このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

作者の紹介

作者(sugar)の紹介です


195×年、長野県飯田市に生まれる       飯田線の沿線に生まれたために、幼い頃から電車を見て育つ       (当時飯田線は「旧電の宝庫」と呼ばれていた) 196×年、長野県松本市に移る       松本駅から浅間温泉までの「浅間線」の沿線に住む       母親の実家のある静岡県浜松市へは、毎年、松本から中央西線       で行き来をした       (当時はSLが引く客車が塩尻でスイッチバックをしていた)       松本から東京へ遊びに行った時は、ディーゼル急行であった 196×年、再び飯田市に戻る       浜松市へは、飯田線の52系快速で行った 197×年、飯田線の旧電に乗って高校へ通学       飯田線の旧電の塗色は「ブドウ色」から「湘南カラー」さらに       「スカ色」へと変わった       クモユニ81は、かなり遅くまで走っていた       当時、飯田を早朝にたったディーゼル列車は、辰野で前2両が       松本から来た新宿行に併結し、後3両が上諏訪から来た長野行       に併結した。長野行は、途中「東塩尻信号所」で「あずさ」の       通過待ちをした       夕方になると、家の近くの飯田〜切石〜鼎〜下山村の大カーブ       へ、よく電車を見に行った       初めて自分で飯田線のダイヤグラムを描く 198×年、東京の大学へ進学       暇さえあるとカメラを片手に「ユース」へ泊まりながら鉄道旅行       4年間に北海道、東北、関西、中国、四国などを列車で旅行       (九州と沖縄だけは行く機会がなかった)       飯田へ帰省をする時は、普通列車の乗り継ぎか、夜行のアルプス       であった。当時、飯田〜新宿の直通は松本運転所の165系であ       った(辰野から分割・併結)       一番の思い出は、急行「高千穂」に12時間近く乗って岡山まで       行ったこと(当時はEF58が牽引をした) 199×年、大糸線にC58が入った時の写真コンテストで、佳作に入選して       松本駅のコンコースにその時の作品が飾られた       各鉄道雑誌に投稿し、ときどき掲載される <鉄道関係で特に興味があること>       列車が、自分が引いたダイヤグラム通りに運行されているか       確認できた時。特に回送や臨時列車が、自分が想定したスジ       通りに走っている時などは感激が大きい。      

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