このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
全国には野球の都、いわゆる「球都」と呼ばれるところがいくつかある。群馬県・桐生市もその一つである。
足尾線が開通したのち、その桐生機関庫にその名も「エンジンチーム」という野球チームが誕生した。グラウンドは機関庫の隣の日本絹燃株式会社の運動場を用いた。桐生は絹織物の街としても有名である。
1927年、第13回中等学校優勝野球大会に桐生中学校が出場したのを契機に、市民の間に野球への関心が高まり、それとともに充分に野球ができる環境が唱えられるようになった。桐生中学校の校庭は、1924年に約3倍に拡張されたものの、土質は赤土で、雨が降れば泥田のようになり、乾燥すればコチコチに固まった。また小石まじりのため、イレギュラーはするし、滑り込みもままならない。守備や攻撃の面すべてにおいて悪条件であった。
このような問題を解消したのが1928年11月完成の新川球場である。新川沿いに設けられたのでこの名がついたのだが、現在は新川の上にフタがかぶせられてコロンバス通りという道路となっている。
この野球場の建設にあたり特に功労があったのは堀祐平氏である。当時織物会社の社長をしており、桐生中の甲子園初出場を記念して運動場を設けることを発起し、各種団体に呼びかけるとともに自らも私財を投じた。野球場のほかに水泳場も設けた。堀氏の偉大な事蹟をたたえ、1953年5月に新川球場の隣に堀祐平翁頌徳碑が建てられた。
1928年11月3日に竣工式をあげた新川球場では、その落成を記念して翌4日に早稲田大学と法政大学の新人チームの試合が行われ、多数の市民を楽しませた。
新川球場は1934年の行幸を記念して、設備一切を桐生市に寄付することになった。このようにして桐生市の市有施設となったが、地方都市が立派な野球場を有することは当時としてはほとんど考えられないほど画期的なことであった。
新川球場はプロ野球においても華々しい歴史を持っている。プロ野球は終戦直後にすぐに復活し、1945年11月にはプロ野球東西対抗戦が明治神宮野球場で行われることになっていた。当時の明治神宮野球場は進駐軍に接収されており、ステート・サイド・パークと言っていた。進駐軍の好意によって同野球場を借用でき、22日と23日に開催される予定であったが、22日は降雨のため中止となり24日に順延することになった。しかし、借用契約切れのため、急遽会場を変更せざるを得なくなった。そしてその代用とされたのが新川球場である。桐生は幸いにも一度も空襲を受けることがなく、新川球場もそのままの姿をとどめていたからだ。東西対抗戦とはいえ、戦後プロ野球で二番目に用いられた野球場としての意義は大きい。
終戦直後の桐生の野球といえばもう一つ、「全桐生」の存在があげられる。戦争が終わり、かつての野球選手達が次々と復員したので結成された。先述の東西対抗戦の翌日の11月25日にプロ野球東軍と新川球場で対戦し、なんと8−7でプロ野球東軍を下した。全桐生は翌1946年夏に復活した都市対抗野球全国大会にも出場し、準優勝に輝いてそのレベルの高さをみせつけた。
戦時中は被害を受けなかった新川球場であるが、戦後に大きなダメージを受けることとなる。1947年9月にカスリン台風が桐生に記録的な豪雨をもたらし、渡良瀬川の堤防が決壊して激しい濁流が新川球場を飲みこんだ。スタンドや塀は倒壊し、グラウンドは土砂や瓦礫、流木で埋めつくされた。市は被災者の救済、道路や家屋の復旧とともに、野球場の新川球場のスタンドおよびバックネットの改修、グラウンドの整備作業も行なった。
1961年に新川球場の本格的な改修工事が行なわれ、野球専用の施設となり、野球のメッカとなった。
しかし、施設の老朽化、新しい野球場の完成、新川球場付近一帯の再開発などの理由から、1987年10月に開催された「新川球場サヨナラマラソン野球大会」を最後行事として、同球場は使命を終えた。
新川球場の跡地は中央公園として整備された。桐生市体育協会の発案により、野球を愛する多数の市民の協力によって、1992年4月に跡地に「新川球場を偲ぶ」記念碑が設けられた。
球都・桐生を語る上で重要な資料として『球都桐生の歴史』がある。1995年に発行されたものだが、発行者はなんと桐生市老人クラブ連合会である。生涯学習および伝承活動の一環としてなされた事業で、誤字・脱字や事実関係にあいまいさがあるためそのまま引用するわけにはいかないが、なにより上下巻計696ページにもおよぶ大著には野球への熱意愛情がひしひしと感じられる。貴重な歴史を語りつぐうえで、全国にいくつかある他の球都でも是非同様のことをしてもらいたいものだ。
