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絵葉書に見る
日本海海戦時の連合艦隊主力
砲撃中のわが主力艦(イメージ)
1905(明治38)年5月27日、わが国の連合艦隊は、帝政露西亜のバルチック艦隊を対馬東方沖の日本海に迎え撃ち、大いにこれを破って日露戦争を勝利に導きました。ここでは、わが国近代史の重要な転機となった日本海海戦(英語名The Battle of the Sea of Japan)で活躍した主力12隻の艦影をかかげ、往時を偲びたいと思います。
<注>
1.連合艦隊とは、複数の艦隊を同一指揮系統下に置いた有事における編成を指し、連合艦隊司令長官は日露戦争では第一艦隊司令長官・東郷 平八郎が兼任しました。
2. ここに使用した絵葉書は全て当研究所の所蔵品で、三笠、敷島、富士、春日、出雲、浅間、磐手の各葉に押された消印は1906(明治39)年5月27日第1回海軍記念日の東京、横須賀、呉の各局のものです。
3. 「日清戦争黄海海戦」のページで紹介した各艦の艦影は省略します。
戦闘地域を示す当時の各国地図。 いずれも「日本海」の表記が明らかである。
(英国発行)
(仏蘭西発行 消印の日付は1904年12月24日のクリスマス・イヴ)
(独逸発行)
(伊太利発行)
<第一艦隊>
司令長官 大将 東郷平八郎、 参謀長 少将 加藤友三郎
第一戦隊(艦隊主力)
戦艦 三笠(旗艦)、敷島、富士、朝日、 巡洋艦 春日、日進、 通報艦 龍田
第三戦隊
巡洋艦 笠置、千歳、音羽、新高
艦隊直属
第一駆逐隊(駆逐艦5隻)、第二駆逐隊(駆逐艦4隻)、第三駆逐隊(駆逐艦4隻)、第十四艇隊(水雷艇4隻)
戦艦 三笠。英国ヴィッカーズ社建造、1902年竣工、15,140トン、30.5cm砲4門、18ノット。
戦艦 敷島。英国テームズ鉄工所建造、1900年竣工、15,200トン、30.5cm砲4門、18ノット。
戦艦 富士。英国テームズ鉄工所建造、1897年竣工、12,533トン、30.5cm砲4門、18ノット。
戦艦 朝日。英国ジョン・ブラウン社建造、1900年竣工、14,850トン、30.5cm砲4門、18ノット。
装甲巡洋艦 春日。伊国アンサルド社建造、1904年竣工、7,628トン、25.4cm砲1門、20.3cm砲2門、20ノット。
装甲巡洋艦 日進。伊国アンサルド社建造、1904年竣工、7,628トン、20.3cm砲4門、20ノット。
<第二艦隊>
司令長官 中将 上村彦之丞、 参謀長 大佐 藤井較一
第二戦隊(艦隊主力)
巡洋艦 出雲(旗艦)、吾妻、常磐、八雲、浅間、磐手、 通報艦 千早
第四戦隊
巡洋艦 浪速、高千穂、明石、対馬
艦隊直属
第四駆逐隊(駆逐艦4隻)、第五駆逐隊(駆逐艦4隻)、第九艇隊(水雷艇4隻)、第十九艇隊(水雷艇3隻)
装甲巡洋艦 出雲。英国アームストロング社建造、1900年竣工、9,750トン、20.3cm砲4門、20.75ノット。
装甲巡洋艦 吾妻。仏国ロワール社建造、1900年竣工、9,307トン、20.3cm砲4門、20ノット。
装甲巡洋艦 常磐。英国アームストロング社建造、1899年竣工、9,700トン、20.3cm砲4門、21.5ノット。
装甲巡洋艦 八雲。独国ウルカン社建造、1900年竣工、9,646トン、20.3cm砲4門、20ノット。
装甲巡洋艦 浅間。英国アームストロング社建造、1899年竣工、9,700トン、20.3cm砲4門、21.5ノット。
装甲巡洋艦 磐手。英国アームストロング社建造、1900年竣工、9,750トン、20.3cm砲4門、20.75ノット。
<第三艦隊>
司令長官 中将 片岡七郎、 参謀長 大佐 斎藤孝至
第五戦隊
巡洋艦 厳島(旗艦)、松島、橋立、 甲鉄艦 鎮遠、 通報艦 八重山
第六戦隊
巡洋艦 千代田、須磨、秋津洲、和泉
第七戦隊
甲鉄艦 扶桑、 砲艦 高雄、筑紫、鳥海、摩耶、宇治
艦隊直属
第十五艇隊(水雷艇4隻)、第十艇隊(水雷艇4隻)、第十一艇隊(水雷艇4隻)、第二十艇隊(水雷艇4隻)、第一艇隊(水雷艇4隻)
<本海戦の経過>
時刻 | 連合艦隊 | バルチック艦隊 |
5/27 04:45 | 仮装巡洋艦信濃丸、敵艦隊発見の第一報を打電 | 針路東北東で対馬東水道に向け航進 |
05:05 | 東郷司令長官、敵発見の第一報を受ける 鎮海湾に待機中の全艦艇に出港を命令 大本営に向け下記電文を発信 「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ連合艦隊ハ直チニ出動之ヲ撃滅セントス本日天気晴朗ナレドモ波高シ」 ちなみに「本日」以下は、海が荒れて連繋機雷が使えないため、砲戦主体で戦う意思を示す先任参謀・秋山真之の補筆とされる | |
06:34 | 旗艦三笠、 第一艦隊の先頭に占位 | |
06:45 | 和泉、敵に触接開始、敵情を詳細に打電 | 和泉を視認 |
08:41 | 第二戦隊、連繋機雷作戦中止に伴い、遅れて来た浅間を合す | |
11:00 | 航行陣形から戦闘陣形に変換 | |
11:42 | 第三艦隊、敵との触接を維持 | 笠置に対して発砲 |
12:00 | 第三艦隊、敵の前方に出ようとする | 北23度東に変針 対敵運動を誤り2列縦陣となる |
13:30 | 敵主力を視認、 9ノットから11ノットに増速 | |
13:35 | 第一・第二戦隊、沖ノ島北西約10海里に到達 | 2列縦陣から単縦陣への陣形変換を命令 |
13:39 | 敵主力を艦首方向に視認、東郷司令長官、戦闘開始を命令 | |
13:40 | 第一・第二戦隊、敵との横距離を取るため南南西より北西微北に変針、12ノットから15ノットに増速 | |
13:55 | 敵との距離12,000m、西に変針、Z旗を掲揚 「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ各員一層奮励努力セヨ」 | |
14:02 | 南西微西に変針、敵と反航するように装い、急接近を図る | |
14:05 | 敵との距離8,000m、東郷司令長官、取舵一杯を命令 左舷に14点4分の1(約160度)の逐次回頭(敵前大回頭)を開始 | 三笠の回頭を視認 |
14:07 | 三笠、東北東に定針、敵と斜交する針路とし、その先頭を斜めに圧迫 | 機に乗ずべしと射撃準備を急ぐも、単縦陣への陣形変換未了 |
14:08 | 敵との距離7,000m、射撃準備完了 | 旗艦スウォ−ロフ、初弾発射 |
14:10 | 敵との距離6,400m、東郷司令長官、射撃開始を命令 | 各艦とも射撃中 |
14:12 | 敵との距離5,500m | スウォ−ロフ、初被弾 |
14:13 | 三笠、初被弾 | 漸次右折し並航となる |
14:15 | 東微南に変針、敵へ肉薄を図る | |
14:18 | 敵との距離4,600m、東北東に定針、小口径砲も加え、急射撃を実施 | 先頭艦に火災発生 |
14:27 | 浅間、被弾により舵機故障、一時列外に出る この前後、三笠艦橋、日進前部主砲などにも被弾 | 戦艦オスラビア、被弾により浸水、艦首沈下 |
14:35 | 東に変針、ますます敵の先頭を圧迫 | 漸次南寄りに変針 |
14:43 | 東南東に変針、完全に敵の前面に出る | オスラビア、スウォ−ロフ、大火災、ともに列外に出る |
14:50 | 敵艦数隻の北転を視認 | 戦艦アレクサンドルⅢ世他、左舷に急転舵、針路北方とする |
14:58 | 第一戦隊、左舷8点(90度)の一斉回頭、単横陣となる 針路北東 続航の第二戦隊はそのまま直進、針路南東 | アレクサンドルⅢ世他、敵主力の後尾を回って逃走を図るも断念 |
15:05 | 第一戦隊、さらに左舷8点の一斉回頭、6番艦日進を先頭とする逆番号の単縦陣となる 針路西北西 第二戦隊と協同して敵を挟撃する、いわゆる乙字戦法の対勢 | アレクサンドルⅢ世他、漸次右舷に転舵、針路南方としたのち、大きく全円を描く |
15:10 | 第二戦隊、左舷16点(180度)の一斉回頭、6番艦磐手を先頭とする逆番号の単縦陣となる 針路北北西 交戦1時間にして戦勢ほぼ決す | オスラビア、沈没 隊列大いに乱れる スウォ−ロフ、単艦北上 |
15:42 | 第一戦隊、左舷8点の一斉回頭、単横陣となる 針路南東 | 砲火衰え、隊形四分五裂となる |
15:49 | 第一戦隊、さらに左舷8点の一斉回頭、順番号の単縦陣に復す 針路北東 この間、第二戦隊も一斉回頭により、順番号の単縦陣に復す 両戦隊とも敵とウラジオストク港との間に占位しつつ敵を痛撃 | 数艦ずつ個々に活路を求める |
16:51 | 煙霧の彼方に敵の所在を失い、針路南方とする | 北方に遁走を図る |
17:28 | 南下し過ぎを悟り、北北西に変針、敵を追撃 | 戦艦ボロジノ他、北上 |
18:00 | 北進する敵を距離6,300mに発見、射撃再開 | ボロジノ他、射撃再開 |
19:03 | 敵を猛撃 | アレクサンドルⅢ世、沈没 |
19:10 | 三笠、射撃中止 翌日の戦闘に備え北進 | ボロジノ、大火災 |
19:20 | 東郷司令長官、夜間配備を命令 駆逐艦、水雷艇は敵艦に対して夜襲開始 | スウォーロフ、ボロジノ、沈没 戦艦シソイ・ウェリーキー被雷(翌日11:00頃沈没) |
5/28 05:00 | 第一・第二戦隊、鬱陵島の南微西約30海里の地点に集結 | 戦艦ニコライⅠ世他、ネボガトフ少将の指揮下、ウラジオストク港に向け北上中 |
09:30 | 残敵発見、追撃開始 | 同上 |
10:34 | 射撃開始 | ネボガトフ少将、降伏信号旗を掲揚、航進停止を命ず |
10:53 | 秋山真之、降伏受理のためニコライⅠ世に赴く | |
損害 | 沈没 水雷艇 3隻 戦死 117名 戦傷 583名 | 被撃沈 戦艦 6隻、その他 10隻 自沈 5隻 被捕獲 6隻 中立国に逃亡 6隻 自国港湾に入港/帰港 5隻 戦死 約5,000名 捕虜 ロジェストヴェンスキー司令長官以下 約6,100名 |
注.「敵」「敵艦」「敵艦隊」などの表現は歴史的事実を示すもので、今日における敵対感情ではありません。念のため。
<解説>丁字戦法と敵前大回頭について
東郷司令長官が日本海海戦において実行した丁字戦法と敵前大回頭について簡単に解説します。
まず丁字戦法ですが、軍艦は前後に長いので、構造上、首尾線方向よりも舷側方向のほうが敵に対して多くの砲門を指向できます(敵に対して弱点の横腹をさらす、というのは話が逆)。
また、砲戦を主眼とする場合は、すでに前ページの日清戦争黄海海戦で見たように、艦隊の陣形は旗艦を先頭とする縦一列の単縦陣が最適です。
こうして彼我の艦隊が相まみえるとき、敵艦隊に対してその進路を横切るような対勢を取れば、敵はわが方に対して艦首側の砲しか指向できないのに反し、わが方は片舷全部の砲を敵の先頭艦(旗艦)に集中でき、敵の命令指揮系統を早期に破壊することができます。これが丁字戦法で、丁字対勢に占位することを「丁字を描く」、英語では"Cross the T"と言います。
したがって、砲戦開始時に丁字が完成するように運動する(自艦隊をもってゆく)ことが重要で、これは接近する敵の位置、針路、速力、編成、陣形などをあらかじめ的確に把握することによって可能となります。日本海海戦では信濃丸による敵発見の第一報に始まり、次いで触接を続けた和泉の的確な敵情報告により、東郷司令長官は敵艦隊を実際に視認する前にその詳細を把握できていました。
さて、本題の丁字戦法に戻りますが、弱点もあります。それは、距離が遠いとわが方の針路と反対方向に逃げられる、つまり裏をかかれることです。こうなると敵を取り逃がしたり、敵から相対的に後落するため逆に丁字を描かれる可能性が生じます。実際、1904年8月10日の露西亜旅順艦隊との黄海海戦 (The Battle of Yellow Sea) では距離が遠すぎたために敵に丁字の裏をかかれ、追撃に長時間を要するなど苦戦しました。
(ちなみに連繋機雷は、丁字の裏をかこうとする敵の針路妨害が主眼であったようです)
日本海海戦での東郷司令長官はこの教訓を活かし、ウラジオストク港目指して北東に航進するバルチック艦隊と反航する(すれ違う)ように装いつつ南西針路をもって敵に急接近、距離8,000m(すでに敵の射程距離内)で取舵一杯を命じ、左舷14点強(約160度)の大回頭を行って、敵の針路を斜めに圧迫する針路を取り、約4ノットの優速を利してこの対勢を維持することにより、勝敗を決定づけました。つまり丁字と言うよりイの字、活字体でなく筆記体のTであったわけですが、その目的、主眼とするところは丁字戦法そのものでした。
敵前大回頭は、丁字戦法そのものではありませんが、敵に極力近接し、タイムリーに丁字を描くための重要な艦隊運動で、冷静沈着にして実戦経験豊かな指揮官のみが良くなし得るものと言えるでしょう。実際、このときの敵前大回頭は、のちに"Togo Turn"として世界的に有名となります。
<主要参考文献>
明治三十七八年海戦史 上下2巻 軍令部編纂 1934年
海軍砲術史 同刊行会 1975年
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