方位の謎というか、東洋思想において、方位は重要視されてきた。四方に何を配するか?北西&南西に何を配するか?中国思想を色濃く取り入れた日本も、陰陽から始めて、凄まじいまでの法則が誕生し、変貌し、何時の間にやら消え去っていった。
島津の押さえ・小郡の實相寺2002.12.30追記2008.8.14
福岡県の小郡市(山口県の小郡町とは違うからね、留意の事!)には、三つ葉葵を寺紋とする寺院が在る。
三つ葉葵を寺紋とする寺は、徳川家の宗門である浄土宗である事が多いのだが、ここも当然、浄土宗。幕藩時代、ここを通る参勤交代の行列がいちいち拝礼していたという曰く付きの、寺院でも在る。ここを通過して、松崎で薩摩街道に合流するのである。
しかし、筑後の片田舎、その寺に、何故、三つ葉葵を配した寺が誕生したのであろうか?
由来を調べても、謎ばっかりで、なして、三つ葉葵なのか?不明のまま!っつーのが地元の通説である。
ところんぐぁっ!当時の陰陽師が多用していた(安倍清明の末裔達)南北線の呪法を用いると、簡単に謎が解けるのである。
戦国時代の多くの呪法に長じた武将達は、配下の助言者達を駆使して、仏教創立時や初期の高僧が築いた呪術線を見出し、再利用した。その呪術線を利用して、外様の雄藩を押さえに掛かった。
当時の雄藩と言えば、薩摩の島津氏である。関が原の敵中大突破ゆーたら、徳川直卒の予備兵力(後詰)を総動員しての追撃戦を見事にしのぎきった島津、目の上のたんこぶみたいなもんでしょ?
えらいいびられましたからねぇ。長良川河口部でしたっけ?あっこの人達にとっては、薩摩の方々、神様みたいなもんだしね。全員殉職だよ!ここまで家族を追い込んだ奴等を許すと思う?明治維新の遠因はこーゆートコにあったりするんだ。誰が死んだかすら、伝える事も出来ず、口伝で「一生に一度、彼の地を訪れよ」だけしか許されなかったんだ。
ところで、薩摩藩の居城は、今の城山である。本丸の在った場所は、今鹿児島大学医学部になっているのだが、二万五千分の一地図で確認すると、小郡市を含む地図と鹿児島市北部を含む地図の経度線は同一である。加えて、實相寺の位置と鶴丸城の本丸位置は、イヤらしいまでに右端から同じ距離にあるのだ。しかし、そんなに露骨じゃ無い筈だ。じゃ!と言うんで、きっちり責める。
きっちり攻めると、島津藩の東照宮の位置と符合し、その後、島津斉彬を祭る照国神社となるのだが、島津の君主に参拝させる東照宮の位置の真北にあった寺を利用したっちゅう事だ。実際やる時は、墓所を狙ったりする。人は死ぬと、北(方位は黒・冬や死を象徴する)へ進む。その線上に徳川の封印を設置すれば、その死者の魂とその力を取り込める。そーゆー考えだったみたい。
元来、竜造寺の家臣であった人物の寺に目をつけた幕府方の陰陽師は凄いけれど、ワタシが探し出した文献からは故意に削除されている様子がありありだし、つじつまの合わない記述も在る。これは、禁忌の存在である事をそれとなく伝えていたのだろうか?有馬藩の方では理解していたとしか思えない。
かつて隆盛を極めた久留米の大善寺の貫主まで担ぎ出したらしいから、大善寺の明治維新以後の衰亡も説明がつくし、きっちり落とし前付けているみたいだねぇ。
島津家の押さえとして、利用された浄土宗實相寺これで、小郡の謎が一つ解けた。
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