだなかった。
「あたしが、舞うよ」
毅然として申し出たのは、薄野であった。
「あたしの背格好は灰神楽様とほとんど同じさ。そりゃ、灰神楽様ほど上手に舞えやしないけど、これでもいちおう灰神楽様の弟子なんだ。きっと立派に舞ってみせるよ」
皆に否やはなかった。薄野は灰神楽の衣装をまとい、多福女面をかぶった。かぐわしい香薫が鼻をくすぐった。灰神楽の匂いには、不思議の力があった。薄野は勇気凛々、無我夢中のうちに舞い始めていた。
薄野の舞いは出来不出来を超越した渾身のものだった。誰もが圧倒されていた。舞い手は薄野でありながら、舞っているのは灰神楽にしか見えなかった。まるで灰神楽の魂が憑いたかのようだった。鉱山じゅうから万歳の声が湧き起こった。
その一方、敵方は意気消沈した。せっかくの奇策も通じなかったと、失望と倦怠が全軍を覆い始めていた。かの勇者だけが、
「俺の矢は確実に当たっている。あの舞い手は身代わりにすぎぬ」
と強弁したが、耳を傾ける者はいなかった。
その夜、守門の前で熊吉と弥次郎が押し問答していた。
「ならぬ。行ってはならぬ。灰神楽様も申されたではないか。固く守って、こちらからは決して出てはならぬと」
「いや、行かせてもらう。ここで討って出れば勝てる。敵方は、俺達が攻め出してこないものと油断しきっている。しかも、灰神楽様を射止め損ない、めっきり滅入っているはずだ。小人数でも、夜襲をかければ必ず成功する。行かせてくれ。勝つためだ」
戦術論でいえば、弥次郎の見方は正しかった。攻め手を失い、士気をゆるませた敵を叩けば、大戦果が得られるはずであった。しかし、大きな問題が一つあった。
「おまえらが外に出れば、守門を閉じなければならない。おまえらは還れぬぞ。死ぬとわかっているのに、なぜ敢えて出ようとする」
熊吉の詰問に、弥次郎は口を尖らせた。
「俺には、生きていても望みがかなうことなどありえないのに、なお生きようとする男の気持ちがわからねえよ」
痛烈な皮肉だった。灰神楽への思いは、臣下が主を仰ぐものでなければ、もはや許されるはずがなかった。愛情を抱いてはならなかった。弥次郎がどれほど恋い焦がれようと、灰神楽は遠い彼方に行ってしまっていた。弥次郎にとって、灰神楽に思いを届けるためには、灰神楽のために役立って死ぬよりほかがなかった。
しかし、熊吉には別の思いがあった。その昔、舞神女にかなわぬ恋を抱いた時の感動、そしておそれ多さ。熊吉にとって、灰神楽は崇拝すべき神そのものになっていた。
「おまえは死ねば満足でも、部下まで道連れにするな。わがままな奴め」
熊吉は急所を突いたつもりでいたが、弥次郎はあっさりと切り返した。
「俺達はちょいと汚い仕事をしちまった。舞神女の灰神楽様の配下には、綺麗な者が揃っているべきだろう。みんな、そのつもりだぜ」
弥次郎の背後に揃った男たちは一斉にうなずいた。もう止めようがなかった。
守門が小さく開かれ、弥次郎たちは外に出た。守門はすぐに閉じられた。弥次郎たちは足音もなく敵陣に近づき、あちこちに火を放った。敵は混乱をきたし、同士討ちを始めた。戦う前から逃げ出す者さえあった。しかし、敵にも熟達した将はいた。弥次郎たちの活動は見抜かれ、追い詰められ、全滅した。
「相手はわずか十名余であったか。それと比べて、我が軍のなんと損害多きことか。この戦に利あらず。ここが潮時かもしれぬ」
敵将は渋い顔をして、力無くつぶやいた。
夜の底で、灰神楽はいつ果てるとも知れぬ眠りに落ちていた。傷ついた身体に負担がかからぬように、多福女面は外されていた。灰神楽の素顔には、毒液を浴びせられた痕跡が今もなお深く刻まれている。それでも、灰神楽は美しかった。人智を超えたなにかが、灰神楽にまとっているに違いなかった。
夜通し灰神楽の側に付きながら、薄野は切実に祈っていた。虹金の愛を奪われ、主従の立場が逆転したことに、含むところがないわけではなかった。しかし今では、灰神楽に出会えたことを人生の至福と感じていた。灰神楽はまさしく舞神女であった。年齢や性別を超越した神々しさに従えるとは、なんという幸福なのだろうか。
灰神楽は万余の鉱山の代表となり、一矢を一身に受けた。鉱山が無事を保つために犠牲が必要だとしても、それが灰神楽であってはならないはずだった。鉱山に身を置く者は全て、灰神楽様のためにと尽くし長きに渡る防御戦に耐えてきたというのに、灰神楽が死んでしまってはあまりにも虚しいではないか。
「灰神楽様、どうかお帰りになってください。あたしたちを置いていかないでください。あたしたちを独りにしないでください。お願いです、帰ってきてください」
薄野は号泣していた。涙の雫が、灰神楽の顔に落ちた。それでも、灰神楽は目覚めなかった。
暁を払って、鬨の声があがった。東雲の空に絶叫が響き渡った。
「何事か」
薄野の問いかけに応じるかのように、熊吉が飛びこんできた。
「申し上げます。敵方が退却を始めました。我が鉱山の勝ちにございます」
薄野は困惑しきってしまった。勝ったならば尚更、灰神楽には生きていてほしかった。薄野は灰神楽の寝顔に目をやった。灰神楽は、うっすらと目を開けていた。声こそかすれていたものの、しっかりした口調で灰神楽は言った。
「勝ったようですね」
「はい」
喜びの涙にむせび、薄野は返事をするのがやっとだった。
「そなたの声は届いていた。案ずるな、私は死ぬわけにはいかぬ。遠征の戦塵にまみれながら、わたしを愛する日を夢見ている、虹金さまの妻になるのだから。だが、受けた傷は深い。癒えるまで休ませてほしい。その間しっかり守り、決して追い討ちをかけようと思うな。敵にも手練がおり、伏兵が必勝の陣を張っている。また、祝宴はしばらく先に延ばし、見張りをさらに厳重にせよ。別の一手が山中を迂回し、こちらの隙を窺っている。一時でも油断すれば、勝ちは相手に渡ってしまう。今日は勝っても、戦はまだ終わっていない。心せよ」
厳しく言い放つと、灰神楽は再び眠りに落ちた。薄野と熊吉をはじめとして、集まった者たちは顔を見合わせた。灰神楽には神眼があるのか、それとも魂魄が山野をめぐっていたのか、なんにせよ不思議の力ではあると、後々まで語り継がれる一事となった。
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