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伝説の多い野球場といえば洲崎球場と並びこの東京スタディアム(グリーンパーク)もあげられるのではなかろうか。1951年にプロ野球専用の野球場として完成したのだが、残念ながらプロ野球ではその年しか用いられず、公式戦はわずか16試合しか行われなかった。
東京武蔵野には戦前に中島飛行機工場があり「零戦」を製造していた。戦後になってこの工場が取り壊され、跡地に総合運動場を造る話が持ち上がった。東隣に現在でも存在する陸上競技場は戦前からすでに存在していた。そこでこの地には野球場をということになったのであろう。
経営者は丸ノ内に本社を置く株式会社東京グリーンパーク。セ・リーグ専用の野球場として1)、プロ野球およびアマチュア野球あわせて年間180試合の開催が予定された。当時は東京にプロ野球が使用できる野球場が少なかったので、このグリーンパークへの期待は大きかった。1949年12月15日起工し、1951年5月5日に竣工した。ただしグラウンドは4月14日より東京六大学春季リーグ戦の開場として使用されてた。
収容人員は特別席3,300人、内野席22,700人、外野席25,000人で計51,000人とかなり大きかった。またグラウンドも両翼が91.4mなのに対し、中堅が128mとかなり広かった。計画では6チーム分の選手控室、更衣室、浴室、各種売店、喫茶店、ビアホールがあり、隣接して練習グラウンドと付属宿舎を建設することとなっていた。これらは沢柳(1951)に載っていることであるが、グリーンパークの完成年に本が刊行されているので、実際に造られたかどうかは定かではない。
グリーンパークへは国鉄中央線三鷹駅から単線の線路が野球場前までひかれていた。この線路は中島飛行機工場への引込線の路盤を再利用したものである。この路線は通称「武蔵野競技場線」と呼ばれ、1951年4月14日に旅客運輸営業を開始した。野球場のすぐ前の駅は「武蔵野競技場前」と名付けられた。
当初から野球など競技開催日のみの運転となっており、東京駅の中央線ホームから武蔵野競技場前駅行の電車が出ていた。5月5日の開場日には午前8時から20分間隔で、東京駅からの直通電車が運転された。
この野球場への期待は沢柳(1951)のp.142に載せられている「東京グリーンパーク附近交通圖」にもあらわれている。グリーンパークへのアクセスは武蔵野競技場線のほかバスなどがあったが、この図では国鉄三鷹駅からグリーンパークを経て西武新宿線田無駅へ通ずる予定線や、西武新宿線東伏見駅からの引込線もみられる。もちろん実際に建設されることはなかった。
開場翌日の新聞には、満員の観客で埋め尽くされた野球場の写真が掲載され、順調な滑り出しをみせた…はずだった。それがなぜわずか1年間しか用いられなかったのか。
横尾(2001)はいくつかの原因を述べている。1つめは、とてつもない土埃が舞うこと。5月は時折「メイストーム」と呼ばれる強風が吹き、グラウンドおよび外野スタンドで砂塵が舞い、選手やファンの不評をかった。グリーンパークはしばらく整備期間を設け、7月14日からの3日間に起死回生を狙ったが、初日・二日目と雨に祟られて、完全な信頼回復の機会を失った。2つめは、名称の不確定。「東京スタディアム」が正式名称で、愛称を「グリーンパーク」にしてほしいと新聞社に願い出たが、活字組みが長くなるという理由で受け入れられなかった。しかもパ・リーグが「武蔵野」と記したのに対し、セ・リーグは「三鷹」とするなど統一感がなく、これでは記憶に残らない。そして3つめに、まだフランチャイズ制を正式に導入する以前だったということ。国鉄スワローズと読売ジャイアンツの二軍ホームグラウンドとされていたのだが、フランチャイズ制が正式に導入されるのは翌1952年からである。グリーンパークがもう1年遅く開設されていたら、同じような環境であった駒澤野球場が本拠地球場として成功していたので、グリーンパークも国鉄スワローズの本拠地球場として活躍できたのかもしれない。 また、都心から遠いため観客が少なかったことも大きな理由である。
