このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

下諏訪町営球場

 下諏訪町営球場およびその一帯の総合運動場については、私が駄文を書くよりも、総合運動場内にある2つの石碑に詳しく書かれているの、それを載せます。はっきりいって感激しました。両方とも武道場の前にあります。

沿革
 下諏訪町総合運動場の敷地は、昭和九年、当時の国策に沿って鐘紡工場用地として美田を半強制的に買収されたが、工場建設がなされないまま軍需工場に引き継がれ、第二次世界大戦中は食料増産のため農地として耕作されていた。
 終戦後農地制度の改革に際して農業関係者は耕作者に解放し農用地としての利用を強く望んでいたが、下諏訪町と体育関係者は「町の発展の基礎は町民の健全な心身に在る」との理念に基いてスポーツの振興をはかるため、この地に総合運動場の建設を計画した。
 町農地調整委員会と耕作者は大乗的見地からこの計画に協力し、農地法に係る諸問題や買収財源等の多くの困難を乗り越え、昭和二十四年円満裡に町有地として買収が行われた。
 町は直ちに野球場をつくり、以後逐年バレーコート・テニスコート・弓道場・陸上競技場を建設し、更に体育館用地買収等整備を続け、昭和五十三年やまびこ国体を機会に完備した近隣に誇る総合運動場を完成させた。
 今日スポーツの町下諏訪の発展と町民スポーツの隆盛をみるとき戦後の混乱した世相の中にいち早く将来の大計を樹てた先人の英知と、欣然これに応じた農業関係者に深い敬意と感謝を表し、その沿革を誌して後に伝えるものである。
昭和五十八年十一月 下諏訪町長 髙木清允

永田昌一氏像
 永田昌一氏は第二十三二十四代下諏訪町長として昭和二十三年四月より八年間町勢の発展に寄与されました。
 殊にスポーツの振興には情熱を傾注され、早くから将来を展望して町議会及びスポーツ関係者等と図り旧鐘紡の敷地を買収して、ここをスポーツの本拠地として昭和二十四年八月野球場をはじめ庭球コート、排球コート、弓道場、柔道場を次次に建設して今日近隣に誇る町営総合運動場の基礎を固められたものであります。
 町民がスポーツを通して健全な心身を鍛へ健康で明るい町づくりをすべくその拠り所を確保充実し敗戦の苦境からスポーツの振興と体力の向上を叫ばれた功績は誠に大きく意義深いものであります。よってここゆかりの地に胸像を建立しその功績を称えると共に末永くこの施設を愛し氏の志を受け継ぎいよいよスポーツの振興に役立てようとするものであります。
昭和四十六年十月十日
永田昌一氏胸像建設会
下諏訪町長 青木健一書

チームチーム
1951510毎日オリオンズ1638519東急フライヤーズ
1951510大映スターズ11134311東急フライヤーズ
195197読売ジャイアンツ17014216国鉄スワローズ
195197松竹ロビンス6256012国鉄スワローズ
195257大洋ホエールズ705317国鉄スワローズ
1952821阪急ブレーブス6224010東急フライヤーズ
1954512毎日オリオンズ11486110阪急ブレーブス
1955629読売ジャイアンツ512108国鉄スワローズ
1956627読売ジャイアンツ1015105大洋ホエールズ

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