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千葉の鉄道と龍彦 | ||
Marine City Express 183系の思い出 | ||
2001.09 安房天津−安房鴨川 東京の街も普段の喧騒を忘れたかのような週末の夕暮れ、僕は独り外堀の景色をぼんやりと眺めておりました。オレンジや黄色の電車が行き交う外堀を、見慣れた183系が走り抜けていきます。僕が通う大学の側で183系を見るのは、本当に久しぶりのことでした。水面にクリームと赤のラインを浮かべるようにして新宿へと向かう183系を眺めているうちに、僕の心のなかに183系の思い出が蘇ります…。 生まれた時から駅のそばで育った僕にとって、「千葉の鉄道」とはその後の人生の趣味を決定付けるものであったのは間違いない事と思います。赤ん坊の頃から僕はお手伝いのおばさんや祖母に連れられて毎日のように駅に発着する電車を見てきました。そんな僕の最初の記憶としての「電車」は、他ならぬ183系でした。子供の頃、大原駅を発着する「わかしお」や165系急行の「外房」は、僕にとって夢のような電車だったのです。両親に東京に連れて行ってもらう時、いつもわくわくしながら駅のホームで特急を待ったこと、そして中に入ると、青いモケットの座席にシートカバーのクロスの白さがまぶしくて、はしゃいでしまったこと、デッキの冷水機で飲んだ水の冷たさ・・・全てが、今も僕の胸に鮮やかに蘇ります。 そんな183系が、房総特急だけでなく、中央線や上越線でも特急列車として活躍していたことを知ったのは、鉄道に関する本を両親に与えられるようになって間もなくの事でした。親が与えてくれた本を使って、新しい知識を吸収し、やがてはそこに書いてある事を理解してゆきました。まだ保育園児だった僕は、新しい知識を求め、大人向けの鉄道に関する書籍や雑誌を読むようになり、いつのまにか漢字を読む事が出来るようになって行ったのです。 そんなある日、父親が駅で見てきた1982年11月のダイヤ改正のニュースは、僕にとって衝撃的なものでした。外房線の急行廃止、そして特急への格上げ。房総地区を、それまで上越線のクイーンとして走りつづけた183系が走り出す・・・。その事自体はとてもうれしかったのですが、一方で廃止になる房総急行用の車輛がどうなるのか考えた時、見なれた風景がなくなってしまうことの寂しさも感じていました。 そしてダイヤ改正が行われ、間も無く外房線にも183系1000番台が走り出しました。駅に見に行くと、それまでいつも見てきた貫通型ではない先頭車を組み込んだ183系が、何だかノッペリした顔つきに「わかしお」のヘッドマークを掲げて走る姿は何とも誇らしく感じられたものです。両親と一緒のお出かけの時も、1000番台の編成に乗ることはとても楽しく、そんなに違いがあるわけでもないのに夢中で違いを探そうと頑張ったこともありました。 また、保育園を卒園する少し前、外房線へ田町所属の183系に牽引されてクロ157が入線しました。日の丸の旗を持って線路端に行き、一生懸命旗を振る友達を尻目に、走ってくる電車が183系であること、ヘッドマークがクリーム色になっていた事、そしてクロ157の車高が183系よりも高いのを実際に見て、一人喜んでいたのも懐かしい記憶です。 やがて僕は小学生になりました。思えばこの頃から、外房線を走る「わかしお」にも少しずつ変化が訪れはじめていたのです。小学校2年になる1985年の春、ダイヤ改正が行われ、まもなく外房線には183系のモノクラス編成が走り出しました。ガラガラでもいい、食堂車なんかなくてもいい、グリーン車を連結して走っていてくれさえすればいいものを・・・そんな気持で走り去る短い編成の183系を見ていた事を思い出します。 この頃、僕は小学校まで毎日通学路として指定された線路脇の細い道を歩いて通っていたのですが、ある日の帰り道、とんでもない183系が走ってくるのを目にします。長い編成の183系の中間に、モハと隣り合わせにクハが組みこまれ、しっかりとホロで結ばれたその様子は、サロ不在の喪失感にも似た気持を吹き飛ばしてしまうほど衝撃的でした。この編成にその年の夏、家族で乗る事になるのですが、僕は中間に組みこまれたクハの運転台の下に立ち。それまで見る事の出来なかった乗務員室の部分をじっくりと眺めていました。 初めて一人で特急に乗ったのも183系の「わかしお」でした。それまで何度か一人で電車に乗る事はあったのですが、やはり大好きだった特急電車に、一人で乗るという事はちょっとだけオトナになったような気分がしたものです。やがて小学校も高学年になる頃にはあまり家族で出掛ける事もなくなり、僕は一人で東京に遊びに行くことを覚えます。そんな時も、常に行き帰りのどちらかで、183系の「わかしお」を利用しました。小さい頃からいつも変わる事もなく同じいでたちの183系は、ちょうどJRになって派手な色遣いの電車が増えてきた事とも重なって、落ち着いた色合いでいいなと思っていました。 中学生になる頃には、幕張の183系とも疎遠になっていきます。勿論、電車が好きだったことには変わりがないのですが・・・。そうそう東京にしょっちゅう一人で遊びに行く事もままならぬほど忙しくなってきて、特急電車を使う機会が減っていきます。同じ頃、房総特急も長年走りつづけた総武快速線をただ派手な色遣いなだけの成田エクスプレスに追われ、京葉線を走るようになっていくのですが、残念ながら乗車のチャンスは失われたままでした。 1991 三門−大原 カメラを買ったばかりの頃の1枚 この頃、初めて一眼レフカメラを買ってもらい、近場で電車の写真を撮るようになります。その頃撮影した写真は、今から見てもつたなく、あまりに粗末な写真ばかりですが、夢中でシャッターを切ることの楽しさを感じながら、撮影を続けました。もう、ネガも残ってはいない写真ばかりですが、そんな頃もあったのだと懐かしく思い出します。 そして中学3年生になった時、修学旅行の行きに東京まで183系使用の集約臨に乗る事になりました。サロ組みこみの9連、僕の割当は2号車、つまり当時のサロ組みこみ位置でした。修学旅行よりも、サロで東京までゆったりと座っていけることのほうが嬉しくてたまりませんでした。 1993年春。僕は生まれ育った地元を離れ、内房沿線最寄の高校に進学します。時を同じくして房総地区に255系が投入され、試運転が開始された時、生半可な僕の鉄道に関する知識でも、とうとう183系の余剰車が発生し、経年を考慮すれば廃車になってもおかしくはない事に気がつきました。事実、その年の余りに短かった夏の始まる頃には、255系が走り始めました。 時期は違うけど・・・幕張電車区に留置された廃車予定車 2001.04 そんな状況で迎えた夏休みの予備校通いの途中で目にする幕張電車区の留置線に183系が押し込められているのを見た時、暗い気持になったのを思い出します。ちょうどこの頃から、僕は鉄道に対する興味を失い始めていきます。もう、183も見納めなのか・・・。それは、僕にとって思い出以上の何かが消えてしまう事を示唆していました。 そんな中で、僕は高校を卒業し、浪人生活に入ります。ろくに実家に帰りもせず、破滅的な夜遊びの毎日を過ごしていた生活から、規則正しい生活へと一変した毎日の中で、通学手段としてしか考えていなかった「電車」への興味を取り戻します。毎日の通学の足となった外房線。そこには、183系がまだ存在していました。「大学の入学式の朝、また183系に乗っていけたらいいな…」。そんな期待を胸に、1年間の浪人生活と入試をどうにかくぐり抜ける事が出来ました。 1997年4月3日、真新しいスーツに身を包んだ僕は、満開の桜とまぶしい朝の光を受けて大原駅のホームへと入線してくる183系の姿を見ていました。方向幕には「おはようわかしお 東京」の表示が出ていました。そう、その列車は僕が入学式に向かう為に乗った列車だったのです。乗ってしまうとあの頃とは明らかに違う車内の様子に戸惑いを覚えました。座席のモケットの色も、昔と違う・・・随分変わってしまったんだと感じました。 しかし、4月にしては強い陽射しの中を走りぬける183系は、僕が子供の頃に憧れ、胸を期待に膨らませながら乗っていたあの「特急電車」そのものでした。洗面台の脇にある冷水機、車内放送の前に流れる鉄道唱歌のチャイム。それらは、全てあの頃のままでした。とっくの昔に忘れ去ってしまったと思い込んでいた子供の頃の懐かしい記憶が、一気に胸の中に蘇ってくるのを感じていました・・・。 それから3年の月日が過ぎました。大学が都心にあることも幸いし、僕はずっと家からの通学を続けました。毎日の通学、東京でのアルバイト、旅行・・・183系を利用した事は数え切れません。ライナー、しおさい、わかしお、それらは列車名こそ違えど、子供の頃からの憧れだった183系以外の何物でもなかったのです。もう28年間、一時も休むことなく僕の住む街を走りつづけてきた183系には、流石に疲れが見えてきています。大学に入ってからの3年間に廃車になって消えていった編成もいます。 しかし、今も走り続ける183系には、僕の記憶の中にある姿そのままに、その最後の瞬間まで房総の永遠のQueenとして輝きを失うことなく、はばたき続けて欲しいと願ってやみません。 そしていつか必ず訪れるであろう183系との永遠の別れの日を、僕は幼かったあの頃と同じように、大原駅のホームから見送る事が出来れば、そう思っています。 ・・・ここまで書き上げたのは2000年7月のことでした。その後、幕張183系に残っていたサロが減車されることになりました。僕はサロ183房総地区最後の営業となった2000年12月1日を、大原駅のホームで迎える事になります。ちょうど幼い頃と同じように・・・
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