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新しい日々





 城門の前でナトラは丁寧なお辞儀をする。

「ハトウ様、ただいま帰りました」

「おかえり、ナトラ。無事でなによりだ」

 皺深い顔をさらに皺にしてハトウ老衛士は返礼する。

「城内の様子は如何でしょうか」

「全てはつつがなし。よき日が続いておる」

「城を護って頂き、感謝にたえませぬ。ところで、今日はハトウ様に御挨拶したき儀がもう一つございます。さ、ハリヤ」

 ナトラに促されておれは一歩前に出る。

「イナダオク村から出て参りましたハリヤと申します。本日より、この城内にて研鑽を積むべく、ナトラと居を同じくすることと相なりました。このハリヤはなにしろ辺境から出てきたばかりの若輩者。何卒御教訓を賜りますよう、お願い申し上げます」

「ふむ」

 老衛士はおれたちふたりを見比べる。

「努め、励めよ。互いに育み、互いに高めよ。そなたたちの先を楽しみにしておるぞ」

 弾むような勢いがある言葉だ。おれとナトラは気負いこんで返事する。

「ありがとうございます」

 おれはナトラと肩を並べて城内に入る。かつての猛将軍の言葉はなおも余韻となって耳の奥に残っている。

「ハトウ様は、昔は上からも下からも慕われていた将軍だったんじゃないか」

 水を向けると、ナトラはため息をつく。

「ハトウ様のためなら命を惜しまじという連中はそれこそ山のようにいたわ。でも、いざハトウ様が爵位の座から引きずり降ろされようという時、誰も助けはしなかった。人の心なんてあてにできないものね。このわたしだって、結局なにもできなかった」

 なんだか試されているような気がする。アルジュばあさんは言っていた。おれには誰かのために身を捨てる勇気がないと。考えたくはないことだが、もし、ナトラの身になにかが起こったとして、おれは身を捨ててまでナトラを救おうとするだろうか。

「おんやあ、ナトラ、久しぶりじゃのお」

 もの凄いどら声だ。近くの露店のおばちゃんが大根を片手にがなっている。

「しばらく見んかったけど、どうしてたん」

「城を離れて賊退治に」

「かかか。きれいな顔に似合わんと、勇ましい娘やの。さあさ、この大根はいかんけ。ちょっち旬にゃあ早いしろもんだけんど、味はわっちが請け合うにゃ」

 どこの地方の訛だろうか。威勢のいい売り言葉に乗り、ナトラは財布の紐を緩める。

「頂くわ」

 大根を抱えて雑踏を進む。あちこちの露店から名指しで声がかかってくる。

「ナトラ、この牛肉はいかがかな」

「生きのいい魚が入ってるよ、ナトラ」

「ナトラよ、西の都から伝来の辛子を試してみんかね」

 ナトラは二言三言売子と世間話をすると、ほとんど吟味もせずに買い込んでいく。いやらしく吟味などしなくとも、売子が突き出してくる品は全てがよいものだ。ナトラは露店の売子たちには好かれているらしい。みるみるうちに両手は買物の山になる。持とうかと言っても、ナトラは譲ろうとしない。

 結局、ナトラに買物を持たせたままで家に着いてしまう。扉を開けて、ナトラは怒鳴る。

「小人どもよ。集え」

 ナトラの魔法を受け、小人たちが大慌てで集まってくる。どの顔もナトラの高ぶりようを見て緊張している。ナトラはことさらに凄味を効かせて命を発する。

「いいかい。今日は大事な大事な晩餐だよ。腕によりをかけな。ちょっとでも粗相があろうものなら承知しないからね」

 小人たちは顔面を蒼白にして台所に散っていく。おれは小人たちに同情する。お天気屋で猛烈な魔法使いを主人に持って、さぞや気苦労が絶えないだろうと。

 ナトラは風呂の用意をする。この間とは違って、湯船のあるまっとうな風呂だ。

「ハリヤ、お湯を用意しておいたから、ここで身を清めてちょうだい」

 神妙な顔でナトラは言う。身を清めて、とは大仰な言い方だ。ただの風呂ではない。ナトラの顔色からして、なにか重要な意味がある儀式なのかもしれない。

 湯船から出てきたおれの前に三人の小人が服を用意して待っている。黒一色のゆったりとした一枚ものだ。魔法使いの装束に近い。やはり、なにかの儀式だ。一枚ものを身にまとうと、小人たちが首飾りや腕飾りをかけてくる。仕上げには薄化粧。鏡を見ると、おれではないようなおれがぎこちなく笑っている。

 用意を整え、居間に出る。ナトラがすっかり装いを改めて待っている。装身具も化粧も控えめにして、おれと同じく黒の一枚ものをまとっている。

 ナトラはおれの手を取って広間へと導く。広間の円卓には実に豪勢な食事が用意されている。材料がよかったにせよ、料理した小人たちの腕前はほめられていい。

 よく見ると、広間の灯具や飾りがこの間とは違う。明らかにこれから行なわれる儀式に備えた特別仕立てのものだ。いったいなんの儀式なのだろう。

「そろそろ教えてくれてもいいだろう。ナトラ、これはなんの儀式なんだい」

「婚約の儀式よ」

 さらりとナトラは答える。ああそう、と言いかけて、おれは目を見開いている。 「こ、婚約だってえ」

「そ、婚約よ」

 柳に風といったていで、ナトラは続ける。

「わたしたち、これから同じ屋根の下に住まうのよ。なにかのけじめが必要だわ。といっても、いくらなんでも結婚するにはまだ早いでしょう。だから婚約の儀式を挙げようと考えたんだけど、おかしかったかしら」

