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第2章 美濃町線における輸送改善の経緯とその評価


2.1 経緯

2.1.1 新岐阜直通運転の開始

 岐阜市の経済面での中心地は、本町→徹明町→新岐阜と、時代の経過とともに南進してきた。ことに、高度成長期以降は新岐阜付近への一極集中は顕著であった。

 揖斐・谷汲線では、美濃町線に先んじ、新岐阜への直通運転が実現された。揖斐・谷汲線の場合は、新岐阜直通を志向するにあたり、美濃町線と比べ採りうる選択肢が限られていたため、比較的早い時期に実行に移すことができたと考えられる。

 美濃町線においても新岐阜直通が図られたのは当然の展開といえるが、採りうる選択肢は複数あった。その中で有力なものは、以下の2つである。

   A.徹明町での配線変更→市内線経由での新岐阜直通
   B.田神線の新設/複電圧車の新造→田神線・各務原線経由での新岐阜直通

 名鉄はBを選択し、昭和45(1970)年、複電圧車モ600 を投入のうえ、田神線を介して新岐阜への直通運転を開始した。ところが、この輸送改善には深刻な問題が伴った。

 新しい経路での列車を運転するには、在来のダイヤを改めなければならない。ここではダイヤ改正の内容が、利用者にとってあまりにも劇的(しかも悪い方向に)すぎた。

 直通運転開始の直前、美濃町線の運行本数は、徹明町−新関間で毎時4本、新関−美濃間で毎時2本が確保されていた。この当時、美濃までの列車は徹明町からの直通で、起点の立地を除けば便利であった。

 直通運転開始後のダイヤは、新岐阜−美濃間直通急行、新岐阜−野一色間普通、徹明町−美濃間普通、それぞれが毎時1本の運行となった。つまり、徹明町−競輪場前間の全駅及び野一色−美濃間の急行通過駅では毎時1本しか列車がないことになり、以前と比べて著しく不便になってしまった。

2.1.2 輸送力の増強

 モ600 は軌道系車両としては大型だが、その他の車両は中型である。そのため、日中はともかくとして、朝夕ラッシュ時には輸送力が不足気味となった。そこで、1列車あたりの輸送力を増強するべく、昭和51(1976)年に札幌市から連接車3編成を導入した。これがモ870 である。

 モ870 は専ら朝夕の輸送力列車を中心に運用されたが、複電圧車ではないため、肝心の新岐阜直通列車には投入できない。結果論ながら、「つなぎ」としての性格が濃い施策となった。

2.1.3 新岐阜直通運転の強化

 昭和56(1981)年、複電圧対応の連接車モ880 を5編成新造のうえ、交換駅の改廃などにより、新岐阜−新関間毎時4本運行のダイヤが確立された。

 直通運転開始から10年を経て、ようやく充分な態勢が整えられたといえる。これまでの美濃町線のダイヤは、新岐阜・徹明町のどちらを向いているのか、いささか曖昧であっただけに、画期的なできごとである。

 しかし、これは一方で、美濃町線の機能を新岐阜−新関間に特化したことをも意味していた。具体的には、新関を境に系統分割が行われ、新岐阜(あるいは徹明町)−美濃間の直通列車が朝夕ラッシュ時を除きなくなったのである。

 結果として、新関−美濃間の利用者数は激減した。ただし、翌年以降一時的に回復傾向を示した。

 

 

2.2 評価

 名鉄は各時点では最善の判断を下したと考えられるが、結果だけをとりあげれば、それぞれの施策は中途半端なものに終わったとの印象も残る。ここでは、時の経過を追いつつ評価を加えてみる。

2.2.1 新岐阜への直通——田神線経由か徹明町経由か

 徹明町交差点の配線変更により、美濃町線列車を新岐阜まで運行できるようにすれば、初期投資が少なく、しかも既存の車両を流用できるので、よりよい選択肢たりえた可能性はある。

 しかし、徹明町交差点において配線変更を行うには、地元商店街及び道路管理者の同意を得なければならない。同交差点に空間余地は乏しく、工事費は少ないながら、実現可能性となると心許ない。

 さらには、徹明町経由では所要時間が数分延伸するうえ、路上混雑に巻きこまれるため定時性の確保が難しい。また、長良北町方面・忠節方面とあわせ3系統の列車が輻輳するため、線路容量が不足するという懸念も残る。

 これに対して、田神線経由の場合は、複電圧車導入がコスト増要因になるものの、上記の問題点がない。また、市ノ坪に岐阜工場(現検車区)を移設していたため、新設すべき路線延長がごく短い。しかも、田神線に列車を運行すれば、工場を本線に直結する格好になるため、回送列車の設定を極小化できる。即ち、メリットの方が圧倒的に多い。

 以上を総合すれば、田神線経由により新岐阜直通を果たしたことは、極めて正しい選択であったと考えられる。

写真−3 田神−市ノ坪間を走るモ880

 新岐阜まで直通するためには、道路混雑が激しく輸送容量も逼迫していた岐阜市内線を経由するより、岐阜工場への引込線を延長し、各務原線を経由した方が有利であった。

 

 

2.2.2 モ600 の問題点

 モータリゼーションの進展により路面電車は全国的に衰退し、昭和40年代に入ってからは廃止が相次ぎ、新車の投入はほとんどなかった。かような時代に新製されたモ600 は、その存在だけでも充分な意義があるといえる。事実、昭和52(1977)年に東京都7000形更新車が出るまで路面電車に新風は吹かなかったし、純然たる新車は昭和55(1980)年の「軽快電車」登場まで待たなければならなかった。機構をとりあげても、直流 1,500V区間・ 600V区間の双方で運行可能な複電圧車であり、極めて貴重かつ稀少な存在である。

 モ600 がローレル賞を受賞したのもうなずける。しかしながら、モ600 が優れた車両であるとは、残念ながらいえない。

 台車は旧型車からの流用であり、製造当時でさえ充分に古く、現在においてはあまりにも古すぎる。乗り心地は著しく悪い。明確な資料がないため、原型車の特定は困難だが、おそらくモ450 (大正14(1925)年製/旧各務原鉄道)とモ180 (昭和 4(1929)年製/旧琴平急行)あたりだろう(参考文献(28)の台車製造年と(05)の車両製造年から類推)。

 複電圧車といってもインバータ制御を用いるハイテク車ではない。 1,500V電化区間では余分な電圧を抵抗で消費するという、機構そのものは単純である。モ600 は特殊な車両であって優秀な車両ではない、との評価を与えることは、技術的には意味があることで、いま少し掘り下げてみたい気もする。しかし、技術論は末節の話題であって、これ以上の追求は避けることにする。

 モ600 の最大の問題点は、その数が過小という点につきる。6両しか投入できなかったのは、なぜか。新岐阜直通列車のダイヤ構成が苦しくなり、利用者の逸走を招いたことを鑑みれば、モ600 の数の少なさが及ぼした影響は極めて甚大である。

 さりながら、モ600 が6両しか投入されなかったのには、それなりの理由があるはずである。ヒントとなるのは下記の3点。

   ◆モ600 の台車は旧型車両の流用である。
    (新車扱いだが実態は車体更新車)

   ◆モ600 ・モ580 ・モ590 の3系列を合計してようやく美濃町線での運用
    の所要数に達する。

   ◆モ600 は全長14.9mと大型で、しかも連結器が装備されている。

 以上から類推すると、下記のような判断がされたものと推測される。

   ■新岐阜直通運転の直前、美濃町線にはモ580 ・モ590 及びモ500 が配属
    されていた。

   ■昭和42(1967)年に開始された揖斐・谷汲線から新岐阜への直通運転に
    はモ510 ・モ520 が充てられたが、当時既に経年40年以上の車両であり、
    一定の限界が見えていた。

   ■美濃町線にはまとまった輸送量があるうえ、単線のため増発が難しく、
    中型車以下の車両の投入は避けるべきだとの認識があった。

   ■以上を総合し、1両あたりの輸送単位が大きく、連結運転も可能、かつ
    接客面の向上を図るという条件が設定された。

   ■上記の条件を満たすために、既に廃車となっていた旧型車の台車を流用、
    車体を新製した車両に複電圧対応機器を搭載するとの方針が採られた。

 その結果生まれたのがモ600 で、代替としてモ500 が廃車されたと、筆者は推測する。この推測が事実であるならば、名鉄の判断が間違っていたとはいえない。また、モ600 の数が6両にとどまったのは、原型車の数に制約があったためと考えられる。

 しかし、モ600 が6両しか投入されなかったことが重大な結果を導いているのは事実である。当時、モ500 をそのまま存置したうえで、モ580 ・モ590 を複電圧車に改造するという選択ができなかったのか。この方が費用が少なくてすむうえに、複電圧車を9両投入できるため、ダイヤ構成を利用者の便利に適うものにできた可能性が高い。

 ただし、この選択を採った場合には、モ500 の経年劣化と陳腐化が深刻な問題になった懸念が残る。なぜならば、モ500 は大正10(1921)年製で、ただでさえ経年が半世紀近くに及んでいることに加え、台枠が露出したダブルルーフ(即ち基本的な構造は木造)車であって、さらなる供用がはばかれる状態にまで達していたからである。

写真−4 下有知−神光寺間を走るモ600

 日本の路面電車史上において、複電圧車モ600 の存在意義は極めて大きなものがあった。しかし、その数はあまりにも少なすぎた。

 

 

2.2.3 新岐阜直通運転時のダイヤ

 昭和45年 6月の新岐阜直通運転に伴うダイヤ改正は、前後の変化が劇的に過ぎ、「乱暴」という形容を使いたいほどである。このダイヤ改正の結果、利用者は減少した。参考文献(18)の記述を以下に引用する。

「この一連の輸送改善策は、それまでの市内線主体の輸送体系を都市間輸送主体に改める、むしろスクラップ・アンド・ビルドの性格を持つものであった。そのため、短距離旅客の逸走が大きく、昭和40年の輸送人員(日野橋−美濃間)10,600人が46年には 7,100人まで激減した。徹明町−日野橋間ではさらに大きな影響が見られた」

 このダイヤが先に決まったうえでモ600 の数が6両に抑えられたのであれば論外だが、しかし事実はそうではあるまい。

 おそらく、モ600 の数が6両とまず定められ、ダイヤ編成担当者は苦心の末かのダイヤを考案したのであろう。厳しい制約条件の中で、急行運転など新機軸を打ち出そうとした努力そのものを否定することはできない。

 問題の根本はモ600 の数にあり、ダイヤ構成での調整は不可能であった。

 なお、6年間で約3割も利用者が減ったダメージは大きく、急行運転は5年ほどで廃止された。

2.2.4 モ870 の扱いが中途半端

 試行錯誤と調整の末、美濃町線のダイヤ構成と車両運用に関して、次の問題が昭和50年代初頭には顕在化していたはずである。

   ◆複電圧車の絶対数不足。
   ◆1列車あたりの輸送力不足。

 この観点からすると、昭和51(1976)年のモ870 の投入は、その位置づけが中途半端なものにとどまった観は拭えない。具体的には、下記の2点を問題として挙げたい。

   ■3編成の投入で充分だったのか?
    (当時の札幌市はモ870 の原型A830だけでさらに3編成の余剰を抱えて
     おり、価格さえおりあえば購入できたはず)

   ■複電圧車に改造しなくてよかったのか?

 仮定として、A830の6編成を全て購入し、複電圧車に改造すれば、モ600 とあわせ6両+6編成もの新岐阜直通列車対応の車両を揃えることができた。つまり、車両の数だけでいえば、昭和56年 2月時のダイヤを構成する陣容を整えることができたのである。

 ただし、モ870 に関しては、純然たる増備車として取り扱わないと他の車両へのあたりが大きいという難しさが伴う。経年 6年にすぎないモ600 の置換は問題外だし、モ580 ・モ590 にしても経年20年程度であり、スクラップするには惜しい段階にあった(それでもモ580 は1両が廃車されている)。

 モ870 は中途半端な位置づけに終わった。朝夕ラッシュ時の輸送力列車においては重宝であっても、新岐阜直通列車に使えない以上、日中は輸送力過剰になる。モ880 登場後は(朝夕ラッシュ時を除き)徹明町−日野橋間の区間列車に回されたが、これはモ590 でも充分に対応できる運用であり、1編成がスクラップされてしまった。

2.2.5 モ880 は優秀だが・・・・・・

 モ880 は、冷房蔵置を当初から搭載していなかった一点を除き、たいへん優秀な車両である。また、モ880 を5編成投入することにより、昭和56(1981)年 2月に新岐阜−新関間で毎時4本運行態勢が確立したことも、画期的なできごとであった。