なお、桐生から甲子園球場への中等学校、高校の出場回数は多かったものの、全国優勝までは残念ながらできずにいた。1936年春に桐生中が、1955年春に桐生高校がそれぞれ決勝戦まで勝ち進んだが、いずれも最後の最後で涙をのんだ。しかし、1999年夏、桐生第一高校が群馬県初の全国制覇を成し遂げた。凱旋時の球都はいかなるものだったのか。それを思うだけで胸があつくなる。
新川球場を偲ぶ
稲川監督をはじめ
沢山の野球人を
育んでくれた
この地に
限りなき追憶をよせて
平成三年四月吉日
(財)桐生市体育協会
堀祐平翁頌徳碑
年 | 月 | 日 | チーム | 安 | 本 | 点 | 点 | 本 | 安 | チーム | 備考 |
1945 | 11 | 25 | 東軍 | 9 | 14 | 西軍 | プロ野球東西対抗戦 | ||||
1947 | 8 | 2 | 中日ドラゴンズ | 8 | 0 | 4 | 2 | 0 | 8 | 東急フライヤーズ | |
1947 | 8 | 2 | 読売ジャイアンツ | 13 | 0 | 5 | 0 | 0 | 4 | 金星スターズ | |
1947 | 8 | 3 | 東急フライヤーズ | 10 | 2 | 8 | 10 | 0 | 17 | 金星スターズ | |
1947 | 8 | 3 | 中日ドラゴンズ | 11 | 0 | 3 | 1 | 0 | 9 | 読売ジャイアンツ | |
1949 | 6 | 23 | 阪急ブレーブス | 9 | 1 | 5 | 0 | 0 | 5 | 東急フライヤーズ | |
1949 | 7 | 21 | 大映スターズ | 3 | 1 | 2 | 8 | 2 | 11 | 中日ドラゴンズ | |
1949 | 11 | 13 | 大映スターズ | 6 | 0 | 0 | 4 | 2 | 10 | 東急フライヤーズ | |
1950 | 3 | 22 | 中日ドラゴンズ | 5 | 1 | 3 | 0 | 0 | 4 | 西日本パイレーツ | |
1952 | 7 | 27 | 大映スターズ | 9 | 3 | 4 | 3 | 1 | 6 | 東急フライヤーズ | |
1952 | 7 | 27 | 大映スターズ | 4 | 1 | 1 | 4 | 1 | 8 | 東急フライヤーズ | |
1953 | 4 | 22 | 毎日オリオンズ | 13 | 5 | 13 | 6 | 2 | 14 | 東急フライヤーズ | |
1954 | 4 | 24 | 国鉄スワローズ | 8 | 0 | 9 | 6 | 1 | 12 | 大洋松竹ロビンス | |
1954 | 6 | 8 | 毎日オリオンズ | 12 | 2 | 12 | 4 | 0 | 8 | 近鉄パールズ | |
1954 | 7 | 25 | 東映フライヤーズ | 11 | 2 | 6 | 18 | 3 | 24 | 大映スターズ | |
1954 | 7 | 25 | 東映フライヤーズ | 7 | 0 | 2 | 9 | 3 | 14 | 大映スターズ | |
1958 | 10 | 5 | 大毎オリオンズ | 10 | 0 | 2 | 1 | 0 | 4 | 東映フライヤーズ | |
1958 | 10 | 5 | 大毎オリオンズ | 9 | 0 | 4 | 10 | 2 | 10 | 東映フライヤーズ | |
1973 | 4 | 22 | ヤクルトスワローズ | 8 | 1 | 5 | 10 | 0 | 12 | 中日ドラゴンズ | |
1973 | 4 | 22 | ヤクルトスワローズ | 5 | 1 | 3 | 5 | 2 | 11 | 中日ドラゴンズ | |
1973 | 8 | 3 | 大洋ホエールズ | 7 | 1 | 1 | 13 | 0 | 19 | 広島東洋カープ |
参考文献
「球都桐生の歴史」編集委員会編(1995):『球都桐生の歴史 上巻』桐生市老人クラブ連合会.
「球都桐生の歴史」編集委員会編(1995):『球都桐生の歴史 下巻』桐生市老人クラブ連合会.
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |