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作者プロフィール  


作者プロフィール (長いので、別にお読みいただかなくでも結構です。




 1962年 東京生まれ。生まれてから今まで、西武池袋線 ひばりヶ丘を最寄り駅とする。
 当然のように、西武線が好きになるが、もちろん、形式などわかるはずもなく、ただ漠然と
西武線を見る日々を過ごしていた。

 【第1期】
 幼稚園の頃の正月、父に交通博物館に連れて行ってもらい、なにかのくじでHOペーパーキット集
の本をもらった。この本は京急のキットであったが、紙で作る方法を覚え、(直方体の展開図です。)
毎日のように、画用紙で西武線を作っていた。

 そんな自分に衝撃を与えたのは、昭和43年、暮れのことであった。
 今まで、西武線=赤い電車と信じていた線路に、鮮やかな黄色の電車が走っていたのだ。
(後年判明したことだが、時期から言って、701系の試験塗装車であったと思う。)
 小学校に入学したのが昭和44年。当時友達の間で時刻表集めがはやり、池袋から飯能までの
全駅を回ってポケット時刻表を集めた。当時は小手指ではなく、西所沢行きであったが、西所沢を
出ると20分ヘッドになってしまい、朝9時頃ひばりヶ丘を出て、家に戻ったのは夕方4時過ぎであった。
入間川旧鉄橋を渡った時のことは、今でもよく覚えている。
 当時は、昼間は4連が多かったが、初めて101の8連を見たときは、101が増備されているとは
考えず、今までの赤い西武線も黄色くなるんだと信じていた。
 101系に乗りたくて、父にたのんで、ひばりヶ丘から石神井公園まで行き、そこで、下りにくる101系
に乗ろうとしたが、もう1駅欲張って富士見台までいったら、駅に着いたときに下りに101が到着し、
階段を降り切った時に無情にもドアが閉まり、目の前を101が出て行ったことも思い出である。
 10月には秩父線開通。レッドアローが走り始めた。当時1日数本しか走っておらず、夕方の5時位の
下りレッドアローをひばりヶ丘までよく見に行った。
 2年生の頃、801系に乗りたくなって、何本も何本も電車を待ったが、来るのは701ばかり。1時間
近く待ってあきらめたが、いま思えば45年頃には801は新宿線に転属していて、池袋線は走っていな
かったのだと思う。
 家では相変わらず、紙で西武線を作っていたが、プラレールの総武線を買ってもらったのをきっかけに、
今までもっていた山手線を赤電カラーに塗り替えて遊んだりした。
 47年には試作冷房車が登場。保谷に出掛けた時の帰り、どうしても冷房車に乗りたくて(たった、
1駅なのに)30分位まって、あきらめかけて、ふと車庫を見たら、冷房車がとまっていた。いくら
待っても来るはずなかったと落胆したとき、大泉方面から101系が入ってきた。屋根をみると分散冷
房が。そう、試作冷房車は5編成作られていたのです。初めて冷房車の車内に入った時の感動も忘れ
られない。
 その後、183Fが非冷房で出場してきた。分散冷房と集中冷房を比較検討していたためであるが、
そんなこと知るよしもない自分は、冷房車は5本で終わりなのかと落胆した。
 小学校5年の時には、廃車間近で転属してきたのであろうか。側面4つの窓が、2つのあと広くあ
いて、また2つという311系を初めて見た。この311も大泉学園の改札で見かけ、ダッシュで階段を
駆け上がり、ホームに向かったが、無情にも電車は出発してしまった。このタイプの311は後にも先
にもこの1回きりしか見られなかった。
 小学校1年生の時から作り続けられた101も増備に増備を続け、小学校を卒業する50年春には
ついに200番を越えていた。
 私の小学校時代はまさに、101系の時代であった。
 また、鉄道模型は、5年生の時に鉄道模型クラブができ、当時の主流HOをかじったが、HOで西武
線をたくさん作りたいという夢は、夢のまま終わってしまった。クラブの友達1人1人が自分の架空鉄道
名をつけていて、自分は茂急という名前にし、フリーランスの車両を作った。

