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谷津球場

 谷津は「読売巨人軍発祥の地」である。
 1934年秋、読売新聞の正力松太郎氏はベーブ・ルースなどアメリカ・メジャーリーグの一行を日本に招聘した。その相手をするために全日本チームを作ったのだが、これが母体となって巨人軍が誕生したのである。その全日本チームのために提供されたのが
谷津遊園内のグラウンドである。
 谷津遊園は京成電気軌道は1921年7月17日に船橋から千葉までを路線を開通させ、同時に谷津海岸駅(1936年に谷津遊園駅と改称)の営業も開始した。同社は沿線の開発や行楽客誘致を図って遊園地経営にも乗り出し、1925年6月6日に谷津海岸で25万7803坪の土地を買収し、同年11月13日に京成遊園地(株)を設立した。谷津海岸では明治中頃に塩田の開発が着手されたが、1917年の暴風雨により復興不可能となり閉鎖され、その跡地に谷津遊園が建設されたのである。
 京成電気軌道は谷津海岸に大レクリエーションセンターを造る計画を具体化し、勧業銀行本館を譲り受けて、遊園地内に移転して「楽天府」と命名した。
 1934年8月に谷津グラウンドの地鎮祭が行われ、11月にはベーブ・ルースほかアメリカ選抜チームが谷津に招かれた。楽天府地下室の壁には合宿していた巨人軍選手たちの落書きが長く残されていた。
 谷津遊園はまたバラで有名で、谷津バラ園が1957年5月27日に完成した。しかし京葉高速道路がこのバラ園の中央を通ることになり、バラ園を移設させる必要性が出てきた。新しいバラ園は、海岸寄りの運動場と植物園跡の2万m2
の敷地に決まった。
 谷津遊園は1982年12月に閉園となったが、このバラ園だけはまだ名残りをとどめている。そしてその入口の西側に「読売巨人軍発祥の地」のモニュメントが建っている。

読売巨人軍の発祥の地
 昭和九年四月正力松太郎氏は日本野球界の発展、健全娯楽の育成のために全アメリカ選抜チームと招聘することにした。昭和六年の第一回招聘につぐ二回目の快挙であった。ベーブ・ルース、ルー・ゲーリック等一流選手が名を連ねる米チーム招聘の報が一度び伝わるや日本中は歓呼の声をあげて歓迎した。これに対する全日本チームは六大学の名選手を中心に編成された。母校の名誉をかけて参加した日本軍選手は、この谷津の地に集結、ここを練磨のにわとして、心魂を傾けて、策を練り、技をみがいた。かくして、日米両チームは東京をはじめ全国各地を転戦、いたるところで爆発的熱狂の渦にまきこまれた。滞日二ヵ月、米チームは日本野球界の発展に巨大なる貢献をしたばかりかプロ野球結成の気運を醸成して嵐の如く去った。
 そして昭和九年十二月、この時の全日本チームを母体として東京巨人軍(後に読売巨人軍と改称)が誕生したのである。またこの誕生を契機としてプロ球団が続々と輩出し、今日の隆盛の一歩を築いたのである。
 思えば再度にわたる米チームの招聘は偉大なる企画であった。もしこの企画がなかったならば果たしてプロ野球の隆昌はあっただろうか。思いなかばにすぎるものがあろう。その意味において、その招聘プランはもとより、この地に集結した巨人軍の誕生は永く球史に記録されるべきである。
 今回小社はこの地を読売巨人軍発祥の地として指定し、その経緯を後世に伝えるためにこの碑を建てた。
 プロ野球の発展を祈念すると共に正力松太郎氏の卓見と努力に最大の敬意を表する次第である。この碑は昭和41年に設置されたものを復元したものである。
昭和63年1月24日 習志野市

伊藤塩田跡、谷津遊園跡(抜粋)
 この地は、初代津田沼村長であった伊藤弥一氏が明治時代の中頃塩田の開発に着手し、三年の歳月と十五万円の私財を投じて完成させた場所です。
 しかし、大正6年9月、暴風雨に襲われ、復興不可能な状況となり閉鎖されました。大正十四年、「京成電気軌道株式会社」(現京成電鉄株式会社)がこの地を買収し、「京成遊園地」(旧谷津遊園)を開設しました。昭和五十七年十二月に閉園され、このバラ園だけが当時の名残りをとどめています。

参考文献
京成電鉄社史編纂委員会編(1967):『京成電鉄五十五年史』京成電鉄,771p.

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