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二本のトンネルの因縁〜〜天塩炭礦鉄道
<完全改稿版>

そのⅦ  天鉄廃止その後





■天鉄廃止後の跡地転用

 天鉄が廃止になってから、用地・施設などはどうなったか。そのまま残っているのか、それとも転用されたのか。筆者の実見と参考文献(12)などからまとめたものが下表である。

表−3 天鉄廃止後の転用状況
場所平成 3(1991)年時点平成 6(1994)年時点参考文献(12)平成19(2007)年時点
留萠駅羽幌線跡と同化写真あり天鉄バス本社確認
留萠川橋梁羽幌線含め痕跡なし痕跡なし羽幌線含め痕跡なし
春日町駅確認できず写真あり線路跡確認するも場所特定できず
第一トンネル
留萠側坑口
道道への転用工事中
入口近くで崩落
復旧・補強工完了工事中のため近づけず周辺の工事は完了
坑口は鉄道時代のまま現存
ただし坑口は閉鎖され内部をうかがえず
第一トンネル
達布側坑口
測量中
路盤上には木々が繁茂
単線の築堤残る工事中だったが許可を得て近づく
坑口は鉄道時代のまま現存
ただし坑口は閉鎖され内部をうかがえず
桜山駅路盤上には草木が繁茂写真あり
道道対応の拡幅工事済?
工事中のため地形改変進む
第二トンネル記述なし留萠側坑口は約 500m手前で藪に阻まれ挫折
達布側坑口は 1,000m以上手前で道路状況厳しく挫折
天塩住吉駅荒天のため確認できず写真あり跡地・駅前倉庫などを確認
天塩住吉駅〜沖内駅道道に転用道道に転用
ポン沖内川橋梁劣化が進んだ橋脚を確認記述なし橋台の現存を確認
沖内駅場所を確認集会所に転用
写真あり
集会所に転用
第三トンネル両坑口とも封鎖写真あり留萠側坑口は草に阻まれ近づけず
達布側坑口は地形改変されていた
第三トンネル〜達布駅道道に転用一部の駅の記述
写真あり
道道に転用
寧楽・天塩住吉付近を調べるも特定困難
達布駅天鉄バス営業所写真あり天鉄バス営業所
ほか空間あり
小平蕊川橋梁劣化が進んだ橋梁・橋脚を確認記述なし
撤去されたか?
橋梁・橋脚現存せず
炭礦ホッパー現存を確認写真あり現存を確認


 端的にいえば、天鉄の線路跡は転用が進んでおり、鉄道時代の痕跡はほとんど消えつつあった。細長い線路ゆえ道路に転用された箇所が大部分を占めており、平成19(2007)年時点では第一トンネル前後の区間が工事中、第一トンネルは鉄道時代の造作がかろうじて残っていた。

 第二トンネルは転用されず、鉄道時代のまま閉鎖もされず、元の姿を残しているらしい。ただし、少なくとも平成19(2007)年時点では、草木に阻まれ近づくことができなかった。冬は雪に閉ざされるだろうし、初春・晩秋は草木が枯れるとはいえ羆との遭遇が怖ろしい。相当な覚悟と準備がなければ、第二トンネルを目の当たりにするのは難しそうだ。

 第一トンネルはその後、道道留萠小平線に転用され、道路として供用されている。事業着手年度は平成 8(1996)年のこと。ちなみに、筆者は平成 3(1991)年、第一トンネル達布側坑口付近での測量作業を現認している。さらにいえば、この道路が道道認定された時期は昭和59(1984)年にまでさかのぼる。計画発起時点から完成まで、実に四半世紀も要する大事業となった観がある。

 道路転用事業が長期化したのは、予算制約などの要因があるとしても、それ以上に第一トンネルの地質の問題が大きかったと想定される。これにかかわる事情は、詰まるところ天鉄の経営が行き詰まった背景にも通じているかもしれない。以下、わかる範囲で論じてみよう。





