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第1章 小名木川支線前史−−東武鉄道による計画
東武鉄道の発起は明治時代半ばのことで、現在の伊勢崎線に相当する路線の建設・営業が企図された。路線の基本は常に一貫しているが、周囲の状況からか、起点付近の経由地に関しては若干の試行錯誤が認められる。
Ⅰ:明治28(1895)年 4月「東武鉄道株式会社創立願」
本所−下千住−草加−越谷−粕壁−杉戸−久喜−加須−羽生−館林−両毛鉄道足利
Ⅱ:同年 5月「東武鉄道株式会社起業目論見書中並ニ仮定款中訂正願」
本所−越中島 及び
本所−下千住−草加−越谷−粕壁−杉戸−久喜−加須−羽生−館林−両毛鉄道足利
Ⅲ:明治29(1896)年10月創業総会承認事項
越中島−総武鉄道本所−下向島−千住−草加−越谷−粕壁−杉戸−久喜−加須−羽生−館林−両毛鉄道足利
注:上記地名と現在駅名との対照
本所=業平橋
総武鉄道本所=錦糸町
下向島=東向島
下千住=千住=北千住
粕壁=春日部
両毛鉄道足利=足利市
Ⅰでは本所からまっすぐ北上、Ⅱでは本所から二股に分岐、Ⅲでは越中島からまっすぐ北上と、線形の持つニュアンスがかなり異なる点が面白い。
東武鉄道の起業時にはいくつか曲折があったが、とりわけ重要なのは東京都内大部分の区間で免許が出ないという点であった。参考文献(01)曰く「越中島〜本所間、本所〜千住間が東京の外郭線として市区改正と密接な関係があり、審査に慎重を要する、という理由で政府は不許可とする方針をとった」とのことで、東武鉄道はやむなく出願を千住−足利間に縮小し、明治29(1896)年 6月に仮免許を、翌明治30(1897)年 9月に本免許を取得している。
注:免許の記述は参考文献(01)と(03)とで食い違っている。
おそらく(03)の記述が誤っている可能性が高い。
東武鉄道は諦めず、千住−足利間の本免許取得の直後、千住−越中島間延長線敷設願を提出している。このあたりかなり手際がよい。今度はなぜか障害なく、明治31(1898)年10月に仮免許、翌明治32(1899)年 1月には本免許を取得している。
しかし、わずか数年のこととはいえ、時機を逸したことは東武鉄道にとって大痛恨事といえた。というのは、越中島−本所間は概ね未開地で用地取得が容易だったはずなのが、急激に市街化が進み用地取得が困難になりつつあったからである。
免許を取得して、東武鉄道は南進工事をも開始する。明治32(1899)年 8月に東武鉄道最初の路線である北千住−久喜間が開業。その後明治35(1902)年 3月に吾妻橋(現在の業平橋に相当)−北千住が、明治37(1904)年 4月に曳舟−亀戸間が開業した。
ここで、東武鉄道は総武鉄道(後に国有化/現在のJR東日本総武本線)と路線を共有する契約を結び、同鉄道の両国橋(現在の両国)を起点とし、先に開業していた吾妻橋−曳舟間を一旦は廃止した。
東武鉄道は「越中島付近の変化が甚だしかったため、線路敷設の困難を予想し、とりあえず、曳舟〜亀戸間を優先」したが、自社のターミナルを構築したいとの願望も強かった。「あくまでもこの路線の目的は亀戸からさらに南下し、須崎の海岸を経て越中島に達する」目標はなお続けて掲げられる。ところが、「すでに敷設予定地は市街と化し、その先行きは厳しい情勢」になっており、さらに日露戦争の影響を受け業績も悪化したため、越中島への延伸計画は宙に浮いてしまった。結果的に、亀戸−越中島の免許は明治43(1910)年 8月に失効している。
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