このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

芝浦球場

 日本運動協会がわが国最初のプロ野球チームであるのは、野球ファンならすでにご存知のことであろう。この日本運動協会の専用球場が芝浦球場である。

 1909年に羽田球場と日本運動倶楽部が設立された当時は、野球の底辺拡大というのが狙いであり、プロ野球の構想を描くまでには至らなかった。
 しかし、それから12年後の1921年には、プロ野球球団の組織と球場経営を考慮した事業計画をたてた日本運動協会が設立された。日本運動協会は東京の芝浦にたてられたため、芝浦協会という別名もある。

 日本運動協会の創立趣旨書には以下のように述べられている。

「運動競技が健全にして弾力に富める体質を築き上ぐるとともに、現代が要求する協力一致の精神と公平、快活の気魄とを人心に扶植することは、何人も首肯する事実で、過般の欧州大乱において功名をたてたる勇士の間には、各大学の運動選手が頗る多数であったことが何よりの証拠であります。
 運動競技の普及はいまやあらゆる階級、あらゆる年齢を通じて必要欠くべからざるものとなりました。すなわち運動競技はもはや学生の専有物に非ずして、国民全部が理解するばかりでなく、自ら嗜まねばならぬ時代に到達したのであります。しかし運動競技の発達につれてその弊害もまた多くなりました。これは先覚者の任に当たる者が大いに指導し、戒飭を加えねばならぬと信じます。
 ここにおいて我等は合資組織のもとに日本運動協会を設立し、東京芝浦に六千余坪の大運動場を設けて、目下東京市民が要求しつつある理想的の競技場を提供するとともに、あらゆる斯界の権威をここに集中し、本邦運動界の指南車となり、羅針盤たらんことを計画するに至ったのであります。これ実にわが国民がかねてより望んでやまざりし一時代を形成するものでありまして、この計画によりて本邦の運動競技会が長足の進歩と健全なる発達をなす結果、国民体育に一大展開の機を与うることは火を瞭るよりも明らかな事実であります」

 
先の野球害毒論争での害毒論の1つに、過度の投球によって肩を壊し兵役検査に不合格になるという論点があった。しかし、適度な運動競技は選手の健全な体質を築き、心身ともに養うとされ、第一次世界大戦(過般の欧州大乱)では大学の運動選手が活躍したことがこの創立趣意書では述べられている。
 日本運動協会の目的は、運動場を市民に提供すること、日本の運動界を牽引し方向づけることにあった。前述の羽田運動場は皇居からは15kmも離れており、品川停留場からも10kmほど行かなければならないほど遠いところにあり、東京の郊外というよりは、むしろ東京と横浜の間の田園地帯であった。一方、芝浦は皇居から4kmと都心に程近い所にあり、好カードを擁せばかなりの観衆を集めることが期待できた。

 日本運動協会の発起人には飛田忠順、橋戸信、押川清、河野安通志といった野球界の人々が名前を連ねた。森本繁雄、大村一蔵、山脇正治、中野武二、瓜生剛、柳生基夫、針重敬喜、八幡恭助らが最低500円から最高7,500円の出資金を出して日本運動協会に参画した。資本金は9万円で、橋戸信、押川清、谷敬信の3人が無限責任社員となった。
 定款に示された事業目的には、
 一、運動競技に関する一切の事業
 二、運動場、競技場の設計工事、工事監督、修繕請負およびこれに付帯する一切の業務
 三、各種運動体育用具の製造販売およびこれに付帯する一切の業務
とあるが、実際には協会専属の野球チームを編成し、野球興業によって収入を得ようとしていた。

 押川と河野は早稲田大学のアメリカ遠征に数回参加し、本場の野球をその眼で確かめて得た結論が「球団は球場を持つべきである」であった。本拠球場を持つメジャーリーグのあり方に共鳴して、この根本理念に基づいてつくられたのが日本運動協会と、その本拠球場である芝浦球場であった。
 1921年7月に新聞雑誌に選手募集の広告を出して広く人材を求めた。採用したのは14人であったが、半数以上が10代で、大学の現役選手はもちろん、そのOBも一人として加わらなかった。先の見えない職業野球に身を投じようと考える者はいなかったのである。

 初年度(1922年度)の予算として、アメリカの大学チームと在外邦人チームを招聘して105,000円の収入をあげ、阪神や京阪の倶楽部チームや東京の大学チームと45回戦って115,000円を稼ぐ計算となっていた。そして所属選手への棒給など必要経費を控除した純益金の一部を積立金、役員賞与金、選手引退時の積立金に充当することにしていた。
 選手の給料は、技量や年齢のほかに学歴や人格を斟酌しており、学歴尊重社会の影響を相当受けていることがわかる。実際、技術指導と並行して社会人としての教養を身につけさせようと野球学校が開かれた。午前中は簿記、算盤などの学課を、午後は野球技術の指導を行い、これに丸1年を費やした。

 日本運動協会チームは監督に押川清をすえ、1922年6月に満鮮遠征に旅立った。8月には軽井沢で合宿を行い、同じく軽井沢へ来ていた早稲田大学と戦った。日本運動協会に関心を抱いていた早稲田大学野球部長の安部磯雄は、押川や河野からの対戦申込を快諾し、9月9、10日に芝浦球場で早大−協会戦が行われた。芝浦へは連日多くの観客が詰めかけた。
 その後、11月に関西へ、翌年5月には北海道まで遠征した。第二次満鮮遠征に出発する際に、東京駅ではできたばかりの「日本運動協会野球歌」を歌って送り出された。1923年6月21日、24日に竜山満鉄球場で天勝野球団1)と戦った。8月30日に本拠球場の芝浦球場で天勝野球団と戦ったのが結果的には協会チームの最後の試合となった。

 1923年9月1日におこった関東大震災により、芝浦球場は関東戒厳司令部と東京市社会局により強制接収された。被災した人々はそれぞれ縁故のある地方へ避難しはじめたが、東海道以西は海運による避難方法しかなかった。臨時船舶や海軍艦艇によって避難民の輸送が開始されたのは芝浦からである。しかし、多数の避難者が芝浦に集結し先を争って乗船するので、当初は配船が間に合わず、集合した市民の混雑から二、三日をついやさねば乗船させることができなかった。そこで市河港課の事務所や倉庫を避難民の宿泊所にあてて給食につとめた。また国内外より救援物資が輸送されてきたのも芝浦であった。戒厳司令部によって9月4日に配給司令部がおかれ、東京市の麹町区・京橋区・芝区・麻布区・赤坂区および荏原郡を配給管内として6日より業務を開始した。

 野球場そのものには震災の被害はほとんどなかったが、広大な土地をこのように活用するのは仕方のないことであった。野球どころではなかったが、興業をしないと収入が得られなかった。
 日本運動協会が設立されてからの2年間の運営は苦しかった。協会チームと対戦してくれる学生チームは早稲田大学のほかにはなく、協会チームの試合では入場料収入をあげることは難しかった。十分な収入を見込めるのは、当時中断されていた早慶戦の代用で組まれた両校OBチームの稲門倶楽部と三田倶楽部との対戦くらいしかなかった。

 年が明けて1924年になると、阪神急行鉄道の小林一三がチームを引き受けようと申し出てきた。押川と河野はこれを受け入れて、1月23日に東京運動記者クラブで記者会見をして解散の声明文を読み上げた。以降、日本運動協会は宝塚に移り宝塚運動協会と改称された。

画像

 1925年部分修正の1万分の1地形図「新橋」には「運動協会運動場」が載っている。しかし、1925年というのは日本運動協会が宝塚に移ったあとであるので、これは本当に1925年の芝浦球場の姿かどうかは疑わしい。なお1937年修正測図の1万分の1地形図「新橋」には、芝浦球場の姿はなく、臨海倉庫が建っている。
 芝浦球場は現住所でいえば東京都港区海岸三丁目18および23にあたる。近くに桟橋があるため、倉庫などが建てられている。西に首都高速羽田線が通り、東には首都高速台場線とゆりかもめが走っている。芝浦球場の面影は全く感じられない。

 日本運動協会は宝塚運動協会に転身したあと、1929年に解散した。しかし、21世紀に入った現在でも、自持ちの野球場を持たない球団があるということを考えると、押川や河野の「球団は球場を持つべきである」という考えがいかに斬新的で、かつ本質的であったことがうかがえよう。


1) 天勝野球団は奇術師の松旭斎天勝が作った野球団で、天勝一座を盛り立てるために興業先でゲームを行っていた。天勝野球団をプロチームだという見解もある。しかし、組織や目的の面から見れば日本運動協会と同じにするには無理があり、セミプロ的な性格を持つものだったといわれる。

参考文献
阪神タイガース編(1991b):『阪神タイガース昭和のあゆみ〔プロ野球前史〕』阪神タイガース,122p.
東京都港区役所編(1960):『港区史下巻』東京都港区役所,1958p.

野球場誌へ戻る

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください