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2002年2月26日 朝日新聞夕刊

野球場研究第一人者 沢柳政義

1月30日死去(脳内出血) 97歳 2月1日葬儀

 「野球場研究所」。東京・杉並の自宅玄関先に、表札大の看板があった。風変わり呼ばわりされるたびに、「こんな男が1人いていい」と涼しい顔を決め込んだ。
 富山県から上京し、給仕のかたわら大学専門部を出て東京市の職員になった。予算課に属し、公債事務の指導書も著している。数字と理屈に強かった。役所の軟式野球チームでは捕手だった。
 敗戦の45年、イモ畑と化していた上井草球場の整備を指揮したのが縁で、「体育施設計画協議会」の専門委員になる。連合国軍総司令部(GHQ)の発案だ。
 当時、野球場づくりの文献は見あたらなかった。「ならば自分でやるまで」。独学が始まった。都庁を辞め、退職金をはたいて『野球場建設の研究』を51年に自費出版する。妻と子供3人。アパートの家賃収入は野球場の理想像を探求する費用に消えがちだった。
 90年、86歳で労作『野球場大事典』(大空社、3万5千円)の出版にこぎつける。その2年前の東京ドーム開場が追い風になった。大リーグ球場の資料も豊富だ。
 視点が鋭い。例えばグラウンドの広さ。多くが国際規格に満たない日本の球場をしかった。甲子園のラッキーゾーン撤去を促す一因になったとされる。例えば観客の受け入れ能力。公式の定員数を明示し、水増し発表の悪習を嘆いた。土や芝にも、うるさかった。
 煙たがられはした。一方で下田武三・元コミッショナーらの信頼は厚く、全国各地の球場新設計画では助言役をゆだねられた。
 99年の『最新野球場大事典』に続く『日米プロ野球ガイド』(ともに大空社)の校正をしていた1月29日、不意に倒れた。年明けに正岡子規らが入った野球殿堂の選考で、この「市井の野球場博士」も推薦されていたと遺族が伝え聞いたのは、通夜の席である。
(スポーツ部・山田 雄一)

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