■第一トンネルの地質

 参考文献(22)によれば、第一トンネルの地質は以下のような状況だったらしい(大意)。

「掘削後50年以上、鉄道廃止から約30年を経過している第一トンネルは、変状が著しい。第一トンネルが立地している地質は堆積軟岩(泥岩・砂岩など)で、トンネル周辺の地山においては経年変化で揉まれ流動的な土砂状になり、強度が著しく落ちている箇所が存在する。また、トンネル達布側は大規模な地すべり地形であり、変状の一因となっている」

 また、参考文献(23)には以下の記述が見られる。

「当トンネルの地質は、新第3紀の砂岩、泥岩の互層で構成されており、トンネル延長 300m以降の地質は固結度が低く、数箇所の断層の存在が予想され、終点部坑口部には地すべり地形が存在するきわめて複雑な様相をしています。今後、掘削していくなかで、変位が大きくなると予想しています。
 既設のトンネルは、土圧により両サイドが押されてコンクリートに亀裂が入り、大きく変状している箇所があり既設トンネルコンクリートを取り壊しながらの掘削は細心の注意を払って施工しています。トンネル掘削断面に既設トンネルの木製の支保工が出てくるのを見ると、未固結で切羽の安定しない地山を、機械のほとんどない時代にトンネルを掘った先人の苦労と技術力がしのばれます」

第一トンネル達布側遠景
写真−6(再掲) 第一トンネル達布側遠景
※実は地すべり地形であり重厚な対策工が施されていることがわかる


 限られた情報から考察する危険を承知のうえでいえば、軟らかい山にトンネルを掘り、後年地山の変状に苦しんだという点では、 北海道拓殖鉄道熊牛トンネルの事例 とよく似ている。さらに付け加えると、そのⅥに記した「葫芦谷」とは地すべり地形でもあり、地山変状だけにとどまらず水害を受けやすいという意味において、まるで虎の顎のような場所であった。炭礦閉山まで天鉄が営業を継続できたのは、偶然の僥倖にすぎなかった。

 辛苦を重ねた末に天鉄が開業に至った事績を壮としても、通してはいけない場所に鉄道を通し、掘ってはいけない場所にトンネルを掘った、と評することも実は可能なのである。ただし、この点は問題として顕在化しなかった。炭礦閉山まで天鉄が営業を継続したため、天鉄が設備の保守に難儀していたという話題は、重さを伴って伝わってはいない。

 図−3の桃色線・茶色線を通していれば、状況はさらに悪かったはずだ。地形図を一瞥するだけですぐわかるほどの地すべり地形(図−3中央の茶色楕円が典型例)が複数存在するし、それは即ち雪崩常襲地帯でもあり、また沢に並行して線路を敷設する延長も長い。ほんの数年のうちに災害に遭い、再起不能になるほど痛めつけられた可能性も指摘できるのだ。

路線図
図−3(再掲) 天鉄計画時点の想定路線図


 そのⅥに記したとおり、天鉄が割り切りさえすれば、炭礦閉山を待たず昭和36(1961)年時点で既に、天鉄の営業廃止は可能であった。営業継続を志向した以上、直面する困難もまた大きかったと考えるべきであろう。台風、大雨、大雪、地震……。災害の種はまさに山ほど存在する。まして天鉄の近傍には「静かなる暴れ川」留萠川が控えており、水害=大量の降雨による災害に見舞われる蓋然性は高かった。

 北海道拓殖鉄道(熊牛トンネル・十勝川橋梁等の老朽劣化)、寿都鉄道(水害)、南部鉄道(震災)、等々……。北海道とその周辺だけでも、インフラがダメージを受けて廃止に追いこまれた鉄道は決して珍しくない。天鉄がその列に加わらずに終わったのは、幸運以外のなにものでもなかった。26年という短い営業期間中、天災による甚大な被害を見ずにすんだ天鉄は、繰り返しながら天佑に恵まれていた。

