このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

2004年1月

2004年1月31日(土)

新年あけましておめでとうございます。
かなり遅い新年の挨拶ですが、一応今日までが正月ということでお許しを。
久しぶりに更新しました。約一ヶ月半ぶりですか。
今月は書かないかも、と思っていましたが、とりあえず続けられて良かった。
あと、30,000ヒットありがとうございます。
こんな更新が疎かなサイトでも、来てくださる方々がいるのが嬉しいです。

今日は「野球場誌」に「鳥取市公設野球場」「鳥取西高グランド」「米子市営湊山球場」を追加。
いずれも高校球児さんの解説です。
米子市営湊山球場のは1月3日にお書きくださっていたのが、載せるのがほぼ一ヶ月後だとという、なんとも遅すぎです。
最近あまり野球場探索をしていなかったのですが、今月は跡地探訪として2つ見てきました。
一つは小田原市営野球場。もう一つは寝屋川の京阪グラウンド。
これについてはその日の日付の日記に書きましたので、そちらを。

こんなサイトですが、本年もよろしくお願いいたします。
本当は述べたいこと、いや、このサイトとして述べなければならないことが山ほどあるんですけれどもね。
それができないのがツライ。できないのではなくしていないだけか。

2004年1月14日(水)

実家で一泊してから大阪に帰る。その途中に寝屋川の京阪グラウンド跡地へ行きました。
大阪府内なので近いんだけど、今まで行ったことありませんでした。
昔はグラウンドの隣に駅があったのでその跡地を見に。でも地図がなかったので場所がよくわからなかった。
地図があれば駅のあったところはそれらしき町境があるのでわかったんだけどなぁ。
京阪グラウンドは現在住宅団地になっているのでそこを横切る。でも面影はなかったな。残念。
唯一あったのが「豊野」という地名。もともと豊野村で、駅名も運動場がなくなってから豊野駅に変更されていた。
なんのために行ったのかよくわからないけど、行かなければもっとわからないので行ってみてよかったとしよう。
もし今度行くならば、絶対に地図を持っていく。でも地図を持っていると現地の人に怪しい人と思われちゃうしなぁ。

2004年1月13日(火)

11日、12日と何かして、13日は小田原にいました。
12日に小田原の健康ランドに宿泊。
あたかも風呂好きと思われるかもしれないけど、風呂よりも泊まることができるので健康ランドを利用しているのです。
せっかくなので小田原城に行く。
案内図を見てビビビときた。臨時駐車場となっているところが昔野球場のようなのだ。扇形なので間違いない。
城に登ったあとその駐車場へ。一塁側にスタンドがあった。おぉ。
外野はフェンスとネットがそのまま。ライトには83の文字。83mということだ。
中堅は100だが、99が消されての100。書き直したんだね。レフトは86。ライト側が短い構造だ。
そのライトの後方には、小田原城の天守閣が!
城の近くに野球場がある、野球場からお城が見えるところは、彦根とか他にもあるけど、
これほどまで近くまた厳かなのは他にはないだろう。ライトへホームランを打ち込んだらカッコいいだろうなぁ。
三塁側にもスタンドがありました。そしてバックネットはそのままでした。
たぶん近年まで野球場として使われていたのでしょうね。
久々に野球場跡地探訪を堪能した日でした。

2004年1月10日(土)

とある用事で東京へ行く。用事を東京に着いてから30分くらいでとっとと済ませ、東京ドーム内の野球体育博物館へ行く。
土曜日のためかけっこう盛況で、調べモノをしていた人で机が埋め尽くされていました。
その全員がオトコというのがこの世界を物語っているといえようか。
今回は、現行の1都道府県のフランチャイズ制について調べようと思い、1973年前後の週刊ベースボール誌をペラペラめくってみた。
しかし、その肝心な記事がどこにも見当たらない。おかしいな、だいたいこの年だったのにな。
重要なことを頭に入れていない私が悪いんだけれども、それにしては語られていなさすぎ。
私が調べた1971年から1973年はプロ野球もけっこうタイヘンな時期だった。
いや、プロ野球というかパ・リーグがかなりの危機に瀕していた。
まず、西鉄ライオンズの身売り。リーグ優勝5回、日本一3回の名門チームが黒い霧事件などによってボロボロ。
太平洋クラブライオンズとなって再出発したものの、西鉄時代の弱小をひきずったまま。
球団譲渡といえば、東映フライヤーズが日拓ホームフライヤーズを経て、日本ハムファイターズに移っていったのもこの時期。
東京スタジアムを本拠地としていたロッテオリオンズが、球場売却を断ってジプシーになったのもこの時期。
本拠地球場のないチームなんて今となっては考えられないけど、当時はあまり重要視されていなかったのが驚きだった。
そしてパ・リーグの二シーズン制が始まったのもこの時期にあたる1973年。
こうしてみると、同じパ・リーグでも上記の3球団と、阪急、南海、近鉄の電鉄会社系球団に大きな差がみえるのがよくわかる。
近鉄もまぁ、藤井寺球場のナイター問題をかかえていたので、安泰とはいえなかったけど、球団譲渡やジプシーにまでは至ってないからね。
でもこれらパ・リーグの事件(?)も、週刊ベースボールではあまり大きく扱われていない。
では何が大きく扱われていたかというと、ジャイアンツなんだよなこれが。
当時の読売ジャイアンツは空前絶後ともいえるV9の真っ只中。
グラビアは現全日本チームの監督か現福岡ダイエーホークスの監督以下、ジャイアンツ勢でほとんど占められていた。
当時のジャイアンツ人気の高さがうかがえる。
プロ野球誌とはいえ、所詮は商業誌なので売れてナンボ。それがはっきりとわかる。
そのあおりを受けてか、私の調べようとしていたことも結局はほとんど見つけられなかったという始末。
これなら新聞紙をめくっていた方がよくわかる気がする。

17時になったので野球体育博物館をあとにする。あまりいい情報は得られなかった。
後楽園遊園地などをみてから、赤羽の健康ランドで一泊。

観戦日記に戻る

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください