このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

茂林寺・分福球場

 もりんじ。なぜ「野球場誌」なのにお寺が出てくるのか、プロ野球ファンの方はおわかりであろう。創設まもない東京巨人軍(現在の読売ジャイアンツ)が猛特訓を行った場所である。
 茂林寺は群馬県館林市にある寺である。曹洞宗で、山号は清竜山。本尊は釈迦牟尼仏。タヌキが茶釜に化けて和尚に恩返しする童話「分福茶釜」の物語の舞台ともなったお寺である。

 東京巨人軍は第2回アメリカ遠征から帰ってきたあと1936年夏季大会に参加したが、7戦してわずか2勝するにとどまった。予想外の惨敗に終わった東京巨人軍は1936年9月5日から12日までの1週間、茂林寺でキャンプを開いた。藤本定義監督は、早稲田の後輩で軍隊からかえってきたばかりの三原脩を助監督として招聘した。当時一番若かった白石敏男選手(のちの白石勝巳)に猛ノックを浴びせた。これが食べたものを戻すほどの激しいノックで、これを見ていた沢村栄治以下投手陣は気が引き締まったという。
 白石勝巳氏は自らの著書のなかで茂林寺のことを以下のように記している

 この遠征から帰って間もない9月5日から12日まで行われたのが、史上に名高い文福茶釜(茂林寺)の練習である。
 遠征中の監督の藤本さんから「巨人軍は職業野球の先達だ、負けるわけにはいかん、どんなことをしても勝たねばいかんのだ」と終始いわれていた,飲酒を禁ずるとか、門限何時とか宿舎に張り出され、ほう、と思ったことがある。
 監督の並々ならぬ決心は、自然に選手にも伝わって、茂林寺では皆んな目付きが違っていた。練習はあまり好きではなかった沢村も、熱心にノックを受けたり走ったりしていた。
 練習は10時に始まって12時までやり、昼食後1時から5時頃まで続けられた。バッティングは、マシーンが無いから、そんなに多くやるわけにはいかない。自然ノックが多くなる。握りのところにテープを巻いたノック・バットを手に藤本さんが一人でノックをする。
 ぼくは筒井さんと二人、ショートでノックを受けたが、途中から筒井さんは外野へまわされて、ショートは僕一人になった。毎日へとへとになるまでやらされた。
 (中略)
 茂林寺の練習では、セカンドに大先輩の三原さんが入っていた。とにかく毎日、毎日ノックやられて、ショートのリズムみたいなものを覚え、三原さんとのゲッツーも、どうやらこなせるようになった。
 (中略)
 巨人の内野のポジションは、筒井さんとの競争だということは、子供心にもわかっている。茂林寺は、きつくはあったが、音を上げない。
 毎日毎日が眞剣勝負そのものであった。
 (中略)
 これは後のこと、茂林寺の練習が巨人軍の土台を据えた、と後年いわれたが、監督は代わった、試合にはボロボロに負けた、これじゃいかんという危機感が皆んなにあって、茂林寺で一つに固まった。夜遊びに出る者もないし本当にぴりっとしていた。確かに、巨人軍は強くなけりゃいかんという伝説の種は、茂林寺で下ろされたと思う。(白石,1989,pp.45〜49)

 この伝説的な茂林寺のキャンプで鍛えなおされた東京巨人軍は、エース・沢村投手が期待通りの活躍を見せなど特訓の成果があらわれた。そして12月の「洲崎決戦」で東京巨人軍はタイガースを破り、リーグ初年度の優勝を飾った。
 茂林寺こそが常勝・巨人軍の礎となった場所である。

 茂林寺へは東京・浅草から東武伊勢崎線が出ている。利根川をわたり群馬県に入って2つ目の駅が茂林寺前駅である。駅からは東に約300mのところに茂林寺がある。境内の北東に隣接する茂林寺沼とその北西に広がる低地湿原は県天然記念物に指定されている。

 「週刊ベースボール」に分福球場と出ていた。本当にこんなシャレタ名前なのだろうか。本当にどこにあるのか。

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