「おかしくはないが」

 少々びっくりしている。前置き一切なしで婚約の儀式とは、強引な娘だ。

「儀式そのものは簡単よ。あんたはわたしがやることを真似ればいい。卓を挟んで向かい合った時、ハリヤが誓いの言葉を述べてちょうだい。それをわたしが天に伝えて儀式は完了するわ」

「わかった」

「それでは始めましょう」

 小人たちの給仕で硝子の酒器に赤い葡萄酒が注がれる。ナトラは両のてのひらを組んで酒器を持つ。ナトラは横を向き、円卓の周囲を摺り足で歩く。おれはナトラの一挙手一投足をも逃さじと倣う。

 円卓を半周してナトラはおれの方を向く。おれもナトラの方を向く。ナトラは目配せしておれの誓いの言葉を待っている。おれはハトウ様の言葉を思い出し、たっぷりと息を吸って述べる。

「ハリヤとナトラ、ここに誓います。日々努め、励むことを。そして、互いに育み、互いに高めあうことを」

「天の神々も御照覧あれ。われらが誓いを破りし時は、万雷に打たれて死を賜わろうとも悔いはなし」

 ナトラが酒器を差し出してくる。おれも酒器を前に出す。酒器どうしが触れ、ちーんと澄んだ音がする。すると、どうだ。彼方から遠雷の音が聞こえてくるではないか。どうやら、おれたちの誓いは天に受け容れられたようだ。

「儀式は終わりよ。座っていいわ」

 安心したような顔でナトラが席に着く。まわりにいた小人たちは、ある者は盛んに囃したて、ある者は賑やかに口笛を吹き、おれたちの婚約の成立を祝賀する。

 そう。おれとナトラはいいなずけどうしになったのだ。思えば、この十日ばかりのわが身の上の変遷よ。辺境の小村に住まう孤児が、イェドゥア城随一の魔法使いのいいなずけ、とは。つい、おれはナトラの顔を見入っている。ナトラははにかんだ笑みを浮かべておれに問う。

「ハリヤ、どうしたの」

「い、いや」

 おれは顔を赤くしていたに違いない。照れくさいのだろう。ナトラも頬を染めている。

「御主人様も旦那も、案外うぶだねえ」

 床の小人から野次が飛んでくる。

「これっ」

 ナトラがきっと小人を睨むと、野次を飛ばした小人はさっと後ろに隠れる。小人たちは大笑いだ。ナトラも苦笑いして気色を緩める。

 笑いがさらに笑いを呼び、心浮くような食事になる。こんな楽しい食事は初めてだ。ナトラを前にして、小人たちに囲まれて、よく食べ、よく飲み、よく笑い、最初の夜は更けていく。



 陽は既に高い。こんな時間まで寝過ごすとはわれにも似合わぬことだ。服を着替えて起き出すと、広間ではナトラがお茶を用意して待っている。

「おはよう、ハリヤ」

「ああ、おはよう」

 ナトラはお茶を差し出してくる。その手つきはかなり危なっかしい。

「小人にはやらせないんだ」

「ほんとうはやらせたかったんだけど。夕べあんたがお酒を振舞ったもんだから、全員二日酔いで役に立たたなくなっちゃったのよ」

 少々恨みがましい目をするナトラである。

「ありゃりゃ。じゃあ、朝飯はおれがつくるようか」

「お願いできるかしら。わたし、包丁握ったことないもんだから」

 ナトラはすまなさそうな顔をしている。それにしても、包丁を握ったことがないとは、全ての料理を小人たちに依存していることがわかる。小人たちがつむじを曲げて逃げ散りでもすれば、ナトラはたちまち飢え死にするに違いない。

 おれは台所で朝食を用意する。ありあわせの品でつくる簡単なものだが、ナトラと一緒ならばおいしく頂けるものだ。

「ねえ、ハリヤ。あんた、城内でなにか仕事でもしてみる。あんたのことだから、わたしに寄食する気はないだろうけど」

 食べ終えて、ナトラは今まで先延ばしにしてきた話題を取り上げる。ナトラに言われるまでもなく、おれはナトラに食わせてもらうつもりはない。自分の食べる分ぐらい自分で稼ぐのは当然のことだ。ただ、おれはこの城のことをよく知らない。なにか仕事をといっても、どんな仕事があるのか見当もつかないのがほんとうのところだ。

「ナトラ、これから城内を案内してくれないか。今日一日歩き回ってみて、おれに向いてる仕事を見つけることにするよ」

「いい考えね」

 ナトラとともに城内を歩く。そういえば、ナトラに賊退治を頼みにきた時は城内の様子を見る余裕などなかった。ゆったりとした心がけで城内を歩けば、今まで見えなかった様々なことが目に入ってくる。

 イェドゥア城の城壁は三重に構成されている。最も外側の城壁は極めて堅固なつくりだ。高さもある。どんな外敵がやってきても防げるようにとの目的で築き上げられたもののようだ。

