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野球通であれば鳴海球場のことを知っていることであろう。もちろんわが国で初めてプロ野球チーム同士の試合が行われた野球場のことである1)。
鳴海球場は1937年10月17日に名古屋市郊外の鳴海に建設された。当時はまだ名古屋市ではなく愛知郡鳴海町であった。鳴海町が名古屋市に編入されるのは1963年のことである2)。現住所は名古屋市緑区鳴海町である。経営者は愛知電気鉄道であったが、この鉄道会社は1935年に名岐鉄道と合併して名古屋鉄道となる。関西によくみられることであるが、戦前の鉄道会社は沿線開発の一環として郊外に野球場を設ける傾向にあったが、鳴海球場も愛知電気鉄道が沿線開発として設けたのであろう。ただし最寄駅の鳴海駅からは約700mとかなりの距離がある。観客収容数は2万人ほどであったが、両翼106m、中堅136mととてつもなく広かった。1951年刊行の『野球場建設の研究』には両翼315ft(96m)、中堅405ft(123.5m)と狭まってはいるが、それでも当時としては大野球場である。
鳴海球場の完成以後、中等学校野球の予選はすべて同球場で行われた。夏の選手権大会では、地元・中京商業が1931年から3連覇を果たしたこともあり、鳴海球場は「東海野球王国のメッカ」とも呼ばれた。また1931年と1934年の日米野球にも使用されており、ルー・ゲーリッグやベーブ・ルースも訪れている。
記念すべきプロ野球チーム同士の初試合は1936年2月9日に行われた。対戦カードは東京巨人軍×名古屋金鯱軍である。東京巨人軍はもちろん現在の読売ジャイアンツでのことであるが、このチームは1934年の日米野球の全日本チームを母体として同年12月26日に創立した(商号は株式会社大日本東京野球倶楽部)。名古屋金鯱軍は名古屋新聞社を親会社とするチームで、創立はこの一戦よりも遅く1936年2月28日である(商号は株式会社名古屋野球倶楽部)。なお当時、名古屋にはもう一つ名古屋軍というチームがあり(商号は株式会社大日本野球連盟名古屋協会)、こちらが中日ドラゴンズの前身である。名古屋軍の親会社は新愛知新聞で、名古屋新聞とはライバル関係にあった。そのライバル同士がそれぞれプロ野球チームを創設したのである。なお両新聞社は1942年に合併し、中部日本新聞社となった。現在の中日新聞社である3)。これら3チームを加えた7チームによって日本職業野球連盟が創立されたのが1936年2月5日のことである。
この日の一戦は2月14日からはじまる東京巨人軍の第2回アメリカ遠征を前にして行われたもので、「巨人渡米送別試合兼金鯱軍結成試合」と名付けられていた。『日本プロ野球50年史』の53ページに、この歴史的試合の写真が掲載されている。試合前であろうか、両チームのメンバーが審判をはさんでまるで高校球児のように並んでいる。試合は名古屋金鯱軍が東京巨人軍の沢村栄治選手を打ち込んで10対3で勝った。なおこの試合は名古屋ローカルではあったが、わが国で初めてラジオの実況中継がされたプロ野球の試合でもあった。このカードは3連戦組まれており、第2戦と第3戦は東京巨人軍が連勝した。
鳴海球場では同年の5月16日と17日の両日、日本職業野球連盟主催の名古屋大会が行われた。東京巨人軍はアメリカ遠征中であるので参加しなかったが、なぜか名古屋金鯱軍も不参加で、5チームで6試合が行われた。本塁打は1本出たが、これはランニング本塁打であった。
しかし翌年に西宮球場と後楽園球場が完成されたこともあり、公式戦は東京と大阪が中心だったので、鳴海球場が戦前に使用されたのは1938年の4試合、1940年の8試合だけである。日本職業野球連盟およびその後進の日本野球連盟による1リーグ時代は、主に後楽園、甲子園、西宮の3球場で公式戦が行われ、その他の野球場はほとんど使用されなかったが、1948年から地方試合を多くしようということになった。鳴海球場も1948年から再び公式戦で使用されるようになった。
しかし同年末、名古屋市内に中日球場(のちのナゴヤ球場)が完成するとプロ野球の試合はほとんどそちらで行われるようになり、鳴海球場は主に高校野球の県大会を行う場所となった。
1949年におこったホームランブームに乗じてか、1950年にラッキー・ゾーンが設置されて両翼91mとなった。1951年にはスタンドを改修し、収容人員約4万人も擁する野球場となった。また名古屋鉄道が中部日本新聞社の球団経営に加わり、中日ドラゴンズの球団名が「名古屋ドラゴンズ」と改められた。
1951年8月19日に中日球場が火事にみまわれる大惨事がおこった。名古屋ドラゴンズはシーズン残り試合を名古屋周辺の野球場で行ったが、鳴海球場では5試合が行われた4)。
しかしながら、1953年5月3日の名古屋ドラゴンズ×阪神タイガースのダブルヘッダーを最後に鳴海球場は公式戦で用いられなくなった5)。1954年には名古屋鉄道が球団経営から手を引いて中部日本新聞社の単独経営になり、球団名も再び「中日ドラゴンズ」と改称された。
1955年前後になると経営が困難になり、ついに1958年10月末に閉鎖となってしまった。11月から取り壊し作業が始まったが、所有者である名古屋鉄道は球場跡地を自動車学校として転用する方針を決定していた。そして翌1959年4月に名鉄グループの名鉄自動車学校として生まれ変わった。自動車学校となった背景には、名鉄がバス営業のため乗務員の指定教習施設をつくる必要に迫られたこと、そして自動車免許取得者が増えるという将来的な予測があった。
鳴海球場の跡地が自動車学校になっていることは、「野球小僧」誌の創刊号や、「週刊ベースボール」の野球紀行の第1回に取り上げられたので、よく知られていることであろう。地図上でも、縮尺が1:15,000くらいなら名鉄自動車学校がいかにも野球場跡地であることが確認できる。
グラウンド部分は教習所のコースとなっているが、これが見事な扇形のまま残されている。特に外野にあたる部分のコースの外周は、ゆるやかな曲線を描いており、グラウンドとスタンドの境であることを主張している。内野スタンドは一塁側と三塁側の両方とも残されている。三塁側スタンド下は教習用の車を納める車庫となっており、一塁側スタンド下は教室や待合所となっている。スタンドの裏には野球場出入口が残されているが、現在は壁におおわれてそこからは出入りができない。夜間照明塔はナイターを思わせるが、これは夜間教習用に設置されたもので、残念ながら鳴海球場にはナイター設備はなかった。
自動車学校の構内には、プロチーム同士の初試合のスコアおよび出場メンバーや、閉鎖直前の鳴海球場全景写真など、鳴海球場に関するいくつかの品が掲示されている。
加藤幸夫事務局部長は名鉄自動車学校が旧鳴海球場で、かつてこの地でプロ野球の第1戦が行われたことを多くの人に知ってもらいたいと望んでいる。「いつかホームベースや、マウンドの位置にはピッチャーズプレートを置きたいと思っている」(週刊ベースボール,p.121)
名鉄自動車学校では毎年11月に「地域ふれあい感謝デー」というイベントを開いており、その際にはコースと学校を全部開放するらしい。また確か3,000円くらいで教習所のコースをまわれると思うので、一度訪れて運転してみてはいかかでしょうか。外野の外周コースはかなりゾクゾクすることでしょう。ちなみに中日ドラゴンズの選手が少なからずここで教習を受けて免許を取っているとか。
注
1) ただし、日本運動協会(芝浦協会)はもちろん、天勝野球団をプロチームとみなすと話しは異なってくる。天勝野球団にはプロチームである見解と、セミプロ的な性格を有したにすぎないという見方とがある。
2) 「週刊ベースボール」にある「日本で初めてプロチーム同士の試合が名古屋市の鳴海球場で行われた」という記述は厳密にいえば間違いである。
3) 1960年に社名変更。
4) 他に刈谷4、浜松1、四日市1、松阪1、彦根1、茅ヶ崎1。
5) 『野球場大事典』は1950年5月14日の中日ドラゴンズ×読売ジャイアンツを、「週刊ベースボール」は1952年6月26日の名古屋ドラゴンズ×大洋ホエールズを鳴海球場の最終試合と記述している。1953年5月3日の試合は『プロ野球40年史』および『阪神タイガース 昭和のあゆみ〔資料〕』に掲載されているので、前者2つの記述は間違いであろう。
参考文献
名鉄自動車学校編(?):『三十年のあゆみ』
野球太郎(1998):「鳴海球場」訪問記.野球小僧,no.1,pp.88〜91.
著者不明(2001):野球紀行 鳴海球場跡.週刊ベースボール,no.16,pp.120〜121.
阪神タイガース(1991):『阪神タイガース 昭和のあゆみ〔資料〕』阪神タイガース,577p.
名鉄自動車学校 http://www.meitetsu.co.jp/mdsl/index2.html
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