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ありがとう、じいちゃん | ||
—ぽっぽやだった祖父との思い出— | ||
5月6日、僕の祖父が亡くなりました。 祖父が4月末に入院したと聞き、心配していたものの亡くなる2日前に見舞った際には本当に元気で、連休が明けたらもうすぐ退院だと話していた祖父が、こんなにもあっけなく旅立ってしまうとは思いもよりませんでした・・・ 祖父は復員後、ノンプロの選手として国鉄から都市対抗野球にに出場し、本業の鉄道員としては横川勤務を振り出しに、昭和30年代以降は千葉鉄道管理局の保線職員として、茂原、亀戸、勝浦、銚子と回りました。特に昭和40年代の房総一周電化、そして北総3線電化に際しては、現場の責任者として工事を指揮したそうです。銚子保線区長から千葉の管理局勤務となってからは、都市対抗野球の国鉄千葉監督として、スカウトに回ったりもしていたそうです。 今回は、「国鉄型電車の楽園」特別編として、房総の鉄道とともに生きた祖父の思い出をつづってみたいと思います。 ■5月6日夜 「わかしお25号」車内 蘇我駅の発車メロディが鳴り響き、ドアが閉まる。祖父がかつて守った線路へと183系「わかしお」は走り出す。僕は目を閉じて、その上を走る列車が刻むリズミカルなジョイント音に聞き入る。この線路を守った祖父の顔が瞼の奥に浮かび上がる。 祖父の人生は鉄道の安全を守る為の仕事だったのだと改めて感じた。祖父が陣頭指揮して電化されたこの線路を当たり前のように使ってきた僕だったが、改めて祖父の成し遂げた仕事の大きさを感じてしまう。東京から大原までの所要時間が1時間30分程度になったことで、僕は実家からの通勤が可能になったのだから。 僕は、祖父に連れて行ってもらった幼い頃の旅行を思い出していた。 東北新幹線に乗って出かけた仙台への旅。京都・大阪への初めての旅は、梅小路と交通科学館を訪ねる旅行だった。祖父母と津和野へと向かう蒸気機関車の旅の途中、大好きだったTVドラマ「西部警察」に出演していた藤岡重慶さんに抱っこしてもらって写真を撮ってもらったこと。かつて祖母が車掌をしていた信越線に乗っての軽井沢への旅。まだ幼かった僕は祖父母が横川で出会い、結婚したことなど知らなかった。 両親が共稼ぎだったせいで、なかなか旅行にも連れていけないことを知ってか、祖父はずいぶん色々な場所へ僕を連れて行ってくれたものだと思う。 はじめて「あずさ」に乗って、憧れだった信州へ連れて行ってくれたのも祖父だ。千葉から松本へ、豪快な走りを堪能したことを思い出す。伊豆急に乗りたいとダダをこねた僕を、下田までデビューしたばかりのリゾート21で旅したこと。全てが昨日のことのように鮮やかに僕の心の中に蘇る。 タイフォンの音が響き、僕ははっと我に帰った。連休最終日の夜の最終特急も、茂原を過ぎればもうガラガラである。ひとりになって感じたものは、祖父の成し遂げた仕事の大きさと、そうした祖父を失った寂寞感だけだった。 やがて列車は大原駅へと滑り込む。何事も無かったかのように。 それは当たり前のことかもしれない。だが、そうした安全で正確な輸送が行なわれているのは改めて僕の祖父だけでない、多くの鉄道マンの努力があったからこそなのであろうと思う。 祖父にもうすぐ会える。僕は、夜の街を家へ向かって走りだしていた。 ■5月8日 祖父の葬儀 すっきりと晴れたこの日、祖父の葬儀が営まれた。 祖父の戒名は「暁天院一条貫嶺居士」だった。午前様がこの戒名について、前夜の通夜の際、詳しく説明してくれた。 「一条というのは線路、そして貫嶺というのはトンネルのことです・・・」 鉄道マンとして生きた祖父に相応しい、いい戒名だなと僕は思った。棺に蓋をする前に、僕は祖父の棺に3枚の写真を納めた。その写真とは、祖父が守った外房線を行く電車の写真だ。 安らかな顔でまるで眠っているかのような祖父の顔を見ながら、僕はそっと語りかけた。 「じいちゃん、いままで本当にありがとう」 言葉につまり、後は声にならなかった。この言葉は、祖父の許へと届いたのだろうか・・・。 ・・・気の向くままにキーボードを打ってきてしまいましたが、祖父が幼かった僕をあちこち鉄道で旅行に連れて行ってくれたことがいまの僕の人格形成に大きな影響を与えてくれたのは間違いないと思います。 人生を鉄道の安全に捧げた祖父。そして、その鉄道に興味を持った孫。仕事、趣味という関わり方こそ違っても、祖父が成し遂げた仕事があるからこそ、僕は鉄道趣味を楽しむことが出来るような気がするのです。いま、外房線を走る183系を見るたび、祖父たちの仕事のおかげでこの電車が走るようになったのだなぁとしみじみ感じてしまいます。いま、僕は183系のことを取り上げ、こうしたサイトを運営していますが、祖父が見たら、きっと喜んでくれたのではないかと思います。 ところで、祖父を最後に見舞った翌日、僕はMobaryHIllsさんと土気の外房旧線の跡を訪ねました。この旧線にかつて存在したトンネルの撤去工事に若き日の祖父が携わっていたことを知ったのは、2日後の通夜の席でした。 祖父が僕を呼んだのでしょうか。Mobary氏のおさそいで、いまはまた自然の中に還ろうする鉄路の跡を歩いた事は、なにかの因縁を感じます。 祖父は戻ることの無い旅へと旅立ちましたが、これからもきっとこの房総の鉄道の将来をどこかで暖かいまなざしで見守ってくれていると信じたいです。そして僕は、そうした房総の鉄道を、僕なりの視点でファインダーの中に収め、このサイトでつづっていくことが出来ればと思っています。 2002年5月10日 龍彦 |
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