 城壁の内外では風景が全然違う。城壁の外側には一面の荒れ野原が広がっているというのに、城壁の内側は人いきれでむんむんしている。まったく凄い活気だ。商い、大道芸、辻占い、喧嘩沙汰。ありとあらゆる人間の所業がぎっしりと詰まっている。

 その喧噪も真ん中の城壁までだ。ナトラの解説によれば、かつてはこれが外壁だったらしい。さらに外側により堅固な城壁が構築されたおかげで、城壁というよりも、街と街とを区切る衝立に近くなってしまったようだ。今では崩れかけているところも多いこの城壁を境として、外側は外町、内側は内町と通称されている。

 内町に入れば街は落ち着いた雰囲気を匂わせている。外町の騒がしさもここまでは届かない。静かなものだ。ナトラの家も内町にある。ナトラの趣味がなんとなく知れる。

 内町からさらに内に向かう途上で若い女の魔法使いに出会う。かの女はナトラがおれを伴って歩いているのを見て驚いている。

「あらあ、ナトラ。あなたが男連れで歩いてるなんて、珍しいこともあるものね」

 ナトラは露骨にいやな顔をしている。あまり会いたくなかった相手らしい。深呼吸して、顔色を直してから、ナトラはおれを紹介する。

「リルキ、紹介するわ。こちらはハリヤ。わたしのいいなずけよ」

「ええっ。いいなずけですって」

 リルキという名の魔法使いはのけぞらんばかりに驚倒する。

「ほ、ほんとなの。あなた、わたしを担いでるんじゃないでしょうね」

「あんたを騙してどうするっていうのよ。略式とはいえ、夕べ婚約の儀式を挙げたわ。天の神々もお認めになってくれたわよ」

「へえー、へえー」

 リルキは遠慮のない目でおれとナトラとを見比べる。

「あんたのことだから、言うなっていっても言い触らすんでしょうけど、うるさい奴らにだけは黙っていてよね」

「わかったわ。うるさい奴らにだけは黙っておいてあげる」

 ほくそ笑んでリルキは去っていく。ナトラは深いため息をつく。

「あの子、おしゃべりなんだろ」

 おれにも事情はだいたいわかる。ナトラはうんざりしたようにうなずいている。

「お察しの通りよ。わたしの男嫌いは城内の魔法使いの間じゃ有名だったからね。そのわたしが婚約したとあれば、いい噂の種になるでしょうよ」

 いかにも忌々しそうな顔だ。

「噂にされるのがいやなのなら、どうしてお披露目をしなかったんだい」

 婚約の儀式の立会人は小人たちだけだった。城内に知り合いがいないわけでもないのに、なぜ誰も呼ぼうとしなかったのだろう。

「ハリヤの言いたいことはよくわかるわ。でも、まともに式を挙げようとしたら、色々な妨害を受けて式どころじゃなくなったでしょうよ」

 折しも一番内側の城壁に突き当たる。その向こうには尖った塔が見える。それを見て、ナトラはさらに忌々しげな口調になる。

「ハリヤ、あんた、支配って言葉知ってるかしら」

 支配。知ってはいても使い慣れない言葉だ。おれの村には長という村を代表する者はいても、村を支配する者などいなかった。もちろん、支配される者もいない。村人たちの賊への恐怖は、支配されることへの恐怖に等しい。支配する者もされる者もない暮らしこそが、村人たちの望むものではなかったか。

「この壁の向こうには城を支配する者たちが棲んでるわ。能も芸もないくせにこの城を支配しているつもりなんだからお笑いだわ。城内の人たちはどうして我慢できるのかしらね。わたしたちはあんなつまらない屑どものために税を払っているというのに」

 税、とは。おれの理解を超える言葉が出てきてしまった。すると、なんだ。この城内の人たちは支配者のために税というものを払って暮らしているというわけか。おれの村では考えられないことだ。

 ナトラは興奮している。もはや憎しみさえ籠もった口吻で話を続ける。

「連中め、お高くとまりやがって、この壁から向こうのことを禁苑と呼んでいる。わたしみたいな身分なき者は入っちゃいけない場所って意味よね。その禁苑の中でなにをしてるかっていえば、酒に耽けって女を漁るばかり。くだらないったらありゃしない。そんなくだらない連中が自らを『貴族』なんて呼ぶんだから。まったく貴いお方ばかりだよ」

 早足で進みながらナトラは息巻く。おれの頭に一つの推測が浮かぶ。「貴族」の女漁りの対象の一人がナトラなのではないだろうかと。女漁りするような色狂いの連中がナトラほどの美貌を放っておくはずがない。惣菜屋の女将が言っていたナトラに言い寄る男どもとは、また、さっきナトラが話していたうるさい奴らとは、どちらも女漁りする貴族のことを指すのだろう。ナトラが貴族どもの毒牙から逃れているのは、ひとえに天賦の魔法の力があるからに違いない。

 だが、疑問が残らないでもない。これだけいやな顔をして貴族を嫌っているのに、なぜナトラはイェドゥア城を出ていく気にはならないのだろう。

 内町を抜けて再び外側の城壁に向かう途中、空から声が降ってくる。

「おおい、ナトラ。お久しぶりだね」

「ツクネさん、よそ見してると落ちるわよ」

 ツクネと呼ばれた髭面の男は屋根を修理しているところのようだ。ナトラに微笑まれて鷹揚に手を振っている。

「ナトラ、ちょっと頼みごとがあるんだけど、聞いてはくれんかね」

「なあに」

「どうも数日前から家ん中で鼠がちょこまかとうるせえんだわ。つまらん用ですまんけど、鼠を退治してはくれんかね」

「わかったわ。明日準備をしておうかがいします」

「頼むね」

 辻一つ行かないうちに、ナトラは赤ん坊を抱えた若い女に呼び止められる。

「ああ、ナトラ、会えてよかった」

「あら、ミクルさん、赤ちゃん生まれたんだ。男の子ね。おめでとう」

 ミクルと呼ばれた女は頬を染めてうなずく。

「ありがとう。無事この子を産めたのもあなたの護符のおかげよ。それでね、できればこの子の名付け親になってほしいんだけど」

「いいわ」

 小物入れから短冊を取り出すと、ナトラは両手にそれを挟み、魔法をかける。

「白き短冊よ。この赤子の幸ある未来を祝福し、この子にふさわしき名を表わせ」

 ナトラが手を開くと、短冊には「ダイ」と記されている。

「ああ、ありがとう。この子にはダイと名付けます」

「いい子に育ててね」

 こんな調子で外の城壁に辿り着くまでどれだけ声をかけられたことか。ナトラがイェドゥア城を出ないわけだ。ナトラは城内の人に恐れられている以上に好かれている。荒っぽくはあっても、竹を割ったような性格だけに、慕われているのだろう。そして、ナトラもまた、城内の人たちを好んでいるのだろう。

 城壁の上に立つとおれの知識にない光景が広がる。なんだ、この巨大な水たまりは。塩くさい風をよこし、ざざざあーっと白い波をたてている。

「ナトラ、これは」

「海よ」

「そうか、これが」

 海なのか。言葉の上では知っていても、ほんものの海を見るのは初めてだ。おれはしばらくの間、ぼうっと海を眺めている。

「そんなに気に入ったかしら」

「ああ」

 おれはまだ驚いている。その水の青さと荒々しい波の音に。

「これで城内のだいたいのところは見てきたわ。後は自分の目で確かめてね。さあ、もうお昼を過ぎてるし、どこかで食事にしましょうよ」

「そうだな」

 歩き回って腹ぺこだ。外町の一角の露店に腰を据え、昼食をとる。

 さっきから気になっていることが一つある。この城内はなにで構成されているのだろう。どの建物も直方体の石のような物を積み上げてつくられている。石のような、とはいっても、大きさが揃いすぎているし、ことごとくがくすんだ臙脂色をしているし、どうやら石とは違うようだ。今座っている席の下の床もこの直方体の物体で、正体が気になってしようがない。

「ナトラ、これはいったいなんなんだい」

 おれの指先を見て、ナトラはなんのことを訊かれたのか戸惑ったらしい。ようやく臙脂色した直方体の物体のことと知って、けらけらと笑い出す。

「なにかと思えば。これは煉瓦よ」

「れんが」

「そ。煉瓦。粘土に砂を混ぜて四角く練り固めたものを、強い火で焼き上げてつくったものよ。そういえば、あんたの村にはなかったわね。そっか、これも初めて見るものなんだ」

 どうやらおれは田舎者にしかできない問いを発したようだ。ナトラは笑いを噛み殺して通りを指さす。

「煉瓦は城の外で焼いてから、ああやって運び込んでくるのよ」

 三人の屈強そうな男が大八車を引っ張っている。その荷台には煉瓦が山と積んである。不意にナトラは立ち上がり、大声をあげる。

「いけない。あの車、外れるわ」

 おれは大八車に駆け寄ると、荷台に手をかける。その瞬間、からんと音をたてて車が外れる。もの凄い重みが両手にかかる。三人の男がなにごとかという目で振り返る。

「早く。おれが支えている間に、車を直してくれ」

 事態が飲み込めたようだ。一人はおれと一緒に荷台を支え、残る二人が車を直す。手際は悪くない。瞬く間に車は元の位置に収まる。

「ようし、もう力を抜いていいぞ」

 修理は万全なようだ。車は煉瓦の重みを支えて揺るぎもしない。

「いやあ、助かったよ。ここで荷を崩していたら、刻限に間に合わないところだった」

 髭面の男が手を差し出してくる。

「どうかね。おれたちと一緒に働かないか。おまえさん、なりは小さくとも、力持ちのようだし、かなり稼げると思うぜ。礼代わりといっちゃなんだが、おれたちと稼いでみる気はないか」

 ごつごつした顔をしているが、その笑顔はひとなつこい。これもなにかの縁というものだろう。この人たちとともに働いてみるか。

「はい。ご一緒させて下さい」

「いい返事だ。早速だが、後ろを押してくれ。少々急いでいるんでな」

 おれは大八車の後ろにつく。後ろを振り返ると、ナトラは手を振っている。行ってらっしゃい、ということなのだろう。

 大八車は道が広場になっているところで止まる。小柄で禿頭の老翁が近づいてきて髭面の男をなじる。

「こりゃ、ゴウラ。遅いぞ。おまえがぐずぐずしとるもんだで、もう陽が暮れてしまうぞよ」

「すんません、親方。ちょっと遅れちまったかわりに、使える奴を拾ってきましたんで」

「ふん。あの若造か」

 親方はおれをじろと睨む。

「小さいなりじゃの。どれくらい使えるというんじゃ」

「それが、一人でこの荷を支えましたんで」

「なんと」

「こいつが支えてくれなきゃ、荷は崩れ、もっと遅れていたところでさあ」

「ほう」

 親方の目の色が変わる。宝の山でも見つけたような目だ。

「おまえ、名はなんという」

「ハリヤといいます」

「よし、ハリヤ。見様見真似でいいから働いてみよ。その働きに応じて日当を決めよう」

 仕事は煉瓦の張り直しのようだ。傷んだ煉瓦を剥がし、地を均して、新しい煉瓦を広場に張るという作業で、地を均すところまでは終わっている。

 みんなのやり方を真似して煉瓦を張ってみる。まず、地面に漆喰をさらにこわくしたような糊を敷き詰める。その上に煉瓦を敷く。それだけのことだ。だが、それだけのことが難しい。煉瓦は隙間なく張らなければならない。広場は円形で煉瓦は四角。どうやっても隙間はできる。工夫が必要だ。煉瓦を置く前に糊をつけておけばどうだ。こうしておけば、隣の煉瓦との隙間が糊で埋まる。

 面白い。単純な作業の繰り返しのように見えて、奥が深い仕事ではないか。やりがいもある。おれは楽しみながら煉瓦を並べている。気づいたときには、まわりはすっかり黄昏ている。全ての作業は終わり、広場は新品の煉瓦で輝いて見える。

「野郎ども、集まれ」

 親方が召集をかける。

「今日はちょいと仕事の進みが悪かったが、真っ暗になる前に終わってなによりじゃった。これより日当を配る」

 一人一人の名を呼んで今日一日の給金を渡していく。古参からの順のようで、おれの名は最後に呼ばれる。

「さて、最後は新入りのハリヤじゃ。ハリヤ、金十一」

 途端にざわめき。無理もない。おれの給金は前に呼ばれた六人よりも多い額だ。

「親方、そりゃあんまりだ」

「なんでおれたちよりも高い金をやるんだ」

 六人が色をなす。親方はどこ吹く風で、しゃがれた声で答える。

「おまえらよりもこの新入りの方がよく働いてたわい。悔しかったらしっかり働けい」

 六人はあっさりと引き下がる。おれを恨む色はない。働きの前には皆平等というわけなのか、明日はおれよりもよく働いてみせるという意気込みさえ感じられる。

「明日はカーク通りの煉瓦の張り直しじゃ。集合は卯の刻。遅れるでないぞ」

「おう」

 威勢のいい返事をして、みんなはそれぞれの家へと引き揚げていく。さておれも帰るとするかと動きかけ、はたと困らざるをえない。はて、ナトラの家はどっちだっけ。

「大きな迷子さん。なにをきょろきょろしているの」

 ナトラの声だ。振り向くと、いつからいたものか、ナトラがいたずらっぽく笑って立っている。

「待っててくれたんだ」

「あんたはまだこの城内に不案内だからね。あそこでわたしだけ先に帰ってたら、あんたが家に帰れないだろうと思ってね」

「すまない。助かったよ」

「それにしても、いい仕事見つけたわね。あんたの顔、よかったよ」

 おれもこの仕事は気に入っている。物心ついた時には野良仕事をしていたおれだ。体を動かす仕事は性に合っている。

 夜の街角にはまた違った顔がある。星さえ霞む明るい街を、ナトラと肩を並べて家路に就く。



 翌日の仕事は傷んだ煉瓦を剥がすところから始まる。まずはつるはしで煉瓦を掘り起こす作業。おれにとっては楽しい仕事だ。煉瓦を掘り起こしては一輪車に乗せて運んでいく。

 続いては地均し。これは重みのある円筒を転がしていく作業だ。普通は三人がかりでやることのようだが、おれがやると一人でも引っ張ることができた。このあたりからみんなのおれを見る目が違ってくる。

 最後は煉瓦を敷く作業だ。これは昨日もやったことで、こつはだいたい飲み込めている。おれは楽しみながら煉瓦を敷いていく。工夫を凝らせば、昨日よりも手早く作業は進む。

 未の刻を少し回った頃に仕事は終わる。まだ陽は高い。親方以下、誰もが呆気にとられた顔でおれを見ている。おれはそんなに凄いことをしたのだろうか。

「こんな奴がいる限り、今時の若いもんはなんて言えやしないね」

 親方はうれしそうに高笑いすると、日当の配分でおれに金二十五を割り当ててくる。昨日の額の倍以上、しかも、最古参のゴウラと同額だ。だが、誰からも文句は出ない。おれの働きぶりはみんなが認めるほどのもののようだ。