結局、株式会社東京グリーンパークはわずか1年で倒産し、管理者のいなくなった野球場もやがて閉鎖された。武蔵野競技場線も休止状態が続いたのち、1959年10月31日に正式に廃止となった。
グリーンパークの住所はかつては武蔵野市西窪だったが、1962年に住居表示が変更されて武蔵野市緑町(みどりちょう)となった。緑町は明らかにグリーンパークの名残である。グリーンパークの跡地には公団武蔵野緑町団地が立ち並ぶ。野球場は跡形もないが、弧を描いている道路は在りし日の野球場を偲ばせる。
また武蔵野競技場線跡は遊歩道として整備されている。三鷹市側の遊歩道は堀合(ほりあわい)歩道といい、玉川上水をはさんで武蔵野市側はグリーンパーク歩道という。
この周辺にはグリーンパーク歩道だけでなく、グリーンパークゴルフセンターやグリーンパークと銘打った商店街なども存在する。野球場としてのグリーンパークは過去のものになったが、グリーンパークは地名として現在なお生き続けている。
注
1) 交通協力会発行の鉄道関係の業界紙「交通新聞」には以下のような記述がある。
「セントラル・リーグの専用球場として誕生する三鷹の『東京スタディアム』は三月のシーズン開始を目標に東京グリン・パーク会社の下で工事を急いでいるが(後略)」(交通新聞,1950年1月26日)
文献
沢柳政義(1951):『野球場建設の研究』野球場建設の研究刊行会,205p.
沢柳政義(1990):『野球場大事典』大空社,728p.
宮脇俊三編(1995):『鉄道廃線跡を歩く』JTB, 191p.
横尾弘一(2001):たった1年で消えたホームグラウンド−グリーンパーク,ベースボール・マガジン社編『野球場』ベースボール・マガジン社,pp.74〜75.
年 | 月 | 日 | チーム | 安 | 本 | 点 | 点 | 本 | 安 | チーム |
1951 | 5 | 5 | 国鉄スワローズ | 8 | 0 | 6 | 3 | 0 | 6 | 名古屋ドラゴンズ |
1951 | 5 | 5 | 読売ジャイアンツ | 5 | 0 | 0 | 1 | 0 | 8 | 名古屋ドラゴンズ |
1951 | 5 | 6 | 読売ジャイアンツ | 3 | 0 | 0 | 2 | 0 | 6 | 名古屋ドラゴンズ |
1951 | 5 | 6 | 読売ジャイアンツ | 11 | 0 | 5 | 7 | 0 | 10 | 国鉄スワローズ |
1951 | 6 | 2 | 国鉄スワローズ | 11 | 0 | 6 | 2 | 0 | 5 | 大洋ホエールズ |
1951 | 6 | 2 | 読売ジャイアンツ | 7 | 0 | 1 | 6 | 1 | 11 | 松竹ロビンス |
1951 | 7 | 16 | 読売ジャイアンツ | 7 | 0 | 2 | 0 | 0 | 5 | 松竹ロビンス |
1951 | 7 | 16 | 読売ジャイアンツ | 6 | 0 | 6 | 5 | 0 | 11 | 国鉄スワローズ |
1951 | 8 | 4 | 国鉄スワローズ | 6 | 0 | 1 | 7 | 0 | 12 | 阪神タイガース |
1951 | 8 | 4 | 国鉄スワローズ | 8 | 0 | 4 | 0 | 0 | 1 | 松竹ロビンス |
1951 | 8 | 5 | 国鉄スワローズ | 6 | 0 | 2 | 1 | 0 | 5 | 阪神タイガース |
1951 | 8 | 5 | 松竹ロビンス | 9 | 1 | 3 | 0 | 0 | 6 | 阪神タイガース |