 昭和50年春、中学校に進学すると、701の冷改が始まった。赤電カラーのままの冷改701、ドアが
801のようにステンレスに変更され、とっても格好よかった。その後701冷改車は黄色1色になったが、
変更過渡期の赤・黄、混色編成はなぜ写真をとっておかなかったかと、とても悔やまれる。

 このあたりで、自分の西武線熱はいったん冷めてしまった。ここまでが、第1期である。

 【第2期】
 高校に入り、2年の時、友達に西武線好きがいて、西武線の写真をとってほしいと頼まれた。ここからが、
西武鉄道の写真を取り始めた最初である。ちょうど501が廃車になる時期で、ぎりぎりで、何枚か撮影が
間に合った。

 大学受験に失敗し、1年浪人中の56年、受験勉強の息抜きにと近くの模型屋でGMの101キットを買い、
冷改後の101を作った。これが西武線初作品となり、浪人生という時間が自由になる立場を悪用?し、
Nゲージを作りまくった。また、予備校に行くときにカメラを持ち、写真をとりまくっていた。501が廃車になり
残りの赤電が最後の活躍をしている時期であった。
 次の年、遊んでいた割には、なんとか大学に合格し、西武線への熱はいつしか、車やバイクに向けられて
いった。
 ここまでが第2期である。大学は無事4年で卒業し、就職もできた。

 【第3期】
 いつしか、時代は昭和から平成に代わっていた。そんな平成2年のとある日、たまたま乗った拝島線で
玉川上水にさしかかったとき、何気なく車庫を見ていると、ヘッドマークをつけた351が止まっていた。
家に帰って、新聞を見るて初めて351が廃車になり、さよならイベントを行うことを知った。しばらく冷めて
いた、西武線熱が再び再燃し、いてもたってもいられず、さよなら運転に向かった。その後行われた、
玉川上水でのさよならイベントにも参加した。
 次の年、長男が誕生。プラレールが好きな息子のために絶版になっていたレッドアローのプラレールを
血眼になって探し、福生と国立で買い求めた。この苦労が、子供の頃西武線プラレールがほしかった思い
に火をつけてしまい、その後、ほとんどの西武線をプラレールで作成した。何本か作ったところで、かわら版
に紹介していただき、また後日プラレールの本でも紹介していただいた。
 平成7年にはレッドアローが廃車になるということで、HMを自作し、秩父で実車に取り付けてもらったも
のをその年の年賀状として作った。その後も2年間にわたり、オリジナルHMを実車につけさせていただき
年賀状や暑中見舞いに使った。また、ダンボールでレッドアローを6つ作り、近所の息子の友達とともに、
写真をとったものもかわら版に紹介していただいた。
 レッドアローはさよなら運転には2日間乗車し、その後定期運用最終日の最終列車に乗り、最後に秩父
夜祭りの臨時列車(一般の人が乗れる最後のレッドアロー)にも乗車した。先日の101さよならと比べると
本当にほのぼのとしていた時代で、さよなら運転以外は鉄道ファンは数人しかいないという時代だった。
 平成9年には息子用に西武線カルタを作り、またまたかわら版に紹介していただいた。夏にはレッドアロー
30周年を記念して富山まで行き、オリジナルHMを付けて撮影をしてきた。

このように、西武線に熱中した時期もあれば、冷めていた時期もあったが、去年ホームページビルダーを
買ったのを機に、いままで細々と公開していた西武線のHPを充実させていこうと思い立った。
気が付くと、池袋線は2000N、6000、20000、10000だらけとなってしまったが、自分は80年代の
西武線にしか、興味がない。スキャナをもっていないので、デジカメで複写したもので、お見苦しいもの
だが、80年代を中心とした西武線の様子をご覧いただければと思っています。



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