このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

やっぱりね。
いくら天気が続いたとはいえ、山越えをする国道289号です。山陰日陰にはまだ少し凍結が。

雪の轍がそのまま氷になり、ある程度解けてきた感じの箇所が5〜6もあったでしょうか。海沿いの勿来から約 50km 程も山中を走り抜けると、そこは棚倉。道は西郷村を経て白河市に入ります。

ここ白河の関も西暦5世紀頃に、奥州南下に備えた砦として造られたそうです。記録によれば12世紀ころまでは建っていたそうですが、その後取り潰されたらしく、江戸に入り時の白河藩主が遺跡発掘を行い、現在の地に「関所は実在した!」と証明したそうです。

夏の高校野球でアナウンサーが「今年も甲子園優勝旗は白河の関を越えられないのか」と漏らすのを耳にされた方も多いはずです。白河の関の向うとは奥州(蝦夷)の地、すなわち現在の東北地方を指しています。
そんな表現が生まれるほど、東北地方への玄関口として認知されていたという事になります。


[白河神社参道より望む]


[白河関にたつ白河神社正面]

そんなわけで、白河の関は既に江戸時代には幻の関所、詩歌に歌われる郷愁の施設と化していたのです。

何だか謎の古代文明を追え!を彷佛とさせ、これは正直意外な事実でした。

現在関所跡には当時の壕や建造物の跡が見られ、また同敷地内には白河神社が建っています。松尾芭蕉と弟子の曽良が立ち寄ったことでも知られています。

併設する施設として、古代縦穴式住居を再現したものや、江戸時代の関所、明治時代の農家を復元移築したものが展示されています。また滑り台などの子供用遊戯施設もあり、天候に恵まれた今日などは、多くの家族連れで賑わっています。

「松尾芭蕉かぁ・・・」

俳界の聖人としての顔から、はたまた忍者説まで人々に愛される男。私が読んだなかで印象に残っている芭蕉関連の小説では、「ちはらふる奥の細道」(ウィリアム・C・フラナガンこと小林信彦著)が挙げられる。え〜、パロディ小説である (^^;

 都をば霞とともにたちしかど
        秋風ぞ吹く白河の関

この歌は能因法師によるもの。白河の関を代表する歌だそうで、他にも西行や一遍上人など沢山の歌が残されています。

白河の関は江戸から見て奥州への玄関口、街道もそれより先を奥州街道と呼ぶのが通例である。しかしこれは江戸期のことで、奥州三古関の白河関の事ではない。古代白河関は東山道の関所として君臨していたのだ。文献によれば、800年頃役60名の役人が詰めていたそうである。


[今回はここまで、日も暮れてきました]

さてすっかり日が落ちました。残るは念珠の関ですが、これは日本海側山形県にあります。とても今日中には無理です。大体雪のなか MG-F では行けません(多分に自信がないので)。それは春までのおあずけです。そろそろ家路につくとしましょうか。MG-F のキーを捻ります。ブロロロ〜ン。


念珠の関へ

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