このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 

第1章 南部縦貫鉄道が開業するまで

 

 南部縦貫鉄道の歴史は苦難の連続といえるが、路線の建設段階でたいへんな苦難が既にいくつかあった。

   昭和27(1952)年 6月 南部縦貫鉄道促進協議会開催
   昭和29(1954)年12月 千曵−七戸間(15.1km)の建設工事着手
   昭和30(1955)年11月 千曳−坪間( 4.9km)竣工/資金不足により工事中止
   昭和33(1958)年12月 工事再開
   昭和34(1959)年11月 資金不足により再度工事中止
   昭和36(1961)年 2月 再度工事再開
   昭和37(1962)年10月 千曳(現西千曳)−七戸間(15.1km)開業      参考文献(01)より

 資金の不足が原因で、二度に渡って工事が中止される点に、南部縦貫鉄道の性格がよくあらわれている。

 先に、東北本線が三戸−野辺地間で陸羽街道に沿わなかった理由として、起伏が多く、施工に難があることを挙げた。難、とは言葉のあやで、他にもっと平坦なルートがあっただけにすぎない。一般的には施工しやすい部類に入る。

 

写真−1 坪川橋梁とその南方の線路

 

写真−2 坪川橋梁

 

写真−3 坪川北方の線路

 坪川・中野川・七戸川は台地を浸食した低地を流れている。そのため、南部縦貫鉄道はそれぞれの川に橋梁を架けるほか、前後にアプローチ区間をつくる必要があった。アップダウンが連続するため、列車運転上好ましくない線形である。蒸機時代の東北本線がこの区間を避けたのは、当然の選択と思われる。
 近代的な鉄道建設においては、高い橋脚を備える長いスパンの橋梁を架け、台地の標高を保ったまま、平坦な線形で一気に渡ってしまうところだろう。

 

 南部縦貫鉄道にトンネルはない。めぼしい橋梁は坪川・中野川・七戸川の3箇所だけ、それもごく単純なデッキガーター橋で、スパンや連数も中小規模に属する。起伏に富んだ地形のため、切取・盛土が多いとはいえ、これは最も簡単な工事種類である。建設のために必要とする費用は、さほど大きなものとはいえない。

 それにもかかわらず、資金が不足するということは、南部縦貫鉄道を支える財政基盤の脆弱さを端的に示している。

 南部縦貫鉄道の大荷主になると目されていたのは、天間林に採掘場を保有していた東北砂鉄であった。また、昭和38(1963)年に具体化した「むつ製鉄」プロジェクトにより、天間林産の砂鉄を大湊まで輸送するという期待もあった。

 

写真−4 坪北方の線路

 千曳(現在の西千曳)から坪までわずか 4.9km。途中に橋梁・トンネルは存在しない。千曳−後平間に多少の起伏があるとはいえ、全般に平坦な区間である。それだけの線路をつくったところで、資金が一旦は枯渇してしまった。

 

 ここで、「むつ製鉄」に代わり大手製鉄会社が大湊に進出し、原料を天間林産の砂鉄に求めたと仮定しよう。おそらくこの会社は、自社の専用鉄道を千曳−天間林間( 8.8km)に敷設してしまっただろう。同区間の再調達価格(現在同じ路線を建設するために必要な価格)は50億円前後と推定され、小さな金額とは決していえないが、高度成長期における拡大指向の会社であれば投資に踏み切っていたと思われる水準なのである。

 その程度の路線をつくるために二度も資金不足に陥る点が、南部縦貫鉄道の最大の特徴であろう。財政基盤の脆弱さは既に指摘したが、それ以前に財政設計が十全であったとはいえない。

 建設費の見積も適切であったかどうか、疑わしい。千曳−坪間の施工だけで資金不足に陥るとわかっていれば、着工に踏み切らなかったか、最初から充分な資金を手当したか、なんらかの対応を施したと考えられる。歴史がそうでなかった以上、建設費の見積が過小であった可能性を指摘しておかなければならない。

 いくら熱意があっても、手持資金では実力不足との認識があれば、事業には着手しないのが常識である。当事者が建設費見積に精通していなかったか、あるいは第三者に見積を委託した結果が妥当でなかったか、事実は定かでない。しかし、過小見積の建設費を前にして、熱意が先走ってしまったことは、ありえそうな話ではある。

 ありえそうな話がさらにもう一つある。当事者は、事業の成算の乏しさを認識していたにも関わらず敢えて事業を立ち上げた、というものである。南部縦貫鉄道の発起人は専ら沿線自治体であり、資金不足は織り込み済み、その際はまた奉加帳を回せばよい、と割り切っていた可能性も、決して否定できないのである。

 「本当にあった話」がいずれか、特定する術はない。また、今になって特定する必要もないだろう。確実にいえることは、南部縦貫鉄道は発起時から成算に乏しい事業であったということだけである。

 

写真−5 後平の風景

 農地の中にある停留所。情趣豊かではあるが、人気は乏しい。

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 余談ながら、南部縦貫鉄道は純然たる民間企業ではない。株主の大部分が自治体という、第3セクターの先駆者となった存在である。

 発起時点での主な出資者は、七戸町・天間林村・七戸町長・三本木町(後の十和田市)・大深内町(後の十和田市)・甲地村(後の東北町)であった。この出資者構成を見て、これら自治体の「鉄道がない」焦りを感じとるのは、無理な連想であろうか。

 

写真−6 三沢を出発し十和田市に向かう十和田観光電鉄列車

 十和田観光電鉄の開業は大正11(1922)年。南部縦貫鉄道より40年も前に開業したことになる。東北本線の経由地にならず、十和田市・五戸町に鉄道開業で先行され、七戸町・天間林村などに強い危機意識があったことは想像に難くない。

 

先に進む

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください