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兼六園球場はその名の通り、金沢の名勝・兼六園の近くに存在した。この地は戦前は陸軍歩兵第7連隊の出羽町練兵場であったが、戦後は公用地となり、第2回国民体育大会の開催を機会として、1947年10月25日に兼六園球場が建てられた。
兼六園球場はグラウンドが狭いことで有名で、竣工当時は両翼85m、中堅90mしかなかった。グラウンド開きという意味で8月に東京六大学OBリーグ戦を行ったところ、16本も本塁打が出た。1948年4月25日の太陽ロビンス×急映フライヤーズでも本塁打が6本も出たので拡張案が起こり、同年9月に両翼90m、中堅97mに拡張した。しかしこれでもなお狭く、1949年4月26日の読売ジャイアンツ×大映スターズでは両チームあわせて13本の本塁打が飛び乱れ、日本プロ野球記録をうちたてた。同年に失業救済事業として両翼99.1m、中堅122mと現在のプロ野球でも適する広さになったが、1959年の改築時に両翼91.4m、中堅112.8mとまた狭まった。
野球場の老朽化、近くの民家の密集、そして1974年に西部緑地公園内に石川県立野球場が設けられることになったので、1973年11月に兼六園球場は閉鎖された。跡地には1977年に石川厚生年金会館が建てられた。石川厚生年金会館は道路に沿って曲線をなしているが、この曲線が外野スタンドの外枠だと考えると感慨深い。
なお、杉本尚次先生の『スタジアムは燃えている』にも兼六園球場のことが紹介されていますので、そちらもぜひ御購読ください。
参考文献
杉本尚次(1992):『スタジアムは燃えている 日米野球文化論』日本放送出版協会.
年月日 | 工事内容 | 両翼 | 中堅 | ||
ft | m | ft | m | ||
1947年10月25日 | 完成 | 278.87 | 85 | 295.27 | 90 |
1948年9月30日 | 外野拡張 | 295.27 | 90 | 318.17 | 97 |
1950年3月31日 | 拡張 | 325 | 99.1 | 400 | 122.0 |
1959年6月13日 | 改造 | 300 | 91.4 | 370 | 112.8 |
資料 : 『野球場大事典』より作成.
兼六園球場の思い出を2つばかり申し上げます。
[1967年/中日−大洋戦]
一時拡張されていた同球場も当時は既に、中堅113m/両翼91.44m の狭い球場でした。
印象に残るのは、大洋の一塁手スチュワートの本塁打です。
私は、いまだかつて、あのような本塁打は観たことがありません。
打った瞬間は遊撃手頭上を襲うライナーと思えたものが、あっという間に左翼場外(小さな外野スタンドであったが)に消えたのです。
すさまじい打球音でした。
「空気を切り裂いていく」という表現がピッタリでしょう。30年以上経ったいまでも耳について離れません。
スチュワートは前年秋の日米親善野球で来日したドジャースのメンバーで、長打力が目を引いていましたが、大洋に入団したことでセ・リーグ各チームにはかなりの脅威となっていました。
川崎球場の左翼スタンド上に設置されていた「スチュワート・ネット」は、もちろん彼の場外弾に備えてのものでした。
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[1966年の都市対抗野球石川県予選/電電北陸−専売金沢]
この試合、専売金沢の監督兼投手は、以前プロ野球国鉄に所属していた当時、まさにこの球場で完全試合を達成した宮地でした。当時は、プロからアマへの転向が緩やかだったのでしょう。
当時小学2年の私は、宮地の完全試合についてなど知る由もありませんでしたが、一緒に観戦していた父の「宮地は昔は良かったが、今はさっぱりダメやな」という言葉が印象的でした。
監督が文字どおりの陣頭指揮でマウンドに立つものの、相手打者には乱打される。交代しようにも使える投手がいない状況。結局は0−7の大敗でした。
その後中学生くらいになって、宮地の「故郷に錦の完全試合」の記録を認識したころ、この試合での宮地のプレーは残酷なものだったんだなあと思ったものです。
解説 (金沢在住のI氏)
5月27日石川県卯辰山相撲場で開催の第85回高校相撲金沢大会に行ってきた。主催の北国新聞社が大会の歴史のパネルを展示していた。以下はその中の兼六園球場に関する文面。
第40回大会
昭和31年5月5・6日(兼六園球場) 〔写真〕
過去最高の105 校が参加した。初めての海外遠征を企画し、ハワイ親善相撲派遣の選手選抜を兼ねて開催。会場は現在の石川厚生年金会館で、球場の中は各学校の応援団席、スタンドは一般観客席に分けられていた。収容人数は約 4万人。38回大会から44回大会までまで 7年間使用された。
以上
昭和29〜35年まで兼六園球場で行われていたことになる。昭和36年からは現在の卯辰山になったようだ。文末のまでまではミスだと思う。写真は白黒で内野スタンドから内野のダイヤモンドにある土俵を引きで撮っている。金網やバックネットはなかった。見た感じでは内野スタンドは日生球場の外野より少し大きい程度なのでいくら内野グランドに人を入れるとしても四万人収容は眉唾だと思う。
翌日の北国新聞に観客は三万人とあったが実数は多めに数えても6000人、おそらく 3〜4000人だろう。ざっと見て3分の2が高校生の動員だ。
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