1951 | 8 | 18 | 大映スターズ | 4 | 0 | 1 | 2 | 1 | 4 | 東急フライヤーズ |
1951 | 8 | 18 | 大映スターズ | 9 | 1 | 2 | 7 | 2 | 8 | 毎日オリオンズ |
1951 | 8 | 19 | 大映スターズ | 4 | 0 | 0 | 5 | 1 | 13 | 東急フライヤーズ |
1951 | 8 | 19 | 毎日オリオンズ | 8 | 1 | 3 | 0 | 0 | 5 | 西鉄ライオンズ |
探訪記 (カイリューズ)
2000年4月19日、5月にひかえた現代風俗研究会の例会発表のネタ集めに、関東の野球場を訪れた際にグリーンパークに立ち寄りました。
朝、新幹線で大阪を発ち、9時くらいに新横浜駅に着く。菊名から東急東横線、大井町線、新玉川線を乗り継いでまず駒沢野球場を訪ねる。そこからさらに東急新玉川線、世田谷線、京王線、井の頭線を乗り継いで吉祥寺に着く。このルートを通ったのは郊外を結ぶ路線が使いにくいから、ではなく単に乗りたかったからだ。
吉祥寺からJR中央線に乗ろうとすると、なんと電車が運転されていなかった。どうやら事故らしい。中央線は自殺が多いからかな。仕方がないので三鷹まで歩くことに。隣の駅なのでためらいはなかった。三鷹に着いた直後に運転が再開された。まあ歩いた方が早く着いたからいいや。
三鷹から遊歩道を通ってグリーンパーク跡地まで歩く。最初は中央線に沿って歩くだけだったが、700mくらいいくと公園があり「堀合歩道」の標識が。これは『鉄道廃線跡を歩く』に載っているものと同じだ。遊歩道を歩くとさすが廃線跡という感じがする。玉川上水には橋がかけられていない。しかたないので迂回する。この時、ジョギングのおっちゃんら多数に追いぬかれる。ここを走る会なのかな?玉川上水を越えたら武蔵野市で、歩道も「グリーンパーク歩道」に変わる。グリーンパーク。これだけでもドキドキ。遊歩道は民家の裏などを通りながら北上。途中、公園などになっている。
そして歩くこと数十分、遊歩道はJR武蔵野住宅の手前で消える。武蔵野競技場前駅の跡地がJR武蔵野住宅となっている。住宅地を越えてグリーンパークのスタンドの外郭と思われるところを歩く。西が都営武蔵野アパート、東が公団武蔵野緑町団地である。いかにも、と思える道路だが、残念ながら跡形もないので、ここが本当にスタンド外郭部かわからない。武蔵野市役所を右に曲がり、公園から再び公団団地の中へ。今度はグラウンド跡地と思われるところを歩く。こちらも跡形もないのだが、なんとなく面影だけは感じられる。あまりグルグルまわって住民に変な目で見られるのもイヤなので、切り上げることに。
少し南にいったところに「グリーンパーク」という名の商店街があり、さらに南にいくと「グリーンパークゴルフセンター」というのがある。緑町という地名といい、グリーンパークという野球場はなくなったものの、地名として現存しているのが嬉しかった。
グリーンパークは野球ファンだけでなく、鉄っちゃんをも喜ばせる野球場だ。
なお、このあと上井草球場跡を訪れ、さらに千葉スタジアムまで行って千葉ロッテマリーンズ×福岡ダイエーホークスのナイターを観てきました。
20日は東京スタジアム跡、戸塚球場跡、東京ドーム(読売ジャイアンツ×阪神タイガース)、21日は東京ドームの野球体育博物館、洲崎球場跡、22日は川崎球場、横須賀スタジアム、鎌倉、江ノ島へ行った。
23日は芝浦球場跡をみたあと、日の出桟橋から「水上バスにのって」下町に繰り出し(ある晴れた5月の午後でないのが寂しい)、東京ドームで日本ハムファイターズ×西武ライオンズを観戦して帰阪。まさに野球三昧の日々でした。
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