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ターミナル立地と速さで劣後〜〜西日本鉄道宮地岳線





路線図





■まえがき

 西日本鉄道の発表によれば、宮地岳線(貝塚−津屋崎間20.8km)のうち末端部にあたる西鉄新宮−津屋崎間 9.9kmが平成19(2007)年 3月31日に営業廃止となる。ローカル鉄道の廃止が近年では相次いでいるとはいえ、大手私鉄の、しかも百万人以上の人口を擁する大都市圏近郊での廃止とは、どうしても違和感が伴う。しかしながら、宮地岳線の履歴を見れば、末端が廃止に至るほど零落するのもやむなきことかもしれない。

 筆者の手許には宮地岳線に関する確度の高い資料がほとんどなく、既往記事の分析などから得られた知見をもとに展開するというように、推測・類推によった部分が多いので、予め御承知おき頂ければ幸いである。

 なお、本稿中の写真は リンク先の KAZ様 から御提供頂いた。謹んで感謝申し上げる次第である。

廃線区間

左:新博多駅跡  右:新博多−貝塚間跡の緑道(ともに平成15(2003)年 KAZ様撮影)





■宮地岳線前史

 宮地岳線はもともと、博多湾鉄道汽船が開通させた鉄道路線である。大正13(1924)年に新博多(のちの福岡市内線千鳥橋)−和白間が開業し、翌大正14(1925)年には宮地岳まで延伸された。事業初期の段階で、ほぼ現在の路線が完成したことになる。

 博多湾鉄道汽船は当初博多湾鉄道と名乗っており(大正 9(1920)年に改称)、明治37(1904)年から大正 4(1915)年にかけて、のちの国鉄香椎線にあたる区間を開業させていた。後背地が極端に薄い西戸崎−香椎−須恵間を真っ先に敷設するあたり、香椎以南の鉱物資源を期待したとしても、地理と路線網から読みとる限り事業意図が明確とは必ずしもいえず、経営面ではかなり厳しい状況に直面した事業だったと思われる。ここからさらに類推すれば、苦しい経営を打開するため大都市博多への乗り入れを目指したのが宮地岳線の位置づけだった、とも想像される。

 もっとも、以上のように類推するならば、和白−宮地岳間の位置づけはさらに不明確といえよう。あるいは、沿線から出資を募ったため、たとえ経営面では不利でも出資者への責務として開業させなければならないという事情があったのかもしれない。

 時代は進み昭和17(1942)年、九州電気軌道(のちの北九州市内線)を存続会社として、福博電車(のちの福岡市内線)、九州鉄道(のちの大牟田線ほか)、筑前参宮鉄道(のちの宇美線→さらに国有化され国鉄勝田線)、そして博多湾鉄道汽船が合併された。これは戦時統合の一環と理解すべきことであるが、少なくとも筑前参宮鉄道と博多湾鉄道汽船に関しては、救済合併の意味あいも含まれていた可能性がある。九州唯一の大手私鉄西日本鉄道はこのように発足したわけだが、母体が路面電車の会社という点は、日本最大の路線バス会社でもある現状をよく象徴しているともいえ、たいへん興味深い。

貝塚

貝塚にて(平成18(2006)年 KAZ様撮影)





■ターミナルなき路線

 宮地岳線の起点新博多は明らかに都心から外れていた。類例を挙げるとすれば、名古屋鉄道小牧線の上飯田などがよく似ているが、川に阻まれて都心に近づけないという点では、むしろ東武鉄道伊勢崎線の業平橋などとの共通性を見出せる。

 このような鉄道は通常、都心により近づくよう努力を払うものである。東武伊勢崎線は隅田川に架橋して浅草乗り入れを果たしたし、名古屋鉄道小牧線は上飯田連絡線を介して平安通で名古屋市名城線と接続した。ここで西日本鉄道は、たいへん面白い選択をした。都心側の一部区間を軌道化した(ただし名義は鉄道のまま)うえで、福岡市内線のネットワークに組みこんだのである。軌道を鉄道にランクアップした事例は多数ある一方、鉄道を軌道にランクダウンした事例は極めて稀少である。この種の発想をするあたり、西日本鉄道の「らしさ」があるといえようか。

 新博多−貝塚間 3.3kmの軌道化は昭和29(1954)年、これは最も流動が多い区間でさえ路面電車程度の輸送力で充分間に合うことの裏返しの事象であって、なぜ宮地岳線全線を軌道化しなかったのか不思議なほどである。

 かくして宮地岳線の起点は貝塚となり、もはやターミナルとは呼びがたい立地になってしまった。さらに大手私鉄西日本鉄道のなかで宮地岳線は経営面で最も力の入らない路線の一つとなり、最も旧い車両ばかりが回ってくる位置づけとなった。ただし、当時の国鉄は都市圏輸送をほとんど顧みていなかったため、かろうじて相対的な優位は確保していた。

貝塚

古賀ゴルフ場前にて(平成18(2006)年 KAZ様撮影)





■地下鉄開業と国鉄分割民営化

 百万都市福岡の基幹交通として地下鉄が建設されることに伴い、福岡市内線は段階的に全廃された。もし新博多−貝塚間が鉄道のままであったとしても、国鉄筑肥線博多−姪浜間と同様に、廃止に至っていた可能性を指摘できる。また昭和29(1954)年当時に宮地岳線全線を軌道化していたとしても、北九州市内線と同じ軌跡を描くことは免れえなかったのではなかろうか。

 いずれにしても、昭和54(1979)年の福岡市内線全廃以降、昭和61(1986)年に福岡市2号線箱崎九大前−貝塚間が開業するまで、宮地岳線は都心側で他路線と接続しない孤立した状態が続いていた。

 昭和62(1987)年の国鉄分割民営化を契機として、JR各社が都市圏輸送にも注力するようになったことは、並行する私鉄路線に深刻な影響を及ぼした。JRはもともと地域間輸送に重点を置いており、こと高速性にかけては私鉄とは懸け離れた水準に達している。都市圏の利用者は所要時間に鋭敏に反応するため、JRの優位はもはや圧倒的と形容しても良いほどだ。遅い私鉄が速いJRに勝つためには、よほど優れた特性がなければ難しい。

 以上の観点からすれば、宮地岳線には優位な要素がほとんどないことがわかる。起点の立地が中途半端なうえに、車両は大牟田線系統から回ってきた旧型車ばかり、システムは全般に旧態依然としており、しかも大牟田線系統とは軌間が異なる。JRに対抗するためにはあらゆる面で近代化が不可欠だが、そのために必要な初期投資は莫大な水準に達するに違いない。宮地岳線の輸送密度が今後も存続する貝塚−西鉄新宮間でさえ 1万人/km日に届かない以上、身の丈に合った投資とは考えにくいところだ。

 福岡市2号線との相互直通運転も、だいぶ前から具体性を持った構想として検討されている様子だが、未だに具体化の動きはない。これは詰まるところ、需要とシステムに段差がありすぎるからとしか考えられない。札幌市南北線が国鉄(当時)札沼線や定山渓鉄道との相互直通運転をまったく想定しなかった(それゆえにゴムタイヤ規格が採用された)事例と相似形である。同じ軌間・電化方式であろうとも、なにか段差がある限り相互直通運転できない不便きわまりないシステム、それが鉄道なのである。

 宮地岳線の将来が明るいとはいえない。西鉄新宮−津屋崎間を廃止したところで、輸送密度の推移を考えれば、短期的にも中長期的にもまったく楽観できない。先に挙げた事例に倣うならば、定山渓鉄道のように自社直営の営業を廃止し、敷地を札幌市南北線に提供した、というような選択肢もないわけではない。もっとも、福岡市は七隈線を開業させたばかりで、現状では余力があるとは考えにくい。

 宮地岳線の現状は八方塞がりに近く、このままではゆるやかに下り坂をたどるしかあるまい。これは宮地岳線利用者にとって不幸な状況といえるが、悲しいことに、たとえ全線廃止しても影響は少ないというレベルまで利用者が減少する日もさほど遠くないかもしれない。

古賀ゴルフ場前

古賀ゴルフ場前にて(平成18(2006)年 KAZ様撮影)





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■参考文献

 (01)西日本鉄道、 ニュースリリース「西鉄宮地岳線 一部区間(西鉄新宮〜津屋崎間)の廃止について」

 (02)和久田康雄、「私鉄史ハンドブック」





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