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羽田球場

 現在のプロ野球の流れを遡ると1936年の日本職業野球連盟の成立にたどりつくが、それ以前にも野球の職業化を試みたものがあった。それが日本運動倶楽部であり、日本運動協会である。前者の日本運動倶楽部が運営した運動場が羽田運動場であり、その一角に野球場が設けられた。

 羽田運動場は、押川春浪や中沢重雄が京浜電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)の助力を得て、穴守稲荷神社の沖合の干拓地に建設された総合運動場で、1909年にまず野球場が開設された。この地はかつては羽田鈴木新田といい、近世に羽田猟師町(現在の大田区羽田)の名主が干潟で3町(約3ha)あまりあったところを譲り受けて干拓開拓して造成した。穴守稲荷神社はもともとは現在の東京国際空港(羽田空港)にあたる場所にあったが、空港の開業により現在の大田区羽田五丁目に移された。

 社団法人日本運動倶楽部は東京市長の尾崎行雄を会頭として、押川と中沢のほかに安部磯雄らが理事として参画した。当時の雑誌は以下のように羽田運動場の成立を記している。

「郊外運動場の建設は日本帝国の面目なり、活力の泉源地なり、塵烟繁鎖の巷にありて激務に奔走するもの、時に郊外の大気に触れ、あらゆる文明の設備の下に興趣ある清遊を逞うせば、頭脳を一新し、精力を培養し、層倍の活気を以て再び黄塵万丈の中に突進するを得ん」(出展不明)

 郊外の運動施設によって都会の人々の心身が再活性化されることが期待された。当時はちょうど田園都市の考えが日本に紹介された頃で、郊外生活の健全さと都市郊外の開発が叫ばれており、郊外に運動場をもつことで欧米の列強国に接近したというよろこびもうかがえる。

 日本運動倶楽部の定款には、
 一、種々の運動競技を開催して国民の体育を奨励し振部の気風を鼓吹すること
 二、完備せる運動競技場を設け学校団体及個人の利便に供すること
 三、直接の運動競技以外においても清遊し得べき娯楽場を設け一般国民の楽園となすこと
とある。運動競技の開催、運動競技場の一般国民への開放などが事業目的としていたことがうかがえる。

 羽田球場は左右両翼に数千人を収容できるスタンドがあり、クラブハウスもあったので当時としては超一流の野球場であった。羽田運動場で最初に野球が行われたのは、1909年4月4日の東京倶楽部と神戸倶楽部との試合であった。

 この羽田運動場については待望論と排斥論の両方があった。
 排斥論の方は、交通の便が悪く京浜電車の輸送力も限られている、水はけが悪く海風が吹いてまともな野球をやれる場所ではないという意見である。
 待望論の方でも、本来こうしたスポーツ施設は都心に設けられるべきであるが、必要な施設を迅速に建設すること大事であり、都心につくられるまでのつなぎ役にはなるという意味での賛成であった。
 実際に電車内は満員で、始発駅の品川、乗換駅の蒲田、そして終着駅でも込み合い、球場に行くまでは橋の渡り代を払わねばならなかった。当時の京浜電鉄穴守線の終着駅穴守と羽田運動場の間には東貫川が流れており、そこに橋の渡し代を請求する者が現れたのである。

 クラブチームの対戦で賑わった羽田運動場であるが、1916年の大洪水で流出してしまう。押川や河野安通志が中沢に再建を働きかけ、中沢もそれを支持したが、ついに再建されることはなかった。運動場の跡地は羽田御台場と名付けられ、工業地帯となった。羽田御台場とは幕府が幕末にここに御台場を構築したことにちなむ。
 現在の東京国際空港の一部が羽田運動場の跡地にあたる。

参考文献
阪神タイガース編(1991b):『阪神タイガース昭和のあゆみ〔プロ野球前史〕』阪神タイガース,122p.

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