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墓所をあてる





 年が明けてからこのかた、おれたちはもぐらのような毎日を送っている。

 依頼された仕事は下水道の工事だ。地下深くに外町と内町とを結ぶ新しい水路を構築し、在来の水路網の流れをよくしようとするもので、まさに陽があたらぬ仕事といえる。

 下水道とは、イェドゥア城に来て初めて知った存在だ。ただの水道ならばおれの村にもある。川の源に近いきれいな水を集め、木管を通じてそれぞれの家に水を分配するものだ。同じような機構はイェドゥア城にも設備されている。イェドゥア城の凄いところは、それぞれの家から出る汚水を集積する水路をも築き上げた点にある。この汚水を集める水路こそが下水道なのであり、イェドゥア城を都市と呼ばしめる大規模な工作物ともいえるだろう。

 この仕事を引き受けたのは輝々組が最初というわけではない。過去にもいくつかの組が挑んではことごとく中途で挫折している。その原因は岩の硬さにある。とにかくべらぼうに硬い。のみを使って薄皮を剥ぐようにして堀り進めなければならず、まめさと気の長さが要求される仕事となっている。

 岩を抜くにあたってはジンの魔法が多少役立っている。ジンの魔法を用いて岩にひびを入れ、のみを打って表面を削り落としていく。単純な作業ではあるが、急がば回れとの諺の如く、最も確実なやり方といえる。

 ジンはよく働いている。器用さに欠けるところはあるものの、力だけは十分にある。たちまち中堅どころの日当を稼ぐようになる。なかなか豪快な性格の持ち主であり、そのくせ貴族であることを鼻にかけないしおらしさをも有しているので、すぐに組の若手の親分格になる。

 ただし、ジンは魔法使いとしては半人前にすぎない。使える魔法は少なく、しかも弱いのだ。今の仕事にしても、ナトラならば一瞬にして岩を砕いているところだろうが、ジンの弱い魔法は一日に幾筋かの傷を岩に刻むのが精一杯という有様だ。

 毎日弁当を運んでくるナトラも、今の仕事の進みの遅さが気になっているようだ。原因が岩の硬さと知って、わたしが手伝おうかと水を向けてくる。だが、ジンはあくまでもナトラを頼ろうとはしない。これは組が引き受けた仕事である以上、誰かに頼るのは恥だと言って譲らない。

「だからジンは嫌いなのよ」

 とナトラは言う。

「自分の力が及ばないことを力ある者に頼るのは決して恥ではないわ。ああいうのを見栄坊っていうのよね。輝々組に入って力仕事をするようになったから、少しは見直してたのに、なにさ、ちっとも変わってやしない」

 だが、遅々たる歩みとはいえ、とにかくおれたちは前に進んでいる。ジンの意地もわからないではない。多少なりとも岩に歯が立っている以上、いたずらにナトラに頼りたくはないのだろう。そうおれが言うと、ナトラは口を尖らせる。

「なによう。あんたもつまらない意地を張るっていうの」

「つまらないかどうかは知らんが、おれだって、ちょっとずつでも岩が削れている間は、ナトラにすがろうなんて思いやしないね」

「あんたって、ほんとうに頼もしいわ」

 ナトラはおれの肩に頭を預けてくる。なんのことはない。ナトラはおれの言動を全て良い方にとり、ジンの言動を全て悪い方にとっているだけのことなのだ。ジンこそいい面の皮というものだろう。組の中でこそジンの声望は高いが、ナトラにだけはどうしても気に入ってもらえないのだから。

 そんなこんなで如月も半ば。仕事の滞りに耐えかねて、とうとう親方が断を下す。まず、親方は一日を四つの帯に区切る。子の刻から寅の刻までは一の帯、寅の刻から午の刻までは二の帯、午の刻から戌の刻までは三の帯、戌の刻から子の刻までは四の帯と名付けられる。次いで、親方は組を三つに分ける。親方が直々に指揮する井隊、ゴウラが率いる炉隊、おれがまとめる羽隊の三つで、この三隊を交代に地下に潜らせ、一日のうちに岩を削らぬ時をなからしめるのが親方の構想というわけだ。