 天鉄は北海道で最も歴史が新しい鉄道の一つである。これは要するに、鉄道事業として具体化するにあたり、採算性や地理的条件などがすぐれておらず、後発路線にならざるをえなかった、ということでもある。その意味において、天鉄は優良な鉄道ではなかった。しかし、天災に遭って挫折することなく、短い期間ながらも炭礦鉄道としての天寿を全うできたという意味においては、天鉄は天恵を享けていた。

 二本のトンネルの因縁。天鉄におけるそれは、始まりは試練であり、中途は苦難であり、天災の邪魔を排除しながら、全き終わりの涯まで導くものであった。その事績の痕跡は、これからも道道留萠小平線萠平トンネルとして、永劫にすがたをとどめることになる。





■すがたを残す第二トンネル

 営業廃止された鉄道の跡地は、転用される事例が多い。転用事例を瞥見するに、積極的な意図があって転用したというよりむしろ、転用じたいを目的とした気配があるようにも思える。鉄道路線は廃止されても会社はなお存続する。残った会社の経営を支援するため、元の鉄道用地を買収し、必ずしも急を要さない事業を興している可能性もある。道道留萠小平線はその典型のように思えてならない、……としては穿ちすぎか。

 実は穿ちすぎなのである。道道留萠小平線は、南半分で天鉄跡地を活用するが、北半分は図−3桃色線に近い新しいルートを採る。天鉄の経営支援に主眼が置かれた事業であるならば、第二トンネルも転用されなければならない。しかし、現実はそうならなかった。

 道道留萠小平線新設の理由は「小平町や苫前町から留萠市への日常生活のアクセス道路及び一般国道 232号の代替道路としての役割」(参考文献(22))と説明されている。そのくせ、天鉄線路跡をそのまま転用するのに比べ、小平市街からより離れた場所で既存道路に接続する計画が採られたわけで、解釈に苦しむところである。

 第二トンネルが転用されなかった理由を知る術はもはやない。結果として第二トンネルは、鉄道時代のすがたを残したまま、山中に埋もれゆくことになる。人に棄てられたともいえるし、鉄道時代のすがたを永劫にとどめるともいえる。もし第二トンネルに心あらば、どのように観じているだろうか。





■先人のはらわた

 いうまでもなく、萠平トンネルは鉄道時代から大きな変貌を遂げている。さりながら、道道として再び掘削するという工事を通じ、天鉄をつくるにあたっての途中経過が明らかになり、記録に刻まれた意義は大きい。参考文献(21)〜(24)だけでなく、詳細な施工記録も残されているはずで、天鉄の施工が現代に追体験されたといえる。

 もう一点重要なのは、天鉄に関する「負の遺産」が確認されなかったことである。参考文献(25)に紹介されているような「人柱」発見の報はなく、極端に過酷な強制労働は存在しなかったと推定できる。ただし、現時点では、単に表面化しなかった可能性もまた否定できないのだが……。

 そのⅤに記した天鉄バス運転手証言からも、時代背景からも、強制労働が存在した確度は高い。その一方、程度問題でいえば、相対的にかなり軽い部類ではなかったか。今日もなお尤もらしく語られる幽霊譚の基礎はあっても、深刻さの度合は甚だ疑わしい。

 現地に何度も立った直感から、筆者は幽霊譚そのものは信じる。だがそれは、天鉄施工時点の歴史を暗黒のなかに押し籠めることを意味しない。当時の日本に絶対的な「悪」は存在しない。愛すべき、その裏腹として激しく憎むべき「愚かさ」が、当時の日本をとりまく「空気」であった。それは即ち、日本人の営みと歴史そのものでもある。

 二本のトンネルの因縁。それは天鉄にまつわるローカルな歴史にすぎないともいえるが、見ようによっては、日本近代史の核心近くを巧妙に切り出す一断面ともいえるのである。





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