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第2部  経済の呪縛

 

■経済の呪縛

 そうはいっても、社会は経済を基として動いている。経済指標をもって価値基準となすのは、争えない約束事である。豊かな山であるはずのこの地が、経済指標で劣位であるというのは、この豊かさが金銭に換算しにくいことにほかならない。いくら豊かであろうとも、それを「買って」もらえない限り、金銭に換算することはできない。経済指標の限界、といえる。

 この地の豊かさが世の人々に好まれているならば、多くの人数が集まり、豊かさを金銭にて購っていくだろう。しかし、この地に人影は少なかった。

 そもそも人口が少ない、ということもある。しかし、通り過ぎていく人もまた少ない。国道を往く交通量は、連休中とは思えないほどまばらだった。秋田内陸縦貫鉄道の列車を3本ほど見送ったが、車内の人影は薄かった。比立内駅は、列車がない時間帯だったとはいえ、森として閑かだった。

 
写真−5・6 比立内駅にて

 経済指標の一部は、人数と原単位の積として表現される。人が同じだけ費うのであれば、人数が多い方が経済的には相対優位ということになる。都会が成立する由縁はそこにある。いわゆる集積のメリットである。集積が経済的優位を喚起し、それが魅力となってさらに人が集まり、と経済成長の連鎖が続いていく。日本の爆発的な高度経済成長は、大都市圏に人口が集まり、あるいは集まるよう政策的に誘導し、集積のメリットを最大限活用したことにより実現したともいえる。

 経済成長により豊かにはなったが、なにか置き忘れてきてしまった、とはよくいわれる回顧である。では、置き忘れてきたものとはなにか。精神論を措くとすれば、それは多様な選択であろう。

 集積は社会活動を効率化し、経済成長を促す。しかしそれはもう一方で、規格化・画一化・没個性化をも導いてしまう。先に既に記した。都会では選択の余地が意外に乏しい。衣食住のあらゆる面において、一個人が選択しうる範囲は悲しくなるほど狭い。表面的なバリエーションは確かに豊富かもしれないが、そのベースとなるプラットフォームはごく少数のグループに統一されている。都会での選択とは、それら少数グループのうちどれを選ぶかにほかならない。

 以上記した経済の必然は、実のところ日本をあまねく覆いつつある。比立内といえどもその弊から逃れられるかといえば、必ずしもそうとは断言できない。それでもこの地には、人間の根源に則した生活の営みがある。自らの感覚で選り採ってきたものを食する。これほど贅沢な選択があるだろうか。そして、この豊かさはほんの数十年前までは全国各所に存在していたのである。

 ところが、経済指標はかような豊かさに目配りするものではない。人数、生産、売上、費用。経済的優劣は数値化できるものでしか定められない。社会が経済活動を行っている限り、経済指標に基づく価値判断から逃れることなどできはしない。とはいえ、それだけに目を塞がれたままでいいのだろうか。

 この地に人影が少ないのは確かである。だからといって、この地が恵まれないわけではない。むしろ、この地の佳さを認め訪れる者の少なさをこそ、憂うべきであろう。都会に住む者は、経済指標に律せられ、人間生活の根源を忘却してしまったのではあるまいか。

 

■明くる日

 次の日の旅程は、田沢湖・角館・小岩井牧場を巡り、盛岡でわんこ蕎麦を食し、帰途に就いた。この中で感心したのは、角館だけだった。街の風格、歴史の重み。こればかりは現地を歩いてみないことには味わえない。時間を割いただけの価値はあった。

 ところが田沢湖は、ただの湖にすぎない。十和田湖とどこが違ったか、と尋ねられても返答に窮してしまうほど、印象が薄い。小岩井牧場は、製品を売ろうとする意欲と熱意が前面に出すぎており、あざとさを強く感じざるをえなかった。房総半島のマザー牧場では、飼育している様々な動物に触れることができるし、催しやアトラクションも多い。こちらの方がよほど気がきいている、というのが偽らざる感想である。わんこ蕎麦は、流しこむのが精一杯で、旨味を感じるどころではなかった。うまい蕎麦を食するならば、信越など佳い地はいくらでもある。

 かような観光地でも、あまたの観光客が集まるのである。連休中とあって、どこも途方もない混雑ぶりであった。その価値基準はいったいどこにあるというのか。比立内は角館・田沢湖の目と鼻の先である。この豊かな地に観光客の訪問が少ないのはなぜか。

 ちなみに、田沢湖への途上、上桧木内駅に立ち寄ってみた。見事なまでに誰もいない、閑散とした駅だった。列車交換が可能な駅で、構えは相応に闊い。それゆえに、かえって空虚さが際立っていた。いうまでもなく、上桧木内駅は観光地ではない。観光客がいないのは、当然すぎるほど当然ではある。さりながら、ほんの少し先の田沢湖では大賑わいだというのに、対蹠的なこの寂けさ、この巨大なギャップをどのように理解すればよいものか。観光客は、確かに大勢いる。だが、ここまで足を運ぶことは決してないのだ。


写真−7 上桧木内駅にて

 上桧木内もそうだが、比立内の豊かさ佳さは正当に認められていない。しかしそれ以上に憂うべきは、この地の豊かさ佳さに気づかない、観光客の晦さと鈍さである。考えようによっては、こちらの方がよほど不幸である。観光ガイドに載らないから、パッケージ・ツアーに含まれないから。そんな単純なことが基で選択の範囲をやすやすと狭めてしまう。観光ガイドやパッケージ・ツアーを編む者の判断に、全てを委ねてしまう。これこそ経済活動の真髄、といってしまえばそれだけのこと。裏返してみれば、人間生活に奥深く食いこむ病理でもある。

 「置き忘れてきたもの」とは、実は上記のようなことを表現したのではないか。

 

■秋田内陸縦貫鉄道

 秋田内陸縦貫鉄道は、比立内はじめ、豊かではあるが経済指標では高く評価されない地を結んでいる。旧国鉄の阿仁合線(鷹巣−比立内間:46.0km)と角館線(松葉−角館間:19.2km)をあわせ、かつ建設途上だった鷹角線(比立内−松葉間:29.0km)をも継承し、全長94.2kmにも及ぶ長大な路線を構成した。

 その秋田内陸縦貫鉄道、営業成績はまったく振るわない。輸送密度は全通後も低水準で推移している。材木など、過去には相応の需要があった貨物輸送も、今では絶えて久しい。客観的に見て、鉄道を維持するには無理があるほどの状況である。


図−1 秋田内陸縦貫鉄道の輸送密度の推移

 しかし、秋田内陸縦貫鉄道が諦める気配はまったくない。沿線自治体は、自らの責任において、この鉄道を守る道を選んだ。経済合理性からは説明しかねる選択である。しかし、豊かな山を擁する人々は、鉄道を守ることになんらかの価値を認めたのであろう。

 経済合理性から逸脱する選択とはいえ、第三者が嗤うことなど許されはしない。この地の豊かさ佳さを正当に認めていないのは、ほかならぬその経済合理性なのだから。だからこそ、地元自治体の選択は尊重されなければならない。

 豊かな山に人影少なき。そんな地を踏み、秋田内陸縦貫鉄道の列車は往く。

 
写真−8・9 比立内−奧阿仁間にて

 

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