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戦前は電鉄会社が沿線開発を目的として自社路線の沿線に野球場を設けていった、ということは何回もかいているが、これは小田急電鉄も例外ではない。
小田急電鉄の前身・小田原急行電鉄は1927年4月に新宿−小田原の営業を開始したが、開業前の1925年から1927年頃にかけて沿線開発の目的で大野、大和、座間を中心に約100万坪(約3,305,800m2)を買収していた。そのうち江ノ島線沿いの約80万坪(約2,644,600m2)に、同線の敷設とあわせて林間都市を建設しようという計画をたて、1927年春ごろからその具体化に着手した。
この計画は、まず南林間、中央林間地区65万坪(約2,148,800m2)を区画整理して分譲住宅地とし、最終的には約5,000戸の新住宅都市にしようという構想であった。地域のほぼ中央に江ノ島線が通り、東、中央、南の三地区にそれぞれ駅を設置した。
計画は雄大で、駅を中心に放射状に道路が整然と配置された。また単に住宅だけでなく、公園、テニスコート、ラグビー場、そして野球場が設けられた。これらのスポーツ施設の詳しい完成年はわからないが、少なくとも昭和一ケタ年代に設けられたようである。
小田急の名は、プロ野球のターニングポイントである1949年の二リーグ分立時に出てくる。小田急がセ・リーグの八番目の球団として朝日新聞朝刊に報じられたからだ。結局、八球団目は国鉄ということになったが、ここで小田急の名前があげれられたのも、ひとえに野球場を持っていたことに他ならない。当時は野球場が不足しており、特に東京において常打ち球場は後楽園球場だけであった。なお、フランチャイズは梅ヶ丘根津山という構想もあった、と伝えられている。
この野球場の正式名称、詳しい立地場所、現状については現在調査中。
資料:小田急電鉄株式会社社史編集事務局編(1980):『小田急五十年史』小田急電鉄.
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