このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

島唄の神様
 嘉手苅林昌は 「島唄の神様」と称される沖縄民謡の第一人者。1920年沖縄本島中部越来村(現嘉手納基地内)に生まれる。
 数え7歳から三線を弾く。母親が歌い手で、そのあとについて祝いの宴席や祭り行事に行っては、見よう聞きまねで三線を弾いた。習い覚えて半年もたたないうちに母の地方を勤められた。歌三線の才能は天賦のものだった。
 11歳で奉公に出される。小商店で使い走りだった。16歳で父親が売った牛の代金を拝借し、大阪に逃げる。芭蕉の単衣に地下足袋姿だった。製材所で人夫として働く。最初の給料で、拝借金を送金した。
 二度目の給料で古い三線を買う。それ以来、19歳で徴兵され、復員引き揚げ船の中でも三線を手離したことがないという。軍隊内では「特令を以て三線の携帯を許可」された。上司に恵まれたのであろうか。
 敗戦後、1年3カ月南洋に留まる。サイパンで女郎屋を譲り受けて失敗した後、タオンサック島の酋長の娘アイリンに見そめられ、入り婿に迎えられた。嘉手苅の美声にアイリン嬢が魅せられたのだろうか。
 1949年、荒廃と混乱に傷ついた沖縄に帰郷。6年間、馬車曳きをやって暮らす。理由は、仕事をしながら唄っても、誰にも迷惑がかからないからだそうだ。どこでも歌い出す癖があった。那覇とコザの行き戻りに馬車の上で三線を弾き、思う存分に唄った。しだいにラジオや村の催事でも唄うようになる。
 沖縄にようやく復興の兆しが見えた頃、本腰を入れて劇団の地謡として島々を唄い歩く。本島、宮古、八重山、島々浦々、足跡いたらぬなしというほど廻る。内地にも行く。女性にとても持てた。1年以上暮らした女性は9人以上もいたという。
 四十代までは45度の泡盛を2升飲み、恋と酒とそして喧嘩に明け暮れた多情多恨の天下の無頼漢だった。古典派、島唄界のエリート、民謡協会からは鼻つまみ者にされた。
 1994年沖縄県功労者賞文化部門受賞。1997年地域文化功労者賞受賞。1999年琉球民謡協会より民謡名人の称号を受ける。そして1999年10月9日、肺ガンのため死亡。
 生涯でアルバム約30枚、シングル約100枚を録音し、常に他の追随を許さない第一人者として君臨した。
 死後、林昌出演の映画「ナビイの恋」が上映された。痩せて枯れた美声の持ち主だった。
 竹中労氏は次のように林昌氏に初めてあったときの模様を語っている。
 「それから忘れもしない文化の日、11月3日にコザへ行って嘉手苅林昌という謡人(うたびと)にバツタリ会ってしまった。
嘉手苅さん、そのころは大酒飲みです。ネジリ鉢巻でサンシン(三絃)わしづかみにして、ベろんべろんに酔っぱらっでね、魔のごとくうたいまくる。『ナークニ』『カイサレ』なんです、これがモウアシビの唄ときている。ことごとくこれ春歌。そのときは初会でむろん気がつかなかったけれど、次に会ったときにちがうんですよ、うたい方も歌詞も、またその次はまるでちがっちやう」。
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