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川崎球場

 川崎球場は1952年4月に竣工した。川崎市は戦前から社会人野球が盛んであったが、神奈川県にはプロに適する野球場がなかった。そこで市民に健全な娯楽を与えるために川崎市と神奈川県、そして地元大工場などが出資して川崎球場が建設されたのである。川崎球場ができる以前、当地には富士見球場という小さな野球場が存在した。
 プロ野球を意識して造られた川崎球場であったが、当初は後楽園球場を使用できない球団が副次的に同球場を利用していた。1952年当時、プロ野球チームはセ・リーグとパ・リーグあわせて13チームあったが、そのうち在京5チーム(読売ジャイアンツ、国鉄スワローズ、東急フライヤーズ、大映スターズ、毎日オリオンズ)が後楽園球場を本拠地としていたので、同球場からあふれるチームが出てくるのは必然的であった。あふれたチームは東京近郊の野球場を主催試合で用いたが、もっともよく使用されたのが川崎球場である。

 川崎球場を本拠地とするプロ野球チームが最初に誕生するのは1954年のことである。これまで7球団だったパ・リーグが、チーム数が奇数では必ず1チーム余り、営業的に効率が悪いため、偶数チームにすることとなった。6チームに減らすか8チームに増やすかということだったが、当時のパ・リーグの永田雅一総裁は1チーム増やして8チーム制にすることに決めた。そこで誕生したのが高橋ユニオンズである。球団名の「高橋」とはオーナーである高橋龍太郎氏の名字である。球団名に個人名が入るのは、現在のプロ野球の流れをくむなかでは唯一のことである1)1954年6月にプロ野球の常打ち球場では6番目に夜間照明設備が設置され、ナイター興業が行われるようになった。高橋ユニオンズは1955年にトンボ鉛筆と提携してトンボユニオンズに名称変更したが、これは1年間だけで、1956年からは再び高橋ユニオンズに戻った。この高橋ユニオンズも1956年に最下位となり、7位の大映スターズと合併して大映ユニオンズが誕生し、再びパ・リーグは7球団制となった。新生・大映ユニオンズも翌1957年に毎日オリオンズと合併して大毎オリオンズとなった。

 1955年からは川崎球場を本拠地とする2つ目のチームが生まれた。大洋ホエールズである。大洋ホエールズは大洋漁業の社会人野球チームを母体として編成されたチームで、1949年に創立し、セ・リーグに加盟した。大洋ホエールズは1953年に松竹ロビンスと合併して大洋松竹ロビンスとなったが、1954年末に大洋漁業の単独経営になり、名称も復帰した。大洋ホエールズが川崎球場を本拠地とするのはこれ以降であるが、実は本来の本拠地は横浜であり、その補助として川崎近辺を利用することと決められていた。当時、横浜には横浜公園球場が存在したが、プロ野球にはあまり利用されていなかった。大洋ホエールズは川崎球場を本拠地にしてから5年連続して最下位、通算でも6年連続で最下位だったが、1960年には一転してリーグ優勝を果たした。日本シリーズではかつて川崎を本拠地としていたユニオンズの合併先球団でもある大毎オリオンズと対戦したが、4戦全勝で日本一を勝ち取った。
 しかしながら大洋ホエールズは横浜市からのアプローチを受けて1978年に横浜スタジアムに移転することになる。このとき市民から横浜移転反対の声が上がり、54万人の反対署名が集められたが無駄に終わった。大洋ホエールズは横浜移転と同時に都市名を冠し、1993年シーズンから横浜ベイスターズと名乗るようになる。

 大洋ホエールズが横浜に移ったかわりにロッテオリオンズが川崎球場を本拠地とすることとなる。ロッテオリオンズは東京スタジアムを追い出されてからジプシー状態だったが、川崎市の誘致を受けてうようやく身を置くところができた。観客動員が芳しくなかったので、1991年には「テレビじゃ見れない川崎劇場」というキャッチコピーで売り出した。
 しかしその1991年にこのチームも川崎市から去ってしまうこととなる。今度の移転先は東京湾の対岸に位置する千葉市の千葉マリンスタジアム。移転に伴ってニックネームもかわることとなり、新たに千葉ロッテマリーンズとして再スタートした。

 王貞治選手の一本足打法が初めてお披露目されたのは川崎球場においてである。張本勲選手の史上初の通算3000本安打達成も川崎球場。1988年には「10・19」として語り継がれるロッテオリオンズと近鉄バファローズのダブルヘッダーが行なわれた。川崎球場はまたプロレスの聖地でもあった。野球場名物のラーメンも忘れてはならない。

 1992年以降、川崎球場を本拠地とするプロ野球チームはなくなったが、市民に親しまれる野球場として活躍した。しかしながら2000年、老朽化を理由に川崎球場の取り壊しが決まった。2月26日にファン有志により「川崎球場オリオンズさよならイベント」が開かれた。そして3月26日にさよなら試合として、川崎球場にゆかりがある横浜ベイスターズと千葉ロッテマリーンズとのオープン戦(サントリーカップ)が行われた。10本のホームランが飛び出し、川崎球場の有終の美を飾った。川崎球場で挙行されたプロ野球公式戦は2,453試合で、わが国では7番目の多さである。
 川崎球場はいったん閉鎖され、スタンドが解体されて、スタンド無しのグラウンドとして再開する。


1) ただし1947年に1年だけ存在した国民野球連盟にはオーナー個人名が入ったチームが存在した(宇高レッドソックス、大塚アスレチックス、唐崎クラウンズ)。

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