このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

千葉の鉄道と龍彦

クモユニの記憶

July.1994 幕張電車区にて

先日、ゴミ箱のようになってしまっている私の部屋で探し物をしていると、懐かしい写真が出てきました。

1996年12月の外房線部分複線化完成と時を同じくして消えた、新聞電車のクモユニの写真です。私が小さいころ、いつも大原の駅に夕方やってくるクモユニは、まだツリカケ電車でした、やたらうるさい地鳴りにも似た爆音を轟かせ、113系の後ろにぶら下がって走るその姿は、なんとも無骨な印象を受けたものでした。

やがて小学校に入学すると、通学路から下校時には間近に新聞電車を見ることが出来るようになります。だいぶ草臥れ掛けて来たクモユニ74でしたが、その物々しい音と走りは、東北新幹線が開業した年の夏に仙石線で乗った72系アコモ改造車のそれと似ていた事を覚えています。(仙石線乗車は小学校入学前だったのですが、いつも東京で見ていた103系と同じ車体で、ひたすらうるさいだけの爆音だけは鮮明に記憶しています)

ちょうどこの頃、国鉄の苦しい経営事情のためか、合理化の旗印のもと鉄道郵便の輸送や荷物輸送も廃止されますが、ここ千葉地区の鉄道による新聞輸送は、房総地区のみ道路事情の悪さから残される事になります。そして、全国で最後の営業荷物電車となる千葉のクモユニも、代替わりします。そう、長岡からやってきた上の写真のクモユニ143に。この転入と同時に、クモユニ74はお役御免となり、廃車されました。

転入当初、クモユニは1両が湘南色、残り3両は長岡以前の身延線用のワインレッドに白線のいでたちで、これまた当時の広域転配の影響で混色編成の目立つ113系と共に手を組んで走り出しました。スカ色・湘南色・ワインレッドの組合せなど、下校途中に通学路から見る度に、呆れ果てていたものです。また、この時転入した113系阪和快速色のクハもスカ色モハを挟み、4両で運転されていましたがいよいよ国鉄からJRへ移行する最後の時期に、イベント用で阪和+スカ+湘南色のとんでもない6連に組成し直され、ワインレッドのクモユニと共に走った事もあるそうです。(・・・と、伝聞体なのは、実際に見たような気もするのですが、どうも記憶があやふやで一部趣味誌には「走った」と記載されている為です・・・)

じきにスカ色に塗りなおされたこのクモユニは、その後10年にわたって、外房・内房を走ります。4両配置されていたので、運用に入らぬ2両はクモヤ代用として、工場入場車のお供をしたりしました。

さて、私は高校に入ると鉄そっちのけでそれまでやりたくともできなかった夜遊びに精を出していたのですが、高校2年の夏休みに久々に家に戻ると、親が幕張電車区の一般公開が行われることを教えてくれたのでした。もはや殆どテツへの興味を失っていたのですが、折角のチャンスだからと出かけ、そこで撮影した1枚が上の写真です。

やがて、私が高校を卒業し、浪人生活に入る1996年にはこのクモユニを毎日見るようになります。と、いうのも、自習室という予備校独自の学習ルームになじめなかった私は、授業が終われば急いで家に帰るようにしていたからだったのです。クモユニを尻にぶら下げた113系の6連が、比較的早く家に帰ることの出来た月曜日・水曜日の定番帰宅列車でした。

ところが、秋も深まってきたその年の11月の下旬頃から、千葉駅や外房沿線に何人かのテツの人が姿を見せ、クモユニにカメラを向けている姿を見るようになります。どこかの雑誌が煽りでもしたのかと思っていると、12月1日のダイヤ改正を機に、クモユニの活躍は見ることが出来なくなってしまいました。当時私は鉄道雑誌をあまり熱心に読んでいなかったこともあり、置き換えが行われるとは知らなかったのです。

そうして消えていったクモユニでしたが、その後入れ替え用などとして東日本管内の各事業所へと散っていきました。私は大糸線でその姿を1回目にしましたが、かつてのスカ色ではなく、湘南色に身をまとったそのクモユニと、かつて潮風を浴びながら外房線を走ったクモユニの記憶がどうしても重ならなかった事だけを記憶しています。

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