 もちろん、この構想は誰にとってもきつい。例えば、二の帯で働いた後の出番は翌日の一の帯になる。一の帯は草木さえ眠るといわれている真夜中で、当然、誰もが眠っている時間だ。また、一の帯の後は同じ日の四の帯に出なければならない。昼間休んで夜働くことになるから、大変な負担といえる。

 これだけ厳しい働きを求められるのはわが組にあっては異例中の異例だ。つまり、親方は前例のないほどの働きをみんなに望んでいるに等しい。それでも、みんなから不満の声は出てこない。なにがなんでも岩を削り抜くという目的が、みんなの気を奮い立たせているからだ。

 一人気の毒な男がいる。ジンはどの隊にも属さず、必要に応じていつでも魔法を使えるよう、常に地中に待機することになった。なんとも過酷な処遇ではある。だが、親方のやり方はうまいというしかない。組のみんなにはジンよりはまだ楽をしているという救いを与える措置だからだ。そして、おれの魔法が弱いばかりにみんなに迷惑をかけているとふさぎがちのジンに奮起を促す作用もある。

 実に、ジンは奮起する。表に出て陽を仰ぐこともなく、寝る間さえ惜しみ、岩に向かって魔法をかけ続けていく。組のみんなもジンの働きによく応え、おおいにのみをふるう。何本ののみを潰したことか、ようやく小さな一穴が岩を貫き通す。

 こうなれば後は早い。穴を中心にひびを入れ、楔を挟んで岩を削り落としていく。弥生も半ばの頃、岩には人が立ってすれ違えるほどの大穴が通っている。

 外はもう春の陽気だ。長かった冬もそろそろ終わろうとしている。おれたちの仕事もいよいよ大詰めだ。昨日の四の帯に岩は完全にくり抜いた。次に控えているのは玉石の層だ。つるはしを立てればぽろぽろとこぼれていくから随分と楽になる。

 午の刻、羽隊は集合をかけて、炉隊に交代を告げる。

「おおい、ゴウラ。午の刻を回ったぞ。交代しよう」

「ちょっと待っててくれや。これをぶち抜いたら代わってやらあ」

 どかんどかんと激しい音がする。常になく威勢のいい音だ。

「ジン、ゴウラたちはなにをやってるんだ」

 無精髭をたっぷりと蓄え、頬をげっそりと痩け落としたジンに訊く。

「壁が出てきたのさ」

「壁、だと」

「ああ。玉石の後ろに煉瓦の壁が出てきやがった。壁の向こうはどうやら空洞らしいってんで、大掛矢で打ち崩しているところさ」

 地下に煉瓦の壁とは異なことだ。どこかの建物の地下室が張り出しているという話ならば予め聞いているはずだし、なんのための壁だろう。もしかしたら、古の工作物の遺跡かもしれない。イェドゥア城の歴史は古い。何百年も前の職人が築き上げた壁が土に埋もれていてもおかしくはない。

「抜けたぞうっ」

 歓声があがる。壁が崩れたらしい。

「う。これは」

「まずい。これはまずいぞ」

 どうしたというのだろう。喜びの声が一斉に狼狽に変わる。

「おい、魔法使い。ちょっと来い」

 ジンが呼ばれて壁の向こうに入っていく。途端にジンは絶叫する。

「しまった。なんで今まで気づかなかったんだ」

 頭をかきむしる音が聞こえてくる。ジンは自分を責めているのだ。いったい、なにがあったというのだろう。

「ハリヤ、いるか」

 ゴウラの声だ。

「います。そっちに行きますか」

「いや、おまえさんらは入ってくるな。そのかわり、ナトラを呼んできてくれ。親方と内政府の役人もだ。急いで頼む」

 尋常ではない。ナトラと親方だけならまだしも、内政府の役人まで呼ばなければならないとはよほどのおおごとだ。隊の者数人を親方と内政府の許に走らせて、おれはナトラを呼びにいく。

