このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

駒澤野球場

 駒澤野球場が開設されたのは1953年9月である。場所は東京都世田谷区駒沢。当地には戦前に東京付近で唯一のゴルフ場であった駒沢ゴルフ場があった。
 駒澤野球場を建設したのは東急フライヤーズの親会社・東京急行電鉄で、東京都に寄付した。しかしこの野球場の完成を理由に後楽園球場から追い出されることとなる。1953年当時、後楽園球場を本拠地としていたのは、読売ジャイアンツ、東急フライヤーズ、大映スターズ、毎日オリオンズ、国鉄スワローズと5球団もあった。
 1954年1月20日に、東急フライヤーズが東映の経営に肩代わりをして東映フライヤーズが誕生した。この東映フライヤーズが駒澤野球場を本拠地とした。
 東京都23区内といえども、当時はまだ周辺に野菜畑が広がっており、風の方向によっては人糞肥料の臭いが鼻に突くのが悩みの種だったようだ。また少しでも強い風が吹けば黄塵が舞い上がって目も開けられなかったというほどである。
 駒沢に移った頃の東映フライヤーズは弱く、観客が200人以下の試合もあったが、1958年頃からチームも強くなって観客も増え始めた。「駒沢の暴れん坊」の異名をとったのもこの頃である。
 1961年には水原茂監督が就任し、優勝まであと少しのところまで迫る。しかしこの年が東映フライヤーズが駒澤野球場を使用する最後の年となった。東京都から1964年の東京オリンピックの会場にするからと用地の返還を命じられたのである。東映フライヤーズは東京都の後押しも得て、1962年から学生野球の殿堂・明治神宮野球場を本拠地とすることになった。明治神宮野球場を本拠地とした東映フライヤーズは怪童・尾崎行雄投手の活躍もあり、念願の初優勝を果たした。
 一方、主がいなくなった駒澤野球場は閉鎖され、一帯は東京オリンピックの第2会場となった。現在は駒沢オリンピック公園となっており、陸上競技場、体育館など各種運動施設がある。その一つに野球場がある。名前は「駒沢球場」。東京オリンピックの翌年に東京都によって建設された。ただしプロ野球公式戦が行われたことは一度もない。しかもこの野球場は厳密にいえば駒澤野球場の跡地にはない。かつての庭球場、ホッケー場のあたりに位置している。駒澤野球場の跡地は第二球技場や補助競技場のあたりにあった。

 1964年の東京オリンピックのために閉鎖された駒澤野球場であったが、そもそもこの地は1940年に開かれる予定であった第12回オリンピック東京大会の会場とされていた。しかし満州事変をはじめとする戦火の拡大によって中止となってしまったのである。
 当時の東京市の計画概要では、紀元二千六百年記念総合運動場を駒沢ゴルフ場の場所に設けることとしていた。交通機関としては特別引込線を造る計画もあった。東方に入口を設け、正面中央に記念広場をつくってその正面に記念塔を建設し、右側に主競技場、左側に水泳競技場を配置しようとしていた。野球場の計画はなかったが、明治神宮野球場で番外競技として野球を行う予定であった。
 その後、東京都駒沢総合運動場の計画図が出された。そこには野球場が描かれてあるが、それこそが駒澤野球場である。

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