 認められることはうれしい。おれは口笛を吹きながら家に帰る。

「ただいま」

 扉を開けたおれは、驚きのあまり、二三歩後ろに飛びすさっている。家の中には、人、人、人。ことごとくが黒装束の魔法使いだ。

「旦那様がお帰りになられたわよ」

 強引に手を引かれて座らされる。隣にはナトラが座っている。

「こりゃあ、いったいなにごとだ」

「リルキがしゃべったのよ。そしたら、これよ」

 怒っているように見えて、ナトラはまんざらでもなさそうだ。ほんとうのところは、おれとの婚約を誰かに話したくてうずうずしていたのかもしれない。

「渋い男よねえ」

「なれそめはいつなのかしら」

「どこが気に入ったの」

 雀のように騒がしい。ナトラは膨れっ面をしながらも、それでも時折笑顔を見せて、受け答えしている。やはり、からかわれるのがうれしいのだ。

「おふたりさん、婚約の記念に並んだ絵を描いてあげる」

 絵が得意そうな魔法使いがおれとナトラを前にして筆を走らせる。手慣れたものだ。すぐさま描き上げて、できた絵を見せてくる。

「どうかしら」

「こらっ。ククム」

 ナトラはククムを追いかける。きゃあきゃあ言いながらククムは逃げまどう。魔法使いククムが描いた絵の中には、鬼娘と桃太郎の姿がある。これには満座が大笑いだ。

 ともあれ、魔法使いたちがおれたちを祝福しようという気持ちに紛れはない。舞ってみせる女、楽器を弾く女、歌を合唱する女たち。魔法使いたちの心尽くしを受け、おれの気持ちはなごやかになる。ナトラもすっかり感激し、最後には涙ぐみさえしたほどだ。

「じゃあね。今度からは祝いごとがあれば必ずみんなにも伝えるのよ」

 別れ際のリルキの言葉がナトラに対する正直な気持ちなのだろう。自分の殻に閉じ籠もるのはいいけれど、もっと仲間を頼りにしてよね、そんな心が言外に匂っている。

 ナトラが涙ぐんだのは、リルキの言葉にちょっぴり悔いを呼び起こされたからかもしれない。



 そんなことも知らずに働く気になったのは間の抜けた話ではあるのだが。

 城内には「組」と呼ばれる集団がある。組とは土木工事を生業とする職人によって構成される集団で、われらが親方が率いる「輝々組」もその中の一つだ。煉瓦の張り替えだけが仕事というわけではない。もっとも、城内の建造物のほとんどが煉瓦でできているから、どうしても煉瓦に関わる仕事ばかりにはなる。

 数ある組の中で、輝々組は中堅どころのやや上の位置にあるらしい。組の業績をさらに上げるべく、親方は日々職人たちに檄を飛ばしている。

 おれが輝々組に加わったことはみんなにとっていい刺激になったようだ。おれにとっては当然なことをしているだけなのだが、どうやらおれはよく働いているものらしい。おれはたった二日で最古参のゴウラと同格に扱われるようになる。他のみんなは妬むより前におれに対する競争心を燃やしている。そのおかげで仕事のはかどりは旧に倍するまでになる。

 城内に二つの評判が立つ。一つは輝々組についてのもの。最近の輝々組は仕事が速いうえに、仕上がりが良くなった。こう言われれば組のみんなの鼻は高い。より稼ぎがいい仕事が舞い込むようにもなったから、親方の機嫌はすこぶるいい。

 もう一つはおれについての評判だ。輝々組の新入りは若い者にしてはよく働いている。若者の鑑であるばかりか、全ての職人の手本となるものだ。あれは職人の神シーロカ様の生まれ変わりであろう。云々。もの凄い言われようだ。ほんとうにおれの評判なのか、疑わしく思える。だが、親方によれば全てがおれの評判だという。人の口とはおそろしいものだ。

 まあ、評判などどうでもいいといえばどうでもいい。評判だけで仕事はできない。いくら評判が高くとも、汗をかかねば煉瓦は敷けないのだから。

 ただいまの仕事はハックス通りの煉瓦の張り替えだ。内町の大通りだけに、作業の量は豊富にある。さすがに一日では終わらせることができず、三日目の今日、一気に煉瓦を敷き詰めようというところにまでこぎつけている。昼休みになった時点で残る煉瓦は五百一枚。もう一息というところだ。

 午後の作業を始めようかという時のこと、雲を衝くような大男が、幟を立てた十数人の男たちを従えて、がらがら声で喚きながら歩いてくる。

「我が神シーロカ様の生まれ変わりとうぬぼれてる若造はどこだ。いたらおれと勝負しろ」

 みんなの目は一斉におれを見る。全員を代表してゴウラがおれの肩を叩く。

「ありゃあ、おまえさんのことだぜ。この勝負、受けろ。そして、必ず勝て」

「ちょ、ちょっと待って下さいよ」

 慌てるしかない。おれはこの世界のしきたりがまだよくわからないのだ。

「いいから、いいから。おまえさんなら必ず勝てるさ。口上はおれが代理してやるから」

 軽く言い切ってゴウラは立ち上がる。

「そこに来るは赤鉢組のクンディッケではないか。わが輝々組のハリヤと勝負を欲すものと見たが、如何に」

「その通りである。かの若造は自らを我が神シーロカ様に擬す痴れ者。このクンディッケがかの若造に身の程を思い知らさんがため、勝負を挑む次第である」

「言いも言ったり。われらがハリヤはシーロカ様が梯子をかけても及ばぬほどの働き者。われらはハリヤを無二の者と思うておる。そのハリヤを侮辱するとは、わが輝々組を侮辱するのと同じぞ。許すわけには参らぬ。どうだ。われらが則を定める勝負を受ける気はありや」

「望むところ。我らにはシーロカ様の御加護がある。いかなる勝負たりとて、逃げはせぬ」

「ここに五百一枚の煉瓦がある。ハリヤとクンディッケ、一枚でも多く煉瓦を敷いた者を勝者とする」

「委細承知」

 わあーっと喚声があがる。みんなは口々に、頑張れ、負けるなと声援をよこしてくる。大変なことになってしまった。おれの胸は高鳴っている。

「両者、位置に着け」

 ゴウラの指図でおれとクンディッケは路面の上にかがみ込む。

「始めい」

 勝負の火蓋が切って落とされる。もう、慌てていてもしかたない。おれはせっせと煉瓦を敷き詰めていく。クンディッケも巨大な体からは想像できない器用さを発揮して煉瓦を並べていく。速い。うかうかしてはいられない。

 百枚二百枚と煉瓦は敷き詰められていく。勝負はほとんど互角に近い。お互いに引き離すことができないままに煉瓦の山は低くなっていく。みんなの応援にもひときわ熱がこもってくる。

 おれとクンディッケの能力は全く伯仲していたようだ。五百一枚目の煉瓦に手を届かせたのはどちらが先とも見切れない。それほどきわどい瞬時の差だ。

 最後の煉瓦の奪い合いになる。おれもクンディッケも顔を真っ赤にして煉瓦を握る。おれたちの力に煉瓦の方が音をあげる。煉瓦は音をたてて砕けてしまう。

 こうなれば、力に訴えるしかない。そう考えたのはクンディッケも一緒のようだ。おれが拳固をクンディッケの頬に見舞うと同時に、おれの顔にクンディッケの拳が飛んでくる。目方がある分、クンディッケの方が有利だ。クンディッケはわずかにぐらついただけだが、おれはしたたかに吹き飛ばされている。

 立ち上がれば、クンディッケが猛然と掴みかかってくる。一気に勝負を決するつもりらしい。おれはとっさに身を伏せて足払いをかける。クンディッケはもんどりうって倒れる。

 腹ばいになったクンディッケの後ろ襟と腰帯を掴み、満身の力を込めて持ち上げる。おお、とどよめきがあがる。おれはクンディッケの巨体を高々と差し上げている。クンディッケはしきりに手足をばたつかせているが、むなしく空を切るのみだ。

「えいやっ」

 気合を入れてクンディッケを放り投げる。従者たちが蜘蛛の子を散らすように逃げていく先に、クンディッケの巨体は地響きをたてて墜落する。その上に幟が折り重なって倒れていく。

 なにが起こったのか理解できぬかのように、クンディッケは目をぱちくりしている。やがて、自分がなにをされたかを思い出すと、いかにも痛快そうに笑い出す。

「こりゃあ、参った。まさか、このおれを投げ飛ばせる奴がいるとはな」

 クンディッケは姿勢を正し、平伏する。

「このクンディッケめの負けにございます。輝々組のハリヤ様、あなたはまさしくシーロカ様の生まれ変わりでありました」

 輝々組のみんなは、手を叩き、足を踏み鳴らし、口笛を吹いて喜んでいる。どうやら勝つことができたようだ。みんなは顔中に笑みを弾けさせておれを叩いてくる。負けたクンディッケたちも思いの外にすがすがしい顔をして引き揚げていく。別れ際には今後の友好さえ誓ってきたほどだ。

 勝負に勝ち、仕事も終え、酒を交えた宴になる。親方は殊の外に上機嫌だ。ずっしりと重たい金一封をおれに授けてくれる。

 ゴウラの話によると、シーロカ様の名の許に行なう勝負には最高の栄誉が伴うという。しかも、クンディッケは城内でも随一の腕前を誇る職人として知られてもいる。その勝負に勝った以上、明日から輝々組の名が一段と上がることは間違いない。自然と仕事も増え、実入りもまた増えることになるだろう。だから親方はおれに金一封を授けたのだとゴウラは説き明かしてみせる。

 勝負に勝ったことよりも、金を授かったことよりも、みんなに喜んでもらえたことの方がおれにはうれしい。みんなに喜ばれることの心地よさときたら、他のなにごとと比べていいものやら見当もつかないぐらいだ。

 親方は大杯をおれに勧めてくる。ゴウラは高笑いしながらおれの背中をばんばんと叩いてくる。他のみんなも喜び色した顔で杯を満たしにくる。みんなの笑顔に囲まれれば、飲み慣れない酒もおいしい。おれは実に気持ちいい酔いを味わっている。



 包みの中には金二百が入っている。親方から授かった賞金だ。八日分の日当に相当するだけに大金といえる。さて、この金はなんに使おうか。

 ほろ酔い気分で外町を歩けば、宝石店の看板が目に入る。そういえば、ナトラは身を飾るのが好きなようだ。首飾りの一つでも買っていくとするか。

 店の中には宝石が星と輝いている。なんという明るさか。仕事帰りの泥だらけの格好でいるのが恥ずかしい。場違いなところに入ってしまったと後悔せざるをえない。

「いらっしゃいませ。なにをお求めですか」

 酔った勢いというものはおそろしい。店員が無理に愛想笑いしているのがわかっていながら、おれは品定めをしようとしている。素面ならばさっさと引き返しているところを、おれらしくもないことだ。

「首飾りがほしいんですけど」

「こちらにございます」

 店員の指先の陳列棚を見ると、色とりどりの首飾りが並んでいる。どれも素晴らしい出来栄えだ。ナトラの身を飾るのに遜色ある品は一つとてない。ナトラは赤を好んでいそうだから、紅玉をあしらったものを選ぶとするか。

 これをくださいと言いかけて慌てて息を呑む。値札に記されているのは「金三十万」の文字。他の品を見渡しても、一番安いものでさえ金二十五万という値がついている。とてもできる買物ではない。

「どれにいたしますか」

 店員が皮肉な笑みを浮かべている。おれはかあっとなって通りに飛び出す。わざわざ恥をかきに行ったようなものだ。たかが金二百を引っ提げて金二十五万の買物をしようとは、もの知らずもいいところだ。おれはやはり田舎者だ。

 がっくりとうなだれながら通りを進む。もしかしたら、おれは一生ナトラに首飾りを贈れないかもしれない。ナトラの装身具は、首飾りに限らず、全てが値打ちものだ。値打ちものの相場を知った今、ナトラのいる世界が遠くなったように感じられる。

 首飾りが欲しいという思いだけに凝り固まり、夜の街をあてもなく歩く。ふと、おれは通りに座り込んでいる。目の前には大きな黒い布が敷かれ、様々な首飾りが並んでいる。店番の老婆が塩辛声で訊ねてくる。

「若者よ。首飾りをご所望かな」

「ああ」

 力のない声でおれは答えている。

「金はいくら持っている」

「二百」

「ならば、これがいい」

 老婆が示した首飾りには金百の値札がついている。

「なぜ」

 もっと高いものも買えるではないか。

「甘えるでないぞ。若者よ」

 ぴしゃり、と老婆は言い切る。

「この首飾りが今のおまえさまにとっては分相応というものよ。見苦しい背伸びなどするものでない。首飾りを求めるのも、女に贈るつもりなんだろうが、手持ちの金を全て投げ出して首飾りを購っても女は喜ばぬぞ。これにしときなさい。ありていに言って、この紅玉はまがいものよ。だがの。紋章は混ざりけ無しの白銀だし、細工も手が込んでおる。金百で、ちと安いくらいよ」

 老婆は炎をかたどった紋章に硝子でできた紅玉を嵌め込んだ首飾りを差し出してくる。模様といい色といい、ナトラに似つかわしいといえなくもない。

「では、これを」

 おれは包みから百金を出す。老婆は無愛想に笑って首飾りを箱に詰めてくれる。

 家に帰るのが少々こわい。首飾りを買ったはいいが、所詮は安物だ。値打ちものばかりを身につけているナトラが喜んでくれるかどうか。

「ただいま」

 扉を開けると、ナトラが弾けるようにしてやってくる。

「おかえり。遅かったね。あら、お酒を飲んできたんだ」

「そんなに酒くさいか」

「ぷんぷんしてるわ。待っててね。今、酔い醒ましにお茶を入れるから」

 お笑い草だ。酒くさい息を吐きながら首飾りを買い求めていたとは。ばかばかしいことをしたものだ。だいいち、ナトラに対して失礼ではないか。

「お茶が入ったわよ」

 ようやくさまになってきた動作でナトラは茶を勧めてくる。

「ありがとう」

 うれしすぎる。まともにナトラの顔を見られない。

「どうしたの、ハリヤ。元気ないよ」

「これを、おまえに」

 思いあまって箱を渡す。怪訝な顔で蓋を開けるナトラの目が輝く。

「まあ、素敵」

 肩の荷が降りたような気がする。喜んでもらえて、ほんとうにうれしい。

「ありがとう、ハリヤ。わたし、これ、一生大事にする」

 おれの手をとり、ナトラは無邪気な笑みを見せる。

 あくる朝のこと。朝飯を食べているところに美々しく着飾ったナトラがやってくる。朝寝坊のナトラにしては珍しいことだ。ナトラは装身具を翻しながらおれの前でくるくると回る。

「ねえ。今日、リルキの家に集まる約束があるのよ。いい服を着ていかなきゃと思って着飾ってみたけど、おかしくないかしら」

「ああ。よく似合ってるよ」

 口ではそう言っても、少々落胆はしている。夕べ贈った首飾りが見えないからだ。そんなおれの様子を見て、ナトラはくすくすと笑う。

「ハリヤ、がっかりしないでよ。あなたの贈り物はここにあるわ」

 ナトラはちょぴっと胸をはだけてみせる。おれの贈った首飾りは、そこにあった。

「あ」

 おれはぽかんと口を開けている。

「一生大事にするって言ったでしょ。これ、いつまでも肌身から離さないわ」

 ナトラらしい気の回し方だ。おれの贈った首飾りはナトラの肌にじかに触れている。首飾りに心あれば、ナトラの温もりを感じ、胸の鼓動に耳をすますこともあるだろう。どういうわけか、妙にうれしい心地になる。





次章に続く

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