このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

スタルヒン球場

 スタルヒン球場はもともと旭川市営野球場といった。旭川市営野球場が旭川市出身の大投手、ビクトル・スタルヒンにちなみスタルヒン球場と改称されたのは1982年9月23日のことである。
 旭川市営野球場は花咲町にあり、この一帯は花咲スポーツ公園としてスポーツ施設がたちならんでいる。現在陸上自衛隊旭川駐屯地となっているところは、戦前は陸軍第7師団が設置されており、花咲町一帯は石狩川右岸の荒地か競馬場となっていた。その一画に旭川市営野球場が造られた。戦後も競馬場が存在したが、現在その地には陸上競技場が建っている。
 スタルヒン球場の入口付近にはビクトル・スタルヒンの銅像が建っている。以下の文はその台座に刻まれた文字である。

スタルヒン像建立に寄せて
 スタルヒンは、一九一六年ロシアに生れ、幼少の頃両親と共に日本に亡命、旭川に定住した。
 日章小学校に入学して野球に魅せられ、旭川中学校に進むに及び、エースとしてマウンドに立ち、全国中等球界に旭中にスタルヒン在りの声高まる。
 一九三四年学業半ばに、プロ野球草創期の巨人軍にスカウトされ、彼の剛速球は年毎に真価を発揮し、一九五五年プロ野球史上初の三百勝投手となる。
 一九五七年一月一二日自動車事故のため四○才の若さでこの世を去る。
 旭川が生み、旭川が育てた大投手スタルヒンの面影を今こそ遺さねばと、旭中OBの気運が熱し、地元旭川を始め、東京、札幌と幅広く協力を求め、多くの人々の善意に満ちた激励と好意に依り、巨人軍時代の雄姿が再現した。
 このスタルヒン像が彼の輝かしい球歴を偲び、栄光を讃えて顕彰像となり、次代を担う若い球児に夢と希望を与えるアイドルとなれば幸である。
一九七九年一○月
スタルヒン顕彰像建立期成会
会長 小林健造

スタルヒンの球歴
 一九三二年 日章小学校を卒業、旭川中学校に進学、一年生にしてマウンドに立ち、全、道中等野球大会にデビュー、翌三三年、三四年と引続き決勝戦に進出するも惜敗、甲子園出場の夢破れる。
 一九三四年十二月 学業半ばにして巨人軍の前身、東京野球倶楽部に入団。
 一九三八年 最高防御率、最高勝率、最多完封勝利、最多奪三振を記録、投手の五大タイトルを独占。
 一九三九年 六八試合に登板。巨人軍六六勝中四二勝をあげ、最高殊勲選手に選ばれる。
 一九四○年 一八連勝を為し遂げ、二年連続最高殊勲選手となる。
 一九四○年九月 軍部の圧力から、須田博と改名、空白の時代に入る。
 一九四六年 プロ球界にカムバック、太陽、金星、大映、高橋、トンボの各球団を転々とする。
 一九五五年九月四日 プロ野球史上初の通算三百勝の偉業を達成。
 この年プロ野球界を引退する。
 一九五七年一月一二日 自動車事故により四○才の若さで死亡。
 一九六○年 競技者表彰の第一号として野球殿堂入りを果す。

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