【ドラえもん考】#1 いつ梅雨に入ってもおかしくない、しかしそれでいて朝夕の爽やかな風に、つい心緩 めてしまう。5月の末。我々は研究室のソファに1人の男性を迎えていた。 「でね、空海がナウポウアカシャキャ云々と虚空蔵聞持法百万遍に望むんだけど」 今年初めからずっと準備を続けていた実験も終え、徹夜でまとめあげたレポートも提 出期限を過ぎる事なくギリギリセーフで滑り込み、漸く室内にも平穏な空気が戻って きた。 「こくうぞうもんじ法って何ですか?」 虚空蔵聞持法ってのは、あれだね、虚空蔵菩薩を信心する事で知識を得る秘法。 専門分野とは全く異なる仏教史とあって、一文字君もなかなか要領を得ないようだ。 そんな素朴なひとつひとつの問いにも、男は丁寧に応えてくれている。名を多岐川秀 明と言う。山岳宗教から密教まで、その筋に詳しい男だ。 あれは私が北海道旅行をしていた時の事。自身の研究の合間に、かの地での開拓と神 社の歴史を調査してみようと、北の大地を旅した先の神社で出会ったのがきっかけだ。 今年で65という年齢には見合わず、エネルギッシュに各地に残る古刹旧跡を訪ね歩 いている彼と知り合ったのだ。意気投合したというのか、それ以来、時折こうして研 究室に顔を見せてくれる。普段の研究から全く離れた会話というのは、新しい切り口 を見つけるきっかけにもなるし、何より楽しいのが一番である。 「一文字君のように若い人たちは馴染みが薄いよね。そもそも虚空蔵菩薩とはね、広 大無辺の功徳を包蔵する菩薩と言われ、その仏を信仰するだけで一切の経典千万巻 を暗記できちゃうという、非常〜に有難い菩薩様なんだ」 「へぇぇ、何だか暗記パンみたいで、とっても便利そうですね」 「暗記パンって?」 さすがの多岐川さんも、ドラえもんまでは手が廻らないらしい。 「そりゃ漫画のドラえもんに出てくる便利グッズの1つじゃないか、ははは」 と、私なりにフォローを入れたその瞬間、積年の謎が1つ氷解してゆくのを感じた。 [
続く
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