 このダイヤ改正における問題点は、新関で系統分割を行ったことにある。美濃方面から新岐阜方面への利用者は、(朝夕ラッシュ時を除き)新関での乗換を要することになり、従前と比べサービス水準は明らかに低下した。

 この系統分割が新関−美濃間の利用者減少を招く素地になったことは否定できず、問題点として挙げざるをえない。しかしながら、この系統分割をするべきでなかったと評することはできない。

 なぜなら、新関−美濃間の利用者の約半数が新関発着だったからである。系統分割しても大きな影響が出ないと判断できる状況ではあった。

 もうひとつの理由としては、新岐阜−新関間での毎時4本運行を確保し、かつ新岐阜−美濃間の直通列車維持に必要な投資が過大だった点が挙げられる。モ880 をさらに1編成以上投入しなければ、美濃までの直通列車は維持できない。そして、モ880 を1編成新製するには1億円を超す費用を要したはずである。

 しかも、モ880 は既存車両の置換をも促した。モ880 の投入によって、モ580 の3両、モ590 の2両、モ870 の1編成が余剰となり、廃車となった。モ580 の3両は豊橋鉄道に譲渡されたから有効活用されたといえるが、経年25年程度のモ590 、15年程度のモ 870のスクラップはやや惜しいところだ。

 大きな初期投資を要するうえ、まだ使える既存車両のスクラップを強いるという前提において、新岐阜−美濃間直通列車の維持ができたかといえば、答は否であろう。かような計画の推進は、名鉄に限らず、いかなる組織においても許容されにくいに違いない。

写真−5 神光寺に進入するモ880

 登場後20年近くを経た現在でも美濃町線のエースとして活躍中。当初から冷房の搭載がなかった点は惜しいが(現在は搭載改造済)、複電圧の連接車で、路面電車史上に残りうる名車といえる。

 

 

2.2.6 系統分割の余波

 前述したとおり、新関を境とした列車の系統分割によって、新関−美濃間の利用者数は減少した。ところが、減少した利用者の内訳を見ると、実に不可解である。

 減少幅が大きかった利用者はタイプⅡ及びⅣ、即ち新関を発着地とする利用者である。系統分割があってもまったく影響を受けないはずの利用者が、大幅に減少している。その原因を系統分割に求めることは、合理的ではない。

 昭和56(1981)年度はじめには運賃値上げがあったので、これを主たる原因とみなすべきだろう。特に値上げ率が大きい短距離客が逸走し、時を経て再び利用者が帰ってきたと考えるのが、最も自然であろう。

2.2.7 新関−美濃間毎時1本運行への移行

 手許の資料では、新関−美濃間での日中の運行本数が削減された時期を特定できないが、少なくとも、昭和61(1986)年までは毎時2本運行、平成 5(1993)年には毎時1本運行であったことは確実である。なお、平成 1(1989)年の時刻表では運行間隔が45〜60分と記されており、昭和末期には毎時1本運行に事実上移行したものと考えられる。

 運行本数を減らしたために利用者もまた減った、ということであれば、批判すべき余地はおおいにある。しかし、実態は逆である。系統分割により一時大幅に減少した利用者数は、昭和59(1984)年にほぼ旧に復した。ところが翌昭和60(1985)年、原因らしい原因を見出せない状況下において、利用者数は再び大幅に減少したのである。

 担当者の困惑と狼狽が目に浮かぶ状況である。これだけ利用者が落ちこみ、しかも回復傾向を示さないとくれば、費用削減に走らざるをえない。その意味において、日中の運行本数削減は当然の措置といえる。その結果、さらなる利用者数減少を導く悪循環に陥ったとしても、いずれ営業廃止もやむなしと覚悟しての決断であったはずである。

 ところで、昭和60(1985)年の利用者数減少の原因の一端は、運賃値上げに求めることができる。とはいえ、値上げ率は昭和56(1981)年より小さく、値上げの時期も年度半ばであり、利用者数減少に大きな影響を与えたとは考えにくい。値上げはおそらく引き金にすぎず、他の主たる原因と相乗してこの事態に至ったと考えるべきであろう。

 

 

 


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