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そのⅡ   H.Kuma説否定論





1.東上鉄道

 東武鉄道東上線の前身たる、東上鉄道池袋−川越−田面沢間の開業は大正 3(1914)年 5月 1日のことである。その 2年後の大正 5(1916)年10月27日に川越−坂戸間が開業、参考文献(5) によれば同年11月 2日に川越−田面沢間が免許失効、正史によれば同区間は廃止となっている。詳細に差異はあるものの、田面沢駅がこの時をもって消滅したことは確実である。東上鉄道は大正 9(1920)年に東武鉄道に合併され、大正14(1925)年までに寄居まで全通している。

東上鉄道
上州をめざす東上鉄道(イメージ)

 否、現在の路線網に照らす限りの全通であって、実際のところは計画意図の半ばで挫折した中途半端な路線にとどまってしまったのである。東上の上とは「上州」の上。壮大な構想を蔵していたにもかかわらず、東武鉄道東上線(以下東上鉄道で統一する)は上州のはるか手前で止まってしまった。のち昭和 6(1931)年八王子−東飯能間と児玉−倉賀野間の開業を皮切りとして、昭和 9(1934)年小川町−寄居間の開業をもって全通した八高線と競合するため、それ以上の延伸がかなわなかったといわれている。

 そのため、東上鉄道は地域間を結ぶ幹線鉄道というよりもむしろ、埼玉県内のローカルな鉄道となり、後年には首都圏への通勤輸送を担う大動脈へと変貌した。今日の盛況からすれば、東上鉄道に廃止された駅・区間があるとはにわかに信じがたいところであろう。現地に痕跡らしきものは見当たらず、しかも文献の記述必ずしも詳細ならずで、田面沢駅の存在は小さな謎として知られるようになった。





2.田面沢駅の謎

 筆者の恩人たるH.Kuma様は、先年夏に、田面沢駅があった場所について興味深い仮説を提起された。東上鉄道の当初計画は川越−小坂−松山を結ぶものであった事実を踏まえ、田面沢駅を現在の川越橋東詰付近に想定したのである。記事本文とあわせ以下に参照してみよう。


謎の田面沢駅と入間川橋梁(参考文献(3) より引用)

 東上鉄道の川越から先は、当初は坂戸へは向かわずに東松山へ直進する計画だったというのだ。 調べてみると確かに当初の東上鉄道の計画では経由地が川越、小坂、松山となっており、現在の不自然に屈曲した経路とは違っている。 田面沢開通時点で既に坂戸を経由する事は決定済だったようだが、当初の計画が何らかの要因によりまだ尾を引いていて、とりあえず直進するルート上に田面沢駅までは一旦作ろう何ていう話でもあったかも知れない。 そんな事もちょっと想像してみたりする。

田面沢駅仮説
H.Kuma様による田面沢駅位置の仮説

注:国土地理院(当時大日本帝國陸地測量部)大正 4(1915)年発行五万分の一地形図「川越」をH.Kuma様が加工された図を引用。
  なお、引用にあたってはH.Kuma様の快諾を得た。



 この仮説が示された当時、かなり苦しい解釈だな、と感じたことを正直に記しておこう。というのは、地形図に刻まれた道路形状は区画整理(耕地整理)実施後であることを示唆しており、そんな場所に短期間で廃止される鉄道をつくるとなると、厳しい社会的軋轢を惹起する可能性が指摘できるからである。土地に関わる権利関係には、今も昔も複雑微妙なものがあり、さらに紛糾の種をまくことになりかねない東上鉄道の計画が成立するものか、疑問に思えたのである。

 ところが「河越夜戦」から連想するに、H.Kuma説は簡単に否定できる一方、全面的肯定も可能であることに気づいた。東上鉄道のルート選定についてなんとも面白い綾があるので、まずは一旦否定したのち、肯定する論も張ってみることにしよう。





3.H.Kuma説否定論

 東上鉄道の当初計画は、川越−小坂−松山を経由していく路線であったとされている。この小坂経由の路線を仮に「小坂ルート」と呼ぶことにしよう。なお、以下の仮説展開においては信頼できる資料が存在しないため、筆者がフリーハンドで線形を設計するという視点で想定ルートを擬することにする。

注:正史には小坂経由という記述はまったくない。「東上鉄道敷設線路平面図」中、川越と松山の間に小坂という駅名表示が見えるのみである。八王子−熊谷間の未成鉄道と連絡する形にはなっているが、どれだけの具体性を持っていたのか……。

小坂ルート
東上鉄道小坂ルート(想定)
注:川の流路は敢えて戦国時代のまま表示した。以下同じ。

 小坂という地名の広がりから想定すれば、東上鉄道はほぼ一直線に北西をめざす路線にならなければいけない。さらにこのまま一直線に進もうとすると、越辺川と都幾川の出合(合流点)に突っ込んでしまい、相当な難工事となると思われる。そのため、小坂を出てすぐに越辺川を渡り、越辺川左岸の自然堤防上を松山に向かう線形になるものと推定した。

 児玉往還沿いに北上して、越辺川と都幾川を上流側で渡河する案は、検討が加えられた可能性はあるものの、線形が苦しくなるので棄却されたと考えた。そもそも、そのようなルートであれば、坂戸旧市街に近づくため、前述した「東上鉄道敷設線路平面図」に坂戸ないし坂戸に近い地名が表示されているはずである。それゆえ、小坂を出てすぐに越辺川を渡るルートが基本線であろうと推定した。

 小坂ルートの場合、入間川渡河地点は雁見橋付近になるであろう。一旦西側にひねって川越橋付近で入間川を渡河すると、小坂を通るためにはかなり無理な線形となってしまう。ゆえに、小坂経由を前提する限りにおいて、H.Kuma説は明確に否定されることになる。

 では、小坂ルートはなぜ具体化しなかったのだろうか。その理由の一つは、入間川前後での低湿地帯(=軟弱地盤)区間延長が長くなることに求められる。もう一つには、越辺川左岸の自然堤防は相対的に標高が高いというだけで、地盤条件は必ずしも好ましくない状況があったのではないか。どちらの理由にしても単純な技術的問題であって、沿線人口や産業集積がどの程度考慮されたか、疑わしいといわざるをえない。

 本当にかような判断基準が介在していたならば、それを正史(記録)に残していないという意味において、いわゆる「鉄道忌避伝説」は鉄道会社側も間接的に下支えしているともいえるだろう。

 そのⅠで想定した「河越夜戦」における上杉勢の行軍路に、おそらく小坂ルートは近い。騎馬・足軽の行軍には支障ない道筋であっても、明治〜大正期に計画された鉄道を通すにあたっては、建設の難しさや保線の手間などから採りがたい面があったのかもしれない。泥濘に足とられ鉄道難渋す、もって迂回路を求めた、というところか。





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