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白い髪





 闇が次第に薄れていく。目の前にナトラの顔が浮かんでいる。

「ナトラ」

 呼びかけて、ナトラでないことを知る。バルクだ。バルクの真っ赤な目がおれを見つめている。起き上がろうと試みるが、体がいうことをきかない。おれの気配に気づいたバルクは慌てて押しとどめてくる。

「動かないで。あなたはほとんど死にかけていたのよ。わたしの魔法をもってしても、本復するまでには時間が要ります」

「ナトラは、ナトラはどうした」

「わたしの方が訊きたいくらいよ。妙な胸騒ぎがしたからきてみれば、ナトラはいない、あなたは瀕死。なにがなんだかわからなかったけど、とにかくあなたを救わなければと思って、魔法をかけ続けていたのよ」

 バルクは涙声だ。ひどいことを訊いてしまった。おれの方こそ、バルクに事情を話さなければならないのだ。

「今はいつだ」

「もうすぐ戌の刻ね」

 丸一日が経っているということか。

「ごめん、ごめん」

 扉の外から呼びかける声がする。バルクとおれは顔を見合わせる。

「バルク、まず、相手を確かめてくれ。そのうえで、どうするかを決めるから」

「わかったわ」

 扉を開けることなく、警戒の色も明らかに、バルクは相手の素性を問いただす。

「ジンとゴウラですって。どうする」

「中に入れてやってくれ」

 あの二人ならば信頼できる。ちょうどいい時に来てくれたものだ。

 息を抜いた瞬間に激痛がくる。おれの傷はそれだけ深い。バルクの魔法を受け続けなければ、命を保つことさえおぼつかない。たちどころに玉のような汗が浮かんでくる。バルクは大慌てで魔法を継続する。

 ジンとゴウラはおれの様子を見ておおいに驚く。なにしろ血だらけだ。おれの腹にかけられた布はたっぷりと血を吸い、毒々しいまでの色を呈している。床の上には黒く固まった血だまり。気が弱い者ならば失神してもおかしくない光景だ。

 頭ははっきりしているものの、口をきくにも痛みが走る。今のおれにはこれだけしか言えない。ジン、頼む、わかってくれ。

「すまない。おまえの忠告、生かせなかった」

「そうか。ハリヤ、まずは傷を癒しておけよ」

 ジンはなにが起こったかを把握してくれたようだ。ゴウラを誘い、風のように駆け出していく。おれとジンとは友と呼べる仲なのか、おれにもわからない。わかっているのは、ジンの行動にはおれに対する友誼が含まれているということだ。ジンめ。粋なことをしてくれる。

 バルクの魔法を受けながら、おれは傷を癒すべく、深い眠りに入っていく。



「おはよう。気がついたようね」

 目を開けたおれにバルクは優しく笑みかけてくる。頬が痩け、やつれきった面差しで。

「姉さん、ありがとう」

 おれにはわかる。おれが眠っている間中、バルクは魔法を送り続けてくれたのだ。おそらくは飲まず食わず、小休止さえとらなかったのだろう。バルクにしても命がけの行為だったはずだ。おれの言葉に、バルクは満足そうな笑みをたたえる。

「初めて姉さんと呼んでくれたわね。ああ、なにもかもが報われた心地よ」

 言いながら、がっくりと崩れ落ちる。

「姉さん、しっかり」

 おれは跳ね起きてバルクを支える。疲れをにじませ、バルクは細い声で言う。

「それだけの元気があれば、もう大丈夫ね。あなたの体はすっかり回復した。わたしはしばらく休むことにするわ。それにしても、あなたたちはたいしたものね。まずは外に出てごらんなさい。ナトラとあなたを慕う人たちが待ち受けているんだから」

 それだけ言うと、すやすやと寝息をたて始める。ナトラの寝台にバルクを寝かしつけ、おれは家の外に出る。

 びっくりせざるをえない。通りは人でぎっしりと埋まっている。内町のこの通りでは、秋祭りの時でさえ、さほどの人出は見られなかった。

「ハリヤが出てきたぞうっ」

 誰かの声を呼び水として、怒涛のような歓声がわき起こる。親方が五段の階段を駆け上がり、おれの横で拳を振り上げてくる。

「皆の者、聞け。城主のせがれの糞野郎はハリヤからナトラを奪い去った。この暴挙、許さずにおくべきか」

 地が唸るような響きが返ってくる。続いて、リルキが階段を登ってくる。

「ナトラとハリヤの仲は天の神々がお認めになったこと。わたしたちは、誰もが皆、二人の仲を羨ましいと思っていたものです。しかるに、城主のどら息子の為した行いはなんですか。神々に対する冒涜ではありませんか。わたしたち魔法使いは決して許しはしません。邪なる者どもに、必ずや罰を下してみせましょう」

