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明治神宮野球場

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観戦記 (たっちゃんさん)

 1979年。大学野球のメッカである明治神宮野球場は、当時は土のグラウンドだった。
 水はけが悪く、夜に雨が降ると翌日は「カンカン照り」でも中止になったものだ。
 前年のプロ野球・ヤクルトの優勝は、それに助けられた面が多かった。
 逆に晴天が続くと砂埃がすごかった。
 スコアボードは「手回し式」。各イニングごとの得点部分をベルトのように回して表示するのだが「9」が限界だった。1イニングに2桁得点が入ると10回の欄にプラス分を表示する。ちょうど10回の「十」を「プラスと読む」と言うことなのか?・・・素朴でちょっと笑えた。延長戦になったらどうするのかと思うが、1イニングに10点も入るような試合は接戦にはならないと踏んでいたのだろう。
 「手回し」であるから、各回の得点の文字が微妙に上下にズレていたり、得点が加算されるときの切り替えのスピードが一定していないなど、横浜や所沢に相次いで新鋭球場が完成していた当時は「古くさくて格好悪いよなぁ」と思っていた。
 しかし今になって考えると、そのグラウンドやスコアボードも「人間的で、暖かみがあった」と思えてくるから不思議である。「ドーム+人工芝+カラーマルチメッセージボード」が当然のようになってくると、その対極に位置しているものが恋しくなるというものだ。

 その年の6月10日(日)、その大学野球のメッカで全日本大学野球選手権決勝が行われた。
 対戦カードは中央大学(東都大学)対早稲田大学(東京六大学)。宿命のライバルリーグの代表が雌雄を決することと相成ったのである。
 ダッグアウトは一塁側・中央、三塁側・早稲田。
 中央サイドの一塁側スタンドは、バックネット際からポール際まで立錐の余地も無かった。熱気も凄かった。対する三塁側スタンドには空席が目立っていた。熱気はあまり感じられなかった。
 僕は、中央の3年生。当然一塁側で、バックネットとダッグアウトの間、前から10列以内に陣取った。「ブーイング」用にホイッスルを用意していった。

 この試合に限っては、中央の動員力が早稲田のそれを凌駕していたのは驚異だった。
 とにかく普段の東都リーグでの中央の応援席には、肉眼で容易に数えられる観客しかいなかったのだから.....。
 それは、リーグ戦が平日開催であることに加え、78年春には従来の千代田区神田駿河台から八王子市に移転したため、「午後の講義が休講になったから野球でも観にいくか」ってな具合には行かなくなってしまったからである。
 しかし、79年春のリーグ優勝の懸かった亜大戦からは、現金なもので中央の応援席はほぼ一杯になった。そして、日曜日であったことも手伝って、この日の超満員となった。もしリーグ戦が土日の開催だったら普段からもっと観衆が入るのかもしれないと思った。

 先発投手は中央が香坂(巨人)、早稲田は今治西高時代に甲子園を沸かせた三谷。
 香坂は春のリーグ戦の東洋大戦でノーヒット・ノーランを達成した好調さを維持し、対する三谷は大学の公式戦でそれまで黒星が無かった。
 打線は、中央は俊足の左の巧打者、熊野(阪急)、高木(大洋)が出塁しロングヒッターの小川(ヤクルト)で還すのが狙い。早稲田は、島貫(巨人)、岡田(阪神)、有賀(阪急)の中軸が強力だった。
 とにかく、攻守とも極めて高いレベルで戦力が拮抗していた。

 中央先攻でいよいよプレーボール。
 1、2回は両校無得点。試合が動いたのは3回。
 中央は、その狙いどおり熊野、高木らの出塁で無死満塁の好機を作り、打席に小川。
 小川は期待に応えて中適時打を放ち2者生還、さらに、バックホームの間に二塁を狙った小川が一、二塁間に挟まれている隙を突いて一塁走者高木が強引に本塁突入!タイミングはアウトだったが、激しいスライディングに捕手・有賀が落球!そのとき僕は声を限りに叫んだ!「オトシタァ〜〜〜」。審判は落球に気づかず一旦アウトを宣するが、高木や次打者・西川、そして僕(?)のアピールでセーフと訂正され、中央が3点を先制した。
 しかし、その裏早稲田は長打力を発揮、島貫の2点本塁打で1点差に詰め寄った。

 中盤は膠着状態で再び動いたのは7回表の中央。8番の長井が出塁すると二盗。スローカーブの多い三谷の配球を見透かした頭脳プレーである。香坂凡退後、1番の熊野が左前適時打してリードを広げると、続く8回には、3番高木が出塁して、これまた二盗。そして打席には小川。
 カッキ〜〜ン!!神宮の森に快音が響き渡った。打球は空に向かって伸び、見る見る小さくなった。一塁側は大歓声とともに総立ちとなった。長い滞空時間の後、落ちてきた打球は、開放されていない無人の左中間スタンド中段に弾んだ。
 肩を叩き合う者、抱き合う者、泣いている者、叫び続ける者・・・一塁側スタンドはお祭り騒ぎになった。その喧噪の中、続く西川が中越え三塁打して三谷をKOすると、尾上(中日)が救援の向田から中前に渋く落として勝負を決した。
 その裏、早稲田は岡田、有賀が短長打。主将の意地を見せた岡田のファイトあふれる好走塁もあって1点を返すものの反撃もここまで。結局7対3で中央に凱歌があがった。

 試合後、選手を祝福したかった僕は球場正面入り口で選手を待っていた。果たせるかな香坂投手と握手することが出来た。(僕)「おめでとうございます」、(香坂)「どうも」。ほとんどミーハー状態だが、エースと言葉を交わせて素直にうれしかった。
 余談だが、香坂投手は現在、巨人の広報担当。ヒーローインタビューで選手をお立ち台に誘導している姿を見るたび当時を懐かしむ僕である。

 話を戻すと、その後、自然発生的に新宿まで中央の学生がこぞって行進した。終点の新宿コマ劇場前は、ほとんど中央の学生で埋め尽くされた。池に飛び込むもの、街灯を壊すものが続出した。よく騒乱罪が適用されなかったものである。
 (一説には、街灯の修理代などを大学当局が弁償したと言われている。)
 僕はといえば、早くも速報が出ていた「デイリースポーツ」を街頭販売所で買って、誰かに肩車されてその記事全文を朗読していた。節目節目で周囲の学生が歓声を上げた。自分の声に呼応して歓声が上がるのはなんとなくいい気分だった。
 その夜は、終電近い京王線で帰ったが、車内は全身ずぶぬれの学生があちこちにいた。喧騒の渦中にいるときは感じなかったが、今考えると相当異様な光景ではある。当然、他の乗客の方々には相当迷惑をかけたであろう。
 かくして、感動と喧噪に包まれた一日は終わったのである。

 東都大学リーグの東京六大学リーグへのライバル心は凄まじいものがある。対して、東京六大学は全日本選手権よりリーグ戦に力を注いでいるフシが見て取れる。
そのあたりが、一塁側と三塁側の「熱気」の違いに表れたのであろう。
 一般学生にしても、東都大学のなかで特に中央の場合は、学業において東京六大学各校に対してライバル心を持っているケースが多く、マスコミなどで「東京六大学」を一種のブランドの如く持て囃すことに憤慨している者が多かった。
 その感情が一気に爆発したのがこの日だったと思う。

 なお、後日八王子市内目抜き通りで、野球部員を先頭に一般学生も参加しての優勝パレードが、バンド、チアリーダーも参加して華やかに行われた。もちろん僕も参加した。
 沿道の商店などには「祝優勝」のデコレーションが数多く掲げられていた。市民の祝福の声も多く、学生と市民が融合する場面も随所に見られた。
 八王子移転2年目で、まだまだ町に溶け込んでいたとは言えなかった大学が、地元に認知された意味でも大きな優勝だった。
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注;文中の[選手名(プロ球団名)]は、その選手が最初に入団したプロ球団を表す

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