 家にいたナトラとともに現場に向かう。立坑の入口には人だかりがしている。親方と内政府の役人は既に着いているらしい。

 立坑の梯子を下り、松明のほの暗い照明を頼りに、壁に手を触れながらおれとナトラは進む。くだんの岩に達した時、ナトラは目を丸くして驚いている。

「まあ。この岩、あんたたちが手こずったはずだわ」

「どういうことだ」

「だって、魔法がかかってるんだもの。それも相当に強い魔法よ。ふた月以上かけたとはいえ、よくぞくり抜けたものだと思うわ」

「そんな。魔法がかかっているなら、ジンが気づくはずだぞ」

「ジンの力は弱いからねえ。岩に魔法がかかっていることにさえ気づけなかったのかもしれない。この魔法、複雑にして巧妙かつ高級なものだから、そんじょそこらの魔法使いの手には負えないわ。最低でもわたしぐらいの力の持ち主でなければだめね」

「じゃあ、この魔法をかけたのは、もの凄く強い力を持っていたんだ」

「そういうこと。当時最高の魔法使いだったわ」

「当時、というと」

「六百年前、この城にエイヴァス一世という王が君臨していたわ。イェドゥア城の長い歴史の中でも、三大名君の一人に数えられる王よ。そのエイヴァス一世の最も忠良な部下にして最愛の妻だったのが、魔法使いトゥーツ。この岩に魔法をかけたのはトゥーツなのよ」

「なるほど。で、トゥーツはどんな魔法をかけたんだい」

「最愛の妻がかける魔法はいつの時代でも同じ。愛する夫を守護する魔法よ。トゥーツはこの岩をもって夫の永遠の眠りを守ろうとしたんだわ」

「すると、あの壁は」

「ゴウラがぶち抜いたのはエイヴァス一世の墓所の壁よ。今までエイヴァス一世の墓所の位置は謎だった。その謎が明らかにされたのよ」

 ナトラは興奮しているようだ。貴族は嫌いでも、歴史の中の人物には好感を抱いているらしい。おれはこの城の歴史をよくは知らないが、三大名君の一人と呼ばれるほどならば、民に喜ばれるよき王だったのだろう。

「魔法使いナトラ、ただ今参上致しました」

 一礼して煉瓦の壁を越える。煉瓦の向こうには落ち着きの空間が暗く広がっている。中にいた男たちがこちらを振り向いてくる。

「ナトラ様、お待ちしておりました。このような暗く忌まわしき場所にご足労を願う非礼、まずはお詫び申し上げます」

 親方と内政府の役人が膝まづく。

「忌まわしき場所ではありません。ここはエイヴァス一世の墓所なのです」

「なんと」

「エイヴァス一世様の墓所とは」

 驚きの声があがる。

「わしらは無断でこの墓所に足を踏み入れてしまいました。いくら民を愛する寛い心で知られるエイヴァス一世様とはいえ、わしらの無礼をお許しにはなりますまい。どうか、後の崇りがないよう、ナトラ様、お力添えを頂きたい」

 親方は深々と頭を下げてくる。ナトラは親方の手をとって言う。

「棺の蓋を開けて下さい。わたしがじかにエイヴァス一世と話してみます」

 墓所の真ん中に安置してある棺には錦が掛けられている。錦を取り外すと、出てきたのは石の棺。十人がかりで蓋を開けると、白骨になったエイヴァス一世が顔を出す。棺の中を覗き込んだナトラはおごそかに語る。

「いいお顔をしています。もはやこの世に未練はないというすがすがしいお顔です。この墓所の中にはエイヴァス一世の気配は一切感じられません。崇りを恐れる必要はないでしょう」

「そうですか」

「仮に、この墓所にエイヴァス一世の霊が残っていたとしても、心配することはないと思います。あなた方は墓所を荒らすために穴を穿ったわけではないのですから。エイヴァス一世の霊がここにあれば、こう言ったと思います。よくぞわが妻の魔法を破りて岩を貫いたものよ、そなたたちの働きは天晴である、と」

「ああ、そのように言われれば、われらの心も落ち着きまする」

 親方は改めて頭を下げてくる。

「待て。そんな小娘の言葉なんぞ信じてはならぬ。この墓所にはエイヴァス一世の怨念が満ちているぞよ」

 背筋に冷や水を浴びせるようなことを言いながら、一人の魔法使いが現われる。皺の中に顔があるような感じの老婆だ。どこで話を聞きつけてきたものか、おれたちが墓所をつきあてたことを知っている。

「なによ。わたしの見立てにけちをつける気なの」

 ナトラは噛みつきかねない勢いで老婆に食い下がる。老婆はナトラを鼻であしらい、みんなに向かって言う。

「崇りがあるかないかは、すぐに知れること。皆の者、感じはしないか。この部屋が揺れていることに」

 確かに揺れている。揺れは次第に大きくなり、やがて地鳴りを伴うようになる。激しく部屋は揺れ動く。みんな、泡を食っている。腰を抜かしたり、頭を抱えて床に伏せたり、崇りを恐れる色がはなはだしい。

「見よ。これがエイヴァス一世の崇りぞ。無断で墓所に立ち入りし不敬を恐れるがよい」

 老婆のおどろおどろしい叫びはみんなの恐怖を増幅する。おれはこの揺れが老婆の魔法によるものと気づく。悪どいばばあだ。ほとんど詐欺に近い。当然、ナトラもそうと察してはいるが、老婆の魔法を抑える術がないらしく、もの凄い顔をして老婆を睨むにとどまっている。

 みんなの恐怖が最高潮に達する頃を見計らい、老婆は叫ぶ。

「エイヴァス一世の霊よ、退け。暗き黄泉に戻りて、二度と現世を騒がすことなかれ」

 揺れがぴたりとやむ。みんな安堵の表情を浮かべている。涙を流して喜んでいる者さえある。おめでたいことだ。老婆の魔法にすっかり踊らされている。

「あなたは魔法使いズブヌ様とお見受けする。あなたの望みはなんであるか」

 親方も老婆の詐術を看破した一人であるらしい。いかにも忌々しげな口で老婆に問う。ズブヌなる魔法使いも親方の心根を読んで、無愛想に答える。

「わたしはエイヴァス一世の霊を退散させたんだよ。まあ、金一万も頂きたいもんだね」

「くれてやる」

 親方はズブヌに金を投げつける。

「じゃが、輝々組のことに首を突っ込むのは金輪際やめてもらおうか。あんないかがわしい魔法を使われてはいい迷惑じゃからな」

「ふん。わたしの方が、あんなひよっ子よりもよほど頼りになるってのに、なんて言い草かね。あのひよっ子にわたしと同じ力があれば、あんたはわたしに金を払わずにすんでるはずだよ」

「帰りな、くそばばあ」

「言われずとも帰ってやるよ、はげじじい」

 捨てぜりふを残してズブヌは去っていく。みんなは親方とズブヌのやりとりを不思議そうな顔で見守っている。事情がわかっているのはおれとナトラだけだ。ジンでさえ気づいてはいない。

「ちくしょう。あんな強欲ばばあの魔法を抑えられないなんて」

 ナトラは床を叩いて悔しがっている。



 親方と内政府の役人の相談の結果、墓所は埋め戻すことになる。イェドゥア城三大名君の一人の墓所に下水道を通すとはあまりにも畏れ多いというのがその理由だ。

 このふた月余りの苦労はなんだったというのだろう。みんなは冴えない顔で墓所の埋め戻しにとりかかる。特にジンの落ち込みようはひどい。墓所を守る魔法に全く気づかないまま、限界を越える力を消耗してきたのだ。がっかりするのも当然だろう。見かねた親方が休養を命じたほどだから、よほどの重症といえる。

 墓所の壁を元通りに直し、玉石を積み上げ、岩を穿った穴は土で塞ぐ。その後はナトラの出番だ。岩の穴に収まった土を前にして魔法をかける。

「土よ。その姿を変え、墓所を守りし岩と一体のものとなれ。また、今は亡きトゥーツの魔法に協力し、エイヴァス一世の墓所を永久に守護せよ」

 土がその像を揺るがせ、岩へと変化していく。再び像が姿を結ぶと、強固な一枚岩が目の前に出現している。トゥーツの守護にナトラの魔法が加わったのだ。のみを立てようとしても、のみの方が砕けてしまうだろう。

「これでいいのね」

「ああ」

 正直なところ、これでいいとは思っていない。だが、しかたないかなとも思う。内政府の役人によると、今のイェドゥア城主はエイヴァス一世とは全く血のつながりがないという。しかも、今の城主の人気は極めつけに悪いらしい。

 貴族という人種は奇妙な性癖を具有している。小心で、虚飾を好み、しかも嫉妬深い。城主となれば貴族の性癖を抽出しきった権化のようなものだろう。今の城主は過去の名君の墓所の発見を決して喜ぶまい。生身の城主よりも白骨と化した名君の方に人気が集まりでもしたら、墓所にどのような辱めが下されるかわかったものではない。

 そっとしておくにしかず、というところか。ナトラが言うように、エイヴァス一世がこの世に一切の未練を残していないなら、人目に触れないよう土に埋もれさせておくのが礼儀というものだろう。

 ナトラの魔法の完了を見て、親方が恭しく礼を捧げてくる。

「ナトラ様。二度に渡る魔法、ありがとうございました。これは、ささやかなものではありますが、われらからの謝礼でございます。どうか、お受け取り下され」

 ズブヌに対するものとは異なり、正当な謝礼だ。親方のことだから、ナトラの魔法をまっとうに評価し、その内容にふさわしいだけの金を包んだことだろう。

「ありがたく頂戴致します」

 ナトラもまた、恭しく包みを受け取る。親方はほっとしたようだ。喜色を浮かべてみんなの方を振り返る。

「皆の者、これでこの仕事も一段落ついた。五日、休みを与える。たっぷり休んで英気を養ってこい。五日の後、残る部分を埋め立てようぞ」

 仕事は遅れるが、当然な措置ではある。みんな疲れている。ジンの他にも病や怪我で休養している者が十二名も出ているのだ。仕事を継続することは、残る者の負担を増すばかりではなく、さらなる脱落者を生むことにもつながりかねない。五日の休みとは誰にとっても朗報だ。みんなは顔を見合わせて、喜びの言葉を交わしている。

 喜んだのは組のみんなだけではない。ナトラも大喜びだ。この仕事にとりかかって以来、おれとナトラが一緒にいる時間は実に少なかった。ゆっくり話ができるのも久しぶりになる。ナトラにとってもおれにとってもうれしいことだ。

 通りを歩きながら、ナトラは無邪気にはしゃいでいる。満面の笑顔だが、一筋の影が見えないこともない。ナトラはある思いを引きずり続けている。その思いが影となり、顔に現われているのだ。からっとした気性のナトラが引きずるほどのことだ。なにを思うかは容易にわかる。

 通りは人で溢れている。毎日のことながら賑やかなものだ。様々な顔の人が行き交い、ものを商う光景には、いつ見ても活気がある。

 様々な顔。しかし、出会いたくない顔もある。おれにとっては貴族や内警府の連中がそうだ。会ってしまえば、われを忘れて殴りかかってしまいそうな気がする。ナトラにも会いたくない顔はある。その顔といえば。

 あのばばあだ。とある辻で、おれたちはズブヌとばったり出会う。途端にナトラは身構える。その様子を見て、ズブヌは勝ち誇ったような鋭い笑顔を向けてくる。

「小娘が。ちゃちな魔法をふるって小遣い稼ぎかい」

 ズブヌの方がはるかに上手だ。一瞬のうちにナトラの心を読み取っている。挑発され、ナトラは逆上しかけている。

「この強欲ばばあめ。わたしはてめえなんかと違う。人をたぶらかして汚い金を手にするような真似なんかしないんだよ」

「青いことを言う。世の中、金が全てさ。金の前にひれ伏さない者なんかいないのさ」

「そんなこと、あるもんか」

「だから青いというのだ。確かめてみるかい」

 ズブヌは懐から錦の袋を取り出す。中には大量の金が入っているようだ。ズブヌは魔法で袋を小さく分割する。あっという間に、金は百ばかりの小袋に分けられる。さらに、ズブヌは袋に翼を与える。袋はひよひよと宙を舞い始める。

「者ども、見よ。この袋にはそれぞれ金百が入っておるぞ。それ、金百が掴み取りぞ」

 通りを歩く人々の目の色が変わる。われがちに手を差し伸ばし、届くか届かないかという高みを舞っている袋を得ようと必死になっている。なるほど、人は金で動くものなのかもしれない。とはいえ、わざわざ人の浅ましさを浮き彫りにすることもあるまい。趣味が悪すぎる。

 ナトラは人々の騒ぎを横目に、静かな声で言う。

「ばばあ。なにが楽しくてあんなことをする」

「おぬしのような生意気な小娘をへこませられれば、わしの心は晴れやかなものよ」

 ズブヌはナトラを見下すように言う。ナトラのまわりに風が集まってくる。ナトラは対決するつもりだ。ズブヌはナトラを煽るように傲然と言い放つ。

「さあ、なにをするつもりかな。おぬしの魔法には言葉が必要。そして、わしの魔法は心の中で念ずることによって作用する。おぬしが言葉を唱えた瞬間に、わしはその魔法を抑え込むことができるのだ。逆に、おぬしはわしの魔法を抑えることができぬ」

「くっ」

 ナトラは言葉に詰まっている。いかん。このままでは勝負の帰趨は明らかだ。おれはナトラとズブヌの間に割り込む。

「ハリヤ、止めないで」

「だめだ。無益な争いはよせ。残念だが、おまえはあのばばあに勝つことはできん」

「このわたしが、このわたしが」

 勝てないのだ。ナトラは目を涙で一杯にしておれの胸を叩く。ナトラの誇りは高い。それだけに、挫けた時の痛手は大きい。ナトラの胸の中は悔しさではちきれんばかりになっているはずだ。

 おれはナトラを離すと、ズブヌの前に平伏する。ズブヌは冷やかな声で問いかけてくる。

「小僧、なんのつもりか」

「魔法使いズブヌ様。どうか、これ以上、ナトラを怒らせるようなことをしないで下され。この通りでございます」

「ふん。金一万でも積んでみせるのか」

「わたしには金などございません。ただ、赤心をもって訴えるのみ」

「丁寧なことだ。面を上げよ」

 顔を上げると、べっという音とともに唾が降りかかってくる。おぞましい粘り気が頬を伝わり落ちる。後ろでナトラが魔法を唱えようとしているのが気配だけでわかる。

「やめろ、ナトラ。おれに委ねよ。わが礼を妨げるでない」

 気配がやむ。おれは改めてズブヌに平伏する。

「わがいいなずけのたび重なる無礼、ひらにご容赦願いたい」

「ふん。いい子いい子しやがって。ああ、胸が悪くなる」

 荒い足取りでズブヌは遠ざかっていく。ナトラは風のようにおれの許に駆け寄り、おれの頬を白布で拭ってくる。

「あのばばあ、許せない。ハリヤの顔に唾を吐きかけるなんて」

「よく、我慢したな」

「我慢する。我慢なんかできないけれど、我慢する。あんたが我慢しろと言ったから、我慢する。でも、なぜなの。あの強欲ばばあの仕打ち、我慢しなければいけないのはどうしてなの」

「おまえが怒っているのはわかる。悔しいのもわかる。だが、それを簡単に散じてはいけない。一時の怒りにわれを失うべきじゃない」

「どういうこと」

「怒りも悔しさも薬だと思って飲み込んでしまえ。怒りと悔しさを蓄え、醸すのだ。醸した思いを糧となし、力に変えよ。いつの日か必ずあのばばあを見返してみせろ」

 ナトラは目を丸くする。やがて、目に涙を浮かべながら小さくうなずく。それでいい。ナトラよ。いつまでもあんな強欲ばばあの風下に立っているな。もっともっと強くなれ。





次章に続く

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