 山が転がるような轟きが湧く。今度はハトウ老衛士の出番だ。老衛士は古の色もゆかしい甲冑に身を固め、人々の前に太刀をかざす。

「城主のばか息子の行いしことは、不埒千万、言語道断。天にも地にも奴の挙を許す者はなし。このハトウ、老骨の身を砕いてでもナトラを救い出さんことをここに誓う」

 海が裂けたかのようなざわめき。間髪を入れずに一人の男が幟を掲げ、前に出る。チュムイダ村の長、クオトーだ。

「ナトラ様は我がチュムイダ村の大恩人。今、ナトラ様は大きな災厄に見舞われておる。これを見過ごせば、我らは忘恩の徒。人の間におめおめと生きていられようか。なんとしてもナトラ様を救うのだ」

 空さえ割れるような大歓声。おれは猛烈に感動している。ナトラ、この城は見捨てたものではないぞ。見よ、この人波を。誰もがおまえを思って集まり慕ってきたのだぞ。色々な顔が見える。惣菜屋の女将もいる。赤鉢組のクンディッケもいる。赤ん坊を抱えたミクルも髭面のツクネも絵が上手なククムもいる。ゴウラ以下、輝々組の面々が勢揃いしている。セイミとリオゴをはじめとするチュムイダ村の人々が並んでいる。大根を売ってくれた露店のおばちゃんの顔まで見える。おれには言葉もない。ただうれしくて、ぼうぜんと立ちすくんでいる。

「おい、ハリヤ、なんとか言ってやれよ」

 ジンがおれの裾を引っ張る。おれが咳払いをすると、大群衆は水を打ったように静かになる。たくさんの耳がおれの言葉を待っている。

「みんな、ありがとう」

 それだけを言うのが精一杯だ。なにを言おうにも、涙が邪魔をして言葉にならない。その後の光景に、おれは目を疑う。見渡す限り全ての人々が涙を流している。おれの涙に誘われたのか、連れ去られたナトラの身を思ってのことか。涙は通りにこぼれ、川となって流れていく。



 涙だけでは埓があかないと踏んだのか、ジンは主だった者のみを集めてこれからの対策を練ることを提唱する。皆に異論はない。親方、リルキ、ハトウ老衛士、クオトーなどの顔ぶれが広間に並ぶ。初めに、ジンがこれまでの経緯を説明する。

「どら息子がズブヌを買収してこの家を襲ったのは昨日の未明だ。ナトラはさらわれ、ハリヤは深手を負った。ナトラは今、禁苑に閉じこめられている。場所は、ここ」

 禁苑の地図を広げ、ジンは指先をつく。禁苑の中心に近い、小さな建物のようだ。

「ズブヌの魔法によって、ナトラは力を奪われている。配下の者にナトラへの接触を試みさせてみたが、だめだった。三十人ほどの兵が常時警護しているため、とても近づけなかったようだ」

「そんな三十人よりも全体を見るべきであろう。禁苑内には千人ほどの兵が常駐しておる。千人とことを構えるのは案外面倒なものであるぞ」

 とはハトウ老衛士の弁だ。それを受けて、ジンは高らかに笑ってみせる。

「将軍とは思えぬ弱気ですな。千人の兵などものの数ではありませんぞ。こちらにはこれだけの数の人がいる。配下の者一人を忍ばせるのとは、わけが違う」

 陶然とした顔、将軍という呼びかけ方。ジンめ。はなから狙ってやがったな。たまらず、おれは叫んでいる。

「ジン、待てよ。おれはナトラを救い出せればそれでいい。兵をやっつけることよりも、ナトラを救う知恵と力を貸してほしいんだ」

「おまえ、正気か。俺たちには数の力がついている。なにをするのも思いのままなんだぞ」

 ジンが目を丸くして迫ってくる。

「よしときなさいよ」

 リルキがとぼけた声でジンを制する。

「ナトラはね、あんな目に遭わされた以上、貴族どもを皆殺しにしてもおさまらないくらい乱暴な娘なんだからね。ハリヤのようなのんびり者でもなければ、ナトラのいいなずけなんて務まるものじゃないわ」

「違えねえ」

 親方の合いの手に、みんなはどっと笑う。そうだ。おれはのんびり者だ。のんびり者には田舎の風がなつかしい。帰ろう。ナトラとともに村に帰ろう。

 おれの気持ちを受けて、ハトウ老衛士が作戦を立案する。まず、夜になるのを待って、ここに集まってきた者全てを引き連れ、禁苑の正門に押しかけ、気勢をあげる。禁苑の守護兵の注意が正門に釘づけになっている隙に、おれとバルクのみで禁苑内にもぐり込み、ナトラを救い出すというものだ。単純な手ではあるが、貴族どもには見破れないと老衛士は断言する。

 うまくいくだろう。なんといっても、戦うことを前提にしないところがいい。もっとも、おれがナトラを救い出した後のことまでは知らない。貴族を打倒しようが、なにをしようが、それは城の人々が選べばいいことだ。ジンの言う通り、あれだけの数がいれば、なにをするのも思いのままなのだから。

 陽が沈み、城内は夜空に覆われる。人波がぞろぞろと動き出す。人数がべらぼうに多いだけに歩みは遅い。人々はナトラ様を救えと唱和しながら、ゆっくりと通りを進んでいく。内警府の兵が制止しようとしているが、これだけの人の圧力を抑え切れるものではない。人々は兵に叱咤を加えながら禁苑を目指す。兵たちはなす術もなく人の流れを見送っている。中には内警府の制服をかなぐり捨てて人の波に加わる兵の群れさえある。時の趨勢はもはや自明だ。

 家の前の通りがすいてきたのは子の刻を回ってのことだ。人波の先頭は既に禁苑に辿り着いているはずだ。そちらの方はハトウ老衛士、否、ハトウ将軍に全てを任せてある。百戦錬磨の将軍のことだ。人々の士気を高めつつ、禁苑の兵をあしらいながら、おれがナトラを救い出すまでの時を稼いでくれることだろう。

 おれは身軽な服をまとって碧炎を背中に負う。バルクも闘いの装束に身を包んでいる。見送りに残ったのはジンとリルキ、魔法使いの二人だ。リルキは水晶の数珠をバルクに手渡す。

「この数珠には城内に住む魔法使い二百三十四人の力が籠められています。おそらく、ズブヌのくそばばあはナトラのまわりに障壁を張っていることでしょう。その障壁を破る時、この数珠を使って下さい。きっと、力になると思います」

「ありがとう。このこと、ナトラに必ず伝えます」

 バルクは両手で数珠を押し頂く。続いて、ジンがおれの前に立つ。ジン、腹の底が知れない男よ。おれはいささかの敵意を持たずにはいられない。ジンもまた、不遜な目でおれを見据える。苦みをこめておれは言う。

「なにもかも見越していやがったな」

「今頃気づいたか。おれの血統は予知の魔法だけが強い。だからこそ、貴族になることもできたのだ。今日あることは、おまえと初めて会った時からわかっていた」

「おまえにくれたいものがある。受け取ってくれるか」

「おれもおまえに餞別がある。快く受け取ってくれ」

 おれの拳とジンの拳はすれ違い、互いの腹に食い込む。たいして力を入れていたわけではない。ほんの少し、痛みを与えあっただけのことだ。おれとジンは笑みを交わす。

「おれはこのイェドゥア城をまるごと頂く」

「おれはナトラを救う。それだけで充分だ」

「冗談じゃない。なにが、それだけで充分、だ。とぼけたふりして強欲な奴め。おれはおまえが憎くてたまらない。この城よりも価値ある女を手に入れて、それ以上なにを求めるというのか」

 ジンの声は涙の湿り気を帯びながら、かろうじて笑顔を保っている。

「さあ、姉さん、行こう」

「ええ」

 おれとバルクは夜の街に飛び出す。後ろではジンが大声で叫んでいる。

「ハリヤ、元気でな。ナトラを大事にしろようっ」

 禁苑の正門では人々と兵の小競り合いが続いているようだ。時折、ハトウ将軍の怒鳴り声が風に乗って流れてくる。おれたちは禁苑の壁際を走る。

「姉さん、壁の向こうの様子はわかるかい」

「待って」

 バルクは言葉を唱えて禁苑の内部を窺う。

「誰もいないわ。このあたりがちょうどいいんじゃないかしら」

「よし」

 おれは碧炎を抜いて壁に突き立てる。豆腐ほどの手応えもない。壁には一間四方の穴があく。見咎める者はない。おれとバルクは闇を縫うように進んでいく。

 あっけないほど簡単にナトラが閉じこめられている建物に到達する。警護の兵の姿は見えない。どうやら、全兵力が正門前に集められているらしい。ハトウ将軍の作戦はずばりと的中したのだ。

 建物の中に入る。部屋の数は多いが、おれにはわかる。ナトラは二階のあの部屋にいる。おれは階段を駆け登り、扉を開ける。月の光に照らされて、部屋の中はほんのりと明るい。細い影が寝台の上に横たわっている。急いで近づこうとするおれをバルクが制する。

「慌てないで。あの寝台のまわりにはズブヌが設けた障壁がある。このまま進めば死ぬわよ」

「おれに見えないということは、魔法の力か」

「そういうこと。かなり強力な代物だわ。わたしたちの魔法が通用すればいいのだけど」

 バルクは懐から数珠を取り出し、言葉を唱える。

「水晶の数珠よ。イェドゥア城に住む全ての魔法使いの力が秘められし数珠よ。魔法使いズブヌの悪しき力を解除せよ」

 バルクは数珠を投げつける。数珠は見えない壁にぶつかって止まり、七色の光を発し始める。やがて、光はやみ、数珠は落ちる。水晶はことごとく真っ黒に染まっている。

「姉さん、これは」

「成功よ。障壁は破れた。さあ、ナトラを起こしてきなさい」

 おれは寝台に近づき、小声でささやく。

「ナトラ、ナトラ」

 木を彫ったようなうつろな顔がおれを振り向く。ナトラの瞳におれの姿が映る。ぽうっと一点、頬に朱が差す。朝陽が登るように、朱が広がっていく。

「ああ、これは夢なの」

「夢じゃない。おれは生きている」

「ハリヤっ」

 ナトラはおれの胸に飛び込んでくる。おれはナトラを抱きしめる。ナトラの温もり、ナトラの息づかい、ナトラの鼓動。おれは生きている。おれたちは生きている。

 よく見ると、ナトラの髪の色は雪のように白い。おれは深い思いに包まれる。ナトラ、そんなになるまでおれを思ってくれたのか。

「わたしの障壁を破ったのはどこのばかだい。お仕置してやるから姿をお見せ」

 強欲ばばあの声がする。ばばあに魔法を使わせては勝てない。おれは振り向きざまに跳躍し、碧炎をズブヌにふるう。とっさのことにズブヌは魔法を使うことができない。だが、おれの狙いも粗く、急所は外してしまった。碧炎はズブヌの肩を貫いている。

「小僧、おぬしは不死身か」

 ズブヌは動転している。おれは力強く言い放ってみせる。

「ナトラを守るためなら、何度でも生き返ってやるさ」

「おのれ」

 碧炎から燃え広がる炎をズブヌは魔法で食い止めようとする。笑止なあがきだ。強欲ばばあよ、勝負はもう終わっているのだぞ。

「おれの刀にかまけていてもいいのかな。ナトラの障壁は破れているのに、のんきなものだ」

「あっ」

 気づいたところで、もう遅い。おれに注意を向けていればナトラの魔法にやられるし、ナトラに集中すれば碧炎の炎に包まれる。強欲ばばあの負けは既に決定づけられている。

「炎よ。矢となりて強欲ばばあの身を貫け」

 ナトラの言葉と同時に炎の矢が飛んでくる。ズブヌは何本かの矢を払ってみせるが、滝のように注いでくるナトラの矢を防ぎきることはできない。ズブヌは八間ほども飛ばされ、壁に四肢を縫いつけられる。ナトラは容赦しない。天井を崩してズブヌの体に叩きつける。ぼぎぼぎと鈍い音がする。全身の骨が粉々に砕けたようだ。

「お願いだぁ。許しておくれぇ」

 あきれたしぶとさだ。ズブヌめ、命まで強欲に保とうとしている。おれはズブヌに近寄る。床には金が散らばっている。ズブヌの懐から転がり出たもののようだ。

「小僧、頼むぅ、許してくれぇ。わしに悪気はなかったのだよ。ほれ、金ならやる。そこにある金をかき集めれば、相当なものになるぞえ」

 愚かなことを言う。命乞いをするくらいなら、あんな真似などしなければいいのだ。おれの命を奪おうとした行い、断じて忘れはしない。忘れるものか。

 おれは床の金を集める。それを見てズブヌは頬を緩める。どこまでも愚かなばばあだ。おれが金に目が眩むとでも思っていたか。おれはばばあの顎を外し、口の中に金を突っ込む。たっぷりと賞味するがいい。散々好んだ金の味ではないか。

「さあ、ナトラ。後は任せた。存分に思いを遂げるがいい」

 おれはナトラの肩を叩く。ナトラは小さくうなずき、魔法の言葉を唱え始める。

「雷よ、炎よ、光よ。この世の全ての輝けるものよ。集まれ。集まるのだ。わがてのひらの上に集まるのだ」

 ナトラのてのひらに輝きが宿る。輝きは玉となり、さらにその光彩を強めていく。

「集まれ。集まれ。凝縮せよ。力を蓄えるのだ。蓄えに蓄えて、弾けるために」

 ズブヌは必死の抵抗を試みている。だが、ナトラのてのひらの光は弱まらない。今のナトラの力は絶大だ。もう、誰にも抑えることはできまい。

「輝けるものよ。わが悲しみとハリヤの痛みを知れ。邪なる魔法使いに思い知らしめるために」

 輝く玉はナトラの手を離れ、宙に浮く。玉は少しずつ膨張していく。ズブヌは涙を流しながらなにごとかを訴えようとしている。おれたちに聞く耳はない。さあ、おれたちに為した行いへの報いを受け取ってもらおう。

「輝ける玉よ。魔法使いズブヌの身を滅ぼせ」

 玉は弾け、白熱する。キッツァの最期の方がまだましだったろう。ズブヌは一切の痕跡を残すことさえ許されず、周囲の壁もろともに蒸発する。

 たいしたものだ。これだけの魔法を使いながら、ナトラの呼吸は常に近い。魔法使いの一人として、バルクは目をまん丸にして驚いている。

「凄いわねえ。あんな大技を軽々とやってのけるのだから」

「ハリヤのおかげよ。ハリヤに会えた喜びが、わたしに力を与えてくれた」

 ナトラは桃色に頬を染めておれを見る。

「わたしはハリヤのためにこの命を捧げる。ハリヤはわたしを命がけで守ってくれた。ハリヤは死の淵から舞い戻ってきてくれた。そして、ばば様の封印をも解いてしまった」

 気づかなかった。おれはいつアルジュばあさんの封印を解いていたのだろう。そうか、あの時だ。どら息子に腹を刺され、ナトラに愛しいと言った時だ。

「どうしよう。わたしの封印も解けてしまっているのよ」

 ナトラは真っ赤になっている。おれはナトラの手を取って語りかける。

「ナトラ。結婚しよう。おれと一緒に村に帰ろう」

「はい」

 こくとナトラはうなずく。

「さ、そうと決まれば、いつまでもこんな所にいるものではないわ。早いところこの忌まわしき地を脱け出しましょう」

 バルクに促され、おれとナトラは外に出る。建物の中での闘いの様子は外に漏れていたようだ。兵が建物をぐるりと取り囲んでいる。どら息子が兵を指図して突入の準備をしている。

「き、貴様は」

 おれの姿を認めてどら息子はのけぞっている。問答は無用だ。おれは碧炎を抜き、どら息子に斬りつける。どら息子の体は真っ二つに割れ、炎に包まれながら倒れる。

「聞け。おれたちは魔法使いズブヌを滅ぼし、城主のどら息子を討ち果たした。これ以上の抵抗は無益ぞ。死にたい者は前に出よ。死にたくない者は禁苑より立ち去れ」

 大声で怒鳴りながら、おれは兵を見渡す。兵たちは震え上がり、われさきに逃げ出していく。兵に見捨てられては禁苑も終わりだ。

「ナトラ、頼む」

「わかったわ」

 おれの意志は確実にナトラに伝わっている。両手を天にかざし、ナトラは鋭く呼びかける。

「鳳よ。来たりてわれらを天に導け」

 黎明の空に鳳がその巨大な姿を現わす。鳳は暴風を巻き起こしながら地に降り立つ。禁苑内の建物は風を受けて次々と崩壊していく。貴族どもの支配の象徴は、今まさに潰えようとしている。イェドゥア城に新しい朝の風が吹く。

 おれたちは鳳の背に乗る。ナトラは高らかと鳳に呼びかける。

「鳳よ。飛べ。そして、われらの新天地を目指せ」

 鳳は朝焼けの空に向かって飛び上がる。下を見れば、ハトウ将軍を先頭として人々が禁苑内に押し寄せていくところだ。おれたちの姿に気づいた人たちが手を振っている。ナトラは鳳を二度三度と旋回させ、長く白い髪を東雲の風にたなびかせる。ナトラなりに別れの挨拶を告げているつもりなのだろう。

 鳳は高みを増していく。城が小さくなっていく。雲海から姿を見せ始めた太陽を背にして鳳は飛ぶ。朝陽を受けてナトラの白い髪が映える。雲が綿のように流れていく。心地よい眺めだ。

 不意に鳳の身が傾く。鳳は羽ばたくことをやめ、ふらふらと地に舞い降りていく。

「ナトラ、しっかり」

 バルクの叫びにナトラは応えることもできない。鳳は力を失い、地に落ちる。おれたちは地面に放り出される。鳳の姿は薄れ、かき消えていく。なにが起こったというのだ。おれはナトラの姿を求める。ナトラはほど近い草むらの中に倒れている。

「ナトラ、ハリヤ、聞こえたら返事して」

 バルクもおれたちを探している。

「姉さん、ここだよ。おれもナトラもここにいる」

 丈の高い草をものともせず、バルクはすぐにやってくる。バルクはナトラの顔を見ると、胸に手をあてて息をついている。

「姉さん。ナトラはどうしたっていうんだ」

「この髪を見ればわかるでしょう。ナトラはあなたのことを思い続けて気を張り詰めていたのよ。あなたと再会して、無事に城を脱け出すこともできて、気が抜けてしまったみたいね。大丈夫。すぐに元気になるから」

「そうか。よかった」

「あなたはナトラの傍らにいなさい。わたしは人里を探して食べ物でも手に入れてくるから」

「姉さん、そういうことはおれが」

「いいから」

 バルクはおれの鼻を小突いてくる。

「今のナトラはね、あなたの気配を感じることが一番の良薬なんだよ。一緒にいてあげなさい」

「はい」

 うなずくしかない。おれの返事に満足して、バルクは人里を探しに出かける。

 ナトラはおれの腕の中で安らかな顔で眠っている。髪の色が真っ白だ。アールア川の奔流からチュムイダ村を守った時でさえ、闇の者と化したキッツァと闘い抜いた時でさえ、一房たりとも褪せることのなかったみどりの黒髪が、輝く新雪のように白くなっている。おれはナトラの頭を抱き、赤子のように泣きむせぶ。

 ナトラよ。わが愛しき魔法使いよ。よかった。生きて、再び会えて、よかった。

 ほんとうに、よかった。



 陽が少しずつ西に傾いていく。冬の陽射しを浴びながら、ナトラはゆっくりと元気を取り戻す。妹の回復を見届けて、バルクは出発の準備を始める。

「ねえ様、行ってしまわれるの」

 ナトラは名残惜しそうだ。バルクは背に負った荷を降ろしたようなすがすがしい顔でナトラに応える。

「ええ。わたしの役目は果たせましたから」

「役目、ですって。どういうこと」

「あなたの兄と姉の得意な魔法を言ってごらんなさい」

「にい様は予知の魔法、ねえ様は病と傷を癒す魔法に長じています」

「あなたのにい様は言いました。バルクよ、イェドゥア城に向かいてナトラの愛を結ぶ手助けをせよ。ただし、ナトラと居を同じくしてはならぬ、とね」

「あっ」

「冷たいだのなんだの文句を言われながら、わたしが宿をとって、おまえの家に泊まらなかったのは、なんのためだと思っていたのですか」

「ごめんなさい。わたし、ねえ様を見損なっていました」

「謝ることはありません。魔法は全てなかだちです。あなたはハリヤとの間に強固な絆をつなぐことができました。わたしはその手助けをしただけのことにすぎません。思いあい、愛しあったのは、ほかならぬあなたたちなのですから」

「ねえ様」

「あなたはいつまで経ってもわたしたちのかわいい妹なのですよ。いつの日か、そうね、甥っ子か姪っ子が生まれたら、西に帰っていらっしゃい。とう様もかあ様もきっと喜ぶわ」

「はい」

 ナトラの肩に手を置いて、バルクはおれの方を振り向く。

「ハリヤ。ナトラのことを頼むわよ。幸せにね」

「ありがとうございます」

 頭を上げた時には、バルクの姿は森の中へと消えている。空には一番星が輝いている。おれとナトラは枯れた大木のうろに身を移す。落葉がふさふさと積み重なり、一夜を過ごすにちょうどよい場所だ。枯木は芯が朽ち果て、見上げてみれば群青がかった空が丸く区切られている。おれは枯葉の上に大の字になる。布団のような寝心地だ。ナトラもおれの隣に身を寄せてくる。

 目は冴えている。昼間ゆっくり休んでいるから、眠ろうという気にはならない。おれは少しく身を起こす。ナトラの顔は星の光におぼろに照らされている。

 熱い血が猛烈な勢いで全身を駆け巡っている。まさに、心の鎖はかけられるべきだったのだ。かけなければ、この血のたぎりを抑えることができずに、おれたちは簡単に燃え尽きていたことだろう。

「蓄え、醸すのだ。醸した思いを糧となし、力に変えよ」

 前にナトラを諭した言葉だ。だが、ほんとうにおれの口から出てきた言葉なのか。それ以前に、ナトラから教わっていたような気がしてならない。

「ナトラ。おまえは凄いよ。ほんとうに凄い」

 おれはナトラの頬に手を差し伸べる。

「そんなこと、言わないで」

 ナトラはおれの口に指をあてる。

「あんたがいなければ、わたしはただの荒くれ魔法使い。わたしがいなければ、あんたは篤実なだけのお人好し。でも、わたしたちは互いに育み、互いに高めあってきたのよ。ひとりではなにもできないわたしたちだというのにね」

 ナトラの頬を水晶玉のような涙が転がっていく。

「あは。おかしいわね。うれしくてうれしくてたまらないはずなのに、涙が出ちゃう」

 おれはナトラの涙にそうっと触れる。涙の珠はやわらかくはじけ、金色に輝く霧となる。炭火のような温もりが、しずしずとうろに満ちてくる。

 ナトラはおれの目を見つめてくる。おれはナトラの瞳を見る。ナトラの瞳にはおれの姿だけが映り、おれの目にはナトラの姿しかない。時は十二分に満たされたようだ。

「ナトラ。実は、おれも魔法が使えるんだ」

「あら、意外。どんな魔法が使えるの」

 ナトラはにこやかに首を傾げる。

「目をつぶってくれないか」

 ナトラはうっすらと目をつぶる。おれも目を閉じ、顔を近づける。唇どうしが触れあった瞬間、雷に打たれたかのような痺れに襲われる。快い酩酊が体の中に広がっていく。

「素敵な魔法ね」

 ナトラはうっとりとした目をしてさらに身を近づけてくる。おれはナトラの胸に手を触れる。柔らかな膨らみが手の中で弾む。おれは無我夢中でナトラの胸を撫でている。

「ハリヤ、服を脱がしてちょうだい」

 息を弾ませながらナトラは言う。おれは戸惑わざるをえない。

「え。いいのか、そんなことをして」

「いいのよ。わたしたちのこれからには必要なことだわ」

 器用さにかけては輝々組で一番だったおれだが、どうにも勝手が違う。ぎくしゃくした手つきでナトラの服を脱がす。白い肌が星の光にさらされて、こぢんまりした膨らみが浮かぶ。おれは小さな驚きと喜びを見つける。ナトラのうなじにはあの首飾りが巻きついている。

「まだ身につけていてくれたんだ」

「約束したでしょ。これ、一生肌身から離さないって」

 ナトラは一生に力を置く。そうだ。おれたちは一生離れることはない。

「でも、今ばかりは、ちょっと邪魔ね」

 首飾りを外すと、ナトラはおれの服を脱がしてくる。おれとナトラは一糸まとわぬ姿で向かいあう。おれはナトラを抱きしめる。

 胸が高鳴り、体の奥に刻み込まれた記憶が次第にかたちをなしてくる。なるほど。確かに、後のことは神様の言う通りにすればよさそうだ。





次章に続く

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