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フランチャイズの変遷

 1952年にフランチャイズ制が正式に施行されたのちも、フランチャイズに関する議論は絶えることがなかった。それは球団の本拠地の分布にかなりの偏りがみられたからである。

 後楽園球場を本拠地とする球団は5つあったが、そのうち東急の後身の東映フライヤーズは観客動員数が少ないとして、後楽園球場からしめ出されて駒沢球場に移った。後楽園球場側の言い分は、読売のように一試合に数万人の観衆を集めるチームがある一方で、東映のようにわずかしか入らないチームもあり、利益をあげるためにはより観客の集まる球団に多く使ってもらいたいというものであった(『朝日新聞』1954年12月8日日刊6面)。後楽園球場側は同球場の使用について巨人、毎日、国鉄、大映の4球団と話合った結果、1955年度の使用割当は総試合日程数144日、読売球団55日、毎日球団35日、国鉄球団27日、大映球団27日と発表した(『朝日新聞』1954年12月23日日刊6面)。これは先の後楽園球場側の言い分に沿うものであった。後楽園球場はこれら4球団の本拠球場ではあったが、観客動員数の多少によって、野球場側は球団ごとに使用日程数の差を設けた。後楽園球場を経営する後楽園スタヂアムも営利会社なので仕方がないことである。
 1953年末に誕生した高橋ユニオンズは翌年から川崎球場を本拠地とし、さらに1955年には大洋ホエールズが同じく川崎球場を本拠地として移転してきた。これで1955年は14球団中7球団が京浜地区に集中することとなった。その後、1956年に大映スターズと高橋ユニオンズが合併し大映ユニオンズとなり、この合併球団がさらに毎日オリオンズと合併して大毎オリオンズとなったため、京浜地区には12球団中5球団が存在することとなった。
 1960年代は、東映が明治神宮球場を経て後楽園球場へ、国鉄が明治神宮球場へ、大毎が東京スタジアムへ移った。いずれも東京都内の移動で、フランチャイズは都道府県ごとに割り当てられているので、厳密な意味でのフランチャイズの移動ではない。

 阪神地区では1952年に松竹が京都の衣笠球場を使っていたが、実際は大阪球場で試合を多く行った。松竹は大洋と合併して洋松ロビンスとなり、大阪球場を本拠地としてが、1955年に川崎に移ってしまった。
 これ以降、関西には大阪、阪急、南海、近鉄の4球団が存在することとなる。大阪タイガーズは1961年から阪神タイガーズとなるが、1988年までこの4球団の状態が続いた。

 このような地域的な偏りがあるなかで、フランチャイズ再編成はいくどとなく叫ばれ続けた。広島や福岡で経営が成り立つのであるから、それらの都市と同規模の札幌や仙台でも成り立つはずである。しかし、フランチャイズが再編成されないのは親会社の利害関係がからむからであった。特に関西のパ・リーグ3球団については分散すべきとの声が強かった。
 関西の球団は地方で試合をすることも少なく、主催試合のほとんどを本拠地球場で行っていた。関西の球団の場合はいずれも親会社が電鉄会社であり、親会社の沿線に球場を持ち、ファンを輸送するという営業方針がある。地方進出については「せっかく試合を地方へ持っていっても雨で流れたら、ぼう大な損失だ。ガムや飲料水会社なら少しは宣伝になったとあきらめがつくが、うちには何のメリットもない」(『朝日新聞』1972年11月12日日刊18面)という発言があるほど消極的であった。東京で身売りをする球団が多いなか、1988年まで関西で球団の身売りがなかったのは、電鉄会社特有の経営方針のためであるが、それがかえってフランチャイズの分散を妨げたと考えられる。

 1972年12月にはこれまで1球団3都道府県となっていたフランチャイズ制を1球団1都道府県とすること改正した。これは地方進出をおし進めるためのもので、読売、ヤクルト、東映、ロッテは東京都、大洋は神奈川県、中日は愛知県、南海と近鉄は大阪府、阪急と阪神は兵庫県、広島は広島県、太平洋クラブは福岡県をそれぞれフランチャイズとした。
 1973年からロッテが東京スタジアムを追い出されてジプシーとなったが、この時に宮城県が準フランチャイズとして割り当てられ、宮城球場を本拠地とした。しかしリーグ優勝した1974年、宮城球場で日本シリーズは行われなかった。
 1978年には大洋が横浜スタジアムを本拠球場としたのと同時に、ロッテが大洋の本拠球場であった川崎球場に移った。
 翌1978年には西武鉄道がクラウンライターライオンズを買収して、埼玉県所沢に野球場をつくり、そこを西武ライオンズの本拠地とした。これによって九州に球団がなくなり、東京周辺に6球団とさらに地域的に偏った。
 その10年後の1988年に今度はダイエーが南海ホークスを買収して、福岡に球団を移すこととなった。都市名を冠して福岡ダイエーと名乗り、地元にアピールした。西武の場合もダイエーの場合も球団買収と同時のフランチャイズ移転であった。
 1992年にロッテオリオンズが千葉に移転して千葉ロッテマリーンズとなった。これが厳密な意味でのフランチャイズ移転の最後の例である。
 1990年にオリックスブレーブスが神戸に移転してオリックスブルーウェーブとなった。ドーム球場の完成により、1988年から読売と日本ハムが東京ドームへ、1993年に福岡ダイエーが福岡ドームに、1997年に近鉄が大阪ドームに、同じく1997年に中日がナゴヤドームに移った。1998年には西武ライオンズ球場に屋根がかぶせられ西武ドームと名乗ったが、本格的に屋根がついたのは